第6回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」〜矛盾をはらんだ創造

2016年10月17日(月)

パネリスト:高橋 剣氏(東映株式会社 京都撮影所制作部次長)(以降敬称略、高橋)
北野 貴章氏(株式会社テレビ朝日 「しくじり先生」チーフディレクター)(以降敬称略、北野)
山極 壽一氏(京都大学総長)(以降敬称略、山極)
富田 直秀氏(京都大学工学研究科教授)(以降敬称略、富田)
司会:土佐 尚子氏(高等教育研究開発推進センター教授)(以降敬称略、土佐)
司会挨拶:伊勢 武史氏(京都大学フィールド科学教育研究センター准教授)(以降敬称略、伊勢)

伊勢

それではみなさんお待たせいたしました。第六回京大おもろトークを開始したいと思います。本日司会をおおせつかります私は、京都大学フィールド科学教育研究センター、伊勢武史と申します

伊勢

僕の本職は生物学者なんですけども、人間の持つ芸術性とか創造性とかそういうことに興味を持っておりまして、このおもろトークの運営に携わらせて頂いております。本日のテーマは「矛盾をはらんだ創造」となっています。矛盾をはらんでいるというのは人間の本質の一部というような気持ちがしています。一見合理的ではないような想像に突き動かされて私たちは行動することがあります。その結果予期しないようなものが生まれてしまっている。それは良かったり悪かったりすることがあります。こうやって人間の社会や文明は発展してきたんじゃないかなという風に思ったりもします。
本日のゲストは、映画やテレビの世界からお二方、そして京大工学部からお一方です。まずは皆さんに20分ずつお話をいただきたいと思います。その後休憩も挟みまして、ディスカッションでは京大ならではの切り口で、「おもろい」話をしていただきたいと思います。ただ「おもろい」だけでは無くって、皆さん、参加者の皆さん自身が何かを考えるヒントになれば大変嬉しいです。ディスカッションの際に、聴衆の皆さんからいただきましたご意見とかご質問もぜひ紹介したいと思います。お手元の質問表にご記入いただきまして、それを前半のお三方のお話について質問票をご記入いただきましたら、会場周辺に設置してあります質問箱に入れていただきたいと思います。休憩時間にでもぜひ入れて頂いて、それを回収しまして、後半のディスカッションにお読みしたいという風に思っています。
本日はロビーで京大ゆかりの方々の展示をしております。一組はヨシュア・バイツェルさんと永井千恵さんの即興演奏ですね。この演奏自体、一体何やってるんだろうかと疑問に思われた方もあると思います。この演奏自体が矛盾に満ちている気もしますけども、よくよく聞いていると何か訴えかけてくるものがあると思うんですね。でもう一組は実は私、伊勢武史の展示をしておりまして、生物学者なりに、人間の感覚とか芸術とかどうアプローチしたら良いのかということで、手軽な脳波計の実演と展示をしております。何でこれが芸術とつながるんだろうか、よかったら会場のポスターなどご覧になって頂きたいと思います。途中の休憩時間にご覧いただきたいと思います。
それでは前置きはこのぐらいにいたしまして、まずは京都大学総長の山極壽一先生にはじめのご挨拶をいただきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

山極

どうも、みなさん、ようこそいらっしゃいました。「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」、今日で第六回目を迎えました。もうネタはないだろうと思ってましたが、なんと、「矛盾をはらんだ創造」という題をつけていまして、京都大学は皆さんご存知の通り、創造力を涵養する自由な学風というので、世界に挑戦してきました。

山極

創造力、というのを前面に出すんですけども、最近アジアやあるいはアフリカやヨーロッパの大学を巡るとですね、京都大学はイノベーションをどうやって創出してるのですか、と聞かれるわけですよ。そんな簡単にはいかないでしょうと。イノベーションイノベーションとすぐ出てくるものやありませんわ。ものすごく長い時間をかけて、色んな人たちが、あほなことも含めて、色んなことを考えて、それを対話するからこそ、何か新しいアイデアが出てきて。それが、いつの頃か、製品に結びついて。でイノベーションとしてもてはやされる。だから製品を作ろうと思って始めから何かやってたらイノベーションと呼ばれませんよ、ということは私、言わせていただいてるんですけども、じゃあ創造力ってなんやといったら、私は、ある意味「気づき」だと思うんですね。「なんかに気づくこと」。これまでの常識の世界をちょっと打ち破るような気づきがある。で、私も別に、その矛盾にはらんだ人生を送ってきたわけじゃありませんけれども、ゴリラの研究をする中で、えっ?と思ったことは何度もあります。

山極

その一つをご紹介しますと、私は最初にゴリラの研究を始めた頃にですね、6頭のゴリラの群れを観察してたんです。それもね、1頭は雌、と言われてました。若い雌、6歳の雌です。ちょうど、雌らしい体つきになったころの若い雌。これがすごく魅力的だったんですね。で、その周りに5頭の雄が来て、この雌を争って、絶えずフウフウ言っとったわけです。こらーもう、この雌が発情したらえらいことになるなぁと思ってたんですが、ある時から、この雌が発情し始めまして、雄が先を争って、交尾をしようとし始めました。で、そのうちの1頭の雄と、実際に交尾をしてですね、お、これやと、その雌がこのグループの魅力的なコアになったんだなあと私は思ってたんですよ。
それから三ヵ月くらいたったころにですね、ある昼下がり、陽だまりの中に、その雌、これパティと名前の付けた雌なんですけど、その雌が寝転がってたらですね、私もふとそのそばにいて、涼んでいますと、その雌が両股を上げて、開いてですね、私にこう何か見せてくれたんですよ。お?珍しいな、と思って、ふっとのぞき込むと、その真ん中になにやら、変なものがあるわけですわ。なんとそれは雄のあれだったわけですね。え?おまえ、雄やったんかい!これはね、ほんとに大きな気づきの瞬間でございました。このグループが、雌1頭と雄5頭からできてるんやなくて全部、雄やったわけですね。しかも、交尾だと思っていたのは、そうではなく雄どうしの戯れ事だったわけです。そっから、まったく世界が変わりました。色が変わりました。
そのことを詳しく申し上げてく時間はございませんので、私の気づきっていうのを、そんときね、やはり大きな矛盾を感じたわけですよ。なぜ、雄同士の間で、私が見間違えるほど交尾にそっくりな行動が出てきたのか。これはもう一つの矛盾ですね。でその矛盾に突き当たった時に、私にこう、違うシナリオが生まれてきた。これは時間かかったんですけどね。そういうことがなければ多分、科学って面白くないし、あるいは、自然の中で、一生懸命努力しながら、汗と泥にまみれて観察をしてるっていうことも面白くないんですよ。こういうことがあるから面白い。で、その面白さが、何かにつながる。それはアートの世界でもそうでしょう。自然科学の世界だけではない。アートの世界ってもっともっと驚きに、気づきに満ちてるものだと思います。それが、矛盾という今日のテーマにどう引っかかってくるのか、大変楽しみにしています。3人の今日の発表者が何を矛盾として出していただけるのか。是非、お楽しみいただき、何か新しいことを発見していただければと思っております。
どうも、それじゃあ、これで私の挨拶を終わります。

伊勢

はい、どうもありがとうございました。早速矛盾に満ちたご挨拶をいただきまして、期待が高まっております。それでは早速お一人目のお話をお聞きしたいと思います。東映株式会社京都撮影所制作部次長の高橋剣さんです。本当にみんな知っている、「暴れん坊将軍」とか「遠山の金さん」とか「極道の妻(おんな)たち」とか、そういった制作に関わってこられたそうです。本当に、お話をお聞きするのを楽しみにしておりました。それではどうぞよろしくお願いいたします。

高橋

皆さんこんばんは。東映の高橋と申します。今日はよろしくお願い致します。それではですね、僕がこのキャスティングする時点でだいぶ矛盾が多いなあというのがあるはあるんですけれども、それはともかくとして、自分のことからちょっと、お話させていただきますとですね、書いておきました。
もう大体会社入って大体およそ30年ぐらいになるんですが、「暴れん坊将軍」とか、会社入って頭の15年ぐらいは大体、こういった時代劇を作るもしくはやくざ映画を作るオペレーションにずっと携わって参りました。以降の10年15年ぐらいはですね、ちょっと違うレイヤーで、時代劇なり映画作りをできるような環境づくりみたいなことを作ってきました。よってですね、僕はこのタイトルを見てイメージするのは何となくこうクリエイターとかアーティストみたいなことだろうなと思うんですが、私の場合はちょっと違います。その辺をちょっとご堪忍いただきつつですね、私が、今やってるようなことをいくらか紹介できたらいいなあという風に思っております。

高橋

矛盾っていうとですね、ざっと辞書などを見るとですね、およそ前の文脈と前後の文脈が全然合ってないじゃないかみたいなそういう論理的な破綻みたいなことと、もう一つは、両立しがたい相互に排斥しあうような関係みたいなそういうこの一点を巡ってせめぎあうみたいなね、そういったことが書いてありますよね。これはGoogleで矛盾っていうのを画像検索すると健康の為なら死んでもいいとかですね、こういう柄のTシャツが出てきたりとか、本日のみそ汁はコーンスープです、みたいな、そういったことが、いわゆるザ・矛盾なんだと思います。 こういったザ・矛盾というか矛盾なことって、だいぶ多いなーと、だいぶ世の中に隙間がなくなってくるにつれてですね、どんどん色んなところの矛盾って多くなってるような気がします。それに対してですね、きっと矛盾に対する処し方というか、それをどうアプローチして丸め込んでいくかみたいなのも、だいぶソフィスティケイトされたっていうか色んな、両立しがたい相互に排斥しあうほこたて関係なんていうのは、ほっといたらもうそれは衝突にしかならないわけで、それをもうちょっと違うソリューションというか違うレイヤーから違う視点を持って見るみたいなことが近頃だいぶあるのかな、そういったところにだいぶ賢くなってるのかな、というような気もします。
こういったありえないことがなぜか両立してるみたいな関係が近年多いんじゃないのかなというその一つとしてこういったことがあります。山極総長の絵を出さしていただきましたけど、これ、今年の3月に、京都大学とですね東映が本来ありうべきことじゃないと思うんですけど、なぜかシェイクハンドしてしまったと。山田京都府知事のもとにですね、シェイクハンドしてしまったという、大変矛盾の多い絵面でございます。 こういった本来多分10年15年前ならありえなかっただろうっていうようなことが、起きてるということはだいぶ社会が矛盾に対して色んなアプローチをし始めたことだと思います。きっとこのおもろトークもですね、私もお客さんとして何度か聞いてますけど、きっと本来、昔でしたら矛盾の多い世の中に対して、それの解決というか、それのよすがになるものってのはきっと宗教とかだったんだろうと思うんですけど、それが、宗教で解決できないもの、中世とか宗教に頼ってこの世の中を渡ってきたんだと思うんですけど、それをですね、それが、その機能が科学にとってかわると、その科学にとって代わって結構繁栄してきた人類ってあるんだろうと思うんですけど、それもどうもままならないぞと、どうも十全な答えを出してくれないなっていうような印象がきっとあるんだと思います。そこに何がしかの提示をできるんじゃないのかなっていうところがきっとアートの、芸術の役割であって、おこがましいながら言わしていただくとですね、東映みたいなところの、我々の映画連携協定、京都大学さんとの連携協定を組むなんという大変不思議な出来事もですね、おそらく何かそういう直感的に矛盾の多い世の中を掴み取るような、そういったアイデアを期待されているというかそういったことをですね、社会的に我々が求められてるのかもしれないぞとぼんやりと思ってます。
そういったことをですね、エピファニーっていう言葉があるらしいです。最近ちょっと知ったんですけど。神の顕現っていうような言葉らしいですけど、神を我見たり、みたいなそういう瞬間ですよね。そういうもんを前段の説明をまるっきり抜きに何かおもりのあるイメージというか、そういった何がしかを質量もあるイメージ、ビジョンが、がーんと降って、啓示、みたいな瞬間のことを言うんだと思うんですが、そういったことが芸術には確かにあって、映画にも確かにあります。こういったことを矛盾の多いこの世をですね、わたる要素だとして映画なり映像ができるんじゃないかというようなことをですね、我々も目指さなくちゃいけないのかな、というような思いがあります。東映の日頃の行いを皆さんきっとご存知だと思うんで、だいぶこれ自体インチキ臭いことだなと思うんですけども、「暴れん坊将軍」とかね、「遠山の金さん」とかそういっただいぶジジババ泣かせるようなことばかりをやってきてる我々がですね、こういった偉そうなことを言うんもいかがなものかとは思うんですけども、映画には確かにでもそういったパワフルなビジョンを提示するだけのものがあります。

高橋

かつて時代劇にもそういった機能をですね、そういったエピファニー映画というか、エピファニー力のある映画がありました。これは時代劇っていうものが、時代劇は現代劇であるという大変矛盾の多い命題を掲げましたけれども、とはいえですね、実は時代劇というのは、時代劇に限らずですけども、すべての創造はやっぱりこの現在のメタファーであるわけで、ということで言えば大変矛盾の多いこの世にあってはすべての創造はやっぱり大変矛盾が多くならざるを得ないっていうことだとは思うんですけども、本来物語、映画あらゆる映画そうですけど、昔の出来事を伝えるってだけで映画としては成り立たないですよね。やっぱり今のお客さんに伝えるわけなので、それは昔の事柄を借りたとしてもこれは現代劇なんですよ。で、ただそういった形で昔のフォーマットを借りるっていうことを選択する意図というのは、大体およそ二つあって、現在形として語ることができない。これは戦前のですね、サイレント期の伊藤大輔さんの「忠次旅日記」っていうやつですけど、やっぱり戦前の軍部に対する遠慮というか検閲に対して配慮して現代劇というのは描けなかったんですよね。それで、こういった形の時代劇のフォーマットを借りて、現在の、そのときに生きてる人々の気持ちを代弁する映画を撮ったのがこの「忠次旅日記」という映画で、その当時やっぱりこれは爆発的なエピファニー力があったんだと思います。大変大ヒットしていまだに現存してるフィルムというのはほとんどないんですけども、知ってる人は、大変強力に推してまして、キネマ旬報の歴代ベストランキングみたいなのを組むとですね、必ず名前が挙がってくる作品ですよね。こういった旧作、サイレント期のものだけじゃなくて、実は最近の作品でもそういったものはあります。例えば最近で言えばですね、山田洋次さんの「たそがれ清兵衛」なんていう映画がありました。あれは松竹京都撮影所で作られた映画で、僕も見たとき大変ショックを受けましたけれども、ジリ貧の長期低落傾向にある東北の小藩の中でやっぱり人としてどう生きるのみたいなそういったことが、だいぶ切実に語られる映画で丁度失われた20年だ15年だっていうところの最中でありましたし、リストラだなんだっていうような世相を反映した作品でもありました。ことほど然様にですね、歴史映画といえども、現代劇なんですよね。
で、私はですね京都ヒストリカ国際映画祭って今日チラシを入れておきましたけども、映画祭をやってるんですが、世界の歴史映画新作の歴史映画を世界で一番見てるのは多分間違いないんだと思うんですけど、ここ数年で言えば世界で一番新作の歴史映画を見てる人なんですけども、今年はですね、大変内向きの反グローバルっていうか、そういったイギリスのEU離脱とかトランプ旋風みたいなそういったムードがですねもういろんな映画に充満してまして、300本ぐらいリストアップしたんですけど大変そういったムードが世界中を蔓延してるということはよくわかりました。といったわけで、時代劇歴史映画といっても現在形、現代劇なんだっていうところをご理解いただけたらありがたいなぁと思います。それだけの、現在の人々に対して今の矛盾の多い時代を、掴み取るよすがとなるようなものに、映画っていうのはなりうるもので、時代劇っていうのはだいぶ純粋な形でフィクションを構成できるんですよね、さっきちょっと言い忘れましたけどその、時代劇として構成する時代劇のフォーマットを借りるもう一つの意味合いとしては寓意性を際立たせるっていうのを書きましたけど、ほんとボーイ・ミーツ・ガールみたいなこともですね、今現代劇ではなかなか成立しないような色んなリアリティを、つけるのはなかなか大変な手立てが必要なんですがそういったことをですね、時代劇のフォーマットを借りるとだいぶ楽に語れるというのがあります。そういった時代劇の、エピファニー力というかそういった矛盾があるよう、突破する一つのパワーを持ってもらいたいという思いで京都府さんの支援でですね、映画祭をやってます。京都ヒストリカ国際映画祭という映画祭で、これでもともと我々が作ってきた時代劇がですねどんどん外に向けてエピファニー力を、というかそういった発信力をだいぶ失ってきたんですよね。それをもう一回取り戻すためにもうちょっといろんな歴史映画の知見を借りようじゃないかと、世界の歴史映画であったりとか、例えばアニメーションとかゲームとかですねそういった違うメディアが、違うメディアでも歴史ものの表現っていうのは結構ありまして、そこをチャレンジするクリエイターの人たちのアドバイスを受けたりすることで、ちょっと時代劇のほうに、もう一回改めて反映させたいという思いで映画祭をやってます。

(第8回京都ヒストリカ国際映画祭)

高橋

これ今年の11月の2日からその映画祭が始まるんですが、映画祭の中でかける作品のいくつかをちょっと紹介しますけども、トミー・リー・ジョーンズさんが監督で、これなんか西部開拓史の一面なんですけど、大変ね女性が美しくもないというか、ヒラリー・スワンクに申し訳ないんですけども、そんなになんていうのかな、男の目線で描かれた女性じゃない方を描いてるっていうそういう大変モダンな時代劇ってこれもまた矛盾のある言い方ですけど。これはBAAHUBALI:THE BEGINNINGというインドのブロックバスターですね。さっきヒストリカの作品選ぶのに3つの視点っていうのを言いましたけど、その国の歴史や文化を知らなくても楽しめるかどうかっていうような視点で選んだ作品なんですが、あまり普遍性ばかりを、普遍性があるかっていうことをウエイトを置きすぎるとですね、どうしてもありきたりな表現になっちゃうんですよね。そういった予定調和というか、クリシェの塊のような作品だとやっぱりこれはまた多少迫力がなくなるわけでして、さっきのBAAHUBALIなんかだいぶやっぱりインドらしい特異な文化性っていうのがあります。そういった特異性を意外と極めると意外と誰もが理解しうるものになったりするんですよね。そのへんがコンテンツの面白いところかなぁと思いますけど。これなどはですね、ロシアの映画でして第一次大戦のときに女性が女性部隊を作ったんですね。それの作品でございます。ロシアってのはご存知の通り映画の歴史がたいへん古い国なので、だいぶ強烈なドラマがあります。これなんかはですね、スイスの映画でだいぶ普遍性にウエイトを置き、置いてる感じの作品なんですが、誰が見ても楽しめるという作品ですね。ま、といってクリシェの塊かというとそうでもないちょっとユニークな視点もあって、っていう作品です。
こういったものをですね、時代劇に反映させていきたいというようなことを今ちょうどやってるところでございますが、そろそろ、時間かと思いますんで、この続きはですね、11月2日から13日までの間、京都文化博物館で、映画祭が行われておりますので皆さん、是非、見に来ていただければありがたいなぁ、と思います。
ちょっとテーマから離れた感じもあるかなぁと思うんですけど、私の報告としては以上になります。どうもありがとうございました。

伊勢

はい、どうも高橋さんありがとうございました。時代劇は現代劇である、本当に矛盾に満ちているけれども、非常に力強く説得力のあるメッセージでした。
それでは続きまして、お二人目のお話をお聞きしたいと思います。株式会社テレビ朝日「しくじり先生」チーフディレクターの北野貴章さんです。あの、「しくじり先生」というテレビ番組、僕もよく拝見してるんですけれども、失敗することが逆に成功になったり、注目されるきっかけになったりする、これも矛盾をはらんでいて、あと人間の人生の面白さ、力強さとか、いろんなものが分かって楽しい番組になっています。いったいどういう経歴でこういうふうな番組の企画の発想に至ったのか、そういうところも含めてお聞きできたらとても楽しいなと思っております。北野さん、どうぞよろしくお願いします。

北野

みなさん、こんにちは。「しくじり先生 俺みたいになるな!!」という番組の総合演出をしております、テレビ朝日の北野と申します。「しくじり先生」はですね、しくじった人が、有名人のタレントさんが多いんですけど、自分みたいな風になるなよという思いをもって教壇に立って授業をするという番組なんですが、見たことあるよという方はいらっしゃいますか。ありがとうございます。結構たくさんの方見ていただいて嬉しいです。で、今回はテーマがですね、矛盾をはらんだ創造ということなんですが、実は振り返ってみるとですね、しくじり先生ができるまでの経緯、そして今、そうですね、皆さんに見ていただいている理由もですね、まさにこのテーマと共通する点があるところもあるかなあと思いましたので今日は、そのしくじり先生ができるまでを振り返りながら番組が、僕なりのですね、今回のテーマの、矛盾をはらんだ創造というテーマの解釈についてちょっとお話できたらなあと思っております。

北野

というわけで、まずはちょっと僕の自己紹介の方からさしてもらいたいなあと思います。ちょっとしくじり先生風に今日は教科書、土佐先生の方からオーダーで授業してくれと言われましたので作ってきました。はい、私ですね、86年3月2日生まれで、2006年に京都大学の経済学部に入学しました。で、経済学部に入ったんですが、実際経済学部で授業ちゃんと受けてたかっていうと、ほとんどですね、外部の文学部の映画論の授業で単位取っていたりですね、1年生の時にメディアアートの授業でですね、土佐先生のもとで授業、単位取らさしていただいたりしてですね、ほとんど経済というよりは、文学的な方をこの大学で学ばさしていただきました。で、プライベートでは何をしてたかというとですね、自主製作映画をずーと4年間撮ってまして、でその映画をですね、先生、土佐先生に見せたのがきっかけで、1年の冬ぐらいから研究員として先生の研究室で4年間ずっと働かさしていただいておりました。で懐かしいんですけど、ZEN Computerとかi.plotとか、ベケットの「ゴドーを待ちながら」の文節をばらばらにして、並べ替えて新しい文脈を作るというような、研究のお手伝いをさしてもらっておりました。で、当時これ一体何の仕事してたのかと思いながらも、楽しくちょっとやらさしていただいてたんですけども、授業というよりは大体大学生活のほとんどを映画製作と、あと先生の研究室でずっと働いてたような思い出が残っております。
で、2010年、2009年に卒業してまして、2010年からテレビ朝日で働き始めたんですが、もともと映画が幼いころから大好きで、映画監督になりたいと思ってずっと活動続けてきたので、ドラマ志望でテレビ局にもともとは入りました。で、実際ですね、今のテレビ朝日といいますかテレビ局というのはですね、プロデューサーとかには結構なれるんですが、監督という仕事をするのは結構難しい現状がありまして、それだったらバラエティ班で、バラエティだと何でも自由に作ることができるので、映画やドラマ、コントのようなストーリーがあるものを、作りたいなと思ってバラエティに入ったのがきっかけです。そんな感じで入りました。で、当然バラエティに入ったんですけど、テレビ朝日でやりたい番組とかなくてですね、結局僕はこの番組にADとして配属されることになりました。

北野

「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」という番組で、ほぼほぼバラエティというよりはニュース番組で、ドラマで映画を作りたいと思ってテレビ局入ったんですけど、ずっとやってることというと隣のページ、右のほう見てもらったらわかるんですけど、池上さん本人と打ち合わせさしてもらって、何を話したいか決めて、そのニュースのリサーチをして、台本をディレクターと一緒に考えて、それをもってまた池上さんと打ち合わせをして、新聞とかあと専門家の、それこそほんとに大学の教授とかとお話さしていただいて、番組で取り扱う、池上さんの取り扱うネタが実際正しいかどうかをリサーチ裏どりして、収録に臨んでオンエアすると。ほとんどバラエティというよりは報道に近いことをやっておりました。しかもですね2010年入社で2011年、1年目の終わりに丁度東日本大震災がおきまして、バラエティは全部自粛モードだったんですけど、僕の入った、バラエティなんですけど池上彰の学べるニュースは報道も取り扱ってましたので、すぐにですね地震あった後ですけど池上さんと僕とディレクター3人でヘリに乗りまして、現地に赴いてですね、被災地の方のお話を伺ったりとかそういうことをずっとやっていた日々を1年目は送っておりました。正直ですね、仕事としてはやりがいはあったんですが、僕は、なにぶん映画を作りたいと思っている人間なので、ほんとに仕事が辛くてですね、もう僕はジャーナリズム精神は僕は特になかったので、このままじゃいけないなという風に思うようになりました。
で、僕はそこでですね、こう考えるようになりました。早く企画を通して自分の番組をやろうと。この現状を打開するにはもう自分の番組をやるしか、人が作った番組をやってても何も進まないと思ったんですね。で、月3本くらいので大体50企画以上1年間で出し続けまして、その結果こうなりました。次のページです。全然通らないと。全然ほんと通らないですね。通らない理由を僕なりにまとめてみたんですが、そもそも内容が放送のレベルに達してなかったというのもあるかもしれないんですが、1年目でですね経験不足だと思われて、任せられないだとかストーリーがあるような番組、バラエティでですね、コント番組とかはテレビ朝日こっちだと6チャンネルですけど、やったりしてるのご覧になったこと無いと思いますが、ストーリーを作ってるコント番組のようなものは、そもそも作るような文化がうちには根付いてなかったんですね。
でですね、とはいえじゃあどうやったら通るんだと。いう風にちょっと葛藤しながら日々僕悶々としてたんですが、1年半、2年目の入る前くらいですね、僕はこういう風に思うようになりました。そうだ勝手に番組作ろうと。

北野

ありがとうございます。2年目の終わりぐらいのときにですね、勝手に機材借りて、同期と一緒にですね、番組をもう作ってやろうと。製作費とか、やってる自分たちのレギュラー番組の方からとって、拝借しまして、その時に作った番組がですね、こちらの左の方ですね。「モテスベ」というですね、番組で、どっちかというとドキュメンタリーに近いんですけども、モテるためにすべきことは何だろうということを検証するためですね、ここにいるこれ同期なんですが、こいつは耳にインカムしてまして、僕が隠れたところからカメラ撮って、原宿歩いてる女の子に声掛けて、ナンパしてもらって、餃子の王将に一緒に行けるかという番組です。これが、出演者の方もいないんで、僕とこのまーくんと後ほんとにその辺歩いてる原宿の女の子だけしか出ないんですけども、この番組が結構実際作ってそれを企画書に張り付けて、上の人に出したところ、結構面白いなという話になりまして、実際にこの企画を平成ノブシコブシの吉村さんだったり、アイドリングの菊地さんだったり。と、出演者とも一回撮り直して、実際に放送さしてもらうことができたのが僕が初めて作った番組が、こちらです。で、この次にですね、その年の12月に「未来ディレクター吉村」というですね、こっちは平成ノブシコブシの吉村崇という芸人なんですけれども、がですね、2055年の未来からやってきて、さまざまな、今の現代にタイムスリップしてきた吉村がですね、いろんな企画に体張った企画に挑戦するという、すごい物語性のある、ほんとに僕が入った時やりたかった番組が12月に出来たのが、この作品です。
ここまでは調子が良かったんですが、ここでまたちょっとしくじってしまいまして、次のページです。はい、普段の業務で怒られまくると。当時、僕自分のペースで自由に物を作るっていうのはちょっと得意なんですけど、ちょっと社会的には全くダメダメで、まず決まったことを報告しないだとか、あと、会議の時間連絡しない、あと相談しないでなんでも勝手に決めちゃうとかですね、これも無理してやってるわけじゃなくて意図的にやってるわけじゃなく、どうしても気づいたら報告してないし連絡してないし相談もしてなく決めちゃってるっていうのがちょっとそれですごい悩んでた時期がありまして、次のこのミラクル9という番組はこの時学べるニュースから移動して、ミラクル9というクイズ番組やってたんですけども、ここでの仕事内容というのがですね、全体のスケジュールをきって段取りを考えるような制作進行という、ちょっと実際に物を作るというよりはチーフADだったんですけども、制作進行をする立場の仕事をしていまして、これが本当に僕の苦手とする仕事のオンパレードだったんですね。毎日ちょっと怒られてまして、当時先輩にですね、社会人として失格だとか、人間として失格だーみたいな。毎日怒られておりました。
そこのですねこの自分の経験をもとにして作った番組が、こちらです。「しくじり先生 俺みたいになるな!!」と。これはほんとに僕の実体験をもとに作った番組で、俺みたいになるなよと。いうメッセージが一番後輩に言いたかったことですね。ミラクル9でしくじってた体験から作ったのが最初だったんですが、それをベースに加えて、しくじってる話っていうのは、成功者の人との話よりも面白いですよね。居酒屋とかでも、上司の、俺は昔こんなすごかったんだよというような話っていうのはなんかちょっとイラっとするじゃないですか。なんですけど、この前こんなちょっと失敗やっちゃったんだよねーという話は、皆さんちょっと楽しくその場もすごい楽しくなるし、その人も結構そういう話をしてる方っていうのはかわいく皆さん周りの方見てもらえると思うんですよね。自慢話を聞かされるよりは、失敗話をしてる人の方がすごい周りの人も好きになるし、聞いてる人たちも楽しく聞けると。なぜじゃあ失敗話はこんなに人を引き付けるのかというとそれは馬鹿にしたいんじゃなくてですね、自分も、もしかしたらそうなるかもしれないというですね、教訓が実はこの笑い話の中には含まれてるからだと思うんですよね。

(「しくじり先生 俺みたいになるな!!」)

北野

だから、隣のページにですね、これ以外の特徴を書いたんですが、しくじり先生においてメインMCは、まず、置きませんでした。メインMCっていうのは例えば、大御所の誰々の何とかっていう番組の冠がつくような感じなんですが、そういう方を置かず、もう毎回登場するしくじり先生が主人公なんだよと。つまりゲスト先生が主役だよ、という。で、雛壇芸はやらない。これは結構最近もう飽和状態ですが、芸人さんいっぱい集めてワーッと騒ぐような雛壇芸は一つ面白い要素ではあるんですが、そういうのはうちではやらない。あとVTRに頼らないっていうのは、ゲストだったりとか、メインのMCたち皆で何かしらのVTRを見て、右上に、ワイプって言うんですけど、その映像見ながら楽しむようなバラエティって多いと思うんですけど、そういうことはしないと。基本的にスタジオで先生が一人でもうずーっとしゃべる。さらにちょっと見やすすぎる構成にしないというのがですね、結構今のバラエティ番組というのはどこから見ても楽しめるように作られてます。クイズでもそうですよね。問題が途中で問題見たところはあれですけど、ちょっと待てば、次の問題始まってそこから皆さん楽しめるようになってると思うんですが、そういういう風に途中から見ても楽しめるようには作ってるんですけど、それを親切にしすぎない構成にしました。あと、台本があることを隠さないというのは、しくじり先生は、このような教科書を実際手元に持って授業するんですけども、これもほかの番組だとやっぱり皆さんタレントさんは自分のアドリブで話してるんだよという風に見せるのが普通のところを、あえて、台本は作ってきてますよ。いうのを、隠さずにやってるところがこの番組の特徴です。
でもですねこの特徴実はね、こんな特徴でもあるんですね。バラエティではNGとされてきた要素。これ今言ったことと同じなんですけれども、NGという、バラエティは基本的には何をやってもいいんでNGということではないんですけれども、もっと詳しく言い換えると、これをやっても数字は取れないよと。視聴率取れないよ、と言われてきたことがこの6つだったんですね。皆さんのイメージする番組は誰々のーとか、ついてたら結構見たいなと思ってたり思ったりするかもしれないんですが、あと核となるですね、メインのレギュラーの人たちがいて、そんな人たちがみんなで団体で何か芸を披露してVTRを見ると。で、どこから見ても見やすいし基本的にはアドリブでほんとにその場で楽しく何か皆さんがしゃべってるような、雰囲気を作ってる。そういう番組が、基本的には、オッケイというか、いい番組だよとされてきました。なのでしくじり先生やるとき、特番で最初3回やってレギュラーになるまで1年かかったんですが、ほんとに理解してもらうのにすごい時間がかかりまして、レギュラーになったら先生出てくれる人そこにいないだろうとか、毎回ゲスト先生が主役と書いてますが、メインの人が変わっちゃうんで、出る人によって数字も安定しないしとか、そういった面で結構レギュラーになるのに実は1年ぐらいかかってたんですが、逆に、ここが皆さんが面白いと思ってくれたところでもあったのかなぁと。なので、こんなのだめだよと言われてきたことが、実は面白いと受け入れられることもあってですね、これが、まずは一つの矛盾なのかなと。でもそこの矛盾のところに実は鉱脈があるのではないかなあと思っております。
さらにこの番組で僕が伝えたかったメッセージなんですが、しくじってもですね、やり直せるよということをちょっと伝えたいなというのも一つありました。しくじった人をですね、馬鹿にするのは簡単ですし、すごい最近ネット社会になってからですよね、誰でも匿名で批判する風潮が結構広く上がってますし、ワイドショーとかでもそういうのが結構皆さん結構ワイドショーというか携帯のニュースとかでもスマホのニュースとかでもそういう記事すごく最近目にすると思うんですが、そういう社会になってきているのに加えてですね、日本はやはり、元が元来ですね、日本は失敗はやっぱり許さない社会だったこともあるので、そうじゃない、失敗しても立ち直ってるんだよっていうのをそう皆さん先生自体そうなんですけども、一度失敗して、それを自分の中で克服して、教壇に立ってきているので、そういう人たちの姿を見てもらって、元気になっていただけたらなあという思いがあって、作ってるのもあります。そういうわけなので、番組で先生がですね、先生たちは皆さんやっぱ自分がいじられたくないその人生の傷をですね番組で語ってくださるんですね。例えば、堀江さんは逮捕された話をしてくださいましたし、前園さんも同じくお酒で失敗した話を面白おかしく反省しながら話してくれたんですけど、先生、辺見マリ先生は15年間ずっと洗脳されてきた話を語ってくださったりとかですね、みなさんやはり、もう忘れた話を、この番組でしてくださる方が多いので、やはり出てくださった方には僕はその好感度が上がってほしいですし、もう一回成功してもらいたいなぁという風に思って作っております。これは僕だけじゃなくてスタッフ一同皆さん、みんなそうなんですけども、やはり野次馬はですね、背中に野次を飛ばせても、正面向いた相手には飛ばせないんじゃないのかなというのが、僕のこの番組の裏テーマでもあります。

北野

では、先生と一体じゃあこの番組はどのようにして作っていっているのかっていうのをちょっとまとめてみました。まずですね、会議でしくじり先生、この人しくじってんじゃないかっていうのをみんなで持ち寄って話し合います。で、実際にこの先生面白そうだよね、という人を何人か見繕って先生と打ち合わせをさしてもらって、その先生たち、打ち合わせこうです、ってリサーチして、2回3回4回と、途中台本どんどん作っていくんですけども、打ち合わせを臨んで、収録オンエアとなるんですが、これ大体1人の先生の授業が完成するまでに2、3か月ですね。1回の打ち合わせが大体3時間から4時間で短い最低4回、辺見さんとかだと結構半年くらい本人のメンタルの部分のケアとかもありましたので、半年ぐらいかけて作りました。番組1回のオンエアで2人とか3人の先生が授業をしますので、常時8人ほどの先生を同時進行で進めているというような感じでございます。
このフローチャートをですねちょっと見ていただいてお気づきになった方もいらっしゃるかもしれないんですが、この制作手順、実はですね、辛いと思っていた番組と同じだったんですね。こちらですね。学べるニュース。学べるニュースでは池上さんと打ち合わせして、台本作って。裏どりして収録と。いうような形、先ほど説明さしてもらったんですけども、それを、より濃厚にしたものがしくじり先生に活かされてることに最近気づいたんですね。はい。しかもですね、しくじり先生の生まれた経緯何だったか覚えていらっしゃいますでしょうか。こちらですね。はい、ミラクル9でのしくじり体験ですよね。ここでのしくじり体験があったからこそ、そもそもしくじり先生を企画しようと思いましたし、そうですね、この経験がなかったらそもそもしくじり先生の番組自体はできてなかったなぁと。思うわけです。そして、しくじり先生の教科書作るにあたって、まぁやはり一番大事なのはやっぱり構成だったりとか先生の物語ですよね。しくじり先生たちに出てもらうからにはやっぱり最高の教科書をもって、教壇に立たせてあげないといけないと思っているんですが、僕はその経験が今に生きてるんじゃないかと思っています。京都大学での映画製作で、メディアアートの研究員としての4年間。やはりこの研究が今やはりしくじり先生の番組作りに活きているんじゃないかなと。つまりですね、そんなことが、今回のそのテーマで言えるのじゃないでしょうか。次のページです。矛盾の中からこそ創造が生まれると。もし、僕がですね、大学で映画を作っていなかったら、物語を大事にした番組を作りたいとは思わなかっただろうしですね、もし学べるニュースで池上さんとニュース番組を作っていなかったらですね、しくじり先生と信頼関係を築けるような打ち合わせの仕方っていうのは、その方法は見いだせてなかったかなぁと。取材面でも、もっと表面的な部分に触れるだけのものになっちゃってたかもしれません。ミラクル9もそうですよね。ずっと怒られてた日々がなかったら、そもそもしくじり先生の企画自体生まれてなかったと思うんです。何が言いたいかというと、もちろんこれは今になってわかることなんですが、その時は何でこんな無駄な時間を過ごしてんだろうな、と。自分のやりたいこととの矛盾に悩む日々だったんですけども、それは当時僕も、しくじり先生があると思ってですね、未来見据えて、この点と点が繋がるから今を頑張ろうとか思ってなく、普通になんか、何やってんだろうなと思いながら仕事してたんですが、積極的にですね、行動することってことはほんとに大事なことで、10年たった今ですねこう振り返ってみると、実はすべてが繋がってたんだなあと。いうことに気づけたのかなあと。やってた時にはですね、その大事なことだと気づかないことがですね、後々振り返ってみると意外にですね、大事なことだったりとかすると思うんですよね。つまり矛盾の中にこそ創造は潜んでいて、その矛盾の中にこそ実は新たなものを作るヒントが隠されてるんじゃないのかなと思うわけです。今のその矛盾はですね、将来どこかで自分がやりたい創造に繋がるということをだから信じていなければいけないのかなと。それがですね、今批判されることだったりとか、周りから見たらですね、お前だめだな、とレッテルを貼られるようなことでも信じ続けて、やり続けることで自信が生まれますし、自分がやりたいことを創造するためには、実は自分自身が信じてあげることが大事なんじゃないかなと。その点だけを、見ると矛盾、今矛盾してること、やりたくないことということですね、実は線で見ると矛盾していなかったのかもしれないですし、その視点を持つことこそが、矛盾を信じること、これが大きな違いをもたらしてくれるのではないかなぁと。はい。
なので、今日、母校で今この話をしている僕ですが、これも今僕にとっては一つの点でしかないですが、いつか、ここからまた新たな創造が生まれたらいいなと思っております。以上です。ありがとうございました。

伊勢

北野さん、どうもありがとうございました。自分のしくじり体験が実は成功のもとにつながる。人生本当に偶然が色々あって面白いと思います。力強いメッセージをいただきました。
それでは続いて3人目の講演者をご紹介したいと思います。京都大学工学研究科の富田直秀先生です。あの、ご紹介文を拝見してたんですけども、何か人生に紆余曲折がありつつ、最後、「学者、芸術家、医師たちを悪の道に誘っている」というようなご紹介文をいただいております。私たちはいったいどんな悪の道に誘われるのか、ちょっと興味を持ってお聞きしたいと思います。それでは富田先生どうぞよろしくお願いします。

富田

素晴らしい発表でしたね。ちょうどお歳は(私の)半分くらいになるんですけども、教えられることが非常に多かったと思います。例えば、「ヤジは背中から飛ばす」とか「親切にしすぎるな」とか。

富田

題名をいろいろ考えたんですけれど、「モノだけでなくコトのわかる人になろう」という題名です。京大はモノのわかる人はいっぱいいるんですけど、僕自身はモノのわからない人間です。子供のころから物覚えが悪くてですね、これは「俺もそうだ」って人がいっぱいいると思うんですけれど僕の場合特別でしたね。特別に物覚えが悪かったですね。意図すると失敗という、要するに役に立たない人間でした。たぶんこういう僕みたいな人間はグレてたんだと思いますね。僕は人に恵まれてグレずに一応ここまでは生きてきました。僕自身は京大出身じゃないんですけれど、京大に来た時に筏義人先生という京大の先生に論文はいいですから、まあたぶん、こいつは論文を書けないやつだ、と思われたと思うんですけど、「役に立つ研究をしてください」ということで、僕は工学部出てから医学部に行きましたので医学で使ういろんな材料をひたすら開発してきました。一応ここまでは清く正しくまじめに。(僕は)還暦を一年過ぎてるんですけど、これからは徹底的にグレようと思います。もともとなんで僕が医者になったかというと、これ家内なんですけど、結婚したいと(ご両親に)いいますと医者じゃなきゃやらんと言われてそれで、医学部行きましたという話です。これ言ってると時間なくなるので。
家内が医療事故で死にそうになりました。もうほぼ死ぬというところで、まあ助かったんですが。僕がなにをいいたいかというと、僕は清く正しく、モノがわかることやってきたつもりなんですけど、安全というモノがわかることをやってきたつもりなんですけども、どうも安心じゃないんじゃないかと、なんだか今までやってきたことがおかしいぞと考え出して、じゃあグレてやろうと。ということでちょっとこっちへ替えさせていただきます。

(メガネをサングラスに替える)

富田

ということでこれからグレさせて頂きます。ちょっとこれから怪しいことをお話しするので。まず、グレの定義ですけど。私、市立芸大に近いとこに行きまして、よく芸大に行くんですけれど、芸大の先生たちはみんなグレてますね。僕の定義ですと、「何が正しいか」の前にまず「何が本当か」、物語を正しくしっかり話す前にそれは大事なんですけど、その前に何が本当か考える人っていうのが僕のグレの定義です。「正しい」というのは矛盾を含まない。「本当」というのは明らかに矛盾を含みます。矛盾を含むというのは何かというと「私」を含むということです。例として医療現場で重症の患者なんかの場合、頻繁のナースコールで現場が疲弊することがあるんです。僕は整形外科なのであんまり重症例はなかったんですが、それでも何度も何度も苦しいってナースコールを押す人がいて現場が疲弊するんですね。その時にたとえば眠れないって言われると眠剤を出しますし、痛いと言われれば鎮痛剤を処方しますし、不安と言われれば抗不安薬を処方します。これはみんな正しい方法です。モノがわかってますよね。ちゃんとエビデンスがあります、それぞれ。しかもきちんとしたエビデンスがありますね。でも実際上はたいてい、こんなに薬ばっかり飲んでたら副作用があるんちゃうかとか、余計不安になってきますよね。本当の方法、素晴らしい方法があります。何だと思われます。現場でいい病院はこれをやっています。手を握るということです。看護婦さんがしばらくじっと手を握っていてあげると、おさまります。良い病院ではこれやってます。だけど手を握るということをマニュアル化してボタンを押されたらそういう人には手を握りましょうね、という風に教えたりとか、我々工学部の人間が「手を握るロボット」とか作ったら、ちょっと違いますよね。要するにもやもやしてモノがわからない。こちらはモノがわかるんです、ちゃんと説明できます。正しいですね。こちらはなんかもやもやしてる。ああ素晴らしいと実感ではわかるんだけど、説明できない。
何が正しいかを考える人として桑原武夫、京大のフランス文学者ですけども、この人が第二芸術論という、ご存知の方おられるかもしれません、有名な文章なんですけど、大家と素人の俳句作品をインテリが見分けることができなかった。これが実際の俳句です。これ素人と我々の知っているような有名な人がいますね。これを混ぜてどっちが大家かどっちが素人かって聞いたら全然わからなかった。ちょっとグレた言い方をしますと普段俺は俳句ならなんだって知ってるんだって言ってるような人が全然わかんなかったということから、このことを発表したらば、要するに俳句のことは自分で作ってみなきゃわからないものであるということから、俳句なんてものは同好者だけが特殊世界を作っている。その中でああいいですねいいですねなんて言っているようなものなんだ。第二芸術なんだということをこの人は言いました。これに対してはもちろん反対論いろいろ出ました。俳界はこれに対して何も言わなかったんですけども。彼の論理は作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産される、というものでなければならない。要するにAという人がいてその人の経験がコード化されてBという人にきちんと。こういう客観的基準をもって芸術というものを判断すべきである。それはそれなりになるほどモノがわかった方法だと思いますね。これに対していまだにいろいろ論はあるんですけど、僕がすごいと思ったのは吉本隆明。吉本ばななのお父ちゃんです。この人は「良い作品というのは『これがわかるのは自分だけだ』と、それぞれに思わせるところがある」と述べ、自分にだけしかわからないような、無言に近い自己表出が他の自己表出と偶然に出会うところに芸術の本当の価値がある、とした。これは言いたいこと言ってるな、という気がするんですけどね。要するにコード化したってのはモノ化してるわけです。ほんとはコトなのをモノ化している。作品と自分との関係はみなそれぞれであって、それぞれ全然違う世界で見ている。だからまあ共通のフレームなんかない。モノ化しない。我々はどうしてもモノを理解するときにモノ化してしまうということがある。物語もそうです。モノ化して語るのだから。その前の詩のような状態。この方詩人ですので、思想家という人もいますけど僕は詩人だと思います。思想というものの定義にもなりますがそれはまあいいでしょう。

富田

これを僕の分野の再生工学という分野に当てはめて考えてみますと、もともと再生工学、tissue engineeringという言葉が出たのはアメリカのbody shopという考え方です。VacantiとLangerという人が耳をネズミの背中で作った。これは日本人が作った指です。骨と軟骨がある。こういったものを作ってアメリカで移植医療がありますので、これを(移植用の)部品としてものを作ろうということで、これを境にしてたくさんの優秀な論文が出ました。試験管の中で腸管を作ったリだとか目玉を作ったりといろんな論文が出ました。非常に面白い論文です。しかし実用化されたものは僕の知ってる範囲では一つもない。それに対して今実用化されてるのは幹細胞、最近有名になりましたね、幹細胞を注射したらなんか知らんけど治ってるよと。なんか傷が治ってるとか脳梗塞も治ったよとか。なんかよくわからないんです。最近じゃちょっと危ない治療もいっぱい巷にあるんですけど。なんかよくわからないけどうまくいったよ。これまあ別の言い方をすると、コトをモノ化しないもやもやとした治療がなぜかうまくいってる。なぜかまだわからない。怪しいものも含まれます。なるほどってモノがわかるということと、モノ化では捉えられないコトがわかるってこと。コトがわかる人になろうっていうのが今日の主題なんですけど。この辺を考えなきゃいけない。もうひとつ、これは僕の例ですけども。今のiPS細胞が出る前にES細胞が有名になりましたよね。ES細胞っていうのは、例えばこの卵が二つに分割されてこれを切ると二つの個体が出ます。四つだったら四つの個体になります。それがすべての臓器を作る能力を持った状態、桑実胚といますけども、そのときにこれを培養してやろうと。そうするとすべての臓器を作る能力がある。じゃあそのES細胞を皮下に植えてやるとどうなるかというと、いろんな組織、おれは皮膚ですかね、まあいろんな臓器がすべて含まれる。だけどもぐちゃっと。昔、ピノコっていましたよね、ブラックジャックに。あれもこの奇形腫です。こういう状態になります。脇谷先生という先生が皮下に入れると奇形腫になるよ。じゃあ関節の中に入れたらどうか、関節に入れても奇形腫になるよと、そこまでは研究されてました。じゃあ我々一緒にやろうよということで関節の軟骨の中、我々軟骨を再生したかったので、軟骨のコリコリこすってるところに植えてみようということをやってみました。ここにコラーゲンに入れて植えてやったんです。話長いですけど短くすると、結局軟骨になりました。この赤いのが軟骨です。なんでやろう?皮下に入れたら奇形腫、関節の中でも奇形腫、でも軟骨に入れたら軟骨になったぞ。これは何だ?というときに普通だとモノで考えるんですね、分化因子。ES細胞を軟骨にした分化因子がある、これを見つけたら大変なことになる、こっちを調べるんですけども、我々ちょっとグレてますのでコトのほうをやりたいと思って。次にやったのは関節を動かないようにしてやる。同じ実験でES細胞を植えてやって関節が動かないようにします。ちょっと話が早すぎますかね。そうすると奇形腫になりました。これだからってこっちが正しいって言いたいわけじゃないんですよ。この論文を出版したんだけど全然注目されませんね。なんでかっていうとやっぱりみんなモノを求めてるんです。もやもやしてるんですよこれは。なにがなんだか原因わからないじゃないか。こんな分化因子を見つけました、って言うとみんな注目してわっといろんな人が寄ってこれを作ってやろうって思うんですけど、コトのやつはみんな注目してくれません。インパクトファクターっていうんですがそれも低いですね。で、それを基準にして我々、今軟骨再生の治療法を作っているんです。かなり臨床に近いところまで行ってるんですが、細かいことは言いません。こういろんな、要するに細胞が材料の中でどろんと。もうちょっとだけ説明しようかな。バンドエイドみたいにフィブロインという絹の材料の中に細胞を入れてぺたっとはりつけてやるとここに軟骨ができるってことがわかりましたので、これを東邦大学とか横浜市立大学と一緒に開発してるんですけども。ここにいくまでやってきたのは様々な、やっぱり、コトです。関係性を育てるというコトをいろんな実験で確かめたんですけども、論文が出るんだけども。載らない場合もありますよね。なかなかこれダメですよね。今、標準化・マニュアル化要するに結局モノ。我々モノにしないと信用しないですよね。それもわかりますよね。モノにしないと信用できないんです。これは私が一番最初にやった実験です。私は整形外科医になりましたので骨を扱う。骨っていうのは支えるという機能があります。荷重支持、それを強固なプレートで固定してやる治療法があります。なにが起こるかというとプレートが支えてしまって自然な力がかからない、そうするとこいつ(骨)はサボるわけです。生き物ですから。サボってしまうとなにが起こるかっていうと、プレートを取った後に折れてしまう。これが頻発しました。だからギプスで固定してグラグラにいいかげんに固定したほうがよくなるわけです。クッションドプレートといってプレートとの間に柔らかな材料をいれることによってこれを防げることを報告したのですが。これもみんな引用してくれないんですよ。要するに薬ですね、たとえば骨粗しょう症を抑えるって薬を出したりするとみんなワっと集まるんですけどこういうコトに関する実験はなかなかみんな見てくれないです。信用もしてくれません。

富田

昨日、うちのかみさん相手にしゃべっていたら、ここから寝ましたね。ここから寝ないでください。ここからが大事なところなんです。眠いですけど我慢してください。正しい、モノがわかるっていうのは要するに時間・空間的に切り出すということなんです。どうするかっていうと、モノがあったらそのモノと周辺との境界条件がある。モノがたくさんあったならば、それぞれのモノとモノの間の関係にも境界条件がある。要するに我々、生まれた時にはわけのわからない中にいて、モノに触って、感じて、なにかしらないけどモノとして考えると理屈があってるよ、ということで、モノがわかる、が始まる。頭の中にこれが条件づけられてる。モノっていう概念から我々は離れられない。それに対して現実は本当はどうかっていうと、生き物っていうのはもう過渡的状態の連続です。寝ないでくださいね。ここに水がありますよね。だいたい今20度くらいですね。この中に氷があると思う人?水蒸気があると思う人?水は水ですよね。だけどあります。非常に短い時間、もう何ピコ秒ですかね、非常に短い非常に小さい時間にあります。こういう非常に過渡的な存在ってものの連続ってことで生き物は出来上がっています。ですから本来は生き物とか社会とかものもそうですけれど、モノとしてとらえるのは非常に難しい対象です。関係性を切り出すっていうのが本当は正しい方法です。だけどこれは難しいですね。あ、さっき一人あくびされましたね。我慢してください。もうちょっとイヤな話が続きますが。これはカオス的遍歴という複雑系科学の金子先生とか柘植先生とかご存知の方多いと思いますが、この方々が言われてる方法です。彼らは高次空間と言ってるんですが、私は現象空間と呼んでいます、時空に表してしまうとどうしてもモノになってしまうので時空じゃないんだって言いたい。それを言うと面倒なんであれですけども。要するに多様性、なんかモヤモヤしたところこれを形態とか機能だと思ってください。これはいろんな状態を動いているんです。そういう多様性があるからこそ我々は正常な生き物としての生活を保ってる。これどうでしょう。学生に言うときにはそれぞれどんな顔?ってあてて聞いていくんですけど、時間があまりありませんので。頭の中でそれぞれ言葉を一つずつ当てはめていってみてください。爽快とか、ちょっと辛そうとかありますよね。こんな時はありますよね。みんなね。自分はいまこんな状態だ、ああこんな状態だ、ちょっと頑なな状態だとか、ありますよね。それぞれみんなあると思います。で、この硬い、空虚、悲哀、落ち込みとか上機嫌、爽快、昏迷、不安。この言葉は何かというと昔の精神科の教科書。昔はこんなふうに顔が載ったんですが、今はこんな顔写真を載せるなんてできないんですけど。それぞれ精神科の疾患を持った人たちです。どうでしょう?こんな状況、我々はありますよね。要するに病院行くとお医者さんがどうしましたか?いつからですか?って聞きますよね。これは悪循環の有無を聞いているんです。今こういう状態だけど、こういう状態が移り動いていれば正常なんですけども、ひとつのところで悪循環してトラップされたならば異常です。正常・異常って感覚はそういったところから出てきてるんです。ですから多様性があるというのは生き物として正常ですね。じゃあその多様性がなぜ生じるか、これは非線形性です。結果が原因を変える。結果が原因を変えることによってどんどんいろんなものが発展していく。それは数理的にある程度わかっています。結果が原因を変えることで時間とともにどんどんどん変わっていく、後戻りはできない不可逆変化が起きてきます。このように(本当は違うんですが無理やりに縦軸をエネルギーと解釈しますと)こっち側のほうがエネルギーは低いので安定としますと、みんな同じところで落ち着いてきて、多様性がなくなってしまう。この多様性がなんで続くかはまだ分かっていません。だけども、想像するに、ここに矛盾が出てくるわけです。あの一応逆説的関係性だといいましたけど(ここでは)矛盾のことですね。矛盾があるからこそ多様性が続いていく、とする。数学的に言いますと、例えば今ここにいる人がこっちに行きたいんだけどこっちに行くにはまっすぐこう行きたいけどこっちには道がない。この行きたい方向は安定した方向と逆に行くと道がある。こういう関係性があるから多様性が続く、と考えるわけです。具体的に言うとたとえば、「攻撃するとかえって強くなる」。こいつ殺してやろうと思ったらかえって強くなるってことがありますよね。とか、「安定状態では機能が低下する」。安楽でええわと思ってるとスーと自分がなくなっていってしまう。安全システムを作ってやったから、よしこれで安全になったって思ったら現場の注意が散漫になってかえって事故が起きる。食事回数が少ないと太る、、など、生き物や社会は矛盾だらけですね。矛盾があるからこそ多様性が続いている、と考えることもできる。
要するに、モノだけではなくコトがわかる人になろうってことですけども。このモノだけではなくってところが大事ですね。コトだけだったらおかしくなる。我々はコトだけでは絶対耐えられないから、モノもわかるってことが大事です。モノがわからずコトに没頭すると、悪循環に囚われる危険があるので両方がわかることが非常に重要なんです。だけど今の世の中、モノがわかるってことばっかりが非常に強調されている時代ですので。先ほど言いました、なにが正しい物語かの前に、まず、なにが本当か、私は「詩」だと思ってるんですけども、「詩」を見つける。物語と「詩」を見分けなければいけないのかなと僕自身は思っているんですけれども。先ほど言いました、正しいことは矛盾を含まない。本当っていうのは矛盾を含む、そして「私」を含む。ということです。大事なのは順番だと思うんですね。どちらも大事なんですけどまずこちら、その次にこちらという。最初からこちらにきてしまってる気がします。
ということで、時間がないので具体的にどうのこうのはぬかしますね。芸大の先生方が素晴らしい授業をしてくれています。要するにアート視点が大事だってことを言いたいんです。アート視点とアートをわけなきゃいかんのですけれども。アートっていうのはあくまで道具ではないんですけども、アート視点、要するにアート教育は道具です。アートは目的じゃないんですけども。言いたいことは矛盾を含むコトにいったん立ち戻って、次にモノの語りを始める。語りから物語をはじめるんじゃなくて、物語の前にいっぺん「詩」に立ち戻ったらどうかな、ということです。最後まで聞いていただきましてありがとうございます。

伊勢

パネルディスカッションでは、ご講演いただきました3名の先生方に加えまして、京都大学の酒井先生、土佐先生にも加わって頂きます。それではどうぞよろしくお願いします。

土佐

それでは8時10分までこれからはパネルディスカッションのほうに入ります。私は高等教育研究開発推進センターの土佐でございます。モデレーターを務めさせていただきます。本日は「矛盾をはらんだ創造」ということなんですけども、最後の方にはみなさんからいただいた質問票にもいくつかお答えできればなあと思います。まずはですね、しくじり先生の北野くんにお聞きしたいんですけど。すごい努力だなあと思いましたね。やっぱり本数がね、ともかく絶対に作りたいっていう信念で頑張ってたんだろうと思うんですけれども。しくじり先生の次の案とか、こんなところでいわないだろうとは思うんですけど、でもなんかちょっと聞いてみたいなという気もしましたので、どうですか?

北野

しくじり先生の次の案?先生の案ですか?

土佐

いえいえ。しくじり先生の次の企画みたいなもの。このしくじりから。

北野

しくじり先生じゃない番組の企画?僕はやはり監督はやりたかったので、しくじり先生って番組は物語を先生とスタッフでガチガチに固めて物語を作ってきたものを誰も知らない8人座ってる生徒たちに披露してプレゼンする場なんです。決まりきった物語性に半分バラエティの要素、なんていう質問が返ってくるかというそういったところに関しては決まってないのでそのあとスタジオで完結してる物語なので映像的には語りやイラストで物語を想像するものです。なので僕としてはもっとより映像的にも映画的で、かつ映画ではない、何でもできるのがバラエティのよさなのでそういったものを作っていきたいなと思います。

土佐

あと、このしくじり先生の企画をお聞きになって山極総長、年齢差はいろいろあると思いますがどう思われたかちょっと聞いてみたい気がします。

山極

僕ね、富田さんの話とものすごい重なってると思うんですよ。ていうのはね、やっぱりしくじったっていう話はさ自分のやろうと思っていたことがテレビ制作現場の常識からすると全然違ってた。あるいは自分は別に意識していなかったんだけど、現場の人から見たら報告していないとかなんのかんのいわれた。要するにこれまで自分の世界を形づくっていたものとほかの人が常識として見ていたものがズレていたわけだよね。そのズレに気が付いたときにむしろ、あなたの場合は単に合わせようというのではなくてその中からなにか新しいことができないかと見つけたところが面白いわけで、まさに富田さんはそういうことをいおうとしたんじゃないかと思うんですよね。

富田

総長のいわれることは、まさにそうですよね。しかもそれが自然ですよね。これから矛盾をやってやろうっていうんじゃなくて、自然にできてるっていうのが素晴らしいですね。

山極

それともうひとつ富田さんの言ってることっていうのは、「すき間」っていうことなんじゃないかと思うんですね。いわゆるものとものの間っていうのは見えないわけじゃないですかものとものがぎっしり詰まっている世界っていうのは。でもその中にすき間があるっていうのはなにか新しいものが出てきたときに、あっこことここの間に余裕があったんだ、こういう思考の余地があったのかということにはじめて気が付くんですよ。たとえば僕らの世界だとね、生態系っていうんですがいろんな動物や生物たちが一緒に生きている。でもものすごくたくさんいていろんな生活の仕方をしてるから、その中で新しい生き方ができるなんて誰も思っていない。だけど新しい種が生まれてくると、おっ、すき間があったんや、こんなに違ったんやと初めて気づくんです。それは我々の弱点でなんかモノができてこないとそのモノとモノの間にすき間があったってことに気づかない。それは僕らの意識の慣性ってやつだと思うんだけど、そういうことをおっしゃってたんじゃないのかな。だからテレビの企画だって、新しい企画っていうのはまさにそういうことをやってるんじゃないかと思うんですよね。既成の番組ばっかり同じようなことをコピーしてやってたら新しいものはできない。だけど、あえて新しいものと思うものを作っちゃって、すき間を無理やりこじ開けてみるっていう話なんじゃないのかなと。だからこっちは結果でこっちはプロセスっていう話を今日はしたんじゃないかなと思うんです。変にまとめました。すいません。

土佐

あとそうですね、このトークはアートサイエンスユニット、京大のフィールドワークなんですが、アートサイエンスユニットの酒井先生、どうです?三人のお話を聞いて。

酒井

まず、正直このタイトルを見てですね、そりゃ創造するのは矛盾だろって、想像に矛盾がないなんてありえないなって思っちゃってたんですが。今日の話を聞いてると、それぞれ想像以上に矛盾で面白いんですけど、北野さんにお聞きしたいんですけど、京大の成績はどうでした?

(酒井氏)

北野

京大の成績は4回まで単位は残ってましたけど、ちゃんと4年で卒業しました。

酒井

4年で卒業したと。非常に京大っぽい感じがするんだけどたぶん京大として高い評価を与えていないんじゃないかなと。

土佐

今?

酒井

いや当時。

北野

当時は経済学部だったんですけどほとんど学部に行ってなかったので。ほとんど土佐先生の研究所に日中いて、午後は映画とったりとかしてたのが多かったので。

酒井

本来の経済はあまりやってなかった。

北野

そうですね。

酒井

それがそもそも京大として矛盾でですね。

土佐

そういえば北野くんの経済学の先生おられますよね、こちらに。坂出先生、ちょっと一言どうですか。このままじゃ立つ瀬がないですよ、めちゃくちゃ言われてますよ。

坂出

北野くんはですね、とにかく単位が大丈夫かってことだけが私は心配していまして。ちょっと土佐先生が働かせすぎているんじゃないかっていう危惧がありまして、いっぺん彼のゼミの先輩からとにかく卒業できるかどうか聞いてたんですけど。本当に連絡・相談しない男でして、いっぺん話したんですけどまあそれで方向性もわかるしどうするかっていうことで。ゼミもあんまりまともに出ていなかったんですけれども。

(坂出氏)

土佐

やっぱり映画を作るためにはやっぱりお金のことを知らなきゃいけないじゃないですか。だから映画と経済について卒論を書いたという美しい話を聞いたんですけど。

坂出

ああ、それは非常に矛盾のある話なんですけど、基本的には僕は彼に2回生、3回生、4回生のゼミ6単位と卒業論文の6単位、12単位供給したということになります。京大の先生は教えることが好きでうまい先生はいるんですけど、僕の場合はあんまり教えないことが大事じゃないかと思ってまして、そういう部分で矛盾を切り抜けていたという風に思ってます。

土佐

ありがとうございます。そうですね、高橋さん。今時代劇ねすごい矛盾抱えてると思うんですけど、今日その話なんか言われるのかなって思ったんですけど、意外とそこはあんまり触れないで、なんかあると思うんですけど。

高橋

え、どういった?

土佐

いや今時代劇売れてないし大変じゃないですか。正直なところ。東映の撮影所がやばいんじゃないですか。

高橋

やばいやばい。いやまあでも一時期よりは良くなってるんですよ。比較的。で、時代劇まあ僕が映画祭を始めたって話しましたけど。その時に時代劇ってものすごく手あかのついた言葉になってて、もう滅んでたんですけども。でもそこに対する郷愁がものすごくみんなあって。時代劇っていうものを守ろうっていうことでものすごい固執してたんですよね。今も、そういう勢力というかもういくら時代劇時代劇って言ってもみんな昔の時代劇を思い描かないくらい使い古された言葉がもう腐りました。言葉自体としてね。だから、今は映画祭始めた当時は歴史映画みたいなことをとりあえず声高に売ってたんですけど。もう最近はね、そういうことを無理にいわなくても、時代劇っていう言葉自体が完全に死んじゃったってことを言ってもあんまりおかしくなくなってきた現状にあって。という意味でいうとだいぶシンプルになってきた気はします。

山極

あのね。いいですかちょっとひとつ。「時代劇は現代劇である」っていうのは、目から鱗だったんです。あ、そうだ。時代劇って例えば未来劇もそうですよね時代劇ですよね。つまり時代という枠組みを変えて実は現代のことをやりたいんだっていう話。これはねすごい発想が、時代劇・歴史劇というのにあるんだなという。つまり僕らはあんなことやって時代錯誤じゃないってよく言うわけだけど、そのアナクロ的なところを利用して、逆に現代で通用しない考えをそこに押し込めて語らせてしまう。そういう意図をはじめから持ってねやってる映画ってどのくらいあるんですか。すべてがそうなんですか。

高橋

本来映画ってやっぱり今いるお客さんに向けて作るものですから、それはすべての映画がそうだと思うんですけど。時代劇っていうものがザ・時代劇っていうかそういうものになっちゃったていうのはやっぱりジャンルに安寧しちゃったというか、そこでもう既知の見慣れたお客さんとだけの会話をするようになって、ダメになっちゃったんですよね。そうなってくるともう江戸時代の出来事を史的に描く、そういう退廃が起こってきてっていうことになるんです。やっぱり本来は時代劇だろうが未来劇だろうがアニメーションだろうがファンタジーだろうがなんでも現在のお客さんに対してコミュニケートしてくるものだと思うので。本来はすべて現代劇ですよね。

山極

たとえば歌舞伎っていうのがあるじゃないですか。あれは江戸時代の前期に流行った。形式的にはすごく昔のことを踏襲してるんだけども、しかも内容もあの時代のものが多いんですよね。それでも観客は現代なわけですよ。だからすごく矛盾しているようなんだけども観客は拍手喝采してものすごく涙流したりしてるわけですよね。あれも映画と同じ発想なんですか。

高橋

やっぱりフィクションの世界をどう純化していくかというかどれだけピュアに蒸留していくかっていうところの歴史というかノウハウが歌舞伎なんかもあると思うんですけど。時代劇というフォーマットをとると大変フィクションの純化というか蒸留化っていうのかシンプルにできやすいっていう気がしますよね。だから物語の世界の密度が大変濃くなる。それをだから歌舞伎もそうですけどそこにある普遍性を感じてエモーションをうちぬくパワーになっていくんじゃないですかね。

山極

とても難しいことをやっていると思うんですよ。文脈からすれば、たとえば江戸時代の衣装とかそういうのはいいんだけども人々の機微とか人々の関係っていうのは当然封建社会だから今とは違うわけでしょ。だけどそこになにかを誘わせるような物語を我々に見せて、で、感動させるわけだからね。そこにはなにかやっぱりトリックがあるんじゃないかという気がするんだけどね。もともとが矛盾をはらんだものなんですよね。で、100年前、200年前と今の人とは違うわけだから。だけど、今の人がたとえばロミオとジュリエットを見てね、あの純愛にねポロポロくるように、そこは作り方として何かトリックというか工夫を凝らしてると思うんですが、そこはどうなんですか。

高橋

それぞれの作品になんというか一種のすさまじさというか迫力みたいなものっていうのはあるはあると思うんですけど一概に一般論としてねこうだというのは、方策っていうのはなかなかないと思うんですよ。しくじり先生の場合は本来NGだったものを全部取り入れたことが正解だったわけで。ロミオとジュリエットにしてもシェイクスピアのオリジナルってだいぶエロ話ばっかりな話ですけどそれをもっとピュアなものとして描いたりとか、もっと雑多なものとして描いたりだとか。っていうのは時々のお客さんに対するボールの投げ方というかいろいろ工夫があると思います。なかなか一つ一つの中でどう工夫があったかっていうのはちょっといいがたいんですけど。でも歌舞伎なんかは本来は忠臣蔵でもだいたい室町時代の設定ですよね。あれもだいぶ時代を拝借したっていう作り方ですよね。そういった形でフォーマットを借りて、舞台を借りてそこに人間をおいてみてドラマを作っていくところになにかフィクションを語る上でのミソはありそうな気がしますね。

土佐

歌舞伎はね、12月に顔見世っていうものがあって翌年の世界はこれでいこうって決めるじゃないですか。あれが世界だと思うんですよ。そういうのに近いような、時代劇をつくるときにすべてを監督さんにお任せになってるのか、それとも歌舞伎の顔見世みたいな今年はこの流行だよこれでいこうというものがあるんですか?

高橋

なかなかそう簡単に入ってないと思いますが企画をね、選ぶときにさっきも言いましたけどほんと今年の歴史映画って内向きの作品が多くて。やっぱりグローバル化の是非というのは置いておいて、フィクションっていうのは内向きになればなるほどつまらないんですよ、これは。やっぱり外にお客さんがいるっていう目で見ないとフィクションって全然面白くなくて。今年でいえば国の民族的な詩人がどうだっていうそういう生涯を描いた作品なんていっぱい出たんですけど、もうことごとくつまらない。そういった企画のあるカラーというか今年の流行みたいなものは感じはしますね。だから歴史劇自体が大変現代に反映するメタファーになってる。

土佐

富田先生に今のお話をコトとモノの関係というか、ちょっと接点があったかなって思うんですけど、どうでしょう。

富田

今のお話を聞いてて思ったのは、ちょっとメガネ替えたのはまた失礼なことを言うかもしれないので、今たとえば内向きになるとつまらないってありましたよね。もっと内向きになればおもしろいうんちゃうかって気がするんですよね。私が先ほどピュアとか純化とかいわれてるところで感じたのは詩的なものなんですね。なんか中途半端に物語なんじゃなくて、それをほんとに自分だけのじぶんしかわからないような詩ができたらそれはまたおもしろいんじゃないですかね。どうですかね。

高橋

それは確かにその通りで、それもまた正解だと思うんですね。

山極

「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」っていうねそれもまた矛盾した話なんだけども、よく言われる話でいうと、富田さんさっきね、究極の治療法は腕を握る、究極かどうか知らないけどね。でもあれをマニュアル化しちゃったらあかんわけでしょ。で、そのへんの機微っていうのは実は科学的には証明できないじゃないですか。しかも関係性なんですよね。個人と個人との。個人と個人との関係性には状況性ってのも入ってくるんだよね。そこがまさにね、科学の立場がなくなることであって最初に定義された宗教・科学・芸術っていうところで、宗教と芸術の間に科学があったんだけど、それは逆じゃないのって思って。宗教と科学が対極にあってね、中に芸術があるんじゃないかな。たとえば安心感ってのは科学では得られないものなのかもしれないですよね。でも安心感っていうのは宗教では得られるわけですよ。それは何かっていうことをいくら科学で考えてもわからない。それが関係性だからだと思うんですね。関係性のことを表現できるのは、科学も表現できるんだけどおおらかに、要するにいろんな形で表現できるのは芸術だと思うんですよ。だから理学に芸術をどんどん入れてく方法ってあるのってことを富田先生に聞きたい。

富田

実は今日は科研費の最終の締め切りの日でして、出しそこなったんですけど、安心プロジェクトってのを今やろうとしてるんですけど。さきほどのような地図でいろんな、医学とか芸術の人とか集まって去年から安心プロジェクトやってるんですけど、昨日ぐらい崩壊しましたね。やっぱり具体的にやってくとなるとモノ的なものまたは形式を、じゃあ具体的にどうしていくんだどう仕上げていくとなると崩壊していく。

土佐

医学と芸術だと芸術療法ってあるじゃないですか。音楽療法とか。あれはダメなんですか。

富田

いや実際上は医学の世界でももう動いてますし、我々話すのは医学でもサービスの分野なんですが、いろいろな分野で実際には動いてるんだけどそれを記述するときにはどうしても矛盾が生じてしまう。モノがわかるという方向では記述ができない。哲学の方もいらっしゃるかと思いますが、弁証法の話になってくるんですが。さっき先生がすき間といわれたのは非常にうまい表現をされたんですね。結局対立するものの中からなんかすき間を見つけるというものは、論理学、集合論的には表現は似ているんですね。

土佐

はい、もうすこししゃべりたいところなんですけど、もう時間が迫ってきてまして20時12分なので。ここで3つですね質問票から選んでですねゲストの皆様にお答え願いたいんですけども。まず北野くんの方なんですが、京都大学の学生さんから。現在私は学部1回生なのですが、北野さん大学四年間は映画と研究室で過ごしたとおっしゃっていましたが、私はいろんなものに取り組んでみるものの一貫したなにかを見つけられずにいます。どのように一貫した取り組みが見つかるものなんでしょうか。いつごろ?とか。そういう感じですかね。

北野

いつごろ?

土佐

だからどのように一貫した取り組みは見つかるもんなんでしょうか。

北野

個別に話聞いた方がいいですね、それは。これ書いた人聞いていいですか。一貫した何かを見つけられずにいるってことはなにか見つけたいってことなんですか?

質問者

いろいろ取り組んではみるんですが、自分が一番何にに向いてるかとか、何をずっとやっていこうってのが見つからなくて。いろいろやってるだけでいいのかなって思いがあります。一方で北野さんが映画っていうのに一貫して取り組んでいるっていうことをお聞きしたときになんかそういうのって魅力的だなって思うんです。

北野

僕はそんなにまじめに考えてないです、全然。普通に映画が見てて好きで。昔からずっと見てて好きで。で、一回自分で撮ってみたいなって思って、撮ってみたら面白かったから映像にかかわる仕事をやっていきたいなというのが自然の流れというか。まじめにどういう風にいろんなことに取り組んで、これは自分に向いてるとか、これは向いてないとかあんまり考えてきてないので。そこは普通に自分の好きなものをやるのが一番いいと思いますけど。その、好きなのがないってことですか?

質問者

そうですね、まだはっきりとは見つかってないですね。

北野

映画は昔から好きで、高校くらいの時になんか映画作りたいなって思ったんですけど、作れなくって高校じゃ。どこでもいいから大学入ったら映画作ろうと思って、で京大。自由なんで4年間で好きなことできるなと思ってずっと。好きなことをやる期間にして、やってきた感じです。だから映画って言っても初めに作ったのは「トイレまで4メートル」っていうホラーコメディの映画をメディア論の授業で流してもらったんですけど、ほんとホラーコメディのくだらない内容で。2作目が、海外の映画がすごい好きなんであんまり日本映画見てこなかったからあえてそれ作ってみようとかしたのが2作目で。3作目実験映画みたいなの撮って、最後撮ったのがシンガポールにロケ行って、お金は土佐先生に出してもらったんですけどシンガポールの苦しんでいるメイドさんに結構不法入国とかでひそかにかくまってもらってるような社会関係論、ちょっとほんとにまじめな2時間くらいのドキュメンタリー映画を最後に撮ったのが4本目かな。好きなことやってください。

土佐

次ですね。富田先生なんですけどもアート視点っていうのがどういうものなのか一言で定義すれば。一言で言えないと思いますけどまとめてください。

富田

まず先ほどの議論なんですけど、今言った方の個人の問題ではなくて今の社会の問題であると思うんですよ。昔は欲望があってそれに対して生産があったんですけども今は生産して欲望を掻き立てますよね。だから彼女だけじゃなくて多くの人が自分が何望んでいるかわからない時代になってるんちゃうかと思いますよね。そういう中でアートというのは僕はわかってないんです。今、芸大とか芸術家の人たちの教育現場に行くと、とにかく何をやりたいのかってことを徹底的に聞くんですよ。それはものすごく厳しい。我々は自分のやりたいことやるのが自由な気がしてるんだけども、何が自分のやりたいことかって見つけるのはものすごい苦しくて七転八倒しながらやっているんだと。だからアート視点はいろんな言い方できますけど、今の話の流れからいうと、自分が何やりたいの、から始めるというところだという気がします。

伊勢

それではどうもありがとうございました。本当にずっと聞き続けたい有意義なディスカッションだったと思うんですけど残念ながら時間が来てしまいました。それではみなさん本日の講演者の方々に大きな拍手をお願いいたします。

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