第7回
出席メール

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  1.  11月26日の授業に出席しました。

     日本が近代から欧米のいい所だけを調子よく搾取しようとした結果、個人が確立していないところに個人を重視するシステムが適応され矛盾が発生したというのはよく聞いた話しですが、コンピューターのネットワークもそれと同様のことであることに納得しました。コンピューターに適応するには個を確立しなければならないが、そうすると日本の特徴が失われてしまうような気がします、でもそれが今の日本政府の悪政の温床になっていることを考えれば、複雑な気がします!

      ○○○○様へ

       メール、ありがとうございました。

      時代の過渡期、産みの苦しみの中にあるのが今の日本社会ではないでしょうか。いずれにしろ、国民がお上に期待しているだけの時代は終わったと思います。われわれ、とりわけ皆さんのような若い世代が自ら主体的によりよい社会の形成を目指し、行動を開始することが、今もっとも求められることだと、私は考えています。

           柏 久

    (以下、定型の返信省略)

  2.  今日の講義を聞いた自分の感想を述べます。
    農業機械などを購入することによって地域との共同性が薄れていくのにはなるほどと思いました。
    今はそういった発達により「むら」としての人々のつながりがなくなっていくような気がします。
    今は昔のように常会などに頻繁に参加しているとは思えません。
    これからの農業を考えていくのに、もっと地域のつながりを深める事は大事なのではないでしょうか??

       農村の「むら」は、いま大きく変化しています。農家の兼業化が、まず「むら」の等質社会という性格を揺るがせました。しかし日本人の心に根付いた「むら」のエートスが大きく変化するには、まだまだ時間がかかると思っていました。ところがIT革命が、この予想を大きく変えてしまいました。地域のつながりは大切ですが、当然に今までとは違った形のものにならざるを得ません。「むら」とは異なる新しい地域社会の形成は、喫緊の重要な課題だと思います。


  3.  11月26日の講義に出席しました。

     根回しのところで、プロ野球が例に出てきて、あぁやっぱり裏でそういう操作があったんだと思いました。僕は個人的にはライブドア派だったので、少し嫌な気分になりました。

     また、「むら」が揺らいでいるというのがおもしろそうなので、来週の講義が楽しみです。

       日本社会はどこをとっても「むら」社会になっています。日本は「個」を基本にした社会ではなく、集団を基本にした社会です。それは「むら」社会の中で、「個」の確立を怠ってきた結果だと思います。グローバル社会の善し悪しは議論の余地がありますが、これが避けて通れないものだとするなら、日本人は「個」を確立していかなくてはなりません。「個」の確立は、決して簡単なことではないのです。


  4.  前回は身元不明のメールを送ってすいませんでした。

     今回、かなり歴史的な背景のお話しがありましたが、やはり昔から「むら」は上のほうの人たちが下の人たちを管理するのに便利な構造になっていたのだなと思いました。現在はそうでもないですが、昔は経済基盤=農地であったためにその土地の領主は「むら」の長と結びつき「むら」というものが管理しやすく壊れにくいものにしようとしたのではないか、その結果今もなお「むら」が残り続けているのではないかと思いました。

     先生の潜在能力を発揮し人生をまっとうしようというのには共感しました。あと何日生きれるかと考えると80歳まで生きたとしてもこれだけしかないの?というくらい少ないものです。僕もどうにか潜在能力を発揮しつくせるように生きたいです。

       社会現象を理解するには、歴史的に見ていかなければ真実に近づけません。理系の方達にも歴史的認識の重要性に気づいてもらいたい、といつも思っています。

       日本人には「むら」意識とともに「お上」意識というものも根強くあります。いずれも封建時代から引き継いできたものです。それを払拭していくことが今求められているのではないでしょうか。

       自分の中にある潜在能力を引き出すために日々自分を磨くという姿勢が、その人に生き生きとした生き方をもたらす、と私は信じています。大学時代、「個」を確立するために、大いに自分を磨いて下さい。


  5. 第7回目出席しました。

       メール、届いています。


  6.  「むら」について、IT化などで人間関係や社会の構造などは変わってきているのに、集団で自殺をしようとする人間の心にはまだ「むら」構造が残っているという、最後の話がとても印象に残っています。

     私は親戚に農業をしている人がいなくて両親の実家も町中にあるため実際に村に行ったことはない、どちらかといえば現代っ子だと思いますが、個人主義がいいと思いながらもどこかでみんなと一緒がいいと思ってしまう自分に最近気づいているところです。これは無意識のうちにむら意識がはたらいているせいなのでしょうか。もしそうだとすれば、ある意味すごいことだと思います。どんなに外国のものに囲まれて過ごしていて、日本独自のものに触れる機会が減っていてもやはり、日本人は日本人なんだなと思うと少し感動を覚えます。

     そういう意味では、私は「むら」構造に否定的にはなれません。日本人の性質であり良い悪いという問題ではない気がするからです。ただそれと官僚と農協の癒着といった問題はまた別問題だと思っています。

       結論の方からコメントします。官僚主導型農業構造と「むら」構造とが別問題だという見方、見方として否定はしません。ただ、農協というものが「むら」を基盤としてできていることは否定できない事実です。前回、戦時体制の基盤として「むら」の組織強化が図られた(部落会)ということを話しましたが、農協はこのときの組織化に依存してきた側面が強いのです。この点については、今後の講義の中で理解してもらえると思います。

       「みんなと一緒がいい」というのが、どのような状態を指しておられるのかよくわかりませんが、もっとも最近の現象「ヨン様」ブームなどを見ていると、日本人に自分がないということがよくわかります。これもまた一種の「みんなと一緒がいい」状態だと思います。

       私も交友というものを非常に重要なものだと考えていますし、みんなと行動をともにすることの大切さを理解しているつもりです。問題は、「個」の確立した人間の交友・集団か、自分を持たない付和雷同的集団か、という問題ではないでしょうか。この点を再考してもらえればよいのですが…。


  7. 11月26日の環境形成基礎論に出席しました。

    私は金曜の2限にある人文地理学各論で村落についての講義を受けています。

    この講義も先生と同じようになるべく先生と学生が意見を交換できるように
    したいとの思いで、毎回授業中、または授業後に質問や感想を書いて提出し
    その場や次の時間に答えてもらえるようになっています。

    その授業の初回で「農村とは何か!?」ときかれました。
    さまざまな答えが飛び交っていたのですが、
      例えば…農業で生計を立てている人々が住むところ
          あまり高い建物がなく畑や田んぼばかりのところ 
               軽トラックが走り、子供が半ズボンのところ etc
    結局は私たちが判断する基準は見た目、景観なんだなあと感じました。

    この講義は中国の四川の農村形態についてをテーマにしています。
    四川での農業構造の変化は日本の農村との共通点、問題点を
    思い出させるものが多くとても興味深いものです。

    また四川の農村では“院子”という数十個くらいの農家が集住し
    自分の分担の田畑を耕す散居形態がとられており
    これは地主制のもとでも変わらずに続いてきたいるそうです。

    中国の政策で農業の集団化が図られたとき
    農村では確かに行政村ごとに生産財が共有されたらしいのですが
    実際の農業はやはり集落単位で行われていたとのことです。
    もしかしたらムラというのは日本ほどでないにしろ
    中国やアジアに少なからず存在するものなのかと思いました。

    また圃場整備の問題ですが、機械化に適合し、
    農地への移動・運搬の負担が軽減し
    多くの水利がからまなくなり個別経営が向上することに利点がありますが
    やはり日本と同じく水路が共通財産とみなされているため
    なかなか整形と交換がすすまないようです。

    農業を営むうえでこの“共有”というモノや考え方が“ムラ”の
    正体であるような気がしてなりません。
    共有財産を管理し、共同(協同)作業で共同体を作り上げていく過程で
    部外者を排除し、かつ部内者を監視する必要があったため
    このような閉鎖的な集団を形成することに
    なったのではと思うようになりました。

    しかしこのような長く続いてきた形態も近年崩れてきているようです。
    中国では集団化政策で伝統的農村と現代的都市を分離し、
    都市を支える農村を作り上げようとしていましたが、
    人口の増加により余剰労働力が生まれ
    それを解消するために郷鎮企業による農村の産業化が
    すすんできているようです。
    それがどういう結果をもたらすのかはわかりませんが、
    農業もどんどん新しい形態に生まれ変わることが必要だと思います。

    国土の狭い先進国では自由貿易により作付け面積が減少し、
    機械化によって農業効率が上がったため
    必要とされる農業労働力が減少し
    農業人口率がどんどん減少しています。

    農業人口率の減少それ自体が低下することが大きな問題だとは思いませんが
    やはり自国の農業が低迷し、自給率の低下が進むことにつながると思います。
    中国の郷鎮企業のように企業の参入を受け入れたり、
    農業がやりたいと思った人が自由に農業ができるように
    していくべきだと私は思いました。

    私の住んでいる自治体(草津市)で農協の不祥事があり
    なんだか農協に悪いイメージがつきそうですが、
    それでも一旦は公平な目で農協について考えようと思っています。
    先生の講義では今までの考え方を変える、というよりも
    なんとなく知っていたいろいろなことがどんどんつながってきて、
    意味づけされていくのでとても面白いです。
    次回も楽しみにしています。  

       私が知らなかった四川の農村についての話、大変興味深く読ませていただきました。「むら」をめぐって共通するところ、異なるところがよく理解できました。ありがとうございました。また、他の全学共通科目の一端を知ることができました。これも私にとってありがたいことでした。

       「むら」と共同ということは非常に密接に関わっています。共同と協同はともに人が力を合わせる状態を示していますが、個人の主体的意思によって、使い分けがされなくてはなりません。共同体から協同体へ、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという視点が必要だと思います。その際に「個」の確立ということが重要になるのではないでしょうか。

       農協については、次回、お話します。もちろん公平な立場から話を聞いて下さい。


  8.  授業の最後の方におっしゃっていた日本の「和」と「個」の比較の話が興味深かったです。自分を持ってはならない、「個」の確立にネガティブ、といった古くからの日本社会の考え方は農業の歴史の中で生まれてきたということは納得がいきました。

     僕は自分というものを持って生き生きと生きたいと思っているのですが、どうしてもみんなと合わせようという気持ちが働いてしまいなかなか切り出せません。先生のおっしゃっている、「個」を殺しての和とは異なり「個」が力を合わせるんだ、という表現が今の自分の理想にしっくりきました。この言葉が聴けただけでも講義を受けた価値があったと思います!これからの人生の中で自分を支えてくれる言葉の1つになったと思います。

     僕は大学に、知識をもらうことよりも、自分の人生に刺激や影響を与えてもらうことを求めているので、今日の講義は本当にありがたかったですm(__)m

     これからも刺激を与えてもらえる講義を期待しています!!

       「個」の確立にネガティブな日本、それが歴史的に、そして農業(水田稲作)と深い関わりを持って生まれてきたものであることを理解していただけたようでうれしく思います。

       自分を殺して和を尊重するということは、一見、美徳のように思われますが、結局はストレスを内にため込むことになります。そうではなく、自分をはっきりさせ、また他の人の立場を十分理解した上で、力を合わせるという道を探ることこそが理想だと思っています。

       大学時代は、自らの主体的な行動によって、自分を磨くのに、もっともよい時期だと思います。積極的に自分を磨いて下さい。


  9.  今回は、産業革命のおかげで中世から近代へと移る時代の農業が、停滞性を持っている三圃式農業から生産性の高い輪栽式農業へと進化した(間に穀草農業が入るらしい)という話を聞けました。この西洋の農業に関する話では、日本の独特のむら構造とは違って農業が大きな問題もなく農業の個別化へと向かっていく感じがしました。日本の農業の個別化が難しい原因、むら構造が強く働いている原因が、もとをたどれば以前の授業でおっしゃられていたとおり稲作のためであるのなら、気候によって人間の生活や文化(農業も含む)が大きく変わってしまうということがなんだか当たり前のように思えてきて、単純に面白いなと感じてしまいます。

     日本の近代化へ向かうときの「むら」の話はなんだか自分には内容が難しかったです。というか寝ちゃいました、ホントすいません。

     「むら」などの共同体において民主主義を成り立たせるためにはリーダーが根回しできる人間でなければならないという話は、ドロドロした内容だとは思いつつも現実ではそれが本当のことに僕にも思えます。よほどいい規則がない限り、全員の個性や主張をとりいれて物事を進めるのは無理だとNFの企画を部活のみんなで考えているときに実感しました(笑)。

     でもやっぱり先生の言うとおり理想としては自分の強みを生かして(潜在的能力を発揮して)人生を過ごして生きたいですね。そのためにも「個」の確立は不可欠でしょうね。

     それでは。 

       日本とヨーロッパにおける農業近代化過程の違い、そしてその違いが社会構造にまで大きな影響を与えたこと、その原因を水田作と畑作の違いに求めた私の話を聞き、結局は気候(より正確に言えば風土といえるのかもしれないが…)の違いだと考えられたあなたの思考力は、なかなかなものといえるかもしれません。

       ただここ2回の講義に関しては、全学共通科目としては、少しマニアックなところに入りすぎたかもしれないと反省しています。長年、農村社会学という半期講義(10回以上)で話してきたことを、2〜3回にまとめるには十分に熟していないのだと思います。来年は少し工夫をしてみたいと思っています。

       共同体というものは、民主主義とは異質なものだと言えますが、いずれにしても集団をまとめていくためには調整役の役割が大きいものです。おそらく部活の構成員は、「個」が確立しているのではなく、自己主張が強いだけの人が多いのでしょうから、簡単には話がまとまらないと思います。

       「個」の確立の重要性に気づいておられる由、自分とは何か、自分のよさがどこにあるのか、それを大学生活の中で見出していって下さい。


  10.  今日の第七回目の授業に出席しました。

     今日配布された出席メールのなかで「総合人間学部の意味も大きいと言えます」と いうところがあって、総合人間学部であり、最近総合人間学部が批判されているペー ジをネットで見つけて少し落ち込んでいた私にとってはうれしかったです。私は環境 に興味があって、最初は理系で技術的なことを学ぼうと思っていたけれど、環境は技 術だけではだめだ、と思ってその後いろいろ考えたあげく総合人間学部に入ったの で、やはり総人を評価してもらえるとうれしいし、勇気付けられます。大学に入って から結構そういう考えの人が多いことを発見しました。やっぱり技術だけでは行き詰 る段階ということでしょうか…。

     企業の農業進出についての考えは第三部を聞いてから…とおっしゃっていました が、とりあえず今たいした知識のない段階での自分の考えを示しておきたいと思いま す。私は、世界全体が企業を入れていないときならまだしも、もう企業が進出してい る国があり、そういう国と同じ経済の世界の中にいるのなら、企業進出を許可してい くしかないのではないかと思います。それで、伝統的な農業が消えてしまうならば、 それは文化人類学にも興味があり、伝統文化好きな私にとって大いに残念でもありま すが、耕さずに荒廃していく農地があるならば、それを誰かが耕し、日本の農業を盛 りたてていくほうがいいのではないかと思うのです。

     今日の授業で一番印象に残ったのは、最後の人生の話でした。私も人生は短いと思 います。そんな中で、しかも自分の力でいったい何ができるんだろう、と思うと何も できない気になるときもありますが、何かしていきたいです。何もしなくても、私は それなりに幸せになれるだろうとも思いますが、せっかく何かできるかもしれないと ころに自分がいるならば、それを最大限生かすべきだと思います。といいつつも、何 をしたらいいか分からず悩むこともしばしばですが…。潜在能力をできる限り引き出 せるよう私もがんばりたいと思います。

     次回からの第三部で自分の考えがどう変わっていくか楽しみです。あと、歴史が苦 手なのは私だけではないと知って安心しました。でも歴史を知らないと分からないこ とって多いですよね。では、今回はこれで終わります。



        地球環境問題は、科学が極度に専門・分化した結果の問題だとも言えます。科学の総合化は、言うが易いが行うのが難い典型例です。しかし、実践科学において総合的視点がなければ、科学は人間に幸せをもたらす以上に不幸をもたらす存在となってしまいます。その意味で、総合人間学部や地球環境学堂は、非常に大きな意味を持っていると思います。

       農業の企業進出については、今後も議論の的になります。今回も反対意見がきています。残りの4回でさらに議論を深めていきましょう。

       私の人生観を披瀝することによって、皆さんが人生について考えて下されば、ありがたく思います。大学時代を有意義に過ごすためにも、今後、自らを磨いていく上でも、学生生活の中で築いていただきたいと思っています。

       他の方への返信メールでも書きましたが、社会的現実は歴史的なものです。歴史を抜きにして社会の未来を展望することはできません。今後、歴史に興味を抱いていただきたいと思います。


  11.  まずは、お久しぶりです。一回休みが入っただけなのですが、 なんだが随分長い間この講義から離れていた気がします。とこ ろで、私はこの四月に大学生になってからまだ風邪をひいてい ないのですが、先生のご様子を拝見すると風邪の気が続いてい らっしゃるようですので、ひと言お見舞い申し上げます。

     講義のことに移りましょう。今日の講義は、私の中では、これ までで一番の熱のこもったお話だったと思います。という理由 は、あるいは、聴いている私自身のほうにあったかもしれませ ん。「むら」の中にあるいろいろな仕組みの話を聴いていると、 そこには、まさに、私の田舎のことが含まれていましたし、な によりも、私自身が「(兼業だけれど)農家出身の次男坊」で あり、間違いなく、私のある部分は深くあの田舎の「むら」と つながっていると実感しました。私は以前から述べてきたよう にあの田舎の「むら」に対してなにか受け入れがたいものを感 じており、また、ただそれだけの理由で(いえ、それだけの理 由かどうかは、はっきりしませんが)、あの田舎の農業につい ても好かずに来ました。そんな私がこのような農業に関わる前 向きな講義を聴くということが、どこか、自分でもしっくりこ ないという気持ちがもとから無かったとは言い切れないと思う のですが(というのも、私はずっと後ろ向きだったので)、そ れでも、今日、あのスクリーンの上に映し出された文字のなか に確かに自分の姿を見て、結果的にですが、今となっては、こ の講義はこんな私だからこそ、私なりに聴いておくべきものだ ったのだという気がします。そのようなわけで、今日は少し表 現しがたい良い気分です。どこか、緊張した良い気分です。  さて、しかし、もう少し書いてみたいと思います。今日の講義 ではまた、「個」という言葉が登場したのでした。先生の「個」 (それは、己自身ということですが)についての主張に、私も、 追従ではなくて、感化されるところがありました。そこで、私 としては、いままで述べてきた私の周りの「むら」と私(「個」) はどんな関係にあったのかを、ここでできる限り素直に振り返 ってみようと思います。

     私はあの「むら」の色彩をまだまだ払拭しきれない田舎で、 確かに「むら」の子供として育ってきました。その間に、しらず しらず、「むら」的人間としての規範が私に染み付いていまし た。今までは、私は自分の中のそれをただ「日本人的」な優柔 不断とか事なかれ主義だと思っていましたが、こうして考える と、当然のことですが、この「日本人的」と思っていたものが、 他ならぬ私の住んでいたあの小さな「むら」以外のどこから起 源したものでもないことは疑いのないことのような気がします。 しかし、同時に、私はこの「日本人的」部分を嫌ってもいたの であり、その嫌悪感こそ私の「個」から発していたのだと思い ます。私は自分を磨く(というほど立派ではなく、ただ勉強し て何かを知り、それについて考えてきたというだけのことです が)ということを放棄してきたつもりはありませんが、それで も、この磨かれた自分は飽くまで自分のなかに、言いかえれば、 自分自身にだけ示されてきたのであって、私は、私という閉じ た世界のなかでしか私(「個」)を養えなかったと言ってもよ い気がします。つまり、私はある面で「むら」に対する反発心 を抱いてきましたが、それを表出することはなく、この反動を ただ自分の内面に向けただけで、結局のところ、「むら」と自 分を隔離すること以外に努めたのではなくて、結果として、私 は「むら」から隠れようとしてきたのに過ぎません。 上手く纏められませんでしたが、とにかく「むら」というのは 目を背けたくなるほど(おそらく、深いところで今でも私は目 をそむけていると思うのです)巨大で堅固なものなのです。私 は確かに今、あの田舎を捨てようとしているのに違いありませ ん。というのは、あの田舎で今後暮らすかどうかというような 問題ではなくて、あの田舎の「むら」に生きる人々を見捨てて、 ただあの人々から逃げて、私が独りで安穏としていられる自己 内空間に彷徨っているということです。私の「個」は非常に非 現実的な世界に浮かんでいます。「異次元空間に連れて行かれ ているような」とは、前回の出席メールへの先生からのご返事 の一部ですが、私は自分の育ってきた土壌に背を向けているこ とが、少しこのおかしな私の「個」の原因でないかと思ってい ます。私は自分の「個」が現実と向かい合っている気がしない のです。この「むら」という土壌は少なくともあの田舎に暮ら していた間中、私のもっとも身近にあった現実なのであって、 そこから目をそらそうとする私の無意識的な反応が、その他の 周辺の現実へも同時に関心を薄くさせているような気がするの です。前回のメールやその他にも、少し政治や経済や社会的な 内容を踏まえたものもありますが、それにしたところで、すべ て私の直に体験する現実から出たものではなくて、すべて教科 書から預かった言葉以上のものでない気がします。だから、私 の「個」は、いわば上半身だけに宿って宙に浮いていて、地に 立つべき足を無くしているようです。私はこの「個」をどうや って「むら」ないし私の生きる現実に帰着させてよいのか分か りません。私はこの大学という非常に限られた空間でしか、現 実と結びついていない人間恐怖症的一面を見出す気がします。

     もう止めましょう。今日は抽象的過ぎて本当に読むほうがわけ の分からなくなることを書いてしまったきがします。が、最後 にもうひとつ。自分の課題だけ考えておきましょう。先生の言 われた「幸福」ということですが、私は今でもこの浮ついた「個」 が本を読んだり思考したりするときになにか充実したきになり、 肯定的には「幸福」だという過大評価もできないことはありま せん。しかし、私がこれ以上の「幸福」を求めるのであれば、 私はこのままの「個」ではなくて、ものを考えると同時に現実 の上に立つことのできる「個」にならなくてはなりません。そ れはひとえに、私が今ある「個」をどうやってこの人間の犇く 現実に対峙させうるのか、という点にかかっているようです。

     「個」の使い方が悪いかもしれません。まだまだ私は「個」 というには未熟な気がします。恐ろしく長くなりました。それ ではまた次回まで。

       また、返信するのが最後になってしまいました。それも、学生さんの要望をかなえるため、無理をして取材にもいったため、まったく時間いっぱいの返信になり、申し訳なく思っています。

       あなたは日に日に成長されておられるようですね…。本当に楽しみです。豊かな潜在能力を持ちながら、なかなか能力を引き出せない若者がどれだけいるでしょうか。とりわけ京大生の潜在能力は高いのですから、それを引き出す手伝いをするのが教師のつとめだと思います。京大の先生方は、そのつとめをどれだけ果たしておられるのでしょうか。

       さて、あなたのメールを読んでいると、私の父と重なるところがあります。私の父は、祖父の理解もあって、長男で後継ぎであったにもかかわらず、「むら」を捨てて学問の道を志しました。農地改革で、所有地を守ることをせず、自宅まで売り払って(残っているのは墓だけ)退路を断ちました。その結果、学問の道で一家をなし、91歳まで現役でした。今も97歳で、私の手を借りなければ生きられませんが元気です。

       あなたはまだ若く、「むら」から抜け出すことしか頭にないかもしれませんが、おそらく歳をとれば、自らの原点にある「むら」に対して異なる気持ちも出てくると思います。私の父を見ていると、「むら」に対する愛と憎しみが綾をなしています。97歳にして、もう一度、故郷の「むら」の地を踏まなければ死ねない、といっています。私は、来年、暖かくなったら、連れて行く約束をしています。

       私は、2001年の春に一人で父の故郷の「むら」を訪ね墓参りをしました。何か私のルーツを感じ、非常に感慨深かったことを覚えています。日本人は、やはりそのルーツを大切にして行かなくてはなりません。しかし世界の流れは、立ち止まることを許さないほど急激で、新しい社会システムの構築を急がなくてはなりません。

       あなたのさらなる社会への脱皮を期待しています。


  12.  ムラ社会について話を伺っていて、思い出したことが二つあります。今回はそれらについてです。

     私は元々茨城県石岡市出身なのですが、この地方では、年に一度の盛大なお祭りがありました。祭りというのはムラ社会がその特徴を最も顕著に露呈する事柄であり、また同時にムラ社会的な一体感を体に植えつけられる機会でもあると思います。例えば、祭りの費用は自治会費という形で徴収されており、その地にいる限り一律に皆が払って当然のものと位置づけられています。(確か年間3〜4万だったと思います)疑問を差し挟む余地など殆どありません。その一方で、笛吹き、金叩きなどの役は子供もやるのですが、その仕事の割り振りは世襲と、親の社会的地位によって(親が神主である等)決まっています。この間7年ぶりに帰ってみたら、旧友たちは「与えられた」仕事に本当に熱心に参加していました。今回の講義を聞いて、私もムラ社会に住んでいたことがあったのだなあ、と感慨を新たにしました。ただ、私はムラ社会の中に組み込まれることのないまま引っ越してしまったので、どうもムラ社会的価値観は理解できかねるところが多いのです。そもそも私には、隣近所には一切合財が知られている状況は気味が悪いとしか感じられません。高々10
    《文字化け》
    意識ギャップが大きく拡大したとでもいうのでしょうか?講義の内容に沿うならば、それはすなわち、農業生産とは全く関わりのない人間がそれだけ増えた、ということになります。事実そうなのでしょう。

     もうひとつ思い出したのは、不耕起栽培という稲作の方式導入を勧めた書籍を読んでいたときの疑問です。文字通り、水田を耕さない、収穫後の稲ワラを田に置いておくという農法なのですが、これに取り組むことを決めた農家の人達が並々ならぬ難しい決断をしなければならなかったように書かれていました。そのときは、成功例を見ているのだから、自分のところでも実験的にやってみるぐらいのことは簡単ではないかと感じたのですが、背景には新しいものに対して消極的なムラ社会の特性が横たわっていたのでしょう。加えて、草も採らない農法が、農民の倫理観に照らして受け入れ難かったということでもあるようですし、農業の発展を考える上では、その地域の文化にも配慮しなければならないという認識を新たにしました。

       一部文字化けがあり、すべてを読めず残念ですが、あなたの経験をふまえた読み応えのあるメールです。「むら」にとって祭りはハレの日であり、ルーチンワークから解放される重要な日です。あなたが講義を聴いて、祭りを思い出されたのは当然だと思います。「むら」を離れた人にとって、残っている人たちが、祭りをめぐる役割を何の疑問もなく果たしていることに、不思議な気持ちを抱くのは自然なことだと思いますが、いつか祭りに郷愁を感じる日も来るのかもしれません。

       直播不耕紀栽培に合理性があっても、その普及は容易ではないと思います。何よりもこの栽培法は、粗放的な大規模栽培のためのものだといえ、農村の構造が変わらない限り、広がらないのです。「むら」というものは、革命でも起こらない限り、人為的になくせるものではない、と私は思っています。「むら」は変容しながら今後も存続しつづけるはずで、その結果、平場での農業の大変革は不可能ではないかと思っています。とするなら、問題は中山間地域となります。ここをどう使うか。「むら」が解体寸前であるこの地域では、大変革が可能なはずです。この地域で新しい農業の芽を育てなければなりません。その際、新しい農業の担い手として、企業もまた認められるべきだと、私は考えています。


  13.  「村」という概念を今日初めて意識しました。「個」を尊重しつつ和を求めるとい うことは難しいと思います。特に協調性が必要とされるような閉鎖的な環境では・・ ・。
     先生は「村」をこれからも残していくべきだと思われますか?

       「村」というもので、農村の「むら」を意味しておられるのであれば、「村」は残していくべきかどうかを考えるような存在ではないと思います。「村」は変容しながらも存続しつづけます。

       私が問題としているのは、よりよい社会システムの構築です。その際、新しい社会システムは、「むら」の論理で動くような社会でないことだけは間違いないと思います。


  14.  第7回目の授業に出席しました。

     だいぶむら社会について理解できたように思います。また先生の話から日本には依然むら構造が残存しているということを聞いていたのですが、今日の授業で実際社会のむら構造の例をだしてもらい、それを聞いて「そうだったのか」と驚いてしまいました。自分が気付いていないだけで、実際に自分の周りにはむら構造が存在しているんですね。すでに僕達がむらにあまりにも慣れすぎて、それがむらであることに気付いていないだけかもしれないのですが。

     また、やまち酪農の先駆者である岡崎正英さんの話を聞いて、周りに反対されても自分の意思を貫いて、バカ息子と呼ばれながらもむらから距離をおいて創意工夫しているのはとても並大抵のことではないと思うし、それだけのリスクを背負っても自分の思うことをやりとげようとするという意思はすばらしいと思います。

     自分が同じ立場に立ったとしたら、自分にそれだけのリスクを背負ってでも自分の意思を貫く自信があるかどうか疑問です。そういう人がいるから、他の人も頑張れる、という良い影響を与えているかもしれません。もっとこういう人が増えて、そしてむら構造のいいところ> も 取り入れながら、日本の農業が進んでいけばいいと思います。

       「むら」に育った人たちは、日本の社会が「むら」構造になっていることが容易に理解できます。しかし私を含め、都会で育った人間にとっては、自らの行動が「むら」の論理を体現しているにもかかわらず、それは日本特有のものとしか理解できないと思います。

       日本の「むら」構造を問題にしなければならなくなったのは、やはりグローバル化という現代の潮流によってです。グローバル化そのものの是非は改めて考える必要があるとはいえ、もはやこの流れを押しとどめることは不可能だといえるでしょう。とするならば、われわれは、自らの内なる「むら」の論理をしっかりと自覚した上で、新しい社会を構想していかなければなりません。それは農業においても同じです。


  15.  10月26日 講義出席しました。

     まず先週の講義を休講にして頂きありがとうございました。
    先生に休講にしてくれとは言っていませんでしたが、他にも準備やらで忙しくて先生に働きかけてくれた人がいることを考えると、彼らにも感謝しなければ、と思う今日この頃です(笑)。

     さて、今日の講義は企業の農業進出を主に話されていましたが、僕個人としては企業の農業への進出は賛成です。今日の出席メールに一つに「企業は利潤を第一にして農業をするから賛成できない」という意味合いのメールがあったように思うのですが、僕は全く逆の考えを持っています。
     利潤があるからこそ経済は活性化し、競争が生まれ、また活性化する。同じ事が日本の農業にも起これば、自給的農業の理想到達も一層早くなると思います。つまり利潤を競い合える仕組みを今の日本農業に導入する事が農業活性化の一番の近道ではないかと思っているわけです。
     それが出来るのはやはり企業だけでしょうし、農協一つだけでそれが出来るのか、というのは甚だ疑問です。

     ところで、今日は写真無くて残念でした。結構いつも写真楽しみにしてるんで次からはまた復活するという言葉を信じます笑。体調を崩していらしたよう ですが、もう冬ですしそれ以上悪化しないように体のケアしっかりして下さいね。

        メール、ありがとうございました。そしてまた私の体調へのお見舞い、感謝の気持ちでいっぱいです。

       10月19日の急な休講、申し訳ありませんでした。26日に予定していた休講を、19日に繰り上げた格好ですが、19日がNF前夜祭であったことを考えると、間違った選択ではなかったと考えています。

       企業の農業進出に関しては、企業社会(資本主義社会)を肯定する限り、農業だけ企業の進出を阻むということに無理があると考えています。あなたのいわれるように、利潤をめぐる競争が経済を活性化させることは間違いありません。当然に農業の活性化にも資するはずです。

       ただ、資本主義社会がもっともよい社会なのかどうかに関しては、何とも言えないところがあります。とはいえ、資本主義社会が大きく変わるとは、現時点では思えません。もし、農業への企業進出に反対するのであれば、資本主義社会に替わる、よりよい社会システムを提示する必要があると思います。


  16.  11/26出席しました。

     日本の農業の歴史はなかなか特殊なのですね。戦争の原因といえば普通政治的な問題が語られますが本質的には土地の希少性にきづいたためである、という話は、農業が人間のとてもファンダメンタルな営みなのだということをよく表しているように思います。自分は農学が専門ではないので農業というものをとても遠い存在と感じがちですが、先生の話をきいていると、本当にさまざまな事柄に結び付いて、その姿をいろんな形で身近に現しているのだなぁと思います。

       中国への侵出(満蒙開拓)理由として、農村の社会問題を解決するため、ということをあげることは、きわめて妥当なことです。人間が食べなければ生きられない以上、人間の歴史には農業が深く関わってきました。

       社会的現実は、無限に多様な要因が絡み合って成立しています。したがって、社会の問題を理解するためには、幅広い教養が必要になるといえるでしょう。


  17.  こないだは丁寧な説明をありがとうございました。

     僕は今日の授業中一つのことをずっと考えていました。それは「グローバリズムは本当に従うべき時代の流れなのか」ということです。これは最近一部の人の言っていることであり、僕もそれに幾分共感しています。小林よしのりや西部邁がよく論じていることです。僕は小林よしのりの論調は嫌いですが、大きく見ると賛同できることが多いように思います。それはともかく、現在の日本に起こっている様々な倫理や国家観の問題はそこにあるのではないでしょうか。

     例えば、小林らは9・11テロの遠因が過剰なグローバリズムにあるとそれなりの論拠と共に断じています。挙げていけば切りがないのです。「むら」意識の問題にしても、先生のこないだの説明以降は過大評価することはなくなりましたが、それでも日本人の特質がグローバリズムに呑み込まれてしまうのは居たたまれない気持ちがあります。

     しかし、今の状況でグローバル化をただ否定しても何も意味が無い気がするのも確かです。旧体制の勝利のような時代の逆行に終わり何となくグローバル後が到来するだけのようになるのではないでしょうか。

     そこで僕は考えたことは、一度究極までグローバリズムの洗礼を受けてみてはどうかということです。確かに現在の社会状況―刹那主義やマスコミ主義―は決して暮らしよいものではありません。しかし有難みや意味を創出するためには不自然であろうともこのような過程を経ることが必要ではないでしょうか。紆余曲折を噛み締めて勝ち取った本当の日本人らしさにこそ、愛国心も伝統を重んじる心も生まれて当然なのです。乱開発も伝統文化の断絶も起こり得ないはずです。

     後日、先生のグローバリズムについての考えを聞けるのが楽しみです。

       グローバル化の是非、簡単に答の出る問題ではないといえるでしょう。

       グローバル化という時代の流れを導いたのが、IT革命だということは間違いありません。たとえグローバル化をよくないものだと結論づけたとしても、人間はIT革命の成果を否定することができるでしょうか。私が講義の際に、皆さんに携帯電話を捨てることができますか、と聞いたのはそのためです。たとえグローバル化をよしとしないとしても、人はIT革命によって得た利便性を捨て去ることはできないのではないでしょうか。地球環境問題の解決のため、自動車をやめることがよいとわかっていても、自動車を捨てることができないのと同じです。

       したがって、グローバル化の流れは否応なく進むと思います。

       ただ問題なのは、いまのグローバル化の流れがアメリカ化であるという点です。同じ「個」を尊重する社会でも、アメリカとドイツは同じではありません。日本の為政者は、アメリカとの関係ばかりを大切にしているところがあります。ドイツ社会がすべてよいとは言いませんが、同じ敗戦国でありながら、ドイツは外交においても、毅然とした自らの立場を貫いています。日本もまた同じようにしっかりとした姿勢を確立するべきです。IT革命の生かし方においても独自の形を作り、グローバル化を国民にとってよりよいものにしていかなければならないのではないでしょうか。


  18.  今までの講義の中でも多く取り上げられてきましたが、「むら」社会の抱え る負の面の中でも大きな問題のひとつは「むら」の閉鎖性、束縛、つまりひと りむらを抜けて自分の創意工夫によって何か別のことをするということがほと んど困難なことであるということです。お話にもありましたように「むら」に はそれぞれに組織があり、それによって運営されているということ、また講な どによる「むら」のエートスの教育の存在、そして更に「平等・共同」という ものが「むら」を根本的に支える基盤であるということにより「むら」は個の 別行動や創意工夫を許すことができない(負の面が強調されていく)状況(形 態)であったのです。だからその負の面を改善していく可能性をもった個の動 きを封じてしまうという悪循環にはまっているように思えます。

     しかし講義の中にもありましたようにIT革命はこの悪循環を断ち切る可能性 を秘めたもののように考えられます。ITは「むら」という空間に限られること 無く、農業者同士、農業者と消費者との新たなつながりを築き、人と人との関 係を変え、多様化させます。つまり創意工夫を持った個がむらの束縛を離れて 自分のスタイルを持っていくことを可能にするということだと思います。今ま ではむらから外れるということは考えられない仮定でしたが、これによりそれ は仮定しうるものになってきていると思います。このこの動きは「むら」と対 立するものではなく「むら」の負の面を改善していくことに大きな刺激を与 え、ひいてはむらに良い影響を与え、新たな「農」の形を作っていくうえでの 1つの要因になっていくだろうと考えると同時に期待しています。

       講義の趣旨をよく理解していただいている、まとまった出席メールだと思います。これ以上、コメントをつける必要がないのかもしれませんが、簡単に付け加えておきたいと思います。

       「別行動や創意工夫を許すことができない」ということは、自由がない、と置き換えることができるかもしれません。人間にとって、「自由」というものはきわめて大切なものだと思います。しかし「自由」ということは、誤解されている場合が多いのも事実です。自由は好き放題できるということでは決してありません。社会において無条件の自由などというものは成り立ちません。自由には責任が伴います。自由を享受するためには「個」の確立が必要ですし、逆に「個」が確立するためには自由が必要なのです。「むら」の自由のなさが「個」の確立を妨げ、人間の幸せを縮小してきたと言えますし、日本農業をも衰退させてきた、と私は考えています。


  19.  今日の授業もお疲れ様でした。
    なかなか体調がよくなられないようですが、どうかお大事に。
    お忙しい所申し訳ありませんが、ホームページの第7回の授業内容がサーバーに アップロードされていないようですので、一度お確かめいただけないでしょうか。
    第6回の出席メールも、ページ1しか見られない状態がずっと続いています。
    なるべく早く対処していただきますよう、よろしくお願いします。

     中学の世界史でヨーロッパの農業の移り変わりを習った時、
    二圃式、三圃式の後に見た、輪栽式農業の無駄のなさに感心した記憶があります。
    物質循環が成り立っている限り、輪栽式農業は、非常に安定した、良い形態だと思います。
    穀物、カブ・クローバー、家畜のそれぞれが、無駄なくサイクル内で有効に消費され、
    サイクルの外には何も廃棄する必要がないという点が特に良いですね。

    こういうことが水田ではできなかったということが、ヨーロッパにおける 農業革命のような劇的な変化が、日本では起こらなかった理由の一つだと思います。
    水田ではコメしか作ることができない、というのは非常に強い束縛ですね…
    そういえば、以前、近所の田んぼで、春にレンゲがたくさん咲いているのを見かけたのですが、 レンゲにはカブやクローバーと同じような役割は果たせないのでしょうか?
    地力を回復する働きがあって、飼料にもなるなら、「輪栽農業の水田版」 みたいなことができるのではないかと思うのですが…?

     ともかく、日本では「農業革命」は起こらなかったわけですが、
    劇的に構造が変わることがないまま次々に新しい技術は入ってきて、
    それらが昔ながらの集団主義構造の中で定着してきたことも、
    日本農業の「ゆがみ」の原因の一部ではないでしょうか。
    自分達で開発したのでない、与えられた技術によって近代化してきたということが、
    集団主義構造が維持されてきたこととあいまって、日本農業の健全な発展に 好ましくない影響を与えてきている気がします。

     今、「むら」構造が崩れようとしているのは、IT革命の他に、
    国際化の動きが強まっていることも関係していると思います。

    英語教育が重視されるようになったことに加え、
    「はっきりとした自分の意見を持つことが重要であり、それができないなら これからの国際化の流れにはついて行けなくなる」というようなことが よく言われるようになり、単に言語そのものだけでなく、考え方の面においても、 欧米的なものを良しとする傾向が最近、強まっています。
    こういう動きは、(特に若い世代の)日本人一人一人を、
    「民主主義の前提である『確立した個人』」に、より近づけていると思います。
    これは、明らかに「むら」構造を揺るがしているといえるのではないでしょうか。

    日本人が上手く「むら」構造から脱却し、各々自分の「個」を確立することが できればいいのですが…

     先生の価値観、参考になりました。
    「原石としての自分を磨く」…凄くいいじゃないですか。

    市民社会における共同が、「個」を殺しての和とは異なる、ということも、 忘れないようにしたいものです。

    p.s.
     今回の講義を聞いて、小泉首相に対する印象がかなり良くなりました。
    僕は政治家の根回しとかそういう類のことは大嫌いですが、
    どうせみんなやってるんだろうな、と思っていただけに、嬉しかったです。
    やはり周りに潰されてしまっているのは残念でなりませんが…
    誰かが何か独創的なことをすると、周りがそれを必死で潰そうとする、という体制、
    本当になんとかして欲しいものです…

        メール、そしてお見舞い、ありがとうございました。

       HPに講義ノート・出席メールを掲載するのが遅れ、申し訳ありませんでした。講義終了後と土曜日午前中に仕事があったために遅れました。

       革命というのは、単に技術が飛躍的に進歩するというだけでなく、社会構造の変化をももたらすからこそ、こう呼ばれるのだと思います。農業革命は、農村の社会構造を大きく変えました。その意味で革命というに値すると言えるでしょう。IT革命も同様です。日本においても、その社会構造を大きく変えるに違いありません。IT革命は、本来は、市民社会からあたらな社会へという変化のはずですが、日本の社会は本来の市民社会になっていませんので、どのような展開になるのでしょうか。少なくとも「むら」社会は大きく崩れるはずです。

       農業への国際化の影響は、昭和60年代からすでに明確になっています。国際化が日本の農業を衰退させたことは間違いありませんし、また若い世代を徐々に「むら」社会から解放されていることも確かでしょう。だからこそ、私はよりよい社会の実現を若い世代に託しているのです。

       なお、小泉首相ですが、彼の構造改革の理念は間違ってはいなかったと思います。私は、小泉内閣の出現時には、大いに彼に期待しました。しかしはっきり言って期待はずれでした。彼には国民のための政治という視点が非常に乏しく、また仁徳に欠けるように思います。構造改革の理念の大きな柱であった官僚主導を廃するするという点では、前進はまったく見られていません。

       やはり新しい社会づくりは、国民の手で実現しなければなりません。


  20. 11月26日の授業出席しました。

    私は逆に、印象として農協は銀行や信用金庫みたいなもんだと思っていました。どこだって利害関係がからみます。

    日本の「むら」的体制は「裏」、「隠蔽」、「閉鎖的」なイメージがあり、個人的に好きではないです。もっとフランクな体制にならなければ、進歩や改革が非常に遅くなります。ただ、田舎で祖父母が農業やっていますが、あまりその「むら」的体制が感じられません。私が時々祖父母の田舎に行くだけなので分かりませんが、稲刈りの時期に少し手伝いあうくらいで、あとは普通の近所づきあいみたいです。

    あと、出席メールにあったのですが、企業=悪、農家=善とは思いません。老企業の一部と族議員=悪、と思いますが(笑)
    現在、コンビニやスーパーに流通している食品を見れば分かるとおり、非常に多くの食品が多様な加工食品にされています。その加工する過程を担い、商品に責任を負うのは企業です。だからこそ、農家、すなわち「生産」の部分に企業が参入してはいけないというのは、むしろ妙な線引きだと思います。企業と農家が直接契約するほうが自然な形だと思います。このとき、農家がある団体をつくって、まとまって企業と契約するのではなく、媒体機関はあってもよいが、個々で契約したほうがいいと思います。それこそ個人の時代ですし、機械化で「むら」体制でなく家族単位で農業が出来るとい思いますから。そうすれば、大手企業はCSRのことを考えて、逆に有機栽培が増えてくるのではないかと期待します。政府に比べて、今企業が(内部告発の例を見たら分かりますけど、)透明になってきていると感じます。だから企業が参入すれば、遺伝子組み換えも、農薬だらけのものも、無農薬のも、そろぞれが自信を持って商品になって出てくると思います。

    ずれましたが、白黒つけてみました。

    生き生きと生きるためには・・・?

    まだ理解できませんが、先生の言葉覚えておこうと思います。ちなみに私なんか、自己分析とか、周囲に敏感になることや、慎重に自分の行為選択について考えてばっかです(笑)余談ですみません。

      「農協は銀行や信用金庫みたいなもんだと思っていました。」

       農協の支店へ行けば、そう思われるのが当然だと思います。

      「あまりその「むら」的体制が感じられません。」

       今日、「むら」は大きく変わりつつありますし、その変化は立地によって大きく異なります。したがって、あなたの御祖父母が暮らしておられる「むら」が、すでに「むら」的な性格を弱めているのかもしれません。しかし、あなたが「むら」にとってはあくまでもよそ人であり、「むら」の顔を見せないのかもしれません。

      「企業=悪、農家=善とは思いません。」

       この段落、私の考え方と近いと思いますが、あと3回、色々な意見が出てくることを期待しています。

      「ちなみに私なんか、自己分析とか、周囲に敏感になることや、慎重に自分の行為選択について考えてばっかです(笑)」

       私に言わせれば、きわめて「むら」的だと思います。御祖父母の田舎が「むら」的体制でないと書いておられますが、「むら」のエートスをきっちりと受け継いでおられるのではないでしょうか。

       私は、多くの若者に海外での生活を勧めるのは、日本にいてはわからない自分を縛っているものを見出す、新しい地平が開けるからです。


  21.  11月26日の授業、出席しました。

       メール、届いています。


  22.  出席しました。

       メール、届いています。


  23.  2回も送ってすいません。今朝になって第6回の出席メール抜粋を 読んでいたのですが(昨日読むべきでしたが…)、その中でどうしても 無視できない箇所があったので、送らせていただきます。 (もちろん返信はいりません。もし50番以内に入っていても、 51番目の方の返信を優先してください。先生の心にしまっていただければそれでいいです。)

     第6回出席メール、1-13の方(農業への企業の参入は良くない、という意見の方です) への先生の返信を読んで、先生が、農業と、他の工業などを 全く同じ種類のものとして考えておられるように感じました。 「企業社会を否定することなしに、農業だけには企業を認めることができない、 というのはどこかおかしいのではないでしょうか。」 というくだりが特にそうです。 この考え方には正直、賛成できません。

     農業というのは、基本的に「いのち」を生み出すものです。 (あるいは畜産のように「いのち」の一部分を利用するものもありますが。) しかも、農業によって生産されたその「いのち」は、 僕ら人間が、食べる=直接体内に取り込むわけです。 その点で、農業は、「モノ」を作る工業その他と、明らかに種類の異なる職業です。 それを全く同じように考えてしまうのは、かなり危険だと思います。

     そういう意味で、往々にして利潤追求だけに走りがちな企業の、 農業への参入を、たやすく認めてしまうことには非常に大きな不安を感じます。 僕としても、企業の参入が今の日本農業にとって非常に良い刺激になるのは 間違いないと思いますし、企業の参入なしに今の構造を変えるのは難しいとも思います。 しかし、1-13の方が書かれていたような恐ろしいことが実際に起こっているなら、 例え日本農業を変えるためであっても、無条件で企業参入を認めてはいけないと思います。

     今、日本の消費者の中で、より「安全な食材」を求める動きは確かにあります。 遺伝子組み換えでない穀物、添加物の少ない加工食品など、ナチュラルな食品を 口にしたいという傾向があるのは、個人的に、良いことだと思います。 しかし、そういう人たちでさえ、意識が高いとはまだまだ言えないでしょうし、 生産者側に虚偽記載のような不誠実なことを平気でやってのける人たちが 非常に多い現状のままでは、仮に消費者の意識が高かったとしても、 どうしようもありません。

     日本の食品関連には、不誠実な業者があまりに多いでしょう。 しかも、そういった業者が、あまり問題にされることなく、偽造や偽装を続けています。 そんな状況のまま、農業への企業参入が認められることには、 諸手を挙げて賛成することはできません。 「利益を挙げるためなら、食べた人がどうなろうと知ったことではない」 というような発想の悪徳業者は、間違いなく出てくるでしょう。 単なる虚偽記載のようなレベルならまだいいとして、もし、遺伝子操作などのような、 それを食べた人に有害かもしれない方法で利潤を追求されて、それが 分からないままになってしまったら、…それは恐ろしい状態ではないでしょうか。

     もちろん、農家であってもそのようなことをしている人は今既に大勢いるでしょうし、 極端な話、消費者にあまり気に留められていない農薬だって、人体には有害ですしね。 それに、企業の中にも、人のことを第一に考える誠実な企業も少なからずあるはずですから、 今更、それほど警戒する必要はないのかもしれません。 しかし、やはり農家とは規模が違うだけに、原材料のレベルである農業に 企業が参入する際には、細心の注意を払う必要が、あると思います。 少なくとも、監査機関か何か、信頼性を保証してくれるようなものの存在なしに 企業参入を認めてしまうのは、危険な気がします。 (もっとも、その監査機関もどうせ悪いことをするのでしょうけれど。嫌な言い方ですが。)

     とはいえ、そういう組織を作ったり、色々態勢を整えていたら、 どうしても時間がかかってしまうでしょう。 けれど、そういった下準備を待つ時間はない、 今すぐにでも参入を認めなければ日本農業は危ない、というのであっても、 参入を認めた後ででもいいから、何か対策をする必要はあると思います。 企業を野放しにするのは、絶対に危険だと思います。

     2通目にもかかわらず長くなってしまい、申し訳ありませんが、 先生にしては珍しく、農業への企業参入に対しては警戒心が薄いように思われたので こんなメールを書いた次第です。 もし先生がこんなことは言われなくても分かっているというのなら本当にすいませんが、 農業が「いのち」に関わるものなのだということは、常に心に留めていて欲しいです。

     色々と失礼な表現があったかと思いますが、どうかお許しください。 礼儀正しい文章が書けるように努力します…

       2通目のメール、ありがとうございました。

       農業への企業参入に関しては、色々な意見が出ることを期待しています。私は自分の考え方を押しつけようというつもりはありません。

       まず、私の専門分野(農学哲学)は、農業と工業の特質の違いを研究・教育することを一つの大きな任務としています。したがって、農業と工業を同じようなものとして考えたことは一度もありません。

       今や人の命を支える食を担っているのは、決して農家だとは言えません。私が指導教官をしている院生は、企業(給食産業)の部長さんですが、彼が今一生懸命取り組んでいるのは、食べ物の生産履歴(誰が作ったか、遺伝子組み換え作物かどうか、農薬・化学肥料をどれだけ使ったかなどあらゆる情報)を携帯電話で瞬時に調べることができるシステムづくりです。給食の素材・製品の安全性にそれだけ気を配っているのです。他方、農家の中にも、商品としての農産物の安全性にまったく配慮していないところもたくさんあります。

       食の安全性が保証されるかどうかは、企業か農家かの問題とは別次元の問題のように思います。農家は確かに企業形態ではありませんが、だから利益とは関係のない奉仕活動として農業生産をしているのか、といえばそうではありません。

       企業というのは経営形態の一つです。資本主義社会においては、別の経営形態をとろうが(たとえば農協や農家)、利潤を生まなければ経営を維持することはできないのです。ですから、強いて問題の焦点を探すなら、資本主義社会が是か非かという問題になってしまう、と私は考えています。そしていつも言うように、私は資本主義の礼賛者ではありません。資本主義を超えたよりよい社会を探しつづけています。


  24.  卒業研究の所用で大阪大学に行っていたため、昨日の授業は出席できませんでした。

    「このメールを出せば少しは出席点をくれるかもしれない。ダメモトで出してみよう」 という下心があるわけでは全くなく、純粋な報告として報告いたします。

       欠席メール、出席だけを知らせるメールより、ずっと高い好感度です。

       4回生で、きっと単位を気にしておられると思います(そんなメールもいただきましたね…)。諸般の事情で今年は試験ではなく、レポートにしました。前回の講義でそのことも話しました。詳細はまだ決めていませんが、現時点では、12月17日の講義で課題と要領を知らせ、最終回の講義後、メールに添付していただき、返信メールは受け取ったことを知らせるものにしたいと思っています。

       以上、取り急ぎ返信まで。


  25.  十一月ニ十六日の授業に出席しました。

     むらについては、前回よりも、よく理解できたと思います。農協については、農協というものに直接関わることがないので、あまり興味が正直ありませんでしたが、根回しの由来は楽しくきけました。

     今でも、形式に則ってむらの総代をきめているそうですが、先生のおっしゃっていた通り、拝啓とか敬具とかも、同じようなものだと聞いて、日本人は中途半端が結構好きな民族なのだなあと思いました。というのも、無駄な行為だと知りつつも、やめようとはしないからです。

     近代化にいたるまでのむらの成立の仕方や欧州での農業の近代化は、ふんふんと聞けましたが、伊勢講や氏神の話では、むらに一つときいて、八百万の神様とはよくいったもんだと感じました。私の住んでいるところはお地蔵さんさえなく、むらのイメージはとなりのトトロみたいなものだったりしましたから、氏神というものがどれほどのものかは分かりませんが、なんか羨ましくなりました。東北や西 南型については、いまでもなんとなく日常で起こってる気がしました。

      「日本人は中途半端が結構好きな民族なのだなあと思いました。」

       ノーベル文学賞受賞者大江健三郎は、日本を曖昧な国と表現しましたが、非常に的確な指摘だと思います。まさに曖昧にすることが「むら」で生きていく術だったといえます。

      「私の住んでいるところはお地蔵さんさえなく、」

       まったくの都会といえるのでしょうね…。私が京都大学のすぐ近くに住んでいますが、氏神様をまつる神社があります。明治以降に作ったものでしょうが、都会でも氏神を求める心が残っています。

       氏神を持たないところで育たれた方が、天皇制をどのように見ておられるのか、興味を感じました。


  26.  11月26日の授業に出席しました。  むら社会の話しをされましたが、個人をベースとしたネットワークが完成している現在の社会では個の確立はもはや、必ずしも美徳ではなく、秩序を乱すものになりうるのだという考えに興味を持ちました。個の確立自体は重要なのですが、その意味を現在の社会でははきちがえていることも多く、誤った認識が広まってしまっていると思います。農業におけるムラ社会のみならず、現代の教育、ビジネスの社会においても正しい認識で「個」の確立の問題を扱っていかなければならないと思います。

       「個人をベースとしたネットワークが完成している現在の社会では個の確立はもはや、必ずしも美徳ではなく、秩序を乱すものになりうるのだという考え」とありますが、私はこのようなことを言った覚えはありません。どうしてこのような理解をされたのか不思議です。


  27.  講義を聴いて日本人の「むら」社会、個を殺し和を重んじる風潮が本来の性格というよりも古くからの時代の社会構造により作られてきたことがわかりました。しかし、今の時代はそのような流れが変わり個を出していけるようになりました。私は、バブルの時代に社会人だったら楽だったのになぁなんてことを考えたりしますが、これからは自分の個を出していけるという意味で幸せなのかもしれません。先生は技術の進歩に人間がついていけてない部分があるとおっしゃいましたが(私もその一人かも)、せっかくこのこの時代に生まれたのだからそれを存分に活かして積極的に個を磨いていくべきだと思いました。

       あと、前回(第六回)出した私の出席メールが載っていなかったのですがちゃんととどいていますか。

       どのような国民の性格も、決して本来的にあったっものではなく、歴史過程で形成されてきたものだと言えると思います。日本人の性格が「むら」的でることもまた、歴史的に形成されてきたと言えますが、そうした性格、それを支えてきた社会構造が、今大きく変わろうとしています。

       この時代の転換期をどう生きるか、学生時代にしっかりと考えていくことが重要だと思います。また時代の流れにどのように対応するにしろ、デジタル技術を使いこなすことは、これからの人間にとって不可欠になるでしょうから、これを使う技術も習得する必要があるでしょう。

       さて、あなたの前回の出席メールは、私の3台のコンピュータのどれにも届いていません。コンピュータからの送信でしたら、残っているでしょうから再送してみて下さい。


  28.  11月26日の授業に出席しました。  「出る杭は打たれる」という諺は村社会を象徴するような諺ですがそれは日本人の心理としては克服しがたいものだと思います。日本人は和を重んじ、欧米人は個人主義だと言われますが、それ以外の国の人々はそのどちらにもあてはまらない、中間的な考えを持っているのでしょうか。

       国民性は、個人主義と集団主義だけで特色づけることができるほど単純ではないと思います。西欧諸国の国民性にしても個人主義という言葉でくくれるほど単純ではありません。また国民性は歴史とともに変化もしています。

       「出る杭を打つ」という日本人の性格が克服できないものだとは、私には思えませんが…。


  29. 11月26日、第7回目の講義に出席しました。

    個の確立がまったく十分ではない日本において、民主主義はうまく機能しない。 これは改めて言われると、感動ものでした。全く以って当然のことではありますが、極度に和を重んじる日本社会の中では、多数決なんてものは少しの操作で簡単に結果を変えられる決定方法ですものね。
    個の確立の実現は、時の流れに身を任せ、むらの色に染められて育つ日本人にとっては非常に難しいところではあるでしょう。ですが、導入してきている西洋的なもの捨て去る事はできない以上、この問題の解決への糸口は早急に探し当てなければなりませんね。

    ちなみに、「根回しする」という日本語の意味にぴったりと合致する英語はないようです。これこそ日本文化の賜物ですね。ま、賜物とはあまり言えない気もしますが・・・。

    講義中に、歴史は嫌いだという学生さんがいる、ということを言われていましたが、なんだか非常に残念な気がします。僕も高校で習うような歴史の勉強なんて好きではありませんが、人間というのはやはり、ぐるぐると同じところを回って歴史を繰り返す生き物でしょう。それならば、歴史から学べることはやはり沢山あると思うのですけれど。
    人間は確かに愚かです。しかし、同じところを回っているように見えても、螺旋階段のように少しずつでも上にあがっている・・・と、僕自身は希望的観測として信じているのですが。

    自分が持っている力を引き出そうと努力する事、その力をできるだけ多く使うことに生きる意味があるのではないかというお言葉、とても納得できました。それは多くの場合、自分にとって負に働く事はないでしょうし、聞こえは楽観的な言葉になってしまいますが、人生は楽しまなければ損だと僕は思いますので、環境形成基礎論ながら哲学的に楽しめる講義でした(笑)

    少し、というかかなり一貫性のないメールになってしまいましたが、今回はこの辺で失礼させていただきます。

      「一貫性のないメールになってしまいましたが、」

       確かに一貫性はないのかもしれませんが、なかなかおもしろいメールだと思います。

      「時の流れに身を任せ、むらの色に染められて育つ日本人」

       言い得て妙ですね。ちなみに、私はテレサ・テンのファンでした。この時代の転換期、自覚を持って新しい社会を作っていかないと(台湾に対するテレサ・テンの姿勢はこのようなものだったのではないでしょうか…)、日本はとんでもないところに行ってしまうような気がします。

      「「根回しする」という日本語の意味にぴったりと合致する英語はないようです。」

       そうですか。根回しは、本来、木を移植するときに行うことですから、外国にも直訳の言葉はあっても良さそうですが、会議をスムースにするために行うことを指さないのでしょうね。いや、西欧社会では会議は意見をぶつけ合う場ですから、裏工作など意味がないのかもしれません。

      「歴史は嫌いだという学生さんがいる、ということを言われていましたが、なんだか非常に残念な気がします。」

       同感です。社会的現実は歴史的なものであり、歴史的に考えずに、社会的現実を理解することは不可能なはずなのですが…。

      「同じところを回っているように見えても、螺旋階段のように少しずつでも上にあがっている」

       これも非常に的確な見方だと思います。京都学派の歴史認識は、まさにそのような見方をしていたといえるでしょう。

      「人生は楽しまなければ損だと僕は思いますので、環境形成基礎論ながら哲学的に楽しめる講義でした(笑)」

       お褒めの言葉なのでしょうか。もしそうだとするなら(そうではないかもしれないが…)、ありがとうございます。


  30.  今回の講義は引き続き「むら」社会についてでした。

     「むら」的性格を持つ日本は農業のみならず、個の確立という点でも障害があることには頷けます。むしろ、そうした障害自体に気付くことすら難しいのが日本の社会システムだと思います。これまでの日本の歩みの中で「むら」構造が人々の生活の補助となってきたことは確かです。またそれは現在の日本においても同じことです。それを全否定すること、つまり「東京砂漠」のような状態になることはないと思いますし、なったとしてもそのような社会システムは日本には合わないと思います。農業も含め、今の日本に必要な社会システムは伝統的な「むら」構造のよい部分を残しつつも、個が自立し、創意工夫が活きてくるものです。性格というものはなかなか消すことはできないのですから、その悪い部分を補うように新たな動きをつけてやればよいと思います。

       まったくその通りだと思います。

       私が「むら」構造をとりたてて強く批判するのは、それが非常に強固なものだからです。生半可の批判や傍観的態度では、とても「むら」構造に変化を与えることはできません。私の批判は、だからこその強固な批判です。もちろん「むら」構造のよいところは新しい社会の建設に生かしていかなければならなりません。


  31.  田植えで力を合わせる必要のなくなった現代、「むら」の存在を考えなおす必要があると思います。しかし完全に個人主義にするのもどうかと思います。

       田植え、灌漑排水での共同の意味の薄れた今日、「むら」における新しい人間関係が求められています。もちろん西欧流の個人主義を目指せばよいとは思っていません。


  32.  11月26日の授業出席しました。
    先週の授業、休講とは知らずに出てしまいました・・・
    もっとちゃんとメールや掲示板をチェックしておかないといけませんね。

     さて今回の授業で私が最も興味深かったのは「むら」の運営についてのお話でした。寄り合いの実態は出来レースだと先生がおっしゃったとき、私もちょうどプロ野球の新規参入を思い出していたら、直後に例に挙げていらっしゃったのでなんだか嬉しかったです。

     日本の社会は本当に根回しだらけですよね。根回しときいて思い出すことがあります。高校の予算審議会議です。この会議は各部の部費の決定をするためのものです。が、実際は生徒会の会計が各部の会計を訪ねて周り、このくらいの予算で申請してくれと頼むのです。まさに出来レース。しかし私はこれを悪いということは出来ません。この根回しによって会議の時間は大幅に短縮されますし、ほかの部といがみ合うこともなくてすむからです。これが私の中に定着している「むら」感覚なのでしょう・・・けれどもこの感覚は日本人なら誰でも持っていると思います。先生は個を確立することでこの「むら」感覚を駆逐できるようにおっしゃっていましたが、それは本当にエネルギーが必要なことだと思います。私は必ずしも欧米のような市民になる必要はないのではないかと思います。確かに「むら」社会の弊害は大きいけれどこの中で育った日本人は「むら」を完全に切り離せないし、むしろあったほうが力を発揮できる気がします。今の形ではもちろんいけないのですが・・・ 考えがなかなかまとまっていなくて、すいません。

       私は携帯電話は持っていませんが、毎日(というより自宅か研究室にいるときは絶えず)、メールチェックをしています。ネットワーク社会とは、人が、絶えず多くの他の人とネットでつながっている社会だと言えるでしょう。私は1996年にインターネットを始めたとき、人々がコンピュータでつながるネット社会の到来を予想しましたが、インターネットがつながる携帯電話の普及にまでは思いが至りませんでした。多くの若者が携帯電話でネット社会を形成している今、来年からは、PCのアドレスと携帯のアドレスの両方を聞くようにします。

       「むら」社会は「根回し」が重要な社会です。情報は万人に開かれているのではなく、仲間内で流れます。仲間から排除されると情報が回らず、生きていくことができないのです。人は仲間内からの排除(村八分)を恐れ、極力、自己主張をせず、その集団に従おうとします。しかも、その仲間内を仕切っている人間がいて、仕切ることによって利益を得ている場合も多いのです。忠臣蔵が日本人の心を揺さぶるのは、四十七士の強い忠孝心のせいもありますが、浅野内匠頭が吉良上野介に受けた「いじめ」を日本人がわがことのように感じるからではないでしょうか。

       私はこのような「むら」社会の負の側面を、新しい社会の中で解消していく必要性を強く感じているのです。

       もちろん、「むら」社会は悪い側面ばかりではありません。相互監視の社会は窮屈ではありますが、秩序の維持にはきわめて有効です。最近の想像を超える凶悪な犯罪は、相互監視の機能が社会から失われている結果だといえます。新しい、よりよい社会の実現は容易ではありません。すべての人が自覚を持って理想社会の実現に努力する必要があると思います。


  33. 11月26日の授業を受けて

    毎回のことですが、授業で紹介される質問の鋭さ、幅広い視点の提示に驚かされます。この授業は自分の考えを深める訓練にもなるし、自分の視点を広げる訓練にもなるので毎回楽しみにしています。

    今回の授業でいろいろ考えさせられたこと
    「むら」的態度がかつては、護送船団方式の高度経済成長を可能にし、和を重んじる態度としてそのプラス面が世界中の注目を集めたが、今では馴れ合いによる「個」の長所の抹殺、常に周りとあわせることをよしとする態度としてそのマイナス面により日本は国際競争で遅れをとっているとの見方があるほどです。
    日本の「むら社会」的風土は、永田町・プロ野球新規参入・教授戦などに残って折りこれは弊害である。
    国民が「個」を持っていないことが原因だ。
    以上の先生の主張に対して、思うところがありました。

    国民が各人「個」を自覚して欧米型個人主義化するのをよしとしているのか、 集団意識を根底に持ちながら局部的に「個」を自覚した行動をとる「柔らかな個人主義」をよしとしているのかどちらなのだろう。
    (先生はアツくなってましたね)

    加えて思うことには、「むら社会」的態度と個人主義的態度どちらがよいかという問題に対しては歴史が判断を下すものだと思います。両者どちらにも長短所があり、それをできるだけ客観的に捉えて自らの態度を決めるのが良いのではないでしょうか。 また、両者の長短所というものを公平に提示し、その上で現在日本の抱える問題を解決するための態度を求めるのが賢明ではないでしょうか。

    今回農業から離れて社会レベルの話をしてくれたことが良かったと思います。私の考えでは社会レベルでの先生の思想を生徒に提示した上で、農業分野を論じるのが良かったかと思います。そうすることで生徒は先生の主張の根底を(少しは)理解しやすくなるのではないか、授業の受け方も肯定的・否定的いずれにせよ、自らのスタンスを決めることができたのではないかと思います。

    おまけ
    知と地というのは同じ発音です。古来日本人は何を想ってこの二つの語を発音してきたのでしょうか?
    地に足つけて働き、同じ地面を踏む人たちと知恵を磨き知識を身につけた日本人らしい言葉だと思いました。
    「人間とのつながりの中でしか自分を磨くことはできない」先生は言いました。名言だと思います。にじみ出てきた言葉だと思います。
    その人間とのつながりが現在希薄になっていると思います。そのことは授業とはずれますが、いずれ少し話していただきたいと思っています。
    私が思うには、単なる「むら社会」的態度の崩壊の序章で、個人主義の息吹には聞こえません。
    日本の行く末を憂います。私たちがこれから出て行く社会の大嵐に危機感を募らせています。

      「毎回のことですが、授業で紹介される質問の鋭さ、幅広い視点の提示に驚かされます。」

       同感です。私大(経済学部のマスプロ教育)、単科大学(「食糧と環境」30〜50名)、京大農学部での少人数講義(「農村社会学」 15〜30名)で、出席メールを行ってきましたが、京大の全学共通科目で、これだけ素晴らしい出席メールが集まるというのは、予想を遙かに超えています。京大入学生の潜在能力の高さに、今更ながら驚いています。

      「この授業は自分の考えを深める訓練にもなるし、自分の視点を広げる訓練」

       出席メールのねらい目の一つはここにあります。しかも、学生さんだけでなく、私にとっても自らの考えを深め、視野を広げる機会を与えてくれています。

      「国民が各人「個」を自覚して欧米型個人主義化するのをよしとしているのか、 集団意識を根底に持ちながら局部的に「個」を自覚した行動をとる「柔らかな個人主義」をよしとしているのかどちらなのだろう。」

       私は、1991年夏の3ヶ月のドイツ留学で、日本と西欧(ドイツ)の違いを自覚しました。それは「個」の確立という点、言い換えれば、個人主義の成熟度での違いでした。「むら」社会の弊害をいやというほど実感していた私にとって、ドイツの個人主義はとても素晴らしく感じました。ご承知のように、ドイツ人は高い公共意識を持った国民です。そして、個人主義だからといって他人に無関心ではなく、私に対しても、確立した「個」として対応してくれます。しかし私は本当に「個」を確立させていたでしょうか。確立した「個」として対応されてみて、初めて自分自身が十分に「個」を確立させていないことに気づかされました。「むら」を批判していながら、自分自身が「むら」から抜け出せていないことを、とても恥ずかしく思いました。

       それ以降、私は「個」の確立に努めてきたつもりです。しかし、いくら努めても、私が「むら」の出であるという事実を消し去ることはできません。すなわち、日本が新しい社会システムを作っていく場合でも同じだと思います。日本人の中にある「むら」は、今後どんどん変わっていくでしょうが、「むら」から出発しているということを消し去ることはできないはずです。とするなら、「むら」のよいところを生かしながら、新しい日本的な市民社会を形成していくべきなのではないでしょうか。あなたのいわれる「柔らかい個人主義」が目指すべき方向だと考えています。

      「私の考えでは社会レベルでの先生の思想を生徒に提示した上で、農業分野を論じるのが良かったかと思います。」

       そうだと思います。私も話している中で、学生さん達がついて来られていないことを感じていました。来年度の講義の際には工夫したいと思っています。

      「人間とのつながりが現在希薄になっていると思います。 私が思うには、単なる「むら社会」的態度の崩壊の序章で、個人主義の息吹には聞こえません。 日本の行く末を憂います。私たちがこれから出て行く社会の大嵐に危機感を募らせています。」

       そうかもしれません。私も大きな危機感をいだいています。拠り所を失った人間ほど、惨めでつらいものはありません。「むら」社会が崩れ、未だ市民社会が育っていない、そのような時代を生き抜き、新しい社会を作り出していかなければならないあなた達世代は、大きな重荷を背負っているのかもしれません。

       ただ、市民社会の芽生えが見られはじめていることも間違いありません。私があなた達世代にアドバイスするとすれば、学生時代からどんどん広い社会に出て行くべきだということです。とりわけ外国での生活(旅行ではない)を経験されることを第1に推薦したいと思います。

       いずれにしても、あなた達若い世代に、心からのエールを送りたいと思います。


  34.  今回の講義では農業を通じて「個」と「集団」というものの両立の難しさを知りました。生産量を上げようとすれば個人の創意工夫を進めていけばよいが、そうすれば秩序が成り立たなくなり、日本における稲作の大前提である結などの共同作業が成り立たなくなるといった矛盾が生じるために容易には農業社会の構造を変えることができなかったことがわかりました。いまとなっては機械化や農業人口の減少などにより、「集団」というものが薄くなり、創意工夫を進めていけるようになりましたが、農業社会であった日本の社会面においては個人主義となりつつある現在でもいまだに出る杭は打たれるといった風潮があるのは残念です。共同で何かを行うという意識をもちつつ、それぞれの意見、発想を大切にしていくということのなんと難しいことか…。しかし、情報社会になり、生産者と消費者のつながりが濃くなることにより、大きな変化があったことと思います。間をつなぐ仲介者がいなくなることにより、より低価格で品物を仕入れたり、消費者のほしいものだけを手に入れられたり、生産者に消費者の生の声が届いたりとメリットがこれからも増えていくと思います。これにより、社会に基本である農業が少しでも活性化してほしいと思います。

     メール確認頑張ってください。

       「個」と集団の問題は、何も「むら」だけにあるのではありません。ただ、日本が西欧文化を取り入れることによって発展してきたにもかかわらず、その文化の根底にある個人主義の取り込みには失敗しました。というのも、「むら」と個人主義とが相反するものだったからだと思います。

       しかしグローバル化は、否応なしに、「個」の確立を求めてきます。「むら」的な人間関係とは異なる新しい人間関係で結ばれるネットワーク社会では、「個」の確立が不可欠だからです。

       新しい社会が農業にとってもよいものであって欲しいものです。


  35. 第7回の授業に出席しました。

    今まで農業、『ムラ』と聞くと、一概に古い考え方・しきたりに縛られた旧式の世界、という固定観念しか持てていませんでした。何のどこがそうなのか、という具体的なことは知らないのに、漠然としたマイナスイメージしか湧かなかったのです。

    それが今回の授業で、農村が個人のアイディア・創意工夫を生かすことが難しい社会構造であるところに、その問題 の根源の一つがあることがわかりました。そういえば、時々テレビで取り上げられる農業に成功してらっしゃる方々の例は、集団で農業を行っている人のケースではなく、一夫婦などの個人が『ムラ』という共同体には属さずに、自分達でアイディアを出し合って、工夫を凝らして農業経営を行っているケースが多かったようにも思います。また最近では、「○○さんの個人農家と契約して仕入れた野菜です」というのが、あたかもブランド野菜のお墨付きを得ているような感覚をもたらしているところからも、こだわりをもって作物作りを行える個人経営に脚光が集まっていると言えるかもしれません。これは何も集団農業には一切のこだわりも工夫も無い、と言っているのではないですが、先生もおっしゃったように、ムラのみんなの足並みを揃えて・・・と周りで一致する事だけに捉われていたら、生かされるべきアイディアも生かされないままに終わってしまうのでしょう。

    あと、これは私個人の意見なんですが、農業に「個」が発揮されない、毎年が紋切り型で錆び付きそうだということの原因には農業従事者の高齢化も挙げられるような気がします。うちの祖父母も農業を営んでいますが、今市場でどんな物が求められているのかなど知ろうとすることもありませんし、この作物が品薄になる頃に収穫時期を合わせれば大きな収益になる、といった経営戦略にも興味がありません。ただ、毎年同じ時期に同じものを作り、周りのお年寄り農家もそんな按配だから、みなでひとつのものを多量に出荷している、といった状態です。確かに、歳を取ってからそのような新しい農法、経営戦略などを勉強し、実践することは今の世の中易しくないのかもしれません。だからこそ、若い人の斬新な知識がもっともっと農村に介入して反映されるようなシステムができると良いと思います。そうすれば、農家の人々にも利潤がもたらされるとともに、日本の農業にも明るい兆しが見えるのではないでしょうか。

    来週の授業も楽しみにしています。今日はこの辺りで・・・

       今日、農業に意欲的な農民は、農協を離脱し、「むら」とも距離を置きながら創意工夫に励んでいる人が多いことは事実です。もちろん、地域全体で農業を活性化させ、それに農協が大きな役割を果たしているところもあります。私がよく引き合いに出す淡路島なども、その一つの例といえると思います。しかし資本主義社会を前提とする限り、一つの組織体として動けることが不可欠です。淡路島でも、明石海峡大橋ができたことにより神戸・大阪とより近くなり、後継者難が生じ始めています。若者はやはり「むら」の濃密な人間関係を嫌っているのかもしれません。そうなると、地域全体でという形は崩れざるを得なくなるのです。

       農村の高齢化は、こうした流れの結果です。高齢社会だから発展性がないのではなく、発展性がなかったから高齢化が進んだと考える方が妥当なのではないでしょうか。


  36. 第7回の講義に出席しました。

    私の実家は専業農家をしており、川から水を引いているのですが、聞いてみたところ、たまにある部落の集会でも川の水の話は出ないそうです。水を引く必要があっても、場所的に水が豊富なので、「適当に引いている」そうです。特に力を持っているようなリーダー格の人もいないそうで、我ながら平和なところだと思います。

    ITと農家を結び付けて考えることはなかったのですが、意外と思い当たることもありました。最近はインターネットで野菜を買うこともできますが、どうやら多くは農家と直接契約しているようで、生産者の個人名や顔写真を載せてあったりします。こういった企業の仲介はもう始まっていますから、企業の農業参入も時間の問題でしょう。

    第6回の出席メールにもあったように、企業の参入によって新たな問題が生まれるのは間違いないと思います。しかし現状にも問題はあるのだし、企業の参入なしには日本では農業が盛り返しはしないそうなので、参入後に起きうる問題について考えていかなくてはならないと思いました。参入でどのような問題が生まれ得るかは海外の例から予想できるだろうし、企業参入を前提とした法整備を進める必要があると思うのですが・・・。

    授業の評価がテストではなくレポートになったのは残念です。小・中・高校と、作文の宿題はほとんど出していないというほど文章を書くのが苦手なので・・・。
    できれば2回生になる前に、これも訓練だと割り切れるようになりたいです。

    自分も携帯電話は大学に入ってはじめて手にしたのですが、もう手放せません。それまでは、携帯がないと生きていけないと言っている人々を鼻で笑っていたのですが・・・。自分はそうなるまいと思ってはいたにも関わらず、失敗しました。どうやら依存性があるようです。

       河川灌漑で水が豊富であれば、水利用も楽で、「むら」の縛りも緩くなるのでしょう。13万余の「むら」は、その置かれた条件も違えば、歴史過程も異なっており、それがそれぞれの「むら」の個性を生み出しています。あなたの実家のある「むら」は、条件がよく、あなたがいわれるように平和なのだと思います。

       農家が農産物を農協通しでなくても売ることができる。しかも少量でも可能だとなると、大きな変化が起きてきます。インターネットや宅配便の普及は、この点でも社会のあり方を変えると言えるでしょう。

       農業の企業進出については、まだまだ色々な意見が出てくるのを期待しています。

       レポートは今年だけの措置のつもりですが、試験であっても7割が論文形式の問題のつもりでしたから、文章を書く力は必要でした。この出席メールを見る限り、書くのが苦手とは思えませんが、文章力は磨いておくことにこしたことはありません。

       携帯電話、一度持てば手放せないでしょうね。私はもともと機械音痴ですが、今となってはコンピュータなしでは生きていくことができない感じです。人間は歴史を後戻りすることはできません。よりよい未来のために、前進しましょう。


  37.  毎回実家のネタで恐縮ですが…(苦笑)今年の和歌山のミカンの出荷量が愛媛を抑えて日本一になるそうです。愛媛は35年振りに首位陥落だそうですが、やはり度々の台風の影響が大きいようです。和歌山は幸運にも大した被害もなく済みましたが、そうでない地域もあることを考えると手放しで喜べないような気もします…この連休に実家に帰り、19年目にして初めてミカンの収穫を手伝いました!要領も悪く大して戦力になっていない気もしましたが、両親は非常に喜んでくれていました。少しでも親の負担を軽くしてあげられるよう、これからもできることから手伝っていきたいと思います。

       ミカンの収穫を手伝われたということ、非常によいことだと思います。ご両親の負担軽減という心がけも見上げたものですが、自分が生まれ育った環境を自覚するということは、「個」の確立の出発点だと思います。今後も学生時代、自分を磨くためにも、実家の農業の手伝いを積極的にして下さい。


  38. 今回の授業で「むら」のことがかなりわかったような気がします。
    農業という視点から様々な歴史が明らかになるということがわかりました。
    大学入試では世界史で受験したので、内容がわかりやすかったです。


       有史以来の人間の歴史、そのほとんどが農業社会の歴史です。歴史を理解しようとすれば、農業の視点が非常に重要となります。今後も歴史に関心を持ちつづけて下さい。


  39.  前回に引き続き「むら」についての講義だったわけですが、よくわからなかったのが、土地所有の論理に関しての上部構造と下部構造のかかわりなのですが、この上部構造というのはヒエラルキーの最もトップから始まるのですか?下部構造は「むら」全体ということになるのでしょうか?とすると、年貢を科すのが上部構造で収めるのが下部構造ということになるのでしょうか?

     「むら」社会についてですが、直接統治が徹底された社会だったように感じました。決議方法の全員一致システムについてですが、リーダーが根回ししてたということになると、結局はリーダーの意見になった、ということはないのでしょうか。

     今までの「むら」のシステムが脅かされるようになったようですが、これについてはぼくの知識ではいいことなのか悪いことなのか判断し切れません。ただし、仮に僕が「むら」で産まれたとしたら、やはり自分の道は自分で決めたいと思うし、農家を必ずしも継ぐというわけではないと思います。まぁ、それは僕が現代に生きているからだと思いますが。

     自分のやりたいことが出来る環境、社会を作ることは重要だと思うし、その上で農業をやりたいという人に対してはなるだけ簡単に参入できるシステムが必要だと思います。

       第1段落、書かれているとおりです。表現がよいかどうかは別として、上部構造は支配者(領主)の政治機構のことであり、ヒエラルキー構造になっています。下部構造となっているのは「むら」であり、「むら」の中はフラットな人間関係ということになります。そして上部構造に属する領主が、下部構造をなす「むら」に年貢を課します。

       「むら」の意見は結局はリーダーの意見になる、という側面はあると思います。しかし本来、リーダーは「むら」人に不満を募らせてはならないわけですから、強引なことをできるわけではないと思います。

      仮に僕が「むら」で産まれたとしたら、やはり自分の道は自分で決めたいと思うし、農家を必ずしも継ぐというわけではないと思います。

       農家の子弟の感覚は、都会に生まれ育ったものにはなかなかわからないところがあります。もしあなたが「むら」に生まれ・育たれたのであれば、その環境や教育によって、別な感覚を身につけられていたかもしれません。

       農業をやりたいのに、農家の子弟に生まれなかったからやれない、という状態は明らかにおかしなことだと思います。農業への新規参入がしやすくなるよう、制度を整えていかなければ習いません。


  40.  出席メールです。先々週の講義に出ていなかったので、少し分かりにくい部分がありました。友達に聞くなどして、追いつくようにします。

     社会と農業はとても深い結びつきがあるのですね。人間の最も根幹にある営為が“食”なのだから、考えてみれば当たり前のことなのですが。講義を拝聴していると、随分その根幹に関わる産業が軽視されているように感じます。

       講義というものは、1回でも抜けると脈絡がわからなくなるものです。しかし講義ノートが私のHPに掲載されていますので、それで脈絡をつかんで下さい。経済発展は、産業に占める農業の比率を縮小しますが、人間の生にとって、農業の意味は計り知れないほど大きく、いつの時代にも農業を尊重していく態度が必要だと思います。


  41. 11月26日の講義に出席しました。

    日本のむらの仕組みが階層的なものだと知って驚きました。僕が思っていたのは、村の全員(といっても男ですが)が集まって物事を決めるのが村で、そういった組織しかないものと思っていたら、組、講といった下部組織が存在して、集団の集合体としてのむらを形作っていたんですね。なんか、階層的なところといい、個人の考えが無視されてしまうところといい、官僚機構に似たものが感じられます。これが日本の「むら構造」なのでしょうか?

    日本で求められるリーダーが「根回しのできる人・意見の調整ができる人」であるというのは、欧米のリーダーとかなり違うと感じられました。欧米のリーダーというものは、アメリカの大統領のようなものがその典型で、「意見をまとめる人」ではあっても、それは公正な議論、多数決でもって集団の意思を決定し、その集団を引っ張っていく人だと思います。

    これはやはり、日本人が、どうしても周りの人間を意識して、周りの人間に合わせようとする考え方を持つのに対して、欧米人は自分の意見を持つことこそが大切で、それが周りの人間と対立していようと関係ない、という考え方をもつからでしょうし、その根底には、先生がおっしゃっていた農業の近代化の過程で個の確立が進んだ欧米とむらから脱却できなかった日本、というものがあると感じられました。

    次回からはいよいよ講義内容の核心に迫っていくということで、楽しみにしています。

       「「むら」の仕組みが階層的」というのは誤解だと思います。封建制時代、支配者の機構(上部構造)は階層的で、支配される側(下部構造)である「むら」の機構はフラットなものでした。ところが、資本主義経済の荒波の中で、農民にも階層分化が起こりました。とりわけ生産力の低い東日本ではその傾向が大きく、それに合わせて階層構造を持った「むら」(同族結合村落と呼ばれる)が出現したのです。しかし全体的に見れば、近代以降も「むら」を特徴づけるものは「共同と平等」だったといってよいと思います。

       「むら」には非常に多くの様々な集団があり、「むら」はそうした集団の累積体と理解できます。しかも「むら」を構成しているものは、個人ではなく農家という集団なのです。そうした集団の中で、「個」の強調は決して美徳とではなく、自分を殺して集団を生かすことが求められていたと言えます。

       日本においてこれまで必要だったリーダーの資質は、「むらおさ」と同じく、調整役の資質だったと思います。現在もなお、日本の様々な組織でこの型の長が幅をきかせています。小泉首相は、ある意味、この型には属さない長かもしれません。しかし組織される側が変わっていないのに、長だけが変わっても、混乱が生じるだけだというのも事実でしょう。今日の日本の混乱は、このようなところにも原因があるのかもしれません。

       また、長には大きな権限が与えられますが、調整に徹しておれば問題が起こらないところ、時代の転換期、自己の利益に動く、理念を持たないリーダーが出現(「個」が磨かれていないため)、不祥事が多発しているのも現在の状況かもしれません。

      「欧米人は自分の意見を持つことこそが大切で、それが周りの人間と対立していようと関係ない、」

       これは個人主義の誤解なのではないでしょうか。私は個人主義の国のモデルをアメリカではなく、いつもドイツにおいていますが、ドイツ人に「周りの人間と対立していようと関係ない」という傾向はないと思っています。さもなければ、環境先進国ドイツの、あの高い公共性は出てこないのではないでしょうか。


  42. 12月26日の講義に出席しました。
     「むら」社会について今日も扱われていましたが、例えば町内会長 の地位などを、わざと何回も辞退してやりやすくするというような ところが、本当に日本的な行動だなとかんじ、面白かったです。 この例もそうですが、ホンネと建前を使い分けるというのが日本の 「むら」社会を大きく特徴付けていると思います。
     この場合、町内会長を引き受けてくれるように頼んでいる相手も、 断っているのはいちおう建前だということを知っているわけで、 全員が建前だと分かっていながらおたがいにその建前的行動 をとりあうわけで、それが出来ない人は白い目で見られるんだとおもいます。
     しかしグローバルな場では、むしろホンネをどんどん主張していかないほうが 見下されるわけで、日本社会のエリートということが出来る政治家や官僚も このような「むら」の原理で行動していると考えるとこころもとないです。

       人間は、いかに集団主義が強力に支配している中で生きているとしても、本来、「個」的なものです。そして、社会の中で「個」を殺さなければならない程度が大きくなればなるほど、本音と建て前はますます乖離していきます。日本で本音と建て前の使い分けが問題になるのは、やはり日本社会を「むら」の論理が覆っているからだと言えるはずです。

       おっしゃるとおり、狭い社会の中では本音の部分は、いわなくてもわかっている(以心伝心)のであり、それがわからない人は、その集団には入れないのです。それは日本全体にも拡張できます。天皇が日本の成立・統合のシンボルとしての神(日本の氏神)だ、という共通感覚を持たない外国人は、日本という集団から排除されるのです。日本が排他的な国であるとされる理由です。しかし、日本の現代の若者に、天皇が日本の氏神だということが理解できるでしょうか。何よりも氏神そのものが身近のものでない世代にとって、「むら」社会とは異なる新しい社会システムの構築が急務だ、と私は思っています。


  43.  IT技術の発達によって、単なる一個人が政府や大企業と同等の立場で情報を発信することができるようになったことは、個々人の個性を確保できる一員となっていくと思う。そしてそのことが、環境問題に対しても、まわりと同じ行動を何となくしてしまうのでなく、一つ距離をとって冷静に考えていくことができるのではないだろうか。

      「まわりと同じ行動を何となくしてしまうのでなく、一つ距離をとって冷静に考えていく」

       「むら」社会とは異なる新しい社会においては、冷静に考えることが必要ないとはいいませんが、何よりもそれぞれが責任ある「個」として行動していくことが重要となる、と考えています。


  44.  11月26日
    第7回の授業に出席しました。

    前回の授業ではいまいち理解していなかった「むら」について よくわかったつもりです。またこの話を聞いて感じたことはそ の土地にある文化・風習をしっかりと理解することがまずはじ めに重要だということです。僕は将来的に農村開発などといっ た分野に関わって行きたいと思っているのですがその上でその 土地を知ることがまず重要だと再認識しました。日本の「むら 」社会の構造を知らずには日本に今何が必要なのか、何をすれ ばこれから持続的な農業が続いていくのかを考えることは出来 ないでしょう。

    講義の中でも指摘されていましたが、IT化社会がもたらす影 響をこの「むら」社会にへと当てはめそのうえでのこれからを 読むことが日本の農業に必要になってくるのだと思います。た だ、僕自身は結局IT化がどんなにもたらされようとも人の生 活の基盤は地域でありその中での自給的な生活システムが必要 だと思う。

      「日本の「むら 」社会の構造を知らずには日本に今何が必要なのか、何をすれ ばこれから持続的な農業が続いていくのかを考えることは出来 ないでしょう。」

       その通りです。日本社会の「むら」構造、さらに地域に入ったときには、「むら」の個性を知らずに、外から理念とハードだけを押しつけても、決してその開発は成功しません。それは発展途上国を対象としたときも同じです。

      「僕自身は結局IT化がどんなにもたらされようとも人の生 活の基盤は地域でありその中での自給的な生活システムが必要 だと思う。」

       これも、その通りだと思います。日本農業にとっても、日本全体にとっても、地域の活性化が行く末を決するでしょう。その際、地域を活性化させるのは、上からの動きではなく、内発的な動き、個々人の主体的行動と、それを統合して加算以上の力とする組織化だと思います。


  45.  七回目の講義聞かせてもらいました。

     日本のムラ社会についてのお話でしたね。そこで、農業ではなくてムラ社会についてなんですが、そのような閉鎖的な社会を作っているのは日本だけなんでしょうか?最初の方の講義の資料によると、日本が他国よりも輸入に頼りすぎていると出ていました。じゃあ、他国はムラ社会を作っておらず日本だけがそのような構造なんでしょうか?そのことが日本の農業生産性の低さに関係していると思います。

       ケアンズ諸国(農産物輸出大国)は、アメリカ、カナダ、オーストリアなど、歴史の浅い国であり、「むら」社会ではありません。農業においては農場制をとっています。ただ、「むら」社会と農業生産性の低さの間に、間接的ならともかく、直接的な因果関係を与えるのは、少し無理があるような気がします。


  46.  最初むら構造と聞いたときは村落社会の閉鎖性のことだと思いましたが、講義を聞くことで村落だけではなく日本社会全体に浸透している性質であるということがわかりました。外部との接触があまりなかった頃はそれでもよかったかもしれませんが、今の社会においてはその概念は適合していないと思います。根回しをすることで全会一致になったとしても、それは形だけの合意にすぎないのであって、真の合意とは言えません。やはり情報を公開することで外部の目にさらされることが、むら構造を解消していくうえで有効ではないかと思います。

       情報公開が「むら」社会に反するものであることは間違いありません。日本で情報公開が進まないのは、まだまだ社会全体を「むら」の論理が覆っているからだと思います。「むら」社会を変えていくのは、上からの動きではありません。今の日本を動かしている人たちは、今の体制に既得権益を得ている人たちです。自分たちに不利になるような改革をするはずはありません。国民の自覚と行動が求められています。


  47. 環境形成基礎論第七回出席メールを送ります.

    講義で話に上った,日本社会が「むら」構造から徐々に脱しつつある,というのは実際よく感じることでした.政治の場や,企業や学校などはかなり変わってきていると思います.単純に数の増加もあるとは思いますが,昔は見過ごされていた不祥事が,今は表面化するようになったと思います.今後は問題を無くしていく方向に向かっていってほしいです.

    ただ,今更ながら,それらに見られた弊害を全て「むら」構造に還元できるものなのか,とか,そもそも本当に「むら」構造であったのかという疑問も浮かびました.「むら」構造という概念が定義上,一般的に他の組織に応用可能なのかということを先ず確かめる必要があるかと思います.政治の問題にしろ,企業の内部告発の問題にしろ,倫理的な問題と言ってしまえば,むしろ教育とか社会規範の問題へと転化してしまうでしょう.もちろん「むら」構造という切り口も十分に面白い見方であると思います.

    いずれにせよ,まだまだ一部にすぎませんが,日本の社会がこれまでの悪習から抜けだし,少しづつ良い方向へ変わりつつあるのは喜ばしいことです.

       確かに、最近、昔なら公にならずに隠されたであろう不祥事が、表に出るようになってきました。それは「むら」社会が、一見、平和な社会に見えても、非常に多くの問題が潜んだ社会であることを表していると言えます。しかし問題が表面化するだけでは、問題解決にはなりません。新しい社会システムが構築されなくてはならないのです。新しい社会形成の担い手として、私はあなた方若い世代に大いに期待しているのです。

       日本社会を「むら」構造という切り口から捉える私の見方に関しては、もちろんこれは一つの見方に過ぎません。しかし倫理的な問題という捉え方は、個人を前提としたものであり、その前になぜ日本に個人意識が育ってこなかったのかが問われなくてはなりません。日本に個人主義が育たなかったのは(いうまでもなく個人主義は利己主義と似て非なるものです)、日本社会が「むら」の論理で動いてきたからだと私は考えています。


  48.  11月26日の授業出席しました。

       先生の授業、いつも楽しく聞かせていただいています。最近は、先生の体調が回復されるのが遅く思えて大変心配です。咳き込む事も多いようですし、どうぞ無理せずに頑張って下さい。

       お見舞いのお言葉、ありがとうございます。私はアレルギー体質で、風邪を引き金に半年くらい咳が止まらなくなることがあります。昨日、病院で喘息一歩手前の状態、といわれました。


  49.  今回の講義を聞き、輪作など、高校の時の地理を思い出しました。ヨーロッパと日本の農業体制の変化の分かれ目のひとつが、作物に因っていたということは、とても興味深かったです。

     村落共同体からの脱却によって、大きく発展するということは、よく考えると当たり前のことだと思った。それは、共同で農業を営むことは「全員でがんばる」というと響きはいいかもしれないけれど、その実態は個人が自由な発想をどんどんして、試したりすることが出来ない、決められた「枠」の中にいるようなものだからである。しかも、自分がやらなくても誰かがやるだろうといった考えになりやすいのだと思う。これは、生産責任制以前の中国の農業・経済があまり発展してないことからもよくわかると思う。

     個人が自由に経営するという考え方は、大きく見ると資本主義のようである。それがベストとは言えないけれど、現時点で世界的に資本主義の国の方が金銭面では豊かであることを考えれば、やはりそちらの方が良いのかもしれない。

    話があまり関係の無い方向にいってしまったけど、結局農業も、どんどん色々なことを試して、試行錯誤しながら発展していって欲しいと思う。そして、たとえば講義で話が出たIT革命のような環境の変化に、上手く適応できたものが生き残っていく、生物の自然選択のような形式で、「つよい」農業になっていくと良いと思った。

       共同社会では生産性が上がらないということは、冷戦終結後、はっきりとしたと言えるでしょう。もちろん生産力主義の是非を考える必要はありますが、貧困が望ましいわけはなく、未だ貧困に苦しむところが世界にはたくさんあるのですから、生産性が低くてよいとはなかなか主張できません。

       とするなら、「個」を重視する社会でありながら、「個」が協力・強調しあえる社会を構想していかなければならないでしょう。

       そのような新しい、よりよい社会を、とりわけ若い世代を中心に、国民全体で作っていく必要があると思います。


  50.  第七回の講義に出席しました。

     経済学部生の自分としては「むら」の運営についての話、特に財政面の話を興味深く聞かせていただきました。

       どのような組織でも、財政がもっと重要な問題になります。農村の「むら」とて同じです。


  51. 11月26日の授業に出席しました。

    「日本は『むら』が成立すると氏神を作り、日本統合の象徴が天皇」というのを聞いて今まで疑問に思っていたことが理解できるようになった気がします。なぜ戦後随分経った今でも天皇一族には「様」をつけるのか、天皇に子供ができただとかいうニュースを何回も繰り返して放送するのか、そんなに天皇は偉い存在なのか……どうして日本人はこんなに天皇を尊敬できるのか……。日本という「むら」で暮らす日本人にとって天皇は「神」だったのですね。

    しかしその「むら」ももう崩壊しかかっているのかもしれません。なぜなら私は天皇を神だなんて思っていないし(うちの家系にほとんど農家がないからかもしれませんが)、そして、この世代では私のような人も多いような気がするからです。私はこの崩壊によって個人の潜在能力を最大限に発揮できるような日本なればいいと思います。

       曖昧にされていますが、天皇は日本の氏神です。だから国民でないのです。「むら」においても氏神は象徴であり、鎮守の森の社の中にあるのはせいぜい鏡や刀で、棒きれであってもおかしくありません。それはまさに象徴であり、実体が何であってもよいのです。日本人の精神構造に「むら」が根付いている限り、矛盾はあってもこの形はつづいていくでしょう。

       しかしあなたが感じられているように、「むら」が崩れかけている今日、このような形に疑問を感じる若者が増えてくると思います。しかしこの形を変えるのは、日本社会に「個」の確立を根付かせる以上に難しいかもしれません。

       天皇制については、昨年の農村社会学の出席メール(7回目以降)(http://www.eiche.kais.kyoto-u.ac.jp/V_03_H_RS.html)で受講生と議論をしていますので、もし興味があるようでしたら、参考にして下さい。


  52.  11月26日の授業に出席しました。

     未だに日本に根強く、護送船団方式や村の論理が残っているのは、歴史性を有していることが原因だと痛感しました。江戸時代以前あたりから日本で領主的土地所有が始まり、江戸幕府によって強化されました。村では、領主にきちんと年貢を納める代わりにある程度の自治が認められました。しかし、生活が苦しいことには変わりなく、村の中では「共同」「平等」が重要視されました。その中ではぐくまれた精神は、土地の近代的所有化や階層分化の荒波を切り抜け、現在の護送船団方式や前例主義などにつながっていったのだと思います。 次の授業を楽しみにしています。

        私のしゃべったことを簡潔にまとめていただいています。これを土台にさらに自らの考え方を深めていって下さい。


  53.  第七回講義に出席しました。

    第七回の講義で最も興味深かったのは「根回し」の話かなと思いました。 根回しと聞くと一般的には悪いイメージしか持たないのですが、 民主主義に最も大事なのは根回しだ!と聞くと、うーーんそんなもんなの かなぁ・・・と妙に納得してしまいました。A群の授業ってそういういろんな教 授のいろんな意見が聞けるからいいですね。化学科では専門的な知識 を詰め込まれるだけで、人間としてためになる話がほとんど聞けないので、 やっぱA群の授業は必要だなと感じました。講義とまったく関係なくてすみ ません。。

    あと、講義の中で、農村の歴史については講義内容と関係ないので省略 して先の話に進んでくれーという要望があったと聞きましたが、僕としては 農村が今までにたどってきた歴史というのは短く省略してはいけない部分 じゃないのかなと感じました。今の農村があるのは昔の農村があるからであ って、これからの農村を考えるのに今までの農村の変遷について知らないよ うでは、これから農村がどう変わっていくのかを考える資格もないんじゃない のか、と感じました。もちろん過去を知ったところで直ちに未来が予想できる わけではないですが・・・
    以上、単なる歴史好きの意見でした。聞き流してください。

    では出席メールはこのあたりで終わります。

       根回しは、「むら」社会に特徴的なもので、民主主義と根回しは相反するものといえます。日本社会には真の民主主義が根付いておらず、「むら」の論理が生きているため根回しが重要なのです。時代の大きな変化の中で、新しい社会システムを作っていかなければなりませんが、それがどのようなものなのかしっかりと考えていかなければなりません。

       歴史の重要性を理解していただき、うれしく思います。理系の皆さんには、なかなか歴史の重要性が理解してもらえませんので勇気づけられました。


  54.  11/26の講義に参加しました。

     先生は「みんな歴史的なことばかり話していても面白くないだろう」とおっしゃっていましたが、私はむしろ歴史的な話を聞くほうが好きです。三圃式農業から輸栽式農業に変遷する過程や、輸栽式農業に変わってから生じてきた問題点などを聞くのは本当にためになり私にとっては興味ある話題でした。 ほかにも書きたいことは山ほどありますが、今からバイトに駆けつけなくてはならないのでここで終了します。講義ありがとうございました。歴史的な話題大歓迎です!

        歴史的な話に対するご理解、ありがとうございます。次回は農協の話しをしますが、この際にも歴史的な話は避けて通れません。社会的現実が歴史的現実なのだということを、多くの方々にわかっていただきたいと思います。


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作成日:2004年12月01日
修正日:2004年12月01日
制作者:柏 久