第9回
出席メール

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  1.  12月10日の講義に出席しました。  あと2回しか講義がなく、米の自由化の話もいよいよまとめの段階に入り話がとても複雑になってきた気がします。しょうじき最近話が分かりにくくなってきました。来週は集中して、理解を深めたいと思います。

      ○○○○様へ

       メール、ありがとうございました。

       社会現象は、本来、きわめて複雑なものであり、それを理解するために単純化をするのですが、それにも限界があります。問題が核心部分になれば、どうしても難しくなるのは致し方ないと思います。

           柏 久


    (以下、定型の返信省略)

  2.  来週はとうとうレポート課題が発表されるそうですね。

     今日の授業を聞いて思ったことは、個人的には農家が農協にアドバンテージを取られすぎているなってことです。もっと消費者と生産者の結びつきが強くなって米が安くなるのを願うばかりです。1人暮らしに米は欠かせませんから。

       生産者が消費者との結びつきを強めるためには小さな経済圏域を作り、そこでの地産地消というのが一つの方向でしょうし、もう一つはインターネットを利用して地理的距離を超えた結びつきをするのも一つの方法だと思います。いずれに場合も、生産者、消費者いずれも主体性を高める必要があり、「むら」社会から市民社会への転換が必要だと言えるでしょう。


  3.  民主主義=選挙(多数決)というのが常識化していますが、実際の選挙では大きな組織をバックにつけた人が勝ち、その組織の上層部に大きな利益がいき下層の大多数の人にもっと利益がでるような方法があっても政治家や官僚にとって不利益ならば却下されているように思います。その具体的な例が今日の授業の食管法にみられるように思いました。現在食管法が崩れつつあるとおっしゃっていたので、今後いい方向に向かっていけばいいなと思いました。

       確かに今の選挙制度が、真に国民の福利にかなっているかどうかわからないところがあります。しかし政治に民意を反映させようとすれば、革命でも目指すのでない限り、選挙でよい政治家を選ぶしかないと思います。食管法は、1994年10月で廃止になりましたが、新食糧法も食管体制を引き継いだ面が多いと言えます。やはり、構造変革が実現しない限り、なかなかよい方向は出てこないように思います。


  4.  食管法について少しだけ理解が深まった気がします。食糧庁と農協が農業に悪影響を与えているという内容を最後に聴いて、農協がいけないとおっしゃっていることが徐じょになるほどな、と思えてきました。

     今回出席メールで共感するものがあったのでそれについて書きたいと思います。1-6のメールなんですが、今まで学校で「和」を教えられてきたのに社会からはオンリーワンを求められてそのズレに苦しめられるという気持ちが僕もわかります。高校までは勉強とかクラブといっただいたいみんなに共通な価値観というものがあったような気がします。その価値観の中でうまくやっていけば周りからほめられて居心地がいいという感じでした。しかし、大学ではみなが同じ価値観を持っているわけではなくて、自分の価値観というものを持っていないとなんでもできるがゆえに逆に何も進歩していないという状況になってしまうような気がします。僕はまだ自分の価値観というものが自分でもわかってなくて「個」を大切にしようと思いながらも、なかなか行動に移せないという感じで苦しんでいます。でも、そういうふうに苦しめるようになっただけでも、大学に来て1人暮しをしてよかったなと思います。今までは「和」の中で流れにうまく乗ってきただけだった感じがするので。大学時代にいろいろと考えていくなかで自分の価値観を見つけて「和」重視から「個」重視の人 生に変えていこうと思います。

    だいぶ意味のわからない文章になってしまいましたm(__)m

       私は農協や食糧庁だけを悪者にしようとしているのではありません。自らもその一人である学者を含め、関係者が作り出してきた構造が問題だと主張しています。この構造を変革しなければ、日本農業の再生はあり得ませんし、農業が衰退してしまった日本の環境は、非常に劣悪なものになっていくと思っています。(それは当然、地球環境にも大きな影響を及ぼします。)

       「個」の確立をしていくためには、自分自身の内なる声に耳を傾けることが大切だと思います。社会の中に生きている自分ということを前提に、その中で自分は何に一生懸命になり得るかということを問い続ければ、自ずと自分の個性が何か、はっきりとしてくると思います。そして自分を磨いて個性を伸ばしていけば、それこそが「個」の確立につながるはずです。この点で、大学時代を大いに活用して下さい。


  5.  今回の授業ではいかに政府が農業に介入していたかを学ばせていただきました。私は政府が農業に介入することは勿論必要なことだと思います。ある程度国家が農業の指針を立ててやることにより円滑に農業生産と食料管理が出来るようになるのは明らかだと思います。しかし、日本の場合それが一部の官僚の利益のために行われているから問題なのです。もし、官僚主導の農業だったとしても、それが農家・消費者の利益のために行われているな何の問題もなかったのだと思います。やはりここでも農業をめぐる環境が農業の衰退を導いてるように思えます。もっともっと農家を主役にした農業の構造を作れれば前回の授業にあったキャベツ農家のような主体的な農業を営む農家も増えるのだと思います。しかし、ここで重要なのは先に述べたとおり政府がある程度の農業にたいする指針を打ち出すことも大切だと思います。各農家がバラバラに好きなように農業をしていても農業は衰退していくと思います。農家の主体性と政府の指針の微妙なバランスがとれたとき、それが理想的な農業をめぐる構造なのではないでしょうか。今回はこれで終わります。

       確かに農業における政府の役割は、どのよう場合にも必要でしょう。ただ、政府の役割でもっとも重要なのはしっかりとした長期的ビジョンの確立ではないでしょうか。これがないと、その施策は短期的な彌縫策に終始して、状況をますます悪い方向に導いてしまいます。長期的な展望を確立するためには、状況の正しい認識が必要ですが、この点でもこれまで、官僚は十分ではなったと思います。

       1961年の農業基本法は、ある意味では長期的ビジョンを示したものでしたが、現実認識において間違いがあっただけでなく、利害関係が錯綜して、実際にとられた施策がそのビジョンに沿わない場合も多く見られました。このように考えると、日本農業再生の道はなかなか厳しいといわざるを得ません。


  6.  12月10日の授業、出席しました。

    組織票、で思い出したのは、2年半ほど陸上自衛隊にいたのですが、
    部隊で投票所に行く事を強制しており、行かなかった隊員は
    名前が投票所から駐屯地にどういう風にか送られて来るらしく、
    何か軽いペナルティ(外出禁止とか)を受けていた様でした。
    個人情報はどうなっているのやら、恐い所だと思いました。
    既に自民党に票を入れる意義は失われていたと見えて、
    そうする様言われる事はありませんでしたが
    (一昔前まで自民党に入れる様指示が出されていたそうです)。
    私はと言うと、自衛隊など金を手に入れる為の足掛けに過ぎず
    組織がどうなろうと俺の知った事ではない、と考えていたので
    まあ投票所に行かずに部隊に目を付けられるのも何だし、
    かと言って、部隊の思い通りに誰かに投票するのも癪に障る
    という事で白票を出したわけですが。
    それはさておき陸海空自衛官の数が24万人程と聞いていた為
    農協職員38万人とは凄い数だと思いました。
    (いやだからどうしたと言われれば
    社会をどうしようとかいう問題意識を持てない以上
    何も言う事が無い訳ですが、、、)

       経験に裏打ちされた非常に興味深いメールです。日本社会は、自衛隊や農協に限らず、組織の利害に応じて、組織全体で投票が行われるところがあります。しかもはっきりとした強制というより、以心伝心、そうせざるを得ない雰囲気が作り出され、その流れに逆らうと村八分にあうことになります。それはまさに「むら」社会なのです。果たしてそれでよいのでしょうか。国民一人一人が自立の道を歩まなければ、とんでもないところに導かれてしまう可能性をはらみます。

       社会をどうしようという意識ではなく、自分自身がどう生きれば充実できるか、ということを考えるとき、社会との接点が自ずから出てくるのではないでしょうか。


  7.  12月10日の授業に出席しました。

     今回は米の自給率の問題について学びました。戦後まもなくはやはり低く、高度経済成長期のあたりで徐々に回復して、1980年代からは安定した自給率になった。この変化に食管法は多いに関わっているんだなと思いました。最後に次回で授業内容としては最後なのでしっかりききたいと思いました。

       私がこのような話をしたでしょうか。少なくともコメの自給率という言葉は一度も使わなかったような気がします。コメに関しては、1970年以降、明確に過剰なのであり、コメでは、自給率が問題になることはほとんどありません。


  8.  もう少しでこの講義も終わってしまうわけですが、未だに理解のできていない話題や授業に出ていたのに内容を聞きそびれてしまった話題が多いように思います。また授業のHPを見直し、過去の自分がとったメモと照らし合わせながら復習でもしたいです。

     食糧管理法が戦時中に作られ、そのまま最近まで(といっても10年ほど前か)ほぼ同じ制度で続いていたのは普通の人が考えればおかしいと思うべきことだと思います。あくまで戦争のためにつくられた規則のはずなのに戦争が終わってもしっくりくるようなことがあるはずがありません。わざわざ国が儲かるようなルートで米をぐるぐる回り道をさせて、本来なら真っ先に向かうべきところ(米は「食べる」ためのものなのですから食べる人のところへ行くのが自然でしょう)へ向かわないのは制度が狂っているとみんなから批判されても仕様がないでしょう。食べる人が餓死しそうな状態ならなおさらです。戦後の食糧難の時代に、法律を司る裁判官が「法律」を守ったためにヤミ米を食べずに死んでしまったという話をしておられましたね。このように規則を正しく守れば死んでしまう世の中なんて理不尽だと思います。

     米だけが需要と供給が存在しなかったというのも変な話だと思いました。国民がみんな食べている米の価格が、米価審議会なんていう閉鎖的なところで決まっていたなんて…。

     なにはともあれ、食管法が廃止されてよかったです。おかしな制度が変化せずに続いてしまうのも、官僚からなる例の「むら」構造の成せる業(?)でしょうか…。 ろくな知識も持たずに、文句だけたれてみました。勘違いなんかも含まれて、見苦しいかもしれません。それでは。

      「未だに理解のできていない話題や授業に出ていたのに内容を聞きそびれてしまった話題が多いように思います」

       私は、今回、一般教育科目をはじめて担当しました。講義をする前から私が受講生に対して期待していたことは、私の話を聴いて社会の問題について考える習慣をつけてもらうことでした。一般教育科目といえども、個々の講師は自分の専門に引きつけた話をせざるを得ません。今後、自分の専門とはならない話なのですから、専門的な知識を得る手段としてより、考える材料を得るものとしてもらえればよいと思っています。

       ただしあなたの場合、農学部の学生さんですので、知識を得るという点でも、頑張って勉強して下さい。

      「このように規則を正しく守れば死んでしまう世の中なんて理不尽だと思います。」

       その通りですね。しかし日本の場合、このようなことは多いと思います。本音と建て前を使い分ける社会だからです。たとえば、自動車の制限速度などはよい例でしょう。最高時速40キロのところで規則を守って走っていようものなら、皆から白い目で見られます。皆、暗黙の了解の内に最高時速が設定され、法定速度もそれを見越してつけられているという不可解な社会です。これも「むら」社会のなせる業と言えると思います。


  9.  私も含め多くの人が持っているだろう米だけは外国産の市場参入はいやだとか、「米は日本人の魂」的な考え方はじつは政府によって植えつけられたものなのではないかという気がしてきました。しかしいくら米だけを保護するのはおかしいとわかっていてもやはり米もその他の農作物と同じように扱われ、外国産物が市場に大量に入ってくるとしたら、私は絶対反対だと思ってしまうと思います。

     その「日本人の魂」米によって日本の財政が苦しめられてきたとはおかしな話です。現在日本の借金額は何十兆円という恐ろしい額になっているけれど、たとえば今日の講義での米を高価格化させる一方で転作奨励金を出すといった、誰がどう考えてもおかしいだろうというようなことをやめれば、だいぶ減るのではないかと思います。国民ひとりあたりすでに500万円以上の借金があることになっているとは恐ろしいかぎりです。政治家は国の借金が何十兆、何百兆になろうとも、それを自分が払うわけではないので安易に国債発行にたよるけれども、国民にしてみたらたまらない話であり、もっと責任感を持って財政を考えて欲しいと思いました。

       「米は日本人の魂」、私も理解できないわけではありませんが、いったいどこから出てきたものなのでしょうか。日本の農耕文化を特色づけるものは必ずしもコメだけではなく五穀だったという説もあります。通説を疑うということは、社会のリーダーになっていく人間にとっては非常に重要なことだと思います。

       日本の借金額は何十兆円というような生やさしいものではありません。その後にあなたが書いておられる国民一人あたり500万円として、600兆円をこします。現在、国家予算は80兆円ほどになっていますから、その約8倍です。この財政状況、農業の分野で国がしてきたことを見れば、もはや国に対してその良心に期待するという時代でないことがわかります。日本人は、その「お上」意識を改めなければならない時期にきていると言えます。「お上」意識もまた「むら」社会に発しているといえ、日本は、今や国民が自立して、下から社会システムの改革を進めていく必要があるといえます。


  10. 12月10日の授業受講しました。
    お返事読みました。
    日本人は面と向かって相手の気に入らないところを言うことが出来なくて、陰湿な「いじめ」という手段に出ることが多いとか、忠臣蔵の人気は「むら的」な慣習に反対した浅野その人への忠義であり同意だった(みなで抗議の意を示した、単なる「忠義」の言葉には収まらない)というのを読んでいわれてみればそのとおりなのにひとりでは気がつかなかったことを恥ずかしく思いました。同時に双方向の授業、対話の大切さ、すごさを体感しました。

    さて今回の授業のお話に入ります。
    前回私の中では徹底的に悪いものだと思っていた食管法が実は食糧難時にはそれなりの効力を発揮していたことに驚きました。
    また恥ずかしながら食管法の実態、米の流通ルートについてまったく知識がなかったので、米の値段が政府の諮問機関で決められていたことは衝撃でした(市場があると思い込んでいたんです・・・)
    いまいち、なぜ農協が力を持っているのか、政府や官僚とはどう癒着しているのかがわかっていなかったんですが今回の授業でその謎が解決したような気がします。 食管法が米が過剰に生産されたにもかかわらず、逆ザヤで税金を使い、生産調整で税金を使いながらずっと施行されてきたのはその流通ルートが農協の基盤になっていたから。そして、農協は政治団体と結びついているので選挙での票獲得のため農協の言うことをきく。官僚は官僚で農協をうまく利用することで容易に農民を管理できるため、農協と結託する。
    これが私なりに今日のお話を咀嚼したものです。
    こういう認識でよいのでしょうか?

    毎回お話を聞きながら飲み込んでいくのに四苦八苦しているのですが、今日はわりと理解できたような気がします。
    正直に言うとこの授業難しいなと思っているのですが、みんな的確に要旨をつかんで自分の論を展開していて劣等感を感じてしまいます。
    理解を深めるために読んだほうがよい本などがあれば教えていただきたいです。
    では次回の授業もしっかり考える時間にしたいと思います。

       出席メールを使った双方向の授業の意義を理解していただき、うれしく思います。私は、「個」の確立、自分を磨く、ということをよく言いますが、これは自分一人でできるものではないのです、人との関係、対話を通して自分というものがわかってくるものです。何も偉い人に教わったから、偉くなれるのではありません。人間はあらゆる人間関係から学べますし、その姿勢如何では、物からでも学べます。私も、皆さんと出席メールで対話することにより、大いに学んでいます。教育とは、決して一方的なものではないと思っています。

      「これが私なりに今日のお話を咀嚼したものです。」

       よく理解されています。本講義では、私が、専門とする農業の根底にある構造を解き明かしましたが、このような構造は日本社会に普遍的に存在しているものです。文学部の学生さんということで、今後どのような分野で活躍されるのか私には予想がつきませんが、自らが生きていく社会の構造を理解する上で、本講義の捉え方を役立てていただきたいと思います。


  11.  まず、前回のメールの返信より。留学先ではなく自分の国のこともよく知るべき だ、というご意見がありましたよね?私も同感です。住んでいながら日本について何 も知らないことによく気づかされます。自分の国である日本のことが見えないので す。また、以前にも少しだけ海外で生活したことがあるのですが、他の国の子達から はある種の愛国心のような、私の国は○○だ!という主張のような何かが感じられた にもかかわらず、日本人の子達からは(私も含めて)それが感じられませんでした。も ちろん、私が日本人だから自国の人に対して何も感じなかったのかもしれません。で も、なんというか自分がなくて他の色に染まっているような感じがしたのです。これ は日本の特色であり、良いとも悪いとも言えるものかもしれませんが。ある授業で日 本人は故郷について安らげる場所、懐かしい場所、のような意見が多かったのに対 し、他国の人には(武力によって)守るものと答えた人が結構多かったそうです。日本 人は自国を大切にしようという意識が少し希薄なのかもしれないなぁと思いました。 それにしても日本って何なのだろう、と思ってしまいます。海外で日本について紹介 するなら、必ず着物や折り紙、侍などの伝統的面が強調されます。日本からお土産を 持っていくにしても、そういった製品が選ばれがちですし。でもそれは今の日本の姿 ではないですよね。でもそれが期待される「日本」であり、これからもそうなのかも しれません。今の姿も、昔の姿も日本。それについて知るのは考えてみるとすごく難 しいんだなと思いました。

     と、なんだか全く農業に関係ない話が長々と続きました。今日の話に移ります。今 日のお話は農協やコメに対しての異常さを強く感じさせられるお話でした。特に逆ざ やののところでは、膨大な損失をずっと税でまかなってきたことに怒りを感じまし た。また政治の集票マシーンとして利用するため、高く買い上げ、それによって投票 し、もっと高く買い上げる…という悪循環や、卸しをかねる経済連が気に入らなけれ ば市場でつぶしてくるあたりも、何なんだこれは!という感じで今日は怒りポイントの 多い日でした。しかし怒りを感じるとともに、その歪みを変えていけなかったことへ のやるせなさやもどかしさを感じました。それは今の社会を見て感じることと同じで す。政府、官僚などの悪いところがワイドショーで何度も取り上げられるのに、実際 は何も変わらない、変えようとしない、そして自分もその一部であることに何かジレ ンマのような気持ちを抱きます。今が転換期だとおっしゃっておられましたよね。変 わらなければいけない、でも本当に変われるのだろうか。希望や不安が入り混じるよ うな感じです。転換の動力となっていくべき私たちに、力とやる気が不足している。 自分の知識と力不足はもちろんですが、社会に対しても変われるのだろうかという不 安を強く感じます。それでも可能性があると思いたいです。

     なんだか私の勝手な気持ちを書いただけになってしまいました(いつもそうなってい る気がします…)。もっと知的にものを述べられるようになりたいのですが…。では次 回もよろしくお願いします。あと、本当に無理しないでください!!

      「なんというか自分がなくて他の色に染まっているような感じがしたのです」

       先週も、「時の流れに身を任せあなたの色の染められ」ることをよしとする日本人の特質に言及した出席メールをもらいました。自分がない、周りにあわせるというのが日本人の代名詞だと言えますが、それはまさに「むら」からきたものだと思います。また日本が島国で、文化衝突がなかったことも、自覚、自立を遅れさせている理由かもしれません。しかしいまや日本人は、日本とは何か、自分とは何かを突き詰めて考え、個性を確立していかなければならない時期に入っています。海外留学は、「個」の確立のための非常によい機会だと思います。留学前に、日本のことを大いに勉強して下さい。日本のことをよりよく知ろうとする努力は、自ずと愛国心につながっていくと思います。

       確かに今の日本を見ていると、今後どうなっていくのだろうかという不安でいっぱいになります。先が暗いのは農業だけではありません。しかしどのような苦境も、多くの人が力を合わせて主体的に取り組めば打開できるものではないでしょうか。とりわけ若い世代には変革の先に希望があることを信じてもらいたいと思います。今が変革の時であり、それを担うのが自分たち若い世代であるという気概を持って、まずは「個」の確立を目指して欲しいと思います。


  12.  今日は前置きなしでいきなり講義の感想から始めようと思うのですが、 なかでも特に戦時下から延々と維持されてきた農協の系統組織と政治の 関係について聴いてそこから考えてみたことを絞って書こうと思います。

     農協組織が政治家の集票マシーン化していたということ、これがなに より今日の講義でまず私に対しての大きな刺激材料でした。コメの過 剰な状況において生産者米価を吊り上げてゆく、あるいは、生産調整と 平行して補助金を投げ与えるなどの、農協組織を介した一連の政治家の 行動からは、「合法的買収」という言葉を想像したほどです。どうした って、いい気がしません。そこで、先生が仰しゃるように、この構造を 放置しておくのは合理的ではないと思います。合理的というのは、要す るに、飽くまでも彼らを政治家として捉えた場合の話であり、いわゆる 政治屋としての彼らは、やはりサルに違いないという気がします(彼ら がサルである限り、彼らには合理的と非合理的との区別が付かず、彼ら の目にはこの非合理的な何ものかが実に合理的に見えることでしょう)。 それは、以前にも書いたとおりです。しかし、この構造がコメの不足し ていた間には有効な装置だったということについては、私も十分に頷け ます。おなじ構造であっても、時代とともにそれを操作する人が、ある ときは、政治家であったり、あるときは、政治屋であったりするという こと、このことについて、少し考えてみます。

     以前にも挙げたヘーゲルの『歴史哲学講義』ですが、私が初めて読ん だのは高校時代でした。それから、もう随分経ちますが、ある哲学関係 の講義で、最近再びこの『歴史哲学講義』に触れる機会がありました。 そこで再確認したことですが、彼に言わせれば、一国の歴史を左右する 英雄という人は、情熱によって動くとともに歴史における理性の展開に 即した人です。ということは、逆に言えば、どんな人でも歴史の理性に 合致した行動を起こすならば、その人は英雄たりうるわけです。この議 論については、ヘーゲルの言うように、歴史の本質のうちにこうした自 由を希求する絶対の理性が支配者として存在しているのかどうかという 疑問が生じないわけではないのですが、仮にそのような絶対の理性が存 在していないとしても、つまり、その絶対の理性というものを人々が肯 定し希求するであろうある種の未来像と置き換えても、ヘーゲルの言う 英雄が英雄であることには変わりはないのだと、私は考えています。ナ ポレオンは一人の情熱的人間であると同時に、当時のヨーロッパにおけ る自由主義の先導者として英雄であったことは間違いなく、そして私が 言いたいのは、その自由主義が歴史を支配する絶対的理性の要求であっ たにしろ、あるいはそれとは別に、ナポレオンに手を振る革命の子ども たちの要求であったにしろ、やはり彼は英雄だったということです。そ して、一人の英雄を生み出す多くの人々は、必ずその英雄の向こう側に 期待すべき未来像を描いているということなのです。

     私が期待するのは英雄としての政治家であって、凡人としての政治屋 ではありません。だから大胆に言えば、私は政治屋が私的な情熱を振り 回すのを別段どうこういう気はないのです。ある人間に完璧な無私的理 性を要求するというのは残念ながら不可能な話であるし、あるいは、仮 に一時的にこの要求が満たされたとしても、そのような個人が永続的に 権力の座を占めるということはあり得ないのであり(なぜなら、彼にも いずれは死ぬ日が訪れるのだから)、また、偶然によくしてこのような 理性的人間が続けざまにこの世に生を受けて過たず最高権力を継承した としても、この複雑な官僚機構の発達した現代においては、また、哲人 が存在したとしても君主が存在しない日本においては、政治機構の頂点 から末端までを理性で満たすのに、いったいどれほど多くの理性的人 間が登場しなくてはならないかを考えれば、このような議論(理性的人 間が凡人を支配してくれるという議論)がどれほど無謀なものであるか ということは、明らかです。かといって、君主制にも貴族性にも立ち返 れないこの民主主義という時代には、だから、私は一切の私的情熱を責 める気はありません(当然、それによって理性的人間が責められるわけ でもなく、賞賛されて然るべきことも確かです)。もし私が彼らを責め る理由があるのだとしたら、それは、彼らが政治的に凡人であるという、 この点なのです。というのは、ナポレオンは政治的に英雄であった。し かし、非政治的には凡人であった。政治的に英雄であるということは、 まさに、彼があの自由主義の種をヨーロッパに拡散させたそのことに由 来するのであり、非政治的に凡人であったということは、まさに、彼が 類まれな私的情熱の塊であったという点に帰されるのです。だから、私 が今の政治屋に求めるのは、非政治的凡人であることをやめること(私 的情熱による一切の権力志向を差し控えること)ではなくて、政治的英 雄であること(「ナポレオンにとっての自由主義」を見出すこと)なの です。英雄たりうることは、政治屋であることよりも、いっそう狡猾で、 かつ、事実合理的な、情熱的手段なのです。これこそ、彼らが政治屋か ら政治家へと脱皮する条件に他ならないと考えます。政治家とはこの最 良の情熱的手段を備えた人であってほしいものです。と同時に、それに は必然的に彼らに手を振る私たちのなかにも、「英雄の向こう側」が見 えていなければならないのです。

     とは言ったものの、これは想像以上に高いハードルのようです。私は、 今、オルテガの『大衆の反逆』を読んでいるところなのですが、彼が国 家の本質をその未来に(ある肯定的な未来を求めて共同社会が動くこと に)帰し、そして、彼の目に映ったヨーロッパの大衆が19世紀自由主義 デモクラシー以来この次なる未来を見失っていると見ていること、この ことを考えると、オルテガ以来、現代に至っても、果たして私たちがこ の次なる未来を発見しえたかという問題には、私としては回答が出せず にいます。むしろ、私は、現代の世界はオルテガが見た世界と同じ現在 にしか存在しないのではないか、というほうを強く感じているというの が本音かもしれません。しかし、オルテガの見た大衆は自分たちが大衆 であることを喜んでいたかもしれませんが、今の大衆(この大衆という 言葉が今でも通用するかどうかは議論の余地があるのでしょうが)は大 衆であることの限界を見出し始めているのではないか、と思うのです。 これは、楽観的な見方でしょうか? けれど、少なくともこの講義の趣 旨は未来志向に違いないのだという気がしますし、現代社会において人 々がある種の窮屈さを抱えているのは事実のように思われます。この点 から言えば、オルテガが見た大衆(もちろん、私としてはオルテガの証 言より他にこの大衆を知る材料を十分持っているわけではないのですが) よりも、現在の私たちという大衆が次なる未来へ近づいていることは確 かなような気がします。しかし、私にはまだ、その未来の具体像は示さ れていないのです。

     オルテガは、未来が現在や過去の否定であってはならず、未来が現在 や過去を超越したものでなければならない、とも言っていました。当時 のナチズムやマルキシズムを彼はこの現在・過去の否定の代表選手にし たわけですが、これは少なからず、この講義のなかでしばしば話題にな る例の問題とも関連しているなあと思う次第です。しかし、その問題に ついては、次回にしたいと思います。ただ、ここで述べておくべきこと は、過去が否定されない以上、過去は間違いなく未来に受け継がれると いうことです。ここで用いる過去とか未来とかの具体的な内容はオルテ ガの用語法には反するかもしれませんが、やはり、明日は今日の向こう にしかないというのは本当です。例え明確な未来像に手が届かないまで も、その次の未来が訪れるまでに、せいぜい見苦しい明日を作らないで おきたいものだという気がします。これが、凡人としての今のところの 私の思いです。

     以上、随分長いですね。それではまた、次回まで。

       また、返信を最後に回しました。非常に返信が難しいメールだと感じたからです。私が理解できる範囲で、コメントをつけさせていただきます。

      「農協組織を介した一連の政治家の 行動からは、「合法的買収」という言葉を想像したほどです。」

       この点は、まさにその通りで合法的に買収しているといってよいと思います。制度が隠れ蓑になっていたのですから恐ろしいことです。理念を見失ってしまった政治家(政治屋?)の正体が見えるのではないでしょうか。

      「一国の歴史を左右する 英雄という人は、情熱によって動くとともに歴史における理性の展開に 即した人です。逆に言えば、どんな人でも歴史の理性に 合致した行動を起こすならば、その人は英雄たりうるわけです。」

       そうなのかもしれません。しかしウェーバリアンである私は、社会的な問題に絶対ということを想定することはできません。歴史的展開は確かに法則的な展開をしているように見え、それが(絶対的な)理性にもとづいているといるという解釈が可能だと思います。しかし、それはあくまでも解釈です。歴史の法則性は絶対的なものではなく相対的なものでしかありません。ある価値視点からすれば、そのような法則性が見られる、という以上のものではないと思います。

       しかし時代の要求ということがあることも間違いありません。ナポレオンが英雄たり得たのも、自由主義を求める時代の要求に合致していたからでしょう。その背景には旧体制の行き詰まりがあったはずです。

      「私は政治屋が私的な情熱を振り 回すのを別段どうこういう気はないのです。ある人間に完璧な無私的理 性を要求するというのは残念ながら不可能」

       確かに人間行動の源泉には私的な欲望があると思います。それは英雄といえど同じだと思います。しかし少なくとも人に私的な動機で動いていると見られるなら、人を動かすことはできません。ただ、英雄たるもの、たぐいまれなるバイタリティーが必要でしょうし、そのバイタリティーは欲望が大きいければ大きいほど大きくなるでしょう。とするなら、私的な欲望を大義に昇華する力を持たなければ、英雄にはなれないということになります。そういう意味でも、現在の日本の政治家に英雄になり得る人はいないと思います。

       それでは英雄を生み出す時代の要求とはどのようにして生まれてくるのか。それを生み出すのは、やはり人々(大衆・国民)ではないでしょうか。旧体制に行き詰まりを感じ、新しい社会を求める、大衆の気持ちの高まりが、時代の要求となって現れるのだと思います。しかし目指すべき新しい社会がどのようなものなのか、人々には思い描けません。それを示すのが思想家の役目のような気がします。その際、目指すべき新しい社会(未来)が、過去と現在の上にしか成り立ち得ないことは、否定できないと思います。

       私は「むら」社会を批判してやみませんが、新しい日本社会が「むら」社会から生まれ出るものであり、「むら」社会を超越したものでしかあり得ないと考えています。それは「むら」社会を官僚主導型に置き換えても同じです。

       あなたの提起していることと議論がかみ合っているかどうかわかりませんが、あなたのメールを読んで私なりの回答をさせていただきました。


  13.  授業に出席しました。
     今回の授業では、食管法がいかに長年役立たないのに残されてきたかについてでしたが、役立っていた戦時中に闇米を食べずに死んだ裁判官については、信じられません。はっきりいえば、食べずに死ぬぐらいのプライドが、私にはないので良かったなあと思いました。
     食管法に基づく流通ルートをみてると、闇米のほうが新鮮に思えるのですが、実際はどうなのでしょうか?
     市場をもたないというのはある意味良かったり悪かったりするので何ともいえません。今、あらゆるところで増税がいわれていますが、生産調整のための転作奨励金だけでなく、うまくいけば二重三重に保護されるなんてズルイと思います。逆ざやとかもおかしいと思うので、そのようなことが少しでも減っていくといいなと思います。
     農林族にとって農協などは集票の格好の獲物というのは、なんか納得してしまいます。人間、ずるい事を考えるとき、あんまりそのやり方に奇抜性がないんだなあと思いました。
     では、来週 もよろしくおねがいします。

       ヤミ米を食べずに栄養不足で死んだ裁判官のようになれとはいいませんが、やはり京大生のプライドはもってもらいたいと思います。今や京大生といっても、他の大学生と変わらないという見方もあるでしょうが、私は、やはり京大生が社会のリーダーとなっていく人たちだと思っています。

       コメ流通の図は、あくまでも形式上のもので、物としてのコメは、個々の農協から卸・小売業者に流れるので、ヤミ米の方が新鮮というわけではありません。

       日本農業の問題点は、結局、構造的なものなのですが、この構造は農業だけでなく、日本社会のあらゆるところに見られるものです。だからこと、今、構造改革が求められているのです。しかし小泉構造改革は、決して国民のためのものではないように思われます。極論すれば、支配体制の仕組みを変えるだけのもとの言えるかもしれません。


  14. 12月10日、第9回目の講義に出席しました。

    突然ですがまず、シダックス、京都にありますね。カラオケ以外に進出(どちらが本業、というか元々の守備範囲なのかは分かりませんが)しているとは知りませんでしたが・・・。
    廃油をエンジンに生かしているとは・・・世の中、知らないだけで様々な工夫がされているものですね。

    企業の農業進出、ということが過去何度か、というより何度も話題に上がっていますが、そもそも話題に上げないといけないという事自体が不自然な事ですね。
    じっくり考えてみたのですが、企業が進出していない分野と言うのは他にあるのでしょうか?
    ほぼ独占的に市場を握っているような雰囲気を漂わせているマイクロソフトでも、やはり「企業」ですし・・・
    農業と言う業界の主導権(という表現でいいのかはわかりませんが)を農協だけが握っているという事自体も、他の業界から見れば特異なケースですね。

    仮に明日から「携帯電話会社はドコモしか存在しなくなります!」となれば皆「え?」と思うはずなのに、農協に関しては、それが普通だと思いこんでいるだけなのか、はたまた農協自体も「上手くやっている」のか・・・という感じがします。

    ちなみになぜ例がドコモかというと、固定電話という市場ではNTTがほぼ独占状態にあるので、面白いかなと思ったからです。(NTTは回線使用料などを他の会社から取っていますし、実質まだまだかなりのシェアを持っているようですので)

    食管法については、僕は「国民のみなさんのために、おコメが市場にちゃ〜んと出回るように調整してあげますよ〜。」という法律、という位の認識を持っていただけでした。ですから今までは、時折講義中に頭の中でクエスチョンマークを出している事もあったのですが、成立の背景に食糧不足時代ということを設定すると、なんとなくすっきりした気分です。
    もうちょっと頭を働かせていればもう少し前に分かった事なのかもしれませんが。

    食管法については、大切な転換期を逃してしまったのですね。現在ビジネスモデルの見直しは5年ごとに、と言われているようですが、食管法の名残はもう5年どころの騒ぎではありません。
    旧体制を温存すればするほどそこから離れられなくなるという悪循環があるわけですから、本当にうんざりしてきます・・・。

    ということで、このような形で締めたくはありませんが、あまり長くなるのも嫌ですし、荒くても巣のままの文章の方がいいかと思いますので、このまま送信させていただきます。

       シダックス、京都にもあるのですね。私はカラオケが嫌いなので(単に音痴なだけかも知れませんが…)、カラオケについて情報を持ち合わせていません。今度、聞いておきますが、シダックスの出発点は給食だったのではないでしょうか。シダックスの社長は、現在、二代目ですから、それなりに歴史があります。私の学生時代は、カラオケではなく歌声喫茶だったのですから、カラオケが出発点だったとは思えません。

       農協が独占している農業界、確かに他の業界から見れば異常としかいいようがないと思います。農業界では、農業とは産業でなく、生業だというようなことがまことしやかに言われています。しかし資本主義社会を選択しておきながら(いつも言いますが、私は資本主義がベストな社会体制だとは思っていません)、農業だけは別だとして、あたかも陸の孤島を作るようなことが正しいとは思えません。

       NTTが固定電話で独占状態になっているのも、旧体制の産物といえるでしょう。40年体制を象徴していると言ってもよいかもしれません。もちろん旧体制がすべて悪いわけではありませんので、如何によりよい体制に変えていくかが重要だと言えるでしょう。

       食管体制は、大きく崩れつつありますが、やはり抵抗勢力の抵抗は大きく、新しい体制の見通しは明るくありません。どのような長期ビジョンを確立していくかが問題で、いまや正念場だと思います。


  15. 12月10日の授業に出席しました。

    今までの授業を聞いて日本の農業界は本当に大丈夫なのだろうかと思っていましたが、今日の講義を聞いてますますその思いが強くなりました。あまりにも米を守ろうとし過ぎておかしくなっている気がします。米の供給過多の時に価格を上げたり、輸入米に対し1000%の関税をかけたりするのはやり過ぎだと思います。

    先生がおっしゃっていたよう企業の参入で少しずつ改善されていくことを願います。

       私は日本農業に非常に強い危機感を抱いています。日本農業の壊滅状態は、日本の環境悪化につながることは間違いありませんので…。

       次回お話ししますが、1000%の関税自体は、国際ルールに則ったものです。

       要は、構造の問題であり、これを壊すには企業の参入しかないのでは、と思っています。


  16.  12月10日の授業に出席しました。

     僕は小麦より米の方が好きなんですが、農家の人が高齢化していくにつれて米をつくる人の数が減っていき、自給率が100%を切る時がきたりすることは考えられるんでしょうか。

       国際ルールでミニマムアクセスを義務づけられていますので、すでに自給率は100%を割っています。しかし潜在生産能力としては、140%近くあると思います。ミニマムアクセスを受け入れたとしても、生産量を増やせば自給率は100%になるのですが、内外価格差が大きすぎて輸出できませんので、結局、生産を縮小せざるを得ません。このあたりに構造的な問題が現れているといえるでしょう。


  17. 12月10日の講義に出席しました。

    食糧管理法のお話、大変興味深く聞かせていただきました。
    この食糧管理法によって農家が甘やかされ、
    しかも逆ザヤの発生で国家財政を悪化させることになり
    自民党がその政策で米生産農家の票を獲得しているという事実も
    一国民として腹立たしい限りです。
    言いたいことはあっているのですが
    なんだか大げさな文になってしまいました。

    この食糧管理法と逆ザヤの問題は
    高校の日本史でも出てきた話ではありますが、
    食糧管理法が農協の構造そのものであったことにとても驚きました。

    国家によって生産から流通までを管理するということは
    戦時中の配給時はともかく
    国民が苦しい境遇の時は大切な政策ですが、
    その政策がいつまでも引きずられているのは問題だと思いました。
    時代の変遷とともにその政策の意義が
    弊害になってしまうこともあるのだということがよくわかりました。

    また農業団体法とほぼ同時に成立したということも
    先週の農協の体制と同じく一元一括管理を上手く進めていくための
    官僚たちの政策に善し悪しは別として少々感心してしまいました。

    現在の農業構造の(農業に限った事ではありませんが)
    大きな矛盾を何とか是正するためにも
    まずは現状がいかにして成立したのかを考える必要があり、
    どんなに原因が根深かろうとも丹念にそこを探っていかなければ
    解決策に結びつかない、と最近よく思います。

    とにかく今は知ること→考えることを精一杯努力したいと思います。
    来週も楽しみにしています!

       講義の内容をよく理解していただいてます。講義の中でも言いましたが、昭和30年代前半に大きな転換期がありました。その時に抜本的な改革ができなかったことが、今日の日本農業の窮状を生み出したと言えます。国のリーダーたるもの、大義のために自らの利益(既得権益)を捨てる気概がなくては、社会をよくしていくことはできないと思います。

       今の日本は、リーダーにふさわしい資質の人間が育っていません。自分の利益を求めてラダーを登ること考えているような人ばかりです。だからこそ私は、若い世代、とりわけ京大生からリーダーにふさわしい人材が出てくれることを期待しています。


  18.  今日はまず私事的な報告からです。第5回目の出席メールでも書いたのですが、僕は柏先生の授業を受けて以来、以前から多少感心があった、農業経済学の分野に進みたいという意欲が強くなり、2回生から始まるゼミをそういう分野を扱っているものにしようと思っていました。ただ、農業経済学を扱っているゼミはないと思い、諦めていました。ですが、それは僕の勘違いで、実はあったのです!そして、色々考えた結果、農業経済学を学ぶことに決めました。今から多少なりとも勉強しておきたいので、もし「農業経済学を専攻する上で、この本は読んでおきたい」というような入門的な文献があれば、紹介して欲しいです。よろしくお願いします。ご多忙と病み上がりの中、無理を言って申し訳ありません。

     次に、授業の内容についてです。今回の授業も前回と同様に、政・官・農の結び付きについて、深く考えさせられた授業でした。この結び付きを構造改革で、破壊できれば良いのですが…。

     先生が何度もおっしゃられていたように、コメが不足している時代ならいざ知らず、コメが過剰な時代に政府が、無意味なコメの買い入れをして、逆ザヤを生じさせ、財政負担を増加させてきたのは、まったく愚かな話です。
    コメの供給量が過剰であれば、普通は価格は下がっていくものです。しかし、米価は米価審議会で人為的に決定するされるために、経済の原理が働かない。そして財政負担が増えていく。その負担はすべて一般国民にのしかかってきますが、農家と農協にとっては儲かるオイシイ話で、彼らは農林族の集票マシーンになってきたことは、ほんとうに官僚主導型の農業構造がおもしろいほど上手く表れていると思います。

     政府の馬鹿げた政策について、書きたいことはまだまだありますが、ここらへんでやめておきます。

     来週の講義も楽しみにしています。特に政府がコメの関税率について、嘘を言ってきたた、そのトリックについての説明を楽しみにしています。では、お体にはお気を付けください。

       農業経済学を学ばれるよし、頑張って下さい。近年、農業経済学の入門書を読むことがないので、どれがよいかのアドバイスができません。以前は、1.が定評がありましたが、最近の書としては2.、3.というところでしょう。3者を比べて、自分にフィットするものを選ばれるのがよいのではないでしょうか。

      1. 農業経済学 / 土屋圭造著. -- 4訂版. -- 東洋経済新報社, 1993.4. -- (経済学入門叢書 ; 20).
      2. 農業経済論 / 速水佑次郎, 神門善久著. -- 新版. -- 岩波書店, 2002.3.
      3. 農業経済学 / 荏開津典生著. -- 第2版. -- 岩波書店, 2003.3. -- (岩波テキストブックス).

      「この結び付きを構造改革で、破壊できれば良いのですが…。」

       その通りだと思います。しかしとても小泉構造改革で崩せるとは思えません。

       官僚主導型と呼ばれる政官業(学)の癒着した日本農業の構造にとって、コメが如何に重要なものかが理解していただけたと思います。この構造を守るために、ガットやWTOで何とかコメの特別視を認めてもらわなくてはならなくなるのです。この点について次回お話しします。


  19.  今回は食糧管理制度のお話がありましたが、何年か前にニュースで「ヤミ 米」が話題になったときのことを思い出し、そのときの疑問が今回理解できた ような気がしました。僕の家では農家から直接米を買っていたこともあって、 ニュースで食糧管理についての話題があったとき、なぜ米を他の商品と違って 政府が管理しているのだろうと思いました。講義でお話がありましたように日 本人の主食である米を米不足のときに安定供給のために管理するということは 確かに妥当な政策であると思います。それは餓死や米騒動などの社会不安を防 ぎ、国の発展のためにも適したものです。しかし先生のおっしゃるようにそれ を戦後ずっと米不足でもないような時代まで続けているのは、意義的にも財政 的にも不合理のように思えます。

     政府が補填してまでこの制度を続けたのはやはりお話のように既得権益や票 対策のためということがあるのでしょう。変えようと思ってもなかなか一度お いしい思いをしたり、自分の不利なこととなるとやめられないものです。米不 足時代にはその対策に良薬であったものが、時代が下ると一度はじめたらやめ られない薬になっているようです。変えようと思えば抵抗があるのでしょう。  どうすればいいかと考えてみると、一番早いのが国会議員が自分の選挙も顧 みず法律を変えればいいのだろうけどそこまでのことを普通はなかなか出来ま せん。そうなると別の道は周りから攻めて変わっていく状況を作り出すことで す。その1つにはやはり市場を拡大開放して利害関係者を増やしていくことだ と思います。農業への企業参入は利害関係者を増やし刺激を与えるものとなる かもしれません。枠を超えた農業者の自由な連携が広がっていけば底流が変わ っていくのかもしれません。

       1970年代前半から1994年までの20年間にわたり、コメが過剰であるにもかかわらず食管法が生き続けたことは驚くべきことですが、構造という観点から見れば、それがなぜだったのかがよく理解できると思います。この構造が日本農業を衰退させたことは間違いありません。

       そしていったんこの構造に既得権益を持ってしまうと、構造を変えることに抵抗することになります。しかも構造を変える権限を与えられているものが、権益を得ているのですから、それがよくないと理解していても変える努力をしません。

       食管法の廃止は、結局、外圧によるものだったと言ってよいと思います。300万トンのコメの違法な流れを取り締まることができなかったにもかかわらず、その法律を改正・廃止することができませんでした。ところが、外圧によってなら変わり得る。ここらあたりに、改革のヒントがあるのかもしれません。


  20.  出席しました。
    逆ザヤには少々驚きました。

       コメ過剰下における逆ざや、確かに驚くべきことです。このような矛盾したことは、今も至る所にある、ということに気づいて下さい。


  21.  企業進出の意義が少しわかった気がします。成功するかどうかは別として、新しい力が加わるということは大きな動きであるだろうと考えられます。

     食糧管理法についてですが、これもずいぶんと古い法律を長く使っていたために支障をきたしたものですね。日本だけではないのかもしれませんが、日本は憲法を始めとして多くの法律が50年以上使われているらしいですね(憲法をコロコロと変えていくのは賛成できませんけれど)。当然今でも使えるものも多いとは思いますが、やはり時代の流れというものはあるもので、たとえば、インターネットなどの発達により、変えるべきことはたくさんあると思います。まぁ、インターネット関係のものは割合と早く対応されてきている気はしますが。

     戦争の時代と現在との間には、高度経済成長やバブル、ネットバブルなど、さまざまなことがあり、同じレベルで物事を考える人はほとんどいないはずなのに、法律というものだけは変わらず存在するというこの現実をおかしいと思うことはきわめて普通のことだと思います。

     逆ザヤについてですが、まるでEUのようなことを日本もしていたということを初めて知りました。EUの農作物に対する政策を聞いたとき、それでは成り立っていかないだろうと正直思ったのですが、まさか日本でもしていたとはショックでした。たしかに、日本では農家に対して何らかの補助をしていかないと成り立っていかないのかもしれないけれど、赤字の幅がひどすぎると感じました。農家を過保護に育てていくのではなく、ある程度突き放していかなければ成長しないと思います(それでも苦労している農家は多いのかもしれませんが)。

     なぜ現在生産者の保護をやめられないかというと、やはり先生のおっしゃったように、政治、選挙のためだと思います。いきなり保護をやめれば必ず自民党は票を得られなくなるだろうと思います。さらに言うなれば、仮に自民党ではなく、ほかの党が実権を握った場合、さらに安定を図るため、やはり農家の票獲得を考えるのではないでしょうか。とすると、政治家が選挙を一番に考えている限り、農家に対する過保護は終わらないと思います。自分がかわいいというのは人として当然のことかもしれませんが、政治家ということを自覚して、少しは考えた行動をしてほしいと思います。  最後に、時代の転換期についてですが、僕はまだ20年程度しか経験していないためなのか、よくわかりませんが、時代の転換期であると感じている先生はすごいと思いました。僕が社会に出るのはもう少し先のことになりますが、何らかの形で貢献できればいいと思います。

       日本の農業構造は、何か大きなインパクトが与えられない限り、変わっていかないと思います。企業の農業進出はそのインパクトになり得るものだと思います。ただし、平場ではなかなか新しい農業を展開することことは難しいと思います。中山間地域にこそ、豊かな可能性があると思っています。

       前回の出席メールでどなたかが書いておられましたが、日本人には新しいものを手がけることの苦手な体質があるといえます。それもある意味、「むら」から出てきたものだといえるでしょう。

       先進国にとって、農業保護は、よほど農業条件のよいところでない限り、不可欠だと思います。ただその保護は、国内農業をよりよいものにするために、長期ビジョンに照らした合理性のあるものでなければなりません。そうした合理性がなく、既得権益の維持のためのものだったところに、日本の農業保護、農業構造の問題点があるといえます。

      「自分がかわいいというのは人として当然のことかもしれませんが、」

       一般的にはそうでしょうが、学者や政治家は、それではダメなのではないでしょうか。今日の日本を見渡してみると、学問や政治という天職に身を捧げる人がほとんどいません。彼らは自分の(立身出世の)ために学問や政治に携わっているようにしか見えません。政治のことに限定するなら、政治屋しかいないのかもしれません。このあたりを変えて行かなくては、日本はよくなっていかないと思います。


  22. すいません、名前を書き忘れたので再送信します。
    いよいよ授業があと2回になってしまいました。
    最後まで先生の元気な姿を見たいので、無理なさらないで下さいね。
    今回の講義では、食糧管理制度とコメの生産調整のことを学びました。
    「食管の間接統制」について、もう少し具体的な説明を聞きたかったです。

       コメの間接統制ですが、色々なやり方が可能だったと思いますが、基本的には市場経済に移行するということです。価格の下支えをするには不足払い法という方法をとることが多く、基準価格を決めておき、平均価格がそれを下回れば、その不足分を財政出動で補填します。

       どのような方法をとろうと、市場メカニズムが働きますので、それに応じて構造は合理的なものに変わっていきます。


  23. 私は先生の最初の導入部のお話が好きです。

    小学校で、給食の残りを全部「だいしょっかん(今思えばどういう意味なんでしょう…。漢字が分かりません。いちばん大きな、汁物が入っていた四角いおなべみたいなものですが…)」に入れていて、先生が「ブタさんのごはんにするのよ」と言っていたのを思い出しました。その時は何も考えていませんでしたが、「肥料よりも飼料に」ということなのでしょうか。「肥料にするものはいくらでもある」という先生のお言葉に、確かに!と思いました。それにしても、わたしがまだ小学生がったころに本当に残飯の飼料化が行われていたかわ定かではありませんが…。

    私はあまり複雑な農業のシステムは分かりません。いつも先生のお話を「難しい!」と思いながら必死でついていこうとしている感じなのですが…。ただ、利ざやのお話は私にもすんなりと「何てことだ!」と入ってきました。自分で作ったお米を全部売ってしまって、一般市場で買った方が儲かるなんて、やっぱ何か変ですよね。コメ過保護というか何というか…うーむ。と思いました。

    今年は台風の影響もあり、牛肉や野菜のトレーサビリティーを求める声も高まり、農業界も波打っている状況だと思います。朝のテレビでよく特集を見ますが、牛肉の10桁のナンバーですよね、多分私は見ないと思います。高齢の方など、インターネット、携帯を使わない方にとってあの制度はどうなんでしょうね。焼肉屋にその日の肉の生産履歴(?)の看板を出すのもうーむ、見るのかなぁ…という気もします。そういうものを形だけ表示して満足するのではなく、そうすることで生産者側の責任が生まれてこなければ、と思います。

      「小学生だったころに本当に残飯の飼料化が行われていたかわ定かではありませんが…。」

       都市近郊で残飯を使って家畜を飼育する畜産業というのは、一つの形態として存在しています。というより非常に重要な位置を占めてきました。京大農学部から500メートルほど行ったところに昔から養豚場がありましたが、周りの住民の圧力で、とうとう閉鎖になるということです。養豚業者の方は先住権を主張するでしょうが、これだけ都市化が進んでしまっては、住民の力の方が勝り、致し方ないと言えるでしょう。日本では酪農の始まりも都市近郊で、カス酪農と呼ばれていましたし、昔はあらゆることが物質循環を基本に考えられていたと言えるかもしれません。

       コメの末端逆ざやは、当時もかなり問題視されましたが、それは食管赤字という点からだけしか注目されていなかったように思います。問題はもっと根深いものだったのですが…。

       私はトレーサビリティーは、歪んだ構造を棚上げにする彌縫策に過ぎないと思っています。問題は構造であり、消費者の顔が見えない限り、生産者に真の製造責任感が出てくるとは思えません。トレーサビリティーという考え方はきわめて非人間的だと考えるのは私だけでしょうか…。


  24. 12月10日の授業に出席しました。先週は忙しく木曜に送ってないことに気付いたりしたので今週は早目に送ります。

    まず今回は表やグラフが多かったことに感謝です。僕だけかもしれませんが、目次だけじゃなく資料が多くあると自然と授業に対する関心が高まるのでこれからもよろしくお願いします。

    さて今回は食管法がテーマでしたが、食管法下では米が過剰供給時にも逆ざやが起こると聞いてさすがに憤りを感じました。逆ざやが起こることもそうですが、政府が均衡価格より高く買う限り生産者は米を作り続けるのは当然で、一体年間でいくら余りいくら処分されてるのかと思ったからです。そしてそのつけが生産調整かと思うとほんとに腹立たしく思います。ということで来週の関税に関する政府のごまかしをまたまた楽しみにしています。

       残り2回、それも新しい内容というのは次回だけかも入れません。しかし次回は、前回ほどではありませんが図表をつける予定です。

       もっともひどい時期で500万トン近いコメが余りました。こうした理不尽なことが許されたのですから日本の国民はおうようなものだと言わざるを得ません。そうした気質はいまだ変わっては以内と思います。私は、そのような気質を若い世代に変えていってもらいたいのです。


  25.  講義を受けるうちに気付いたのですが、日本の農業の実態は、今まで学校で教わったものとは全く異質であることが分かりました。そもそも教科書は文部科学省の検定を受けているから政府にとって都合の悪いことが書かれているようなものは検定ではねられるということくらい分かっているのですが、教育は国家の一大事なので、そういった都合の悪いことでも包み隠さずに教えていかないと、過去の失敗を教訓とすることができませんよね。私見ですが、政治家や官僚になるような人は当然国語や社会をよく勉強しているはずなのに、保身のためにしか先人の失敗を生かせていないように思います。彼らは文系出身でしょうから、当然孟子なども読んでいるはずなので、自分らの行動が結局は不利益になるということくらいちょっと考えたら分かると思うのですが。…と、話はそれてしまいますが、理系の人が古典を読む機会に恵まれていないのはとても悲しいことだと思います。私個人は時折漢文を読むのですが、生きるうえでの道標といいましょうか、ためになる教えが非常に多いと思います。たとえ内容に賛同できなくても、考える機会があるのは大変幸せであると感じています。え?
    《文字化け》
    たかったというと、皆もっと古典を読むべきであると私は考えているわけです。いろいろと教訓になることが書いてあるので。

     さて、農業にまつわる法律の話で、私が感じたのは、結局、官僚は自分あるいは身内のためにのみ行動する人が大半なのだな、ということです。もし、彼らが真に日本を良くしようと考えているなら、多少職員の首を切ることも仕方がないと思うので…と、こうかくと最近のリストラ事情を連想してしまいますが、そういった、痛みを伴う改革ができないというのはやはり、「むら」構造がまだ浸透していた、ということなのですね。それにしても、官僚って、自分らの行動が正しかったかどうか考えないのかなあ、あるいは、間違っていると分かったとして訂正はしないのだろうか。過ちては即ち改むるに憚ること勿れ、とあるのに。上杉鷹山みたいな人がいればなあ。と、なんだか不満をつらつらと書き立てるだけで全然まとまっていない気がしますが、このあたりで。

      「保身のためにしか先人の失敗を生かせていないように思います。」

       確かに政治家のレベルの低下は目を覆いたくなりますね。何よりも、政治家の使命というものを見失っているように思えます。しかしそのような政治家を生み出す土壌を作り出しているのは国民なのであり、政治家だけを悪く言えないのかもしれません。

       官僚に関して言えば、教え子を何人も官僚の道に送り出していますが、当初、改革の意欲に燃えていた彼らも、巨大な組織の中で、徐々に一つの歯車になっていってしまいます。官僚機構を改革できるのは政治家なのでしょうが、政治家のレベルが低下している今日、改革の前途は容易ではありません。

       いずれにしても、社会のリーダーとなっていく人たちが古典に親しむことは、非常によいことだと思います。学者を目指す場合でも、古典を読むことが大切です。Webで様々な情報が簡単に得られ、古典のみならず本を読むことが少なくなっている今日、人々の知的レベルが下がる可能性があることは由々しき問題だと思います。

      「過ちては即ち改むるに憚ること勿れ」

       いまの世の中、もっとも問題な点は、間違いを訂正・謝罪するのではなく、正当化しようとする風潮ではないでしょうか。真理を探究する場である大学でさえ、このような傾向が見られます。官僚は、元々責任回避のシステムのようなところがあり、日本農業がこれほどまでの窮状になっているのに、その責任を農水省はまったく感じていないかのようです。しかも責任をとるべき政治家がいまのような状況では、まったく閉塞感しか残らない、というのが真実かもしれません。

       しかし、だからといって手をこまねいているわけにはいきません。国民がお上に頼るのではなく、主体的に力を合わせて、少しずつでも変えていかなくてはなりません。


  26. 今回の講義は、前回に続き、農協について更に掘り下げた内容でした。

    食管法は1回生のときに農学概論で習いましたが、改めてこれまでの国の 食糧管理のおかしさを痛感しました。
    おかしいところがすぐに改善できない、既得権益にしがみついてしまう 農業界(だけとは限らないかもしれませんが)自体の体質に、危機感を 覚えてしまいます。

    傍から見れば、
    「なんで改善できないの?誰かが声あげれば一発で片付くやろう!」 って感じです。「ムラ」社会であることをしっかり自覚する必要が あるのでしょう。学者もムラ社会を担っていてはダメですね…。

    講義を思い出し、メールを書いていると、ほんとに「なんで?」っていう 疑問がわいてやみません。今、少し分厚い農政改革についての本を 読んでいるので、また勉強してみたいと思います。

    土曜の朝刊では、JA京都と丹後が合併するというニュースがありました。 近畿では3番目の大規模な協同組合ということでした。新聞では総貯金額が 掲載されていました。これは現在の農協が金融業をメインとしてやっている 一つの現れではないかと考えます。合併に伴い小規模の営業所は統廃合 するようです。時代の流れに遅れ、農協の基盤が弱くなっているのでしょうか。 少しタイムリーだったかもしれません。とりあえず感想を書いてみました。

    それでは今回はこの辺で。
    ありがとうございました。

      「おかしいところがすぐに改善できない、既得権益にしがみついてしまう」

       これはいまの大学にも見られます。とりわけ農学部は非常にこの傾向が強いと言わざるを得ません。大学紛争時代に、講座制という教授権力のための旧態依然としたシステムに異議を唱えて運動した人たちが、教授になり守旧派となり講座制を死守するなど、既得権益にしがみついているとしか言えません。このようなことをしていては、日本農業と同じで学部自体が壊滅してしまうでしょう。

      「なんで改善できないの?誰かが声あげれば一発で片付くやろう!」

       まさにその通りですね。ところが声を上げた人間は村八分にされる。まさに「むら」社会といわざるを得ません。

      「土曜の朝刊では、JA京都と丹後が合併するというニュースがありました。」

       京都は、1990年代終わりから府下1農協を目指していました。JA京都と丹後の合併で1つになったのかどうか知りませんが、合併速度はかなり遅いと言わざるを得ません。府下1単協となれば、県連の意味がなくなりますが、それまでの県連は機能別組織として残るのかもしれません。


  27.  12/10の講義に出席しました。

     先日、大阪の京橋駅で一枚のビラを貰いました。題目は「あなたは安全・安心な食事をしていますか?」、自給率向上への署名を求めるものでした。呼び掛けていたのは全国食健連と全農林。その目的自体は構わないと思うのですが、ビラの内容が問題でした。何でも、「お米をもう少し多く食べれば食料自給率が向上し、健やかな暮らしが実現できる」そうです。他にも色々と引っかかる記述が見られました。結局は、お米は国内で作れるんだからもっと作れる環境を形成していこう、という主旨のようです。真面目に考えてビラを作っているのだとしたら、少しもの悲しい気がします。現代の食生活をどのようにしたら20年も前の状態に戻せるというのでしょうか?ちょっと無理があるように思います。

     講義を聞いていて思ったのですが、歴代の官僚がやってきたのは、自分の益になることをし結局は自らの墓穴を掘りそれを付け焼き刃的な方法で埋めようとするということじゃないでしょうか。僕には何でも自分の身近なことに置き換えて理解しようとする癖みたいなものがあるのですが、このことはテストで良い点数を取るために計画を立てはするが自分の楽なように改変してしまって結局は一夜漬けでテストに臨む高校生のように思えます。ちなみにいつもどこか間違っているように感じるのがこの理解の仕方です。何はともあれ、残り二回の講義を聞いていく上で最終的な自分なりの答えを出せれば、と思っています。

       コメの消費拡大を図ることは悪いことではないと思います。ただし、あなたの言われるように、ビラや署名の実効性は疑問です。昭和30年前半にアメリカのやったような実効性のあるキャンペーンを考える必要があるでしょう。特に子供の時代に米食の習慣をつけるには給食をすべて米食にするくらいのことは必要なのでしょう。

       あなたの例えがよいかどうかはわかりませんが、戦後、日本の官僚が彌縫策に終始してきたことは間違いありません。長期的ビジョンに欠けるのですから、それも仕方ないのかもしれませんが、それは、現在の日本を悪くしている一つの大きな原因です。戦前の苦い経験から、理念を掲げることに尻込みしてしまうのかもしれません。しかし同じ敗戦国ながらドイツは戦後を清算し、新しい独自の道を切り開きつつあります。日本も戦後を清算すべき時にきているのではないでしょうか。首相が靖国神社参拝にこだわり、近隣諸国に不快感を与えているようでは、なかなか戦後を清算することはできないような気がします。


  28. 12/10の授業に出席しました。

    今回のプリント見やすかったです。

    食管法は、排出量が一定になるかわりに流通が悪くなる、という点で なんだかホースの先に狭い出口をつけたような話だな、と思いました。 供給量が排出量を超えると流れるべきものが溜まってしまい、異常がおこるのです ね。

    また体調を崩されていたようで。もうすぐ長期休暇ですから、その間にゆーっくり休 んでください。
    それでは、お大事に。

       食管法は、食糧不足時代にはきわめて有効な法律でした。そしてこの時代に犠牲を強いられたのは生産者、すなわち農民でした。過剰状態になっても生産者米価を下げなかったのは、食糧不足時代の犠牲に報いるためのものとも言えないことはありませんが、それにしては余りにも長期に渡りすぎていますし、余りにも大きな金額です。

       私の体調にお気遣いいただき、ありがとうございます。


  29.  12月10日の環境形成基礎論の授業に出席しました。

     今回は食糧管理法についてお話してもらったのですが、1969年までの米の流通ルートは非常に面倒臭いものだなと感じました。国の一括した管理のもとに、政府が米を一時買い入れて、それから売り渡すなんて手間がかかりすぎて合理的ではないような気がします。ただ、国が一括して管理すれば、管理しない場合に比べて、米の生産調整はしやすいと思います。しかし、その当時は、その逆ザヤにより赤字が問題化しましたし、米作農業者が米をすべて売って、米屋さんから買ったほうがもうかるなんて異常なこともおこりました。今でも、米の生産調整の為に補助金を出していますし、どの方法をとってもリスクはあって、なかなかうまくいかないものですね。ですが、より消費者に近く、クリアーになっている今の流通ルートのほうが消費者にとってはいい気もします。ただそれにはコストなどの問題があるでしょうし、どれが1番リスクが少ないか、論理的に熟考していかないといけないのでしょうね。僕は理系なのですが、論理に関しては他人より疎い気がします。もっと何事も論理的に考えられるようになりたいと思> い ます。

       話をよく聞いて下さっていることはわかりますが、メールの論点がどこにあるのかは、少しわかりづらいですね。

       食管法の問題、論点の一つに市場経済の是非があると思います。食糧というような人間が生きていく上で不可欠のものを市場経済に任せてよいのか、という疑問は決して不自然ではありません。とりわけ食糧が不足しておれば、市場経済には任すことができないことに納得できます。しかしコメ過剰下の食管体制で起こったことからわかるように、人間による管理の場合、既得権益が絡み非常に不条理なことが起こってくるのです。食管法が廃止され、新食糧法になってからもコメは完全な市場経済体制下にはありません。ただ、市場経済になれば生産者と消費者の距離が縮まるとは限りません。野菜の流通などを見ていると、市場経済の進展は、明らかに生産者と消費者の距離を遠ざけています。


  30.  今回出てきた、バイオエネルギーには、期待が持てると思います。大学に入ってから、バイオエネルギーの話を聴く授業は今回で三回目ですが、その長所を聴く度に期待が強まります。しかし、ほとんど使用されていないのが現状です。循環型社会とよくいわれますが、その実現のためには必要不可欠だと思います。

       バイオエネルギーが完全に石油に取って代われるとは思えませんが、バイオエネルギー利用の拡大がこれからの社会に重要性を増すことは間違いないと思います。しかしその際に考えなければならないことは、これまでのような大量消費型社会でよいかどうか、ということのように思います。


  31.  官僚主導型農業構造についてずっと気になっていて、先生が授業中教えて下さることに加えて、自分でも調べてみようと思いました。

     すると、柏先生の授業で扱われていた箇所と似たところを書いたHPを見つけました。そこには、農業部門において農林水産省と自民党による政策が優先されていること、衆議院小選挙区の立候補者にとって、農業を含めた特殊利害団体からの支持を得るのが望ましいこと、農協組織が選挙活動を行っていることなどがこと細かに記されていました。やはり、農業を営む側と政治家の側が、互いの利益を満たすように負の方向へ進んでいくのを社会がどうにも止められていない現実がいけませんね。

     また、このHPには「日本の貿易不振を改善するためにも、FTA(地域貿易協定)を積極的に締結していく必要がある。そのためには自民党農林族による農業政策立ては止めて、農村に市場経済の仕組みを導入する抜本的な改革をもたらし、ムダを切り捨てた活気ある農業を実現せねばならない」と書いてありました。果たして、ムダを全てカットした市場経済システムの導入だけが正しい解決法かはわかりませんが、日本農業の大きな見直しが必要なのは、私にも十分納得できるところとなりました。

     第9回の授業で最後に先生がおっしゃったことが強く心に残っています。「食料自給率を下げ続ける国のままではいけない。自分たちの食すら賄えていないのみならず、それは発展途上国の人々の食べ物も奪っていることになるのだから。」これには胸を突かれました。自分の生活を自分で成り立たせられていないことが、他人の生活を侵害していたのですね。自給率が下がって困るのは、輸入が出来なくなった時に食べる物がなくなってしまうから・・・としか思っていなかった自分の考えの狭さが恥ずかしいです。これからも、先生の授業を通して今までになかった視点を切り開いていけたら、と願います。

     それではまた来週も宜しくお願い致します。お体にはお気をつけて。

       疑問に思ったことを自ら主体的に調べてみられることは非常によいことです。最近はWebがあり、意欲さえあれば色々な情報が簡単に手に入ります。これからも大いに積極的な勉強をして下さい。

       私も何でもかんでも市場経済化するのがよいとは思っていませんが、コメに関しては、余りにも異常な状態がつづいており、市場経済システムの導入は不可欠だと考えています。何よりもコメ管理が官僚主導型農業構造の骨格になっており、コメの問題にメスを入れないと、日本農業はよくなっていかないでしょう。

       日本は、地球規模で考えれば貴重な食糧を、国内で自給することを簡単にあきらめ、金に任せて大量に輸入(その金も徐々に怪しくなっていますが…)、しかも食糧の26%を食べ残して捨てているのです。これでは飢えに苦しむ国々の人々は浮かばれません。われわれは自分だけが生きる権利を持ってのではない、ということを十分に頭に置いておかなければなりません。


  32.  12月10日の授業に出席しました。

     今回の講義を聴いて、食管法についてとても勉強になりました。まず、食管法の存在意義と、成立した当時の時代背景についてです。戦争遂行のために成立し、その後も食糧難を乗り切るために十分機能したのですね。しかしその後の食管法の運営が驚きです。昭和45年にコメの需給転換がありその後もまだ長いこと食管法の下でコメの運用が続けられ、昭和53年までは末端逆ざやが、そして60年までは売買価格差があったなんて驚きです。つい最近、いや最近とは言わないまでも、高度経済成長も終わり、日本がかなり安定してきたときじゃないですか。こんな時代まで、どうして食管法があったのだろう、と講義を聴きながら思っていました。この法律があるがために赤字はふくらみ、苦し紛れにしか見えない政策を続けているように思えました。しかし、ここにも官僚や政治家の思惑が働いていたのですね。唖然としました。もう言葉も出ません。そして、こんなところにもむらの構造が関わっていたのですね。先生もおっしゃっていたとおり、こういった問題はなにも農業に限ったことではないのでしょう。果たして、この国がこの後存在していけるのか不安になってきます。これが一企業のやっていることならとっくに倒産しているのではないのでしょうか。

     僕の友達で、理学部の子なのですが、こんな日本はいやだから、政治問題には全く関心を持たないようにしているし、将来はヨーロッパに行って研究をしたい、早く日本から出て行きたい、といっている人がいました。その気持ちも、とてもとってもよくわかるけれども、やはりそんなことでは、せっかく縁あって自分の生まれた国なのだから、と思ってしまいます。

       前回の講義、よく理解していただいていると思います。私は農学を専門としてきましたので、農業に関しては問題を摘出できるのですが、他の分野でもこれと同じような構造的問題がたくさんあるはずです。そしてその構造の形がみな似ているのがおもしろいところです。おそらく日本社会に「むら」の論理が通っているからだと思います。

       このような不条理だらけの日本脱出、その人個人にとっては悪くないかもしれませんが、どんな社会も矛盾があるものです。そしてどんなところにいっても、まずは自分が生きる環境の整備から始めなければなりません。あなたの言われるように、縁あってこの国に生まれたのですから、日本の社会環境の整備に努力するのが本筋であることは間違いありません。

       私は、若い世代が日本の社会変革を真剣に考えてくれるようになることを、心から期待しているのです。


  33.  食管法が米不足時代の産物であり、元来効率的な米の集荷のためのものであった以上、米の生産が回復し、更には過剰になったからには改廃を検討すべきであるところを、政治の都合から小手先の修正のみを以って徒に運用を続けてきた、その結果が逆ザヤであり、食管赤字だったわけですが政官学+農協の癒着のみならず、 日本人の、ある程度豊かな暮らしさえ保障されるなら政治動向や税金の使い道には無頓着である、という特質(まぁ、ある程度以上豊かになった国ではありふれたことなのかもしれませんが−古代ローマのパンとサーカスなど−)も一枚噛んでいるのではないでしょうか。

     こういった無関心が、変動のない時代ならともかく、現在のような激動のー歴史の転換点かもしれないー時代において、亡国の基にならないか心配です。

      「ある程度豊かな暮らしさえ保障されるなら政治動向や税金の使い道には無頓着である」

       これは、やはり日本人の特質ではないのでしょうか。こうした特質が、戦前の軍部の独走を許したとも言えます。ドイツのヒトラーへの熱狂とは対照的なのではないでしょうか。やはりこのような特質も「むら」からきているのかもしれません。

       そしていまや歴史の転換期にあることは間違いなく、あなたの心配されているように、このような日本人の特質が国を滅ぼす結果になるおそれがあるでしょう。


  34.  1974年、約二倍もの逆ザヤがあったなんて驚きです。末端逆ザヤで、農家の方が自分の収穫を食べるよりも店からかったほうが安いというのは本当にどうなのかと思いました。そんなことでお金を稼げたとしても農家の方にとっても嬉しくないでしょう。

     先生の講義を受けるたびに農林水産省は馬鹿らしいことばかりやってるなぁ、貴重な血税で何をやっているのかと思います。同時に今まで考えを巡らせもしなかったことが恥ずかしいです。農林水産省がこのような行為ばかり行なうのは官庁のシステムに問題があるのかも知れません。トップにたつまでの出世競争や雑務に追われ、いざ自分が組織を動かす側に立ったときには柔軟性や長期的展望や情熱がなくなっていってしまうのかもしれませんね。

     どうして米の自由化に激しく反応したのか、とても気になります。次回も楽しみにしています。では失礼しました

      「そんなことでお金を稼げたとしても農家の方にとっても嬉しくないでしょう。」

       その通りだと思います。自分が精魂込めて作ったコメを、自分で消費することが経済的に不利だなどということに、農民自身が矛盾を感じていたに違いありません。

      「トップにたつまでの出世競争や雑務に追われ、いざ自分が組織を動かす側に立ったときには柔軟性や長期的展望や情熱がなくなっていってしまうのかもしれませんね。」

       これもその通りだと思います。巨大な組織の中で、理想を追求することは、非常に難しいことだと思います。やはり巨大組織が幅をきかす社会システムそのものの再考が必要なのかもしれません。となると市民運動的なものが社会を動かすシステムが重要となってきて、個々人は自立、「個」の確立をしていかなければならない、ということになると思います。


  35.  12月10日の授業出席しました。

     先生の授業は初回から大変興味深い内容を多く取り扱っていらっしゃいますが、米の需要や価格、流通の話など経済が大きく絡んだ話になると、やはり経済学部なのでさらに興味がわきます。

     授業も残り少なくなってきましたが、これからも先生の授業楽しみにしています。 お体にお気をつけてお過ごしください。


       私は、元々、農業経済学を専攻していましたので、経済学部の学問領域と重なるところが多いはずです。私の話があなたの今後の学問に何らかの刺激になればうれしく思います。


        《第2信》
         先生こんにちわ。
         環境形成基礎論を受けている経済学部1年の○○○○です。
         今週はもう出席メールは出したのですが、先生から返信いただき嬉しかったのでまたメールしてみました。
         大学に入り、さらに先生の講義なども通して、改めて様々な分野に経済が絡んでいることを実感しました。今の勉強だけでなく、今後将来までも先生の授業で学んだことを活かしていけるようになりたいと思います。
         私は性格上、”やらされる”型の学習でないとどうしても弛んでしまうのですが、先生のように大人数の学生相手に授業し、しかも毎週メールに対する返信を欠かさないような方を見ていると、自然と自省し頑張ろうという気になります。
         これからも大変でしょうが、このような素晴らしい授業をぜひ続けていってください。


  36.  12/10(金)出席しました。  今回の授業では、食糧管理法が戦時下に戦争遂行のため国民に食糧を安定的に供給するためにできたにもかかわらず、実際は300万トンもの米が闇ルートへまわり、食管法の意義を失っていたということを知り驚きました。また、米を保護するのにも、多くの財政負担(国民の税金)がかかるということを知り、改めて先生がおっしゃる農業への企業の導入により、官僚主導型構造の解体の必要性を感じました。

       食管法も1942年の制定以来、時代状況の変化に合わせて改正はされましたが、もっとも基本的な点は変わらずに1994年まできました。そして1995年の新食糧法の成立後も、コメに対する国家の関わりは大きく残っています。そしてそれが官僚主導型農業構造を維持させているのです。これを崩すためには大きなインパクトを与える以外ないと思います。


  37.  今日はコメの話だったけど、うちの実家では米を作っているので、 自分との関係も深く、普段に増して興味をもって聞いていました。

    今回の授業では、「コメの保護」についての話が思い出されました。 どこで聞いたのかは忘れてしまったのですが、日本は米の自給率を 上げるために、米を保護していたのだけれど、授業でも言われたように 、その後米が過剰になってしまい、しかも米生産推進の影で軽視された 大豆や穀物といったほかの農作物の自給率がどんどん下がったという 話です。

       農業政策がコメ中心に展開されたため、小麦、大豆、飼料穀物などが極端に低い自給率という、非常に偏った農業の形になったことは間違いありません。コメが過剰になって初めて、自給率の低い作物への転作を奨励しても、限界があることは、生産調整35年の歴史が物語っています。

       このような日本農業の窮状をもたらしたのは政府の農業政策の結果だと私は考えています。その意味で、農業政策は非常に重要なものだといえます。しかし、官僚主導ではいまの窮状から抜け出すことが難しいことも事実なのです。


  38. 今回の講義では、食糧管理法の成立背景から廃止にいたるまでと食管法の問題点などが非常に丁寧に説明がなされていたのでわかりやすかったです。

    食管法は悪法であったと言われることがあります。しかし、この言い方は必ずしも正確ではないのではないか、というのが講義を聴き終わった後の私の感想です。講義でも説明されていたように、食管法の制度趣旨が戦争などの非常事態に国民の食糧を安定的に供給させるというものであって、実際一部の業者に買い占められることへの防止対策となっていたことを考えると食管法の目的は達成されていたとも言えるからです。ただ、批判すべきは食管法のような非常事態における特別法は、法の有効期限を設けてその濫用を防ぐべきであったということなのでしょう。

    食管法に限らず、政府の農業保護は結局自らの権益を守るものでしかありませんでした。その意味で日本の農業政策は、何の政策でもなかったといえます。本当に日本の農業や食糧自給率を考えるなら、補助金などではなく関税のかけ方を工夫するなど、農家が自主性を保って、自らの市場を切り開いていくような制度を作っていくべきでした。しかし、これは政府・官僚側の責任だけでなく、農家自体にも責任があったと言わねばなりません。つまり米の買い上げに頼りきったり、補助金目当てに農業をやっていくといった、楽をして稼ぐような態度を続けることに問題があったということです。結果として、農家はイノベーションの力、自らの市場を失っていくことになりました。

    次回以降は、このような日本の農業構造の問題点をふまえて解決策を考えていこうと思います。

       確かに食管法は制定当時と昭和20年代の食糧不足の時代には、法律として非常に意義のあるものだったといえるでしょう。しかし戦争に突入せざるを得なくなった状況を肯定することはできないのですから、はやり批判されるべき宿命だったのかもしれません。ただ昭和30年代前半に抜本的な改正(ないしは廃止)を行い、直接統制から間接統制に移行しておれば、その意義を損なうことはなかったでしょう。

       次回お話ししますが、学会では、明治以降、日本の農業発展を担ってきたのは政府であり、(稲作)農民には発展を担う力がなく、追随してきただけだというのが定説になってきました。これは一面正しいようにも見えますが、私は間違っていると思います。そして、この定説がどれだけ日本農業に悪影響を及ぼしたかということは、どれだけ強調しても強調しすぎることはないと考えています。

       というのも、この定説があったからこそ、農業政策は農民の主体性を高めるためのものではなく、農民を管理し導くものになってしまったからです。ところが管理・指導する立場の官僚が、余りにも農業の現実とはかけ離れたところにあったため、日本農業の衰退を招いてしまったといえます。しかも時代を経るごとにみなが既得権益の保持に走るようになり、とんでもない状態になってしまっているのだと思います。


  39.  九回目の講義聞かせてもらいました。

     今からはなす事は、講義の内容とは少しずれますがお許しください。昨日12月12日の夜に、中国のホーテン川に関する特集のテレビが放送されていました。なんでも、中国のタクラマカン砂漠では一年のある期間だけダムの水を放水し、一時的な川を作るのだそうです。そしてその川の水は地域に住む人たちの様々な生活用水として、また農業用水として使われ、重宝されていました。そして、ある村ではどの家の畑に先に水を流すかを会議していて、みんな生活がかかっているので必死に話しあっていました。こんなのは日本では考えられない事ですよね。

     日本では当たり前のように水が使われもったいないとも思われていない。ファーストフード店などの食料品では少し時間がたてば、食べ物が捨てられる。こういった事実とさっきのホーテン川の事情を考えると、日本がおかしいと思うのが当然の事でしょう。食料自給率が低いのに、その食料を他の国よりも粗末に扱っている時点でまちがっていると思います。そういう事も見直すべきでしょう。

       貴重なものは大切に取り扱う。これは日本でも同じだと思います。稲作農業にとって水は非常に重要なものであり、水不足地帯では水を大切に取り扱います。また水をめぐって「むら」間の争いにもなりました。そういう意味で、今日、日本で食べ物が粗末に扱われるのは、食べ物が貴重なものではなく、あり余っているからだと思います。しかしそのあり余った食料は国内で生産されたものではなく、輸入によってもたらされたものです。しかしそうして金に任せて食料を輸入することには大きな問題あります。金はいつまでもあるとは限りませんし、あったとしても食糧が不足している地域が存在する下でのこのような食べ物の扱いは、貧しい国から食料を奪っていることにもなります。あなたの言われるように、「食料を他の国よりも粗末に扱っている時点でまちがっている」といえるでしょう。


  40.  12月10日の授業出席しました。  作物を栽培している張本人である農家の人々(ただでさえ農業従事者が減って苦しい中で)が、第三者である国の介入により苦しめられているのはやはり改善すべき問題である。

       「作物を栽培している張本人」というのは少しおかしい表現ではないでしょうか。さらに今の農業構造でもっとも被害を被っているのは消費者ではないでしょうか(もちろん農民も被害者ですが…)。


  41.  食管法が有効だった時代が終わっているのはおそらく政治家も知っていることなのに、やっぱり役人は甘い汁があるとすわずにはいられないのだろうか?
     旧体制に固執して、自分たちはいい思いをして、変化に合わせないがために被害をこうむる一般市民のことも考えてほしい。

       できあがった構造の下では、政治家にしても官僚にしても、それほど自由があるわけではないと思います。問題は国民にとってよくない構造をいかにして壊すかなのでしょうが、これを壊すことのできるのは市民の自覚のような気がしますが…。


  42.  前回に引き続き、農協と、それを取り巻く法制度と社会、特に食管法をテーマにした講義に参加致しました。少なくとも、昭和30年代という時代における決断が現在の社会の在り方を規定しているということは良く伝わってきました。歴史を学んでいるといつも思うことなのですが、法制度と、常に変化する社会状況のギャップがシステムに歪みをもたらし、崩壊に導いていくというのが革新の原動力であるのだなあと改めて感じました。

     もうひとつ言いたいのは、日本の官僚政治機構が、他国のそれと比べても変革の遅い、外力に対して鈍感な機構だという印象です。私の観点からすると、これこそが、「閉鎖的で内部告発を忌み嫌うムラ社会体質」の持つ問題点の最大の発露ではないかと思います。結局日本社会はその歪みが極限に達するまでは変化をきたすことのないシステムになっているのではないでしょうか。江戸から明治への変革においてそうであったように。だからといって、現在の世界は、日本の自壊を許す状況にありません。明治期或いは世界大戦後に日本が達成したような驚異的な回復は現在望めそうにないからです。今もし日本が崩壊すれば、他の国々によってその穴は急速に埋められ、経済的な意味での日本のニッチは最早残されないでしょう。我々が我々の生存を維持するためには、大規模な崩壊現象の前に日本の改めるべき点を明らかにし、少しずつ改善していく必要があるでしょう。私たちの責任は大きいですね。

          追伸:日本の構造的問題に食い込めるような楽しいレポート課題を期待しております。

       ある時代の制度が次の時代には合致しないものになっていながら、それを変えることができないという事態は、非常によく見られることです。その際、制度の改革を阻むものは旧制度に既得権益をもつものたちの抵抗だといえるでしょう。しかも既得権益をもつものたちは、旧制度の中で権力をもっており、制度を変え得るのが彼らなのですから制度改革が難しくなるのは当然といえるでしょう。

       私が上段を書きながら思い描いていたものは大学です。私が学生時代に起こった大学紛争、講座制の解体、新しい制度の確立を目指していたはずだったにもかかわらず、農学部などはいまだに講座制が維持されている。当時、運動に加わった人たちも、今や教授となり講座制を守る側に立っている。一つの制度により生じる権益を享受するものが、制度を変える権力をもつ限り、このようなことは繰り返され、結局、その制度が成り立つ社会が崩壊するまでつづいてしまうのかもしれません。

       第1段落のコメントを書いた後に第2段落を読んだところ、すでに私が書きたいことと似たことが書かれていました。

      「結局日本社会はその歪みが極限に達するまでは変化をきたすことのないシステムになっているのではないでしょうか。」

       まさにその通りですね。

      「現在の世界は、日本の自壊を許す状況にありません。」

       これもまったく同感です。

      「我々が我々の生存を維持するためには、大規模な崩壊現象の前に日本の改めるべき点を明らかにし、少しずつ改善していく必要があるでしょう。私たちの責任は大きいですね。」

       その通りです。既得権益を持つ古い世代に改革を期待しても無理だとなれば、若い世代の頑張りがこれからの日本を決定づけると思います。私が若い世代の皆さんに期待している理由がここにあります。


  43.  第9講の講義に出席しました。

     米の生産が過剰になったにもかかわらず価格が上昇していたことや、生産者が自分で 作った農作物を自分で食べるより、一度米屋で売ってからそれを買った方が得であっ たことなど、農業において政治絡みの様々な矛盾が生じていたことに驚きました。米 不足の時代には効果を発揮する食管法が、過剰期にも適応されていた事実から政府の 適応能力のなさが感じられます。農業は政府の強固な組織下にあり、ほとんど融通の きかない状況下にあることがわかります。現在の農業をなかなか変えることができな い理由に「むら」社会もありますが、結局は政府が「むら」思想を自分たちの都合の いいように弄び、悪循環を招くことになったのではないかと思いました。あと、生産 調整が行われていることはよく知って今ましたが、日本の全水田面積の半分近くが生 産調整されていることは知りませんでした。あまりの規模の大きさにびっくりしまし た。日本人の食変化だけでそこまで急激に減らす必要があるのか疑問です。やはり政 治が絡んでいるのでは・・・。日本の農業を変えるチャンスが次到来したときは逃す ことの無いようにしてほしいものです。

       日本の農業政策がコメを中心に展開されてきて、しかもこのように不可解のことがまかり通ってきたのですから、今の日本農業の窮状も当然といえるかもしれません。本来、このような不合理なことを明らかにし糾弾すべき立場にあった農業経済学者の多くは、御用学者の役割しか果たせなかったのですから、その責任も非常に大きいと思います。

      「結局は政府が「むら」思想を自分たちの都合の いいように弄び、悪循環を招くことになったのではないかと思いました。」

       そうかもしれません。しかし問題は構造的なものだと思います。そこでは、あなたの言われるように政府の役割が大きかったのですが、この構造をの背景には、やはり「むら」社会の中での「物言わぬ農民」、という姿があるのではないでしょうか。


  44.  12月10日の授業出席しました。
    農協、政治家、官僚が結びついて、米の値段設定が正常になされていない状態 がやはり大きな問題だと思いました。
    昭和30年の、転換点の時期に、法改正ができなかったというのが残念です。
    このような問題に、先生は企業の進出という解決策を挙げておられますが、
    そんな折、農水省が食料自給率アップのため各自治体に目標設定を求めた
    という記事を新聞で見ました。農協の改革のことや、企業進出の下地作りなど、
    具体的、抜本的な政策についてはなにも触れられていないというのが残念でした。
    しいてあげれば、首都圏など農地の少ない地域については洋食中心の食生活の改善な どをもとめるとのこと、コンビニやファミレスのつくった同じメニューが全国の チェーンで販売される現在、そんな改善というようなことが本当に出来るのかと思い ます。
    給食メニューの変更くらいはできるかも知れないですけれど…

      「昭和30年の、転換点の時期に、法改正ができなかったというのが残念です。」

       その通りですね。転換期にある現在が、後世において、あのとき改革ができておれば、といわれないようにしたいものです。

       農水省は橋本行政改革の折、解体される寸前のところまでいきました。しかし農林族の頑張りで(頑張りという表現が適切かどうかは疑問ですが…)、ほとんど変化なく存続し得たことは、不幸だったといわざるを得ません。行政改革では、農水省を3つに分けて、産業省、環境省、文部省に統合する構想が描かれていました。産業として自立する農業、環境保全のために維持される農業、文化保全として維持される農業という3つの方向性が考えられていたことになりますが、それはきわめて当を得たものだったと思います。

       今となっては、農水省はまったく長期ビジョンを描けないのだと思います。


  45.  今回は、あまり見かけない、食料関係の企業のことを見られて参考になりました。
    法律の力もあるとはいえ、廃油を燃料にしたりといった試みも なかなかおもしろいと思います。

    以前、企業の農業参入は慎重にすべきだという趣旨のことを書きましたが、
    今回の企業の話を聞いて、なるほど、これなら大丈夫だと安心しました。
    やはり、不正を行う業者も必ず出てくるのでしょうけれど、
    とりあえず、今よりずっと危険になるということはなさそうですね。
    企業には、利益だけに走らず、誠実な経営を目指して欲しいものです。

     癒着構造は相当ひどいですね…
    末端逆ザヤにしても過剰な保護にしても、実におかしな話です。
    既得権益にこだわって、自分のするべき仕事を見失っている政治家や官僚が 日本には多すぎる気がします。

    がっちり固められてしまっているから、どこかが構造を変えようとしても、
    この間の新聞記事のように、他のところからの圧力で潰されてしまうわけですよね。
    そう思うと実にやっかいな構造ですね…
    崩れかけているとはいえ、容易に崩すことはできないでしょう。

     昭和30年代のことを見ると、時代の転換期の選択が、
    本当に重要なんだと改めて思います。
    今、この大事な局面で、正しい選択をすることのできる、
    自己中心にならずに真に自分がなすべきことを実行できる、
    官僚なり政治家なりが、一人でも多く現れてほしいものです。

       今日においては、企業といえど、もっぱら利潤追求をしてばかりおれるわけではありません。企業は今や社会的存在となっており、メセナなど社会貢献に力を入れなくてはなりません。資本維持だけでは持続的な存立が不可能なのです。もちろん環境問題や食の安全性の問題が注目されている状況では、それへの配慮をしなければ、長期的に利潤を確保することさえ難しくなります。企業→利潤追求→悪という発想は、必ずしも適切ではなくなっているのです。

      「実にやっかいな構造ですね… 崩れかけているとはいえ、容易に崩すことはできないでしょう。」

       その通りだと思います。この構造が変わるためには一世代を経なければならないと思います。あなた達の世代が変革の担い手とならなくてはなりません。単にお上に期待するのではなく、身近なところから変革していこうという気概を持って欲しいと思います。


  46.  確かに食管法は食料不足の時は意義があると思います(このシステムをもし仮に今の世界でやっていけたら、今よりは飢えで苦しんでいる人は少なくなるでしょう)。でも、逆に米が過剰な時にこういうシステムでやっていても無意味に近いと思います。それよりは生産者と消費者が直接的になるのがいいでしょう。ですから、食管法の部分的改正は良かったと思います。

     しかしながら、政府は生産者はできるだけ高く売りたい・消費者はできるだけ安く買いたい、という狭間に入れば赤字になって当然なのに改正が遅くなったり、効果がそれほど出てないのでしょうか?国家を人民にきちんと目を配りながら保っていくのは非常に難しいし、必然的にお金がかかってしまうものなのでしょうけど‥

       食管法が時代に合わないものになっていたにもかかわらず抜本的改正がされず生き残ったのは、それによって既得権益を得ているものがその権益を手放そうとせず、しかも、改正の権限をもつものが権益を持っていたことによります。ガットウルグアイラウンドという外圧かなければ、食管法はいつまでつづいていたかわからないと思います。


  47.  今までは「農協」は地方の小さな団体というイメージを持っていましたが、実際の規 模の大きさに驚きました。 やはり、それだけ農業というものが重要であるのだと思いました。

       このメールは、第8回目のものなのでしょうか、それとも第9回目のものなのでしょうか。


  48. 第9回目の環境形成基礎論の出席メールを送ります。

    今回の講義では食糧管理法がテーマでしたが、正直言ってこれまで食糧管理法についてあまり詳しく、正確には知っていませんでした。
    以前までは政府が米の流通を管理していた、という事や「逆ざや」という言葉はなんとなく知っていましたが…。
    米の生産が過剰になってもはや必要なくなってからも、ここまで大量の公費を投入してこの法律が守られていた事には驚きました。
    この実態を誰が見たとしても異常だと思うはずなのに、政治家の思惑で政府買入価格が高く設定されたり、農協の利益の為に長く続けられた事を知って、本当に根本から変えていかないとどうしようもない気がしました。
    一般にはあまり問題点が意識されなかった、という話がありましたが、農業を学び始めた自分としては、これからそのような農業に関わる問題点を意識しつつ、それを社会と共有していく事も考えなくてはならないなぁ、と感じました。

       日本人にはお上意識が強く、お上に頼る気持ちはあっても、個々人がお上を変えていこうという姿勢が出てきません。寄らば大樹の陰、というのは日本人の行動パターンをよく表しています。こういうところでは、お上に問題点があっても見て見ぬふりをする方が賢いのかもしれません。このような姿勢はまさに「むら」の論理に合致するものですが、今日、これが日本社会を行き詰まらせているといえるでしょう。今後、日本社会を変えていくには、こうした日本人の姿勢から変えていかなければならないでしょう。

       農学部の学生さんということですから、農業の基本的な問題についてはしっかりと勉強して下さい。


  49.  農業は暮らしに欠かせない重要なものである 重要なものであるが故に、利権の温床となる 利権の温床となった結果、農業本来の必要性が見失われている といった、矛盾のようなスパイラルが生まれ、 現在の日本の農業・政治・経済が構築されてきたように感じた。
    利権について国民がチェックをしていかなければ、 FTAを結んだときに日本の農業は急激に戦えない市場にさらされ滅んでいってしまうのではないか。

       農業は人間が生きていく上で不可欠で重要なもので、だからこそ、利権の温床となりやすい、というのは非常に鋭い見方だと思います。しかも非常に重要なものだから、政府がらみになり、権限を持つものが利権をも持つという構造になりがちなわけです。

       このような構造の下で、利権と絡まない国民のための政策が展開されるためには、高潔なリーダーを育てていくしかないのかもしれません。そしてそのようなリーダーを育てていくのは、われわれ国民なのではないでしょうか。


  50.  政治と米価が政権維持において密接な関係にあるために、他の産業より政府の手厚い保護を受けているのは、政府にとって、過度な負担になるだけでなく、『個』の成長(企業の農業介入等)すら不可能にしていることが、各農家の保障と調和がうまくとれていないと感じました。

       政治と農業界とが深い関わりを持つのは日本だけではないかもしれません。アメリカの共和党支持基盤は農村部であることからもそれは予想されることです。しかし政治は国全体のために展開されるべきであり、ある特定の業界の福利のためのものであってはなりません。理念を掲げて展開される政治が、今の日本には必要だと思います。


  51.  今回の授業を聞いて、小学生の時、自分らは古古米を食べさせられているのではないかという話しを友達としてたのを、訳もなく思い出した。

       確かに古々米や古米が問題になった時期がありました。あなたの小学校時代といえば、10年ほど前のことですね。この頃には、1993年の平成コメ騒動がありましたが、このとき、政府の倉庫にはコメは全くなく、これを契機に備蓄の必要性が叫ばれました。この頃には古米はすでに整理されていたことになります。


  52.  12月10日の授業に出席しました。
    米が過剰となった時点でも、税金を無駄にしての買取りが行われている事を聞いて、政府の方策はいつも最善ではないことを再認識しました。構造成立時と状況が変われば構造の変化も必要です。既得権益を手放さそうとしない人達により改革がなかなか進みませんが、取り組み方も工夫が必要です。
    変革は損だと感じる人に何らかの補償がないと現実的に進展が難しいのではないでしょうか。
      次回の授業も楽しみにしています。

       メール、ありがとうございました。しかし苦言を一言。あなたのメールには署名がありません。メールに署名しないというのは、携帯文化の非常に悪いところだと、私は日頃から思っています。携帯同志では誰からのメールかわかり、メール交換をするのも仲間内でのことでしょうから、これでよいということになるのでしょう。しかし人と人とのつきあいは、お互い相手を確認するところから始まるのであり、それを省略することは非常に失礼なことです。以上、返信メールを利用して苦言を呈させていただきました。


         ○○○○です。メールの使い方について忠告いただきました。

        僕も一通目には名乗っていましたが、頻繁にやりとりしない人が相手の時は署名をすることにします。もし自分に署名なしのメールが着たときを想像してみると、あった方が良いのはすぐにわかりました。

        人に言われてみないと直さないままだったと思います。忠告をありがとうございました。


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作成日:2004年12月15日
修正日:2004年12月15日
制作者:柏 久