第7回
出席メール

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  1.  11月26日の授業に出席したので出席メールを送ります。




  2.  11月26日の授業、出席いたしました。

    今回の内容、というよりも先週分の続きに関してのほうがメインになってしまうのですが、「むら」の構造が 個人の創意工夫の妨げになる、とのことでしたが、「むら」社会は中世型社会の完成形とも言えるもので、個人単位での工夫程度では大きく変化する余地がなかったのではないでしょうか。だからこそ、低位生産力ではあっても安定性を誇り、洋の東西を問わず長続きしたのでしょう。ある意味、「むら」構造のみが個人の工夫を妨げるのではなく、その社会の文明レベルでの社会単位の完成形においては、凡そ、個人の工夫を発揮する余地、というものが消滅していくものであるのではないでしょうか。 そして、完成形に到達すると、文明が停滞し、衰退していき、その綻びから、再び個人の工夫の余地が生まれ、次の文明形態(必ずしも優れているとは限らない)への移行期になるのではないでしょうか。

    日本の農業近代化失敗の背景には、中途半端に時代の変化に合わせて、村の中途半端な解体を行った事があるのではないでしょうか。共同体としての「むら」をそのままにしつつも、強力な行政指導によって(ここで、リーダーさえ抑えれば全てを従えられる「むらの特性が利いてきます)近代化を「むら」全体を一ユニットと考えて推し進めたほうがよかったのではないでしょうか。
    どうせ日本人は2000年にわたって個よりも共同体を重んじる傾向を培ってきた(その集大成が中世型「むら」といえるでしょう)のだから、急に50年やそこらで西洋人のように個人主義になれるはずがないのですから。

    最後に一点、明治以後、あるいは戦後、江戸時代も、西洋中世と同じく、年貢が重く、ぎりぎりの生活を強いられていた、ということになっていたので、少なくとも中期以降は、年貢率の逆転が起こり、生活に余裕があり、また余剰分を市場に放出できるほどにまで生産力が上がっていたことが案外知られていないのではないか、と思います。




  3.  あまりの村批判に一瞬教室に緊張が走ったように感じたのは僕だけだったのでしょうか。いずれにせよ教室の雰囲気が引き締まるのは生徒が講義を真剣に聞いている証拠なので訳もわからないけれどうれしく思いました。

     授業には直切関係ないのですが、梅棹忠雄が「生態の文明史観」のなかで、「封建制を経験した周辺文明が後に大きく発展していった{日本とヨーロッパ}」というようなことをいっていますが、僕が個人的に考えていることなんですが、日欧ともにどちらかといえばアフリカ、他のアジア諸国に比べ腐敗の少ない国であると思います。封建制と腐敗度との関係はあるのでしょうか?

     授業には関係ないのですが先生ならばこの手のことについて扱った本を知っているのではないかなと思います。よかったら紹介してもらえませんか?よろしくおねがいします。

     個人が確立していると相手を思いやるので決して自己中心的にならないというのは非常に納得したのですが、実際に個人が確立された社会は今の日本とどこがどう違ってくるかがもうすこしよい面、悪い面からはなしがききたかったです。




  4. 11/26の講義に出席しました。

    [感想]
    今回は日本の「むら」を中心にした社会構造の話がメインだったので、日本史を履修していた自分には、かなりわかりやすかったです。日本の「むら」の名残がひそかに今でも見受けられるということがわかり、少し驚きました。日本は生産面ではだいぶ発達していると思いますが、やはりまだまだ集団意識が高いように思います。もっと個人が個人たる意識をもって、共同体を作り上げていく必要がありそうだと感じました。今回は学生側にはわからない、教授の選出の話なんかもちらりと聞けて、大変よかったです。「あーやっぱり」と、なんとなく納得できてしまうところが悲しいですが…。




  5.  官僚集団とむら社会との共通性について感心しました。どちらも安定を重視するため、個を尊重し新しいものを生み出すことに消極的なんですね。




  6.  11月26日出席しました。

     農業においてムラ社会にとって変わるものとして企業によるものがあるならそれはどういうものになるんでしょうか。日本は狭いですし、難しい気もするのですが。それに天候に左右されるものはなおさら企業はやりたがらない気もします。




  7.  今回は満場一致というものについて考えました。

     プロ野球で楽天の参入が決定したとき「満場一致で決まった」と言っていたのを覚えてます。この時すごく不思議に思いましたが、やはりあれも根回しがあったのでしょうね。もし反対する球団があればそこは後々不利益を受けていたと思います。やはり村でも同じなのだと納得しました。特に何十、何百年という単位では小さなしこりが争いに発展しますし、今も昔も同じなのだと感じました




  8.  ご丁寧に休講のメールまで出してくださるなど、
    その誠実さには頭が下がるばかりです。

    先日の授業では、伊勢講について出てきたので嬉しかったです。
    私は三重県伊勢市の出身です。
    今でこそ、関西地方から日帰りや一泊程度で
    気楽に行く程度の観光地でしかないものの、
    江戸時代には全国の3分の1の方々が
    伊勢に観光で来たといいます。
    それだけに、全国的に与えた影響は計り知れないと思われます。

    私は今回の授業を聞きながら、
    むら意識と島国根性の関係性について
    思いをはせていました。
    むら意識というのはそこを出たらどうでもいいという
    排他意識につながるのではないかと思うのです。
    それがあるから、個のつながりがうまくいかないのではないでしょうか。

    むらから外れた個は、村の一員ではあれども
    もはやむらの一員ではありません。
    いわば、いじめにあってクラスのはぐれ者に
    なってしまったようなものです。
    同じ場所にいて、同じクラスだという共通点はあっても
    仲間意識はありません。
    そもそもいじめが村八分に由来しているのですから
    当然といえば当然のことです。

    日本人は人同士をまるで囲んでしまうのは得意なのに、
    人を点とみなしてそれを線で結ぶのは苦手のようです。
    独立した点を認め合って、いろいろな方面に線を伸ばしていけたら
    よいのではないかと私は思うのです。

    やや抽象的な話で分かりにくいかもしれません。
    ごめんなさい。




  9.  これは11月26日に行われた7回目の講義の出席メールです。

    今回の授業では農村の「むら」を通して日本全体の社会のあり方 について考えさせられました。

    「むら」社会の弊害は先生が授業で指摘されたとおりだと思いま すが、一方で日本の都市部ではすでに「むら」の意識はなくなり つつあります。よく言えば日本人が「個」を得たと表現できるか もしれません。しかし、この「むら」から「個」への変化は、同 時に多くの問題を引き起こしていると思います。 一番大きいのは、やはり意思疎通の問題だと思います。先生の仰って いた「隣の人のたんすのどの棚に・・・」は行き過ぎですが、それでも 近所づきあい、町内自治というのは「むら」とは関係無しにあるべ きものだと思います。しかしいまや隣に住んでいる人の顔を知らない というのも珍しいことではなくなってしまいました。

    今まで日本人は「むら」という閉鎖的な環境で生活してきたので、 他の「むら」と直接関わることがあまり無かったのではないでしょうか。 だからいきなり「個」となっても、他の「個」をうまく対処できず、 ひとりで閉鎖的になってしまっているのではないかと思います。 このことは次の世代にも確実に影響を及ぼしていると思います。 「個」としてうまく他人と付き合っていける次世代がうまれた一方で、 うまく意思疎通のできなくなってしまった次世代もまた生まれたのでは ないでしょうか。それが今問題となっている若者のコミュニケーション 能力の著しい低下の一因となっているのではないでしょうか。 今の日本の「個」の社会は、あるいは「むら」社会より悪いものかもしれ ないと思います。

    感じたこと、言いたいことを羅列して、取り留めの無い文章になってしまい 申し訳ありません。ただ、今の社会を善しとせず、「個」を壊さない「和」 の社会というものを捜し求めていくことが大事なのだと切に感じたことを 最後に書いて終わりたいと思います。

    追伸
    「人の幸せとはその人の持つ潜在能力を如何に発揮するかということ」 という先生の価値観、感心しました。僕も少しでも自分の力を役立てたい と思います。




  10.  前にもメールで述べましたが、最近ではむら社会というのは消えつつあると思います。むら社会にもいい面と悪い面があると思いますが、自由化の進む現在ではむしろいいと思います。規則の厳しいむら社会では個人で自由に工夫しにくいからです。やはり農業も社会も封建的なものでわなく時代にあわせて変わっていくことが大事だと思います。




  11.  11/26(金)出席しました。

     今回の授業で、農業における『むら』社会における共同の呪縛から解放され、いち早く『個』が確立されてそれぞれの『個』が力を合わせる共同体の重要性を改めて感じました。しかし、『むら』の論理と社会の論理が一致して発達してきた日本ではなかなかそれが実現できないものでもあるのだなと思いました。




  12.  先週の授業出席しました。

     集団が大好きな日本人は集団の中で個性を殺してしまうことがよくあります。「むら」社会による集団主義である農協は、そんな日本人の習性をよく表しているように思いました。




  13.  授業受けました。

     やはり日本と言うのは農業のみに関わらず、集団と言うことに固執し過ぎているのかもしれません。農業に限った話だと、自分一人で農業でやりくりしようという人は少なくて、やはり農協等に所属をしてやりくりをする人が多い印象を受けます。別段悪いこととも思いませんが、あまり集団に固執し過ぎると周りにあわすことばかりを考えてしまい、個の発達ができなくて農業自体の発展そのものにも支障が出ると思います。

     いよいよ半分終わりましたね。引き続き頑張ってください。




  14.  11月26日の授業に出席しました。

     「むら」についてですが、私は歴史上の中ではそんなに悪いものではないと思います。むらでの強いつながりがあったから、むらの中で人間的にも成長できるものがあったと思いますし、様々なこと(未知の恐怖や死の恐怖)からの心の安定がありまた、むらの中でのアイデンティティの確立も楽なものでした。さらに長い期間における安定も現にあったのですから。

     しかしおそれるべきはその村の考えの悪い面だけが発揮されてしまうような場面が多くなってしまった世の中だと思います。むらでの強いつながりも今の都市ではほとんどなくなってしまい、成長や安心感が得られないためかと思われる訳のわからない犯罪もしょっちゅう聞くようになりました。そして先生のお話を聞くと世の中を動かしていくような連中は未だにむらの呪縛にかかっているかのようです。こう考えていくと、先生のおっしゃるとおり、「個」の確立は大変重要になってくると思います。今のような世の中では、早く一人一人が市民になることが重要でしょう。

     しかし、「個」を磨き、発揮して生きていく、ということが苦手な人はどうなってしまうのでしょうか。市民社会における共同からはずされてしまうのでしょうか。そこまではいかないにしても、そういった人たちにとっては生きにくい世の中であるのではないでしょうか。むらの中で生きていることがラクだったはずの人の方が多いのではないでしょうか。むらという枠の中で、個人の創意工夫が妨げられて、でも平等に生きていられた社会と、むらの枠がはずれて、個人としてその社会にあった能力を発揮できない人が出てきて大きな不平等ができてしまった社会と、どっちが幸せだったのかと、ふと思ってしまいます。




  15.  今回の授業は、ムラ社会についての話でした。

     私も、田舎の出身なので、とても身近な話に感じました。念仏講とかいって、じいさん、ばあさんが集まってましたし。ムラ社会では親密に付き合わなければならないので、いろいろと大変でした。




  16.  既存の枠に家を建てるという感覚が無くなった今、村が消えていくのは自然だと思います。村が必要かどうかはわかりませんが、また新たな枠組みができればそれでいいと思います。




  17.  11月26日の講義に出席しました。出席メールを送ります。

     今回の講義では、共同体の中で個人がどう扱われるべきか、という法学部生として身近な話題が出てきました。個を殺しての共同体がうまく機能するはずがありません。個人の権利は共同体においても尊重されなければなりませんが、各個人の意見をすべてくみ取っていては運営の妨げになり得ます。個人の意思をつぶさずにいかに共同体としての「むら」を機能させていくか。「むら」の運営の難しさというのはそこにあるのだと思います。

     そもそも、この問題はあらゆる集団にあてはまるのであり、この問題を解決するために様々な対策が講じられています。多数決や全会一致などの原則ですが、どれがその集団のに最適なのかはその団体がきめることで、固定された尺度は存在しません。団体が存在する限りは、この問題はついてまわるでしょう。

     この講義では、農業だけでなく様々な分野と関連しているので飽きません。次の講義も楽しみにしています。なお、毎度のことですが、メールが遅れて申し訳ありません。時間をみつけてなるべく早く送ろうと心がけます。




  18.  11月祭前日は休講という便宜をはかって下さってありがとうございました。

    農家での長男単独相続についての話がありましたが、戦前の日本では農家に限らず「家」制度の概念が強く、旧民法でも家長的支配を想定した規定が多くありました。しかし、個人の自由を軽視したという歴史的反省から民法は大改正され、今では家制度につながるようなものは規定されていません。法律的にいうとまず、相続は被相続人の死亡時よりその法律関係が包括的に相続人に承継することをいいます。相続には遺言相続と法定相続の2つがあり、特に遺言がない場合には民法第882条以下によって相続の範囲や相続分が規定されます。これによれば、配偶者は常に相続人であり、また複数の子がいる場合は子の相続分について等しく分割されることになります。したがって、農村における相続が単独相続であれば法律的には納得できない部分もあり得ますが、農業の性格を考えると必要性があるということもできるのでしょう。

    戦後、これまで日本が西洋の法形式だけを採用して、法精神は重要視してこなかったことから、基本概念である「権利の絶対性」、「個の確立」というものが啓蒙されるようになりました。先生のおっしゃるとおり、「個」の確立は重要なものであると私も思います。そして利己主義と区別するために、個人の主張する権利はまた他人に尊重されるようなものでなければならないと私も考えます。しかし、個の確立という考えを徹底することには留保をつけたいと思います。そもそも人間は、他者なしは生きられないものであるので、個があってそれから社会があるという前提で物事を考えるのが妥当でないときもあるからです。つまり、特に日本社会では前提を社会においてそれから個にたちかえることが大切な場合もあるということです。したがって、私はむしろ社会から個人を想起して両者のバランスをとり、権利の絶対性ではなく権利の多様性を広く認めていくことが今の日本社会にはかなうのではないかと考えています。

    毎回、法学がらみですみません。来週以降の講義も楽しみにしています。




  19.  第7回目の講義出席しました。




  20.  第7回目授業に出席しました。

    まず、成績のつけ方についてですけど
    レポートでもテストでもどっちでもいいです。
    どっちにしろ授業に毎回でて先生の話をきくのが一番の近道だと思いますし…

    授業では「むら」社会を否定はしていないと言っていましたけど
    「むら」社会のいいところをあまりいっていなかったような気がします。
    聞いた感じですと、存在が否定できないと言ってるだけで、
    「むら」社会そのものは否定しているような感じでした。
    「むら」社会にもいいところもあると思うんですけど
    やっぱり、農業のことを考える時では、それは妨げになっているのかもと思いました。

    あと、ヨーロッパの農業の歴史ですけど、聞いているのが かなりしんどかったです。。。
    やっぱり歴史とかそういう話は苦手だなーと思いました。

    個人的には歴史の話よりも先生の話のほうが聞いていておもしろいと感じます。

    では、今回はこの辺で…また次回




  21.  26日の授業に出席しました。出席メールの点数はぜひぜひ教えてください。お願いします。あとレポートは21日発表ですか?他の試験勉強などもあるのでできたらもっと早くにお願いしたいんですが…でも授業がないんですよね。メールで送るとかはできないものでしょうか?

    そろそろ本題。
    今回の授業ではヨーロッパは個別経営をするようになって農業改革が進んだが、日本では「むら」社会が残りあまり進んでいないということでした。僕はこの話を聞いた時「西」と「東」が連想されてなりませんでした。日本の「むら」中心で個人の創意工夫がない農業形態が、計画経済とうたって国中心で産業を発展させた「東」の諸国と違いがないのではないかと。そして最近のIT技術の発展はソ連のペレストロイカのような感じを受けました。したがって日本の「むら」社会は今後維持できるものではないし、早く解体して西欧諸国のように変えるという改革が必要だと思います。




  22.  第七回目の講義に出席しました。
     第七回目の講義では、どうして日本にはむら社会が残ったか、そしてむら社会とは何かがよくわかりました。
     やっぱり、講義でわからなかったことを質問しようと思いながら聴くと、すっごい効果覿面でした。結果的にそれらは聞くまでもなかったのですが。
     ただひとつだけわからなかったことがひとつだけありました。僕は明日香村に住んでいるのですが、実際明日香村も隣の市と合併しろみたいなことが言われました。でも明日香村はそれを断ったため、お金を減らされるなどされました。そこで聞きたいのですが、どうして合併なんかするのでしょうか。表面上の理由ではなくもっと深い理由が聞きたいです。




  23.  11/26の講義に出席しました。

      講義中に提示された問題についていろいろと考えてみました。企業による農業への進出は果たしてよい結果をもたらすものなのか?「個」の確立を成し遂げるためにはどうしたらよいのか?他にもありますが、どれもが結論の出しにくい問題です。それを何とかしていく過程で今までまかり通っていたことが通じなくなり、新しい考え方、問題などが生まれていくのでしょう。そしていつか過去を振り返ってみたときに、あの頃は良かったなあ、などと懐かしむのではないかと思います。

      「むら」の存在が現在における問題の解決を妨げているのは事実。そして日本という国が「むら」を中心として形成されてきたのもまた事実です。先生の仰るように新しい社会システムを作ることは必要だと思います。しかしそれはどんなものなのでしょうか。想像できません。「日本らしさ」を残しつつ「個」を確立するということは矛盾したことのように感じます。「和」とはひとつの滑らかなまとまり。「個」とは集団から離れ、気体分子のように運動するもの。一番良いのは「むら」と「個」の間を自由に行き来できるようになることだと思いますが、そんなに上手くいかないでしょう。「むら」の中では自由に行動することはできませんが、そこには自分を支えてくれる人がおり、ものがあります。願わくば新しいシステムにもこんな温かみがありますように。




  24.    やはり日本(人)の基礎というのはむら社会、つまり昔の農業社会からくるものであるのかと感じた。日本人が個性がないだの均質化しているだのいわれるのも村社会の伝統からくるものであると思う。今時代が変わってきているのに(広い目で見ると)日本の家族中心の農業形態はなんら変わっておらず、中国等の輸入品に押しつぶされる前に根本的解決がなされてほしい。




  25.  僕は個人的に江戸時代の農業が一番いいと思います。生産力は良くないとしてもそれに勝る良さである、資源の循環をうまく利用しているというところが好きです。日本独特の「むら」社会も個性的で好きです。日本では、欧米と違って「むら」社会を存続していく必要があると思いますが、資本主義の導入やIT革命による「個」の確立によって昔ながらの「むら」社会は崩れてきていると思います。以上のことを非難する気はまったくありませんが、地域社会は農業ありきであることを忘れてはいけないと思います。地域が協力すれば、農業もきっと発展するし、今の官僚型農業を見直せば自給率が上がって自分の国にも他の国にも利益があると思います。




  26.  講義を聴いて、「むら」というものが我々に与える影響はかなりのものだなぁと実感しました。ただ、僕個人の体験から考えるとどうも「むら」の認識がずれてしまいそうです。祖母は近所の方との付き合いを大切にする一方で、競争心が強く、協調性があまりないような気がしますので…戦争という厳しい生活を経験したことや、それからの時代の流れが、誰しもに競争という性質を植え付けてきたのかもしれません。これはある意味個性の芽生えと考えてもいいと思うので、「むら」の良い面だけが活かされていける予感を与えてくれそうかと思います。

    ところで、レポート試験になさるというお話ですが、できればテーマは年内にお伺いしたいです。試験前になると誰もがそちらに忙しくなると思いますので。急なことかも知れませんが、考慮の程、よろしくお願いします。

    それから話は変わりますが、夜寝るときに喉のまわりをタオルとかで包んで暖かくしておくと、乾燥が抑えられて喉へのダメージが減るようです。お節介かも知れませんが、母がそう教えてくれましたので…お体お大事にしてください。




  27. 出席メールが遅れてしまいました。これからは気をつけようと思います。

    さて、今回は「むら」についての最終回でしたが、
    私はまだ「むら」について理解できていないような気がします。
    特に、以前、私が10月22日講義分の出席メールの中で、

     あまり講義に関係のないこと(?)をメールしたくないのですが、
     興味があってお伺いします。
     学会などで先生の居場所(?)がないと仰っていましたが、
     それほど批判ばかりされているのですか?

     講義を受けていると、批判されるのももっともだと思います。
     ただ、先生は批判ばかりされていて、そのために
     先生の意見・提言が反映されることなどはないのでしょうか?

    とメールさせていただき、先生のご返事には、

     出席メールをWebに掲載中に、あなたの出席メールにp.s.があることに気づきました。

     あなたの疑問に答えるには、「むら」社会の論理がどのようなものなのかを
     お話しした後の方が理解しやすいと思います。第2部が終わった段階で、
     まだ疑問が解消していなければ、もう一度メールで質問してきて下さい。

    とありました。私の勝手な判断ですが、「むら」社会の文化(慣習)が根強い日本では、
    結局「個」を認めない雰囲気が学会などであるということでしょうか。
    私は将来農業政策について研究をしていきたいと考えており、
    学会といった世界に少し関心があるので、失礼ながらお聞きしました。

    海外留学などは経験したことがないのでわかりませんが、外国(特に米欧)では
    そういった「むら」社会的な雰囲気がないのでしょうか。
    研究者などの人材が海外に流出しているという話を耳にすることがありますが、
    結局はそこも関係しているのかもしれないと考えます。

    もっと「むら」について聞きたく思いました。自分も勉強してみたいと思います。
    それでは今回はこの辺で失礼します。




  28.  伊勢講や村請なんかが出てきて、高校のときの日本史の授業を思い出しました。
    先生はやはり「ムラ」を完全に否定しているわけではないのですね。
    確かに、近代日本が現在の形態へと変遷をたどる中で「ムラ」の果たした役割というのは決して小さくはなかったと思います。実際「ムラ」社会であったからこそ達成し得たものもあるわけで。
    僕はそんなに「ムラ」というものが悪しきものだとは思っていませんが…。




  29.  11/27の講義メール

     農業には新規に参入できないことを初めて知りました。昔は農民は転職できなかったのが今は逆の状態なんですね。これで後継者不足などと騒いでるのだから理解に苦しみます。

     企業の農業参入については、僕は賛成します。企業に自分達の食を託すには不安もありますが企業による合理的な農業を導入しなければどちらにせよ日本農業は行きづまると思います。そしていかに食の安全を確保するかは法をつくる官僚によるわけでやはり問題にぶつかるわけですが…。次回はその問題について聞きたいです。




  30.  11月26日の講義出席しました。

     今国と地方が補助金などを含めた財源の話でもめているようですが、団体として動くということの難しさは「むら」社会にも見られるものかもしれません。次回からの官僚主導型の話でこの財源にかかわる各省庁の熱心さのようなもの(文部科学省は教育に使われる補助金の割りあいを決める権限を残そうと必死です。)の裏側をこの講義を通じて垣間見ることができるのではないかと期待しています。




  31.  第七回講義に出席しました。

    今だ残っている世界から見た日本人の特徴。
    いわゆるNOと言えないとか表現されるような控えめさ、良く言えば謙虚さ。
    コレには、例えば島国であるとか土地が狭いだとか様々な要因があると思われます。

    しかし、今回の講義を聞いてムラという歴史的な要素がかなり大きな要因となってい るのだと知りました。
    もちろんムラの背景には島国であるとか土地が狭いというのもありますが、あまり意 識していなかった見方だったので...
    町内会の起こりも初めて知りました。
    何となく今では定期的な祭りを行うくらいの機関になっているような印象をもちます が、戦時中などは効果的だったのだな〜と想像できました。

    その他にも真新しい考え方が多く勉強になりました。
    次回もよろしくお願いします。




  32. 第七回目の授業(2004/11/26)出席しました。
    今回までの授業で、日本のむら社会とヨーロッパのそれとの比較、さらには むら社会の成立過程も含めて包括的にむら社会の実情が示されたと思います。

    講義の中で、先生は日本の場合稲作がむら社会形成の鍵になったとおっしゃって ましたが、なるほどなぁと思いました。というのも、やはり共同作業が必要な場合、 そこに連帯感が生まれるのは半ば当然な気がするからです。その作業がきついもので あればあるほど、その連帯感はより強くなるのではないでしょうか。

    僕は実際に農業の 手伝いをしたことがないので稲作の実情とかはわからないんですが、僕の祖母が子供の頃 奈良の山奥で親の農業を手伝っていたらしくて(今は都会暮らしです)、時々その頃の 話をするんですが、田んぼの世話はもう地獄やった、とか言ってます。

    そういう話を聞くと、授業でやったむら社会成立の理論(?)はすごく納得できます。

    ただ、様々な機械の発明で稲作の負担が減りだしたのはここ数十年の話だから、 これまで数百年続いてきたむら社会の崩壊はまだまだ先の話のような気がします。

    あと、IT革命がこのむら社会の崩壊に一躍買っているというのは、非常におもしろい (興味を引かれる、という意味で)見方だと思いました。 では、今日はこの辺で。




  33.  11月26日の講義に出席しました。




  34.  環境形成基礎論第7回目の出席メールを送らせていただきます。

    今回のメインテーマからははずれますが、企業の農業参入についてもまた少し考えることがありました。出席メールの中で、企業参入に強い危機感を持っている人がいたからです。

    確かに、農業という人間の営みの根本部分に企業利益が絡むことに対しては不安な気もします。しかし、なぜ不安なのでしょうか。それは、「企業とは、自己の利益のみを際限なく追求するもので、それにより個人が損害を被る場合がありうる」との考えがあまりにも浸透しているからです。その観点からすれば、農業分野に企業が進出してくるのは、脅威だと言えます。

    しかしながら、農以外の食料流通にはすでに企業が進出しており、化学調味料付けの食品が出回っています。その意味では、「食」はすでに危険にさらされています。 水俣病などの深刻な公害を引き起こしたのも企業です。どのような業界であれ、消費者無視の(企業利益オンリーの)方向に傾きやすいものです。どんな企業でも、一般の人々の衣食住を侵食する危険性を持っているといえます。

    だから農への企業参入もやむなし、などという結論を導きたいのではありません。問題は企業だけにではなく、そのような企業に適切な制限措置や厳格な基準を設けられない日本の構造、すなわち、先生が何度も指摘しておられる政官業+学の癒着構造にあると思います。さらにいえば、企業の私的利益追求行為の過程で損害を被った個人が、その賠償を求めるのが困難な社会的状況(訴訟のシステム・負担などももちろん含めて)も見直さねばならないでしょう。

    先生が具体的にどのように、「資本主義社会を超えた社会」を想像しておられるのかはわかりません。でも、私も、「資本主義万能」の考え方から早く抜け出さなくてはならないのではないかと思ってます。今起こっているさまざまな問題がすべて資本主義に端を発しているとは思いませんが、資本主義の中では当然とされている企業の性格がある種の問題を引き起こしていることは否定できない事実だとは考えています。ですから、私の考える「資本主義を超えた社会」には、現在のものとは違う性格の「企業」とそれを取り巻くシステムが存在しています。

    しかし、新たな社会システムを創出するのは、とんでもなく難しいでしょう。資本主義でなければ社会主義だ、という類の二分法の呪縛に、まだどこかでとらわれているような気がするからです(この二分法はアメリカお得意の方法ですね、今は「正義/テロ」で世界を二分しようとしてますが…)。「二分」は非常に危険です。グラデーションや緩やかな変容を認める余地がなくなってしまいます。でも、それを乗り越える時期にそろそろさしかかっているのではないかと感じています。

    いつもに増して支離滅裂ですみません。いろいろ考えたのですが、うまくまとまった文章にできませんでした。また機会があったら書きたいです。




  35.  11月26日の講義の出席メールです

     「むら」構造の特徴とその是非を扱う中で、実際に「むら」にすみ農業を営んで来た方達は、「むら」構造をどう思っているのかなと少し気になってしまいました。あって良かった部分と困った部分と両方あると思いますが、そういう話を聞いてみたいなと思いました。

     それと、かなり時間をかけて探したのですが、前回のメールをホームページ上で確認できませんでした。僕が見落としていたら申しわけないのですが、届いていませんでしたでしょうか?




  36.  ヨーロッパにおいては農業革命によって農業の集団性の必要がなくなり個人主義が発達していったが日本では農業において集団作業は切り離すことができないものだったためむら構造が続き現在でもそれが残っているという話でしたが、もう数世代前から実際農業になんの関わりのないような都会の人たちも集団作業から開放され個人主義に向かっていったヨーロッパの人々とは違い、いまだにむら意識が残っているように思えるのは面白いことだと思いました。

     実際欧米人と日本人では農業体系だけでなく宗教も違ったり(キリスト教は集団主義ではなく神と個人との契約)他にも様々な違いがあるのでしょうけれど・・・結局信念、差別意識、など精神上の様々なものは世代をこえて脈々と受け継がれてしまうものだけれど農業革命をきっかけにヨーロッパの人々は個人主義に切り替わっていったというのは、ある意味すごいことだと思います。




  37.  11月26日の授業出席しました。

     楽天の新規参入については、間違いなく根回し、裏取引があったでしょう。 日本の討論を代表する国会でも、国会中継等で表に出た時点で既に結論は 出ており、形式的に多数決を取るだけである。実際の議論はホテルや料亭で 秘密裏に行われる。世間体を大事にして、表では問題なく結論が出たように 見せようとする。典型的な日本型討論であり、昔からの名残である。 この形では、外部の人間には内部構造が分かりにくく、改善が行われにくい。 そして最近ではこの構造が変わりつつあり、内部告発が行われはじめている事も 周知の事実である。このように、「むら」社会の悪い構造が改良されている姿勢は 非常に評価できることであると思う。




  38.  11月26日の授業出席しました。

    農業への企業の進出についてです。(まだ結論を出すのは早いということで、現時点での考えですが。)農業に企業が進出するとどうなるのか正直よくわからないのですが・・・。今思いつくのは、

    ・売り上げを伸ばし勝ち残る農家と、失敗し破綻してしまう農家とが出てしまうのではないか

    ・利益ばかりを追求して、土地を酷使してしまったりしないだろうか

    ・規模の小さい農家は大きな企業に吸収され、まるで小作人のようになってしまわないだろうか、

    などです。

    しかし、人々が安心して食べられるものを求めている、特に農産物に関しては安さよりも質の良さを求める傾向が強くなってきているので、企業が競い合うことにより農産物の質の向上が実現するのでは。いずれにせよ、人々の農業への関心は高まるのではないかと思います。




  39.  前回の講義出席しました。




  40.  11月26日の出席メールです。

     日本の近代化と欧米の近代化の違いが何となく分かったような気がします。その違いはやはり「むら」であるのかなあと思いました。そしてふと思ったのですが、この「むら」の意識は、社会にだけでなく家庭の中にも入り込んでいるのではないでしょうか。むらに掟などがあるように、家庭でも親が子供に自分の思い通りにさせようとします。今はこのようなことは、そんなに多くはないかもしれませんが、「うちの方針だから従わなければならない」「うちの子」など、家庭にある『うち』の概念が似ているように思いました。

     以上で終わります。最近、授業が難しいです。だから分かるところだけでも確実に理解していきたいです。




  41.  「むら」の話を聞いていると、自分の中にはやはり、「むら」と 同じような性格があると思いました。(全会一致云々、個を殺して云々) そのことがいいのかどうかはともかく、やはり自分は「むら」社会の 人間なんだなあと思いました。確かに、もっと個を前面に 押し出してもいいかもしれませんね。そんなに簡単には できないとは思いますが。




  42.  一身上の理由により東京の実家に先日帰りました。東京近郊の祖父の家に行った際、僕は長男の長男なので親戚(祖父の兄弟の家族まで含む)が集まる場に同席しました。曽祖父の代まで農業をやっていたので祖父や親戚たちは隣近所に土地を持っていて(僕の苗字が昔のムラの名前だったそうです)、近くに住む赤の他人だと思っていた人までも本当に遠い親戚だったりして昔のムラが垣間見えた気がしました。僕の家は祖父の家とは別の東京近郊にあるので今までムラ的な集団に関わったことがなかったからかもしれませんが、とても新鮮な体験でした。この授業をとり始めてから今まで見えてなかった社会が見えるようになったことがうれしいです。ムラについても、もっと知りたいと思いました。




  43.  11月26日の授業初めて出席しました。これからはちゃんと出席しようと思うのでよろしくお願いします。

    昔の人々が、限られた農地のなかでいかに生産力を向上させるか努力した結果、 三圃式農業から輪栽式農業へと発展したわけだが、これは非常にすばらしい発展だと思う。
    輪栽式農業になって導入されたカブやクローバーは根菜類であり、これらの根には根粒細菌がおり、この細菌は空気中の窒素を取りこんで窒素化合物を作る。植物は空気中の窒素(タンパク質形成に必要な元素)を同化することができないので、植物にとって貴重な肥料になる。つまり根菜類により土地が豊かになるのである。
    これは理に適ったすばらしい方法だと思う。
    このことを昔の人はきっと知らなかっただろう。経験により取り入れたのであろう。

    初回の授業すらでていなかったため何を書けばよいのかも分からなかったので、とりあえず考えた事を送らせてもらいます。




  44.  前回の講義、出席しました。先生が最後におっしゃっていた、「今の日本は個の発揮をよしとしない農業社会を築いている」と言う言葉が胸にしみました。個の発揮をよしとしない社会は農業に限らず今まで歴史でも学んだことがあるからです。次回からの、どうしてそのような農業社会ができてしまったのかという講義を本当に楽しみにしています。




  45.  出席しました。

     前々から話には出ていた、ヨーロッパと日本の違いと畑作と稲作の違いの関係がついに分かり、とても面白かったです。技術の革新が社会や民族性の決定にまで繋がっているというのは驚きです。

     また、どうしようもなく思われた、農業の「むら」も、IT革命で変わりつつあるようで、民族性が変わるまでは行かなくとも日本社会が少しでも良くなるといいと思います。

     最後の先生の「個」の話は心に残りました。




  46.  7回目の講義にも出席しました。先生の風邪がまだ治りきっていないという事で、今 回も画像なしの講義となりましたね。早く風邪を治して下さいね。画像楽しみにして います。土日に出席メールを送るのを忘れると、火曜日の夜に送るという提出ギリギ リのメールとなってしまいホントすみません。そのせいで、授業内容が結構薄れてき て、あまり実の無いメールとなってしまってます。

    今回、むらと「むら」について語っておられました。結局、「むら」は現在までにお ける日本での時代の流れ、また和の社会により、ある意味で固定されてしまった「む ら」が出来たという事ですが、これは昔の古い日本の遺物みたいなもの以外に農業面 でアピールし、新しい何かとして生まれ変わる事は出来なかったのでしょうか?

    また、2番目のテーマ(?)の「ヨーロッパにおける農業の近代化」ではヨーロッパ における農業の成り立ちを知る事が出来ました。三圃式から始まり、穀草、輪栽式へ と変わり行くヨーロッパの農業体系にはかなり感動しました。輪栽式農業においては サイクルがあり、少しも無駄な所が無く、農業って上手く出来ているんだなと思いま した。このように上手く出来ているからこそ、輪栽式農業が現在普及しているんだと 思いました。




  47.  11月26日の講義に出席しました。

     今回の講義では「むら」についてのいろんな話をされていましたが、正直「むら」がどういった社会構造なのかわかりませんでした。講義で「むら」の運営の話などを聞いたり、「むら」には総代がいるということを聞いたりして、自分がすんでいる地域にも総代がいることを思い出しました。総代という人がどのようなことをする人であるのかといったことなど全く知りませんが、総代がいるということは自分がすんでいる地域は一種の「むら」ということなのでしょうか?しかし、「むら」では和を重んじるはずなのに、そのような結びつきについて考えさせられるような機会もほとんどなかったように思われます。自分のすんでいる地域についてもっと知っていく必要があると思います。




  48.  11/27の授業に出席しました。

    農業の後継者が不足していると言っておきながら、企業の参入を認めないというのは 一体どういうことなのか。納得のいく回答を聞いてみたいものです。
    個人的には企業が農業に参入することに賛成です。
    企業なら個人を上回る力があるし、利益のために農業技術を向上させることを厭わな いだろうと思うからです。
    しかしこの「利益のために農業技術を向上させること」というやつは、 方向性を誤れば今の日本に悪影響を与えることになりかねません。
    …良い具体例が思いつきませんが。参入を認めない側はこのことを懸念しているので はないでしょうか。
    もしこれが理由で認めないというなら、それは言い訳にはならないと思います。
    なぜなら、企業以外にも農業関係で悪影響を与えているものがあるからです。
    そういうものをほうっておいて、企業にだけ農業をさせないということは、合理的で はないと思うのです。




  49. 11月26日 出席しました。

    授業とは直接関係のない話なのですが、前回の自分のメールを読み直すと、しっかりと考えをまとめられてないため、なんか本当に言いたかったこととは少しずれていました。

    そんな反省を踏まえて、あまり広げすぎず、少しはましな文章を書くように意識はしてみたいと思います。

    今回の内容は、いい意味で「ふ〜ん。」という感じですんなり自分の中で理解できたと思います。

    (もっと批判的姿勢で受けるほうがいいのでしょうが。)

    そんな中でIT革命と村社会について話されているときに、ハード面の環境は整っているのに個の確立がされてないために問題が生じる、というようなことを話されていたのがとても印象に残りました。

    たしかに私自身、インターネットにも触れてはいるのですが、どこか怖いイメージがあります。ネットショッピングなんかは安くていいものが簡単に手に入るとは聞くのですが、やはり顔の見えない関係というのはどうも怖いと思うためか馴染めません。

    インターネットそのものでも、なんか気付かぬうちに高額の請求書が送られてくるとか、得体の知れないカルト的なホームページとかの話を耳にするので、自分に知識がないためあまり深入りできません。

    でも確かに便利なものだというのは、今の自分でもなんとなくわかるし、これからの時代パソコンが駆使できないと遅れをとるともよく言われます。実際にこの授業でもメールをつかっていますが、普通の授業ではとても交流しきれないほど多くの人の考えていることを知ることができて、自分自身の刺激にもなります。

    確かに個が確立されていないがために、よく問題になるようなことが起こるのかもしれません。

    しかし個が確立されるというのはどのようなことなのかということを考えました。

    村社会がなくなった欧米では個が確立されているのですか?
    確かに自分の体験からも、いろいろな外からの情報でも欧米社会では個人主義であるということをよく耳にします。
    それは自分の意見をはっきりと持つということでしょうか?それとも自分の意見をはっきり言うことでしょうか?
    いまその欧米の個人主義を見習おうと、今までとは違う能力を伸ばす教育に力を入れているようです。でもそれはプレゼン力のようにどのようにうまく自分の主張を伝えるかということに力点を置いているように思えます。
    そして肝心の主張そのものがしっかりと個人の中で考えられないまま、うまく伝えてしまうというのはどうなのでしょうか。もちろん人は学習する中で考えが変わることはあると思うのですが、無責任に自分の意見ばかり主張するのはいかがなものでしょうか。それは他者を個として本当に認めていることなのでしょうか?

    よく昔の日本人像として挙げられる、「口数少なく、思いを胸に秘めた」人間というのも、たとえ個が確立されていなくても、自分の発言の他者への影響を考えていたからではないのでしょうか。

    どこか今の日本は個人主義を誤解しているところが多いのではないかと思いました。

    結局今回もだらだらとくだらないことを書いてしまいました。すみません。

    次回の授業も楽しみにしています。




  50.  回の授業を聞いて、日本人がなぜ「人と同じ」でいたがるのかということがわかりました。現在は個性重視の風潮があるといいますが、流行のファッションを盲目的に追い掛けていたり、「有名人に似ている」という言葉に好意的な反応を示したりする様子を見ていると、まだまだそんな時代は遠いな、と思います。私自身、人目を気にしながら行動するのはもう嫌です。(ですが、そうしないと村八分にあってしまいます)真に個を尊重する社会が早く来て欲しいものです。


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作成日:2004年12月01日
修正日:2004年12月01日
制作者:柏 久