第5回「京大おもろトーク: アートな京大を目指して」〜顔

2016年7月25日(月)

パネリスト:金剛 永謹氏(能楽 金剛流二十六世宗家)(以降敬称略、金剛)
牧野 圭一氏(漫画家・公益社団法人日本漫画家協会理事)(以降敬称略、牧野)
山極 壽一氏(京都大学総長)(以降敬称略、山極)
川嶋 宏彰氏(京都大学情報学研究科准教授)(以降敬称略、川嶋)
司会:土佐 尚子氏(高等教育研究開発推進センター教授)(以降敬称略、土佐)

土佐

皆さん時間になりました。今回では第5回目ということで、今年になって初めてのおもろトークでございます。新たにまた変わった趣で始めたいと思います。
私は京都大学等教育研究開発推進センターの土佐でございます。司会等々進めさせていただきますのでよろしくお願い致します。
それではですね、まず最初に本学総長の山極壽一先生からご挨拶の言葉をいただきたいと思います。

山極

皆さんこんばんは。山極でございます。私ゴリラの研究者なんですよ。こういう。

(山極先生、ゴリラのお面を被る)

山極

実は猿学って言いますかね、霊長類学というのは、京都大学発の学問でございます。なんでこれ世界的に広がったかというと、我々霊長類学者はサルの顔を一つずつ覚える、これ個体識別っていうんですが、それを始めたわけですよ。今西錦司先生という偉い先生がいらっしゃってですね、お前らサルになってこい、と言ったわけです。で、サルの群れのなかに入って、一生懸命顔を覚えて、一頭一頭に名前をつけて、はいなんとかさんがこうした、なんとかさんがああした、番号じゃなくて、名前をつけたサルがどういう行動をしたかを逐一記録をしていってサルの生活の記録をまとめて、「ああ、サルの社会はこうなってるんです」っていうことをやった、これを学問にしたわけです。
その時に、実は、私もそういうことをしてニホンザルと、このゴリラを覚えたわけですけど、個体識別をどうしたか。顔で覚えたんですよね。つくづく今回「顔」という題名でシンポジウムをやることになってそのことを思い出したら、顔で仲間を識別してるのは人間だけじゃないかと思いまして。サルって顔で覚えてないんですよ。後ろ姿をみたらわかりますから。あるいは犬や、猫だったりは匂いを嗅いだだけでわかりますから。しかも、彼らの顔ってそんなに一つ一つ違うわけじゃない。鳥だってそうですね。何鳥ってわかるけど、何とかちゃんって覚えられるぐらい個体ごとに違って見えないですよね。人間というのはどこからか、進化の段階のある時点から顔ということを物凄く意識し始めた。これはね、ちょっと注目してもいい話なんじゃないかと思います。
顔を相手と向かい合わせるとなんか変な気になるんですよ。だから逆にこういう仮面というものを着ける必要が出てきたんじゃないか。つまり日常的な顔っていうものをそこから取り去って、新たな世界に入るパスポートを手に入れたというのが仮面の世界だと思います。あるいは、その顔を使って様々な世界を演じるっていうことを始めたんだと思うんですよね。しかもそれはかなり新しい時代だと思います。
でもそんなになぜ、我々は顔に注目するのか。皆さん猿の惑星という映画を見たことある方、ちょっと手をあげてください。最新の猿の惑星。ありますよね。ずっと昔に遡ってなぜ人間が絶滅して、猿の惑星になっちゃったのかっていうことをいろいろ事細かに解説している映画が最近2本出ました。あれはですね、医学実験用に飼っていたチンパンジーが突然変異をおこして、言葉を理解し、言葉を喋るようになっちゃった。それが他のチンパンジーやゴリラやオランウータンを率いて、人間に向かって自分たちの権利を訴えるようになる。そういうストーリーなんですけど、その突然変異をおこしたチンパンジー。これ、覚えてらっしゃいますか。目がね、白目なんですよ。白目があって、人間の目なんです。チンパンジーの目をよくご覧になるとおわかりになると思いますが、黒目なんですよ。全然白目がないんですよ。その目に対して我々は知性を感じないんです。ところが白目ができた途端に、つまり人間の目ができた途端に「あ、これは、言葉を喋るよな」ってすぐ思えるほど知性的に見えるんですよ。顔というのはそういうもんで、その顔の中で我々が1番注目してるのはその、白目の目の部分だと思います。
それがどういう風に、能とか漫画の世界ではつくられているのかなぁってのを私はとても楽しみで、今日のお話を聴くのをたいへん楽しみにやってまいりました。是非みさなんもこの素晴らしい登壇者にどういう風なことを言っていただけるのか、そして最後にどんな話になるのか楽しんでお聞きいただきたいと思います。

土佐

それでは今日のゲスト3名のお話をそれぞれ20分ずつお聞きしたいと思います。
最初の登壇者は能楽と能楽金剛流二十六世宗家、金剛永謹さんでございます。
1951年、二十五世宗家金剛巌さんの長男として京都に生まれて幼少よりお父様である巌さんに師事をされ、能楽金剛流二十六世宗家を継承されました。重要無形文化財、総合指定保持者でございます。「舞金剛」と呼ばれる華麗な躍動感溢れる金剛流独特の芸風に、京金剛といわれる優美で艶やかな、艶やかさが加わった芸風を特徴としてシテ方宗家のなかで、唯一関西という根拠地で活躍されておられます。それでは、宗家よろしくお願いします。

金剛

皆さんこんばんは。金剛でございます。どうぞ、ちょっとしばらくの時間、お話させていただきますので、お付き合いよろしくお願い致します。
今日は京大のおもろトークということですが、私どもの方のお能はあんまり面白いものじゃないので私がお話するのはどうかなとも思うんですが、今先生から猿学というお言葉がきてドキっといたしました。実はですね能楽というのは、今使われている能楽は、ものすごく近い時代の言葉なんですね。明治以降、我々のやっているものを能楽と呼びます。それ以前はですね、単に能と呼ぶか猿楽と呼ぶんですよね。猿楽の能とかね。それが我々の芸でございます。今日はその話をする予定はなかったのですが、まず猿学という話が、お言葉が出たので、少しそのお話させていただきます。
なぜ我々の芸能が猿楽と呼ばれていたのか、ということなんですけれども。実は650年ぐらい前に世阿弥が能を大成します。それ以前はもう猿楽なんですが、日本に入ってきた時の芸名はですね散楽(さんがく)というんです。散る楽。これは中国から日本に渡ってきた芸、曲芸みたいなものですね。中国の雑技のようなものなんですよね。その散楽がいつの間にか猿楽と呼ばれるに変わっております。これは幾つか説があって、「さん」の「ん」が「る」に訛ったのだという簡単な説明をされる方もございますけども、この散楽の曲芸のなかに猿の曲芸があって、どうもこれに人気があったから、全体を猿楽と呼んだらしいんです。そういう曲芸がなぜ我々がやっているようなお芝居に変わったかと言いますと、この雅楽と散楽が同時に日本に入ってくるんですけど雅楽は舞、音楽の芸能ですのでお寺、宮中といったところに残るんですが、散楽は曲芸だから一般庶民の人のところにどっと広がるんですよね。お祭りの余興にそういうものをやっているんですが、曲芸がだんだん、曲芸だけじゃ飽きられるなというので、お芝居をやりだしたようでございます。それでお芝居をやりだした段階から能と呼ばれるんですね。散楽の、猿楽の能。ですから猿楽と呼んでた段階は曲芸です。それで、猿楽の能と呼ばれるような段階でお芝居に変わってきています。それが650年ぐらい前に世阿弥が今あるようなものに、高度なところに変化させて、今呼ぶところの能楽というのが出来上がってきております。
今日のテーマが顔というテーマでございます。能の方で顔と言いますとすぐ皆さん、能面を思い浮かべられると思います。「おもて」と我々の方は呼んでいますけれども、これはある年齢にならないとかけないんです。昔ですと元服という時がありまして、十五歳とか十六歳。その辺からおもてをかけます。それまで子どもの間は自分の顔を出して舞っております。ただ、この自分の顔を出していることを能の方では、「しためん」と呼びます。字は「直面」と書きます。直角の直と面、直面。ですから、仮面だという感覚で表情を作らないんですね。能の方では。歌舞伎とか見ていただくと、すごい顔で表情を作られます。お能の方では大人になっても面をかけない曲目もありますけれども、そういった能でも、明らかな表情はつくりません。演じている最中に力が入って「んー」と力がこもっているような表情は出ることがあっても、怒った顔だとか泣く顔、笑う顔、そういったものは絶対能の方では作らないんです。それはだから、動かない仮面の一つだという感覚でございます。
今日は少し仮面を、仮面といいますか能の面を二つほど持ってきて見ていただきながらお話をさせていただこうと思っております。一つはよくご存知のこういう般若という面を持ってきております。もう一つはこういう小面という面を持ってきてます。

(面を箱から取り出して説明される金剛氏)

金剛

この二つで能面のタイプはお話できるんですね。一つは瞬間表情をしておりますね。ガッとした。こちらは、そういう瞬間的な表情じゃない曖昧な表情をしておりますね。能の面にはこの二つのタイプがあるんです。この曖昧な顔をしているタイプと、こういう瞬間的な表情をしているタイプ。そして、この瞬間的な表情をしているタイプの面は能舞台に長く居ません。長くて10分でしょうね。5、6分というのが多いんでしょうが。10分程度しか舞台上にこれは居ません。こちら(曖昧な表情をしている面)は長いんですよね。長いのになると一時間を超えて舞台上に存在しています。瞬間表情がなぜ短くて、この中間表情がなぜ長いのかというのは、私も上手く説明はよういたしませんのですけれども、この表情について皆さん昔からすごく不思議なイメージを持たれた方が多いようですね。皆さんこちらの方を一生懸命研究されます。これに色んな名前を皆さんつけられたんですね。古い研究者の方が。ある方は、これを中間表情と呼ばれました。中間表情。ある人はなんと言われましたかね。要するに、全ての表情だというような意味の言葉を使われている方もありまして。だんだん色々研究が進んできまして今現在ではですね、一応無表情と呼ぶんです。今までの中間表情とか、色んな言葉を使わずに無表情。
この無ということが実は禅の「無」と繋がっていると今考えられております。禅の「無」ってどんなものか、どういうものかご存知でしょうか。禅で「無」。普通「無」っていうと、何にもないものが無ですよね。ところが禅の方では「無」は何にもないものじゃないんです。全てがあるから「無」なんですよね。全てが寄せ集まると無になるという感覚なんです。例えば絵の具のあらゆる色を混ぜ合わせると、無色になるそうでございます。この太陽光線やこの空気中の光線も透明で色が無いように見えていますよね。でもこれはプリズムで割ると色が出てきます。虹もそうですけれども、要するに色んなものが合体すると「無」になるということが禅の考えなんですね。あらゆるものを寄せ集まったところが「無」。それが能の方には入っていて、無表情というのはですね、決して何にも無い表情ではないでないと考えられております。あらゆる表情を集約したものがこの「無」の表情と考えられているんですね。
これ実は能面というのは左右対象じゃないんですね。陰陽といいまして、陰と陽をつくりましてですね、左右ちがいます。そういう特徴を持っていますので少しね、確かに表情が少し動く部分もございます。でもこれは実は目の錯覚なんです。やっぱり「無」なんですよね、基本的には。その全てが統一されている全ての喜怒哀楽、全ての表情から「無」までいくところの全てを、ここにもってきているのが能面の無表情という、と我々は考えております。
そしてですね、これ実はどんな役に使うかというと、むちゃくちゃたくさんの役に使います。人称がないんですよ、実は。それは「井筒」の女であったり、あるいは、式子内親王であったり、葵の宮であったりもうそのあらゆるある程度の若い女性なら全てこの面を使います。小野小町であったりなんでも使うんですね。だから能面っていうのは実は人称が、一人称でも二人称でもない。だから無人称という言葉を使う方もありますし、原人称という言葉を使われる方もあります。原点の人称だという。そういうまた変わった性格を持ったものでもございます。結局これは何なのかというと、能の役者は面をつけることによってすごい縛りを受けていますよね。表現の縛りも受けますし、発声するのも難しい、ものも見えない。要するに、これはそういったものを呼び寄せてくるための道具のようでございます。その霊をね。無人称のこういうものに演者がつけて舞台上で演じることによって、ある人物を呼び寄せてきて、そこでその人間の役、人生なんかを演じるという、そういう性格を持っているものがお能でございまして。面自体には、小野小町とか、そういうある一人の人間を表すものは持たないんですね。結局舞台上で使っている時に役者の演じる、唄いが文句をうたわれる、そういったもののなかで、ある人間に変身していく。そういう性格を持っているのが、能のこういった無表情の面の特徴でございます。
もうちょっとこの面について説明させていただいます。これは実は名物の一つで豊臣秀吉が愛蔵していた面でございまして、雪の小面というものでございます。ですから室町時代からあるものを我々は今も使っております。今作られた面で演じてもいいんですけども、どうもやっぱり能の役者は能ができた時代のものを使って、それもたくさんの役者の人がここに込めてきた想いをもらいながら、演じることを非常に大事にしております。私もこの面は何度使いましたかね、十回ぐらいしか使っていないですけど。やはりかける時に何十代、何十人という人が使って舞われたときの、その想いというようなものが、ふっと面をつけて舞うときに、こういう面からは感じるものでございます。
もう一つの面、こちらもすこしご説明させていただいます。これは、般若という面で女性の鬼でございます。能では男の鬼も出るんですけども、これはものすごく簡単に見分けがつきまして、角が生えていたら女性の鬼でございまして、男の鬼は角生やさないです。能面では。すぐ思い起こされると思うんですが、結婚式で綿帽子をおかぶりになりますが、あるいは角かくしと、ああいうのは能面が女性の鬼が角を出すから角かくしというんでしょうね。この角が生えている場合、女性の鬼でございます。この般若というのはですね、鬼女と呼んでもいいんですけども、能の方では般若と呼んでおります。これは二つほど説があって、般若坊という人が最初にこの面を作ったから、般若だという説もあるんですけども、もう一つの説はやっぱり、この面自体の性格が般若だから般若と呼ぶんだという説ですね。こちらの方が正しいでしょうね。般若というのは菩提心なんですよ。この人は今迷っているけども、この中には菩提心があって、最終的には浮かんでいく、成仏していく、そういう女性だということを名前で表していると思われます。この般若という面は、ちょっと変わった面で普通の鬼の面じゃないんですね。これ、上と下で顔が違うんですね。上はですね、決して怒っている女性じゃないんですよ。嘆き悲しんで、苦しんでいる、苦しみの表現を上につくっております。こうしてみると、怒っているんじゃないですよね。もっと怒っているなら皺がキュッと寄って、怒るんだけど、「嘆き」をものすごく持っている女性なんですね。下はしかし、怒っているんです。この造形はですね、お能の演技からできてきたと考えられます。この女性は鬼と、恨みを持って鬼として舞台に出てきます。そしてそれを祈りで鎮めようとするお坊さんとか、山伏と、法力と争うんですね。祈られて苦しいと、人間は苦しいときは、あぁ苦しいとこうなりますよね。
(前かがみになりながら)
そうなった時に苦しむんです。苦しい、とね。

(般若の面も前に傾ける。苦しみの表情に見える。)

金剛

しかしこのままでは祈り伏せられるから、今度はやっぱり戦わねばいかんですね。襲いかかる瞬間に角を振り立てて、バッと

(前に傾けていた般若の面を立てて正面に向ける。)

金剛

その時に怒っている表情が現れるんですね。祈られて苦しい(面を前に傾けて)、襲いかかる(面を立てて)と、その演技からこの面は造形されています。ですから悲しみ、苦しみ、怒りというのが合体しているんですね。般若という面はたくさんあるので見慣れておられるから、ちっとも不思議に思われないんですけど、すごく不思議な顔をしている面でございます。そして、こういう、人間でないものは能面では決まりがありまして、目とか歯とかに金具を入れてね、目を光らせるんです。目が舞台上でキラッと光っていたら、これはもう生身の人間でないと思っていただいたらいいんですね。このお話を外人の方にしたことがあるんです。外国でもやっぱり、霊は目が光るんですか。と聞いたら、光るんですよと言われてね、外国の方も。ただ、金色じゃないと。青く光るそうです。目が光るということ自体、もう生きている人間じゃないという。日本・東洋に限らず西洋においてもあらゆる人間は、目が光るっていうことを、なんというか、恐ろしいものとか、陰なものという具合に感じるものを持っているようでございます。
お時間がきましたので、今日のお話はこれぐらいにさせていただきます。

土佐

どうもありがとうございました。金剛永謹さんでございました。
それでは二番目のゲスト、漫画家の牧野圭一さんでございます。牧野さんは、皆さん京都、大阪近辺に住んでいらっしゃるのでご存知かと思いますが、御池のほうに京都のマンガミュージアムがあります。このマンガミュージアムの設立者でございます。もともと読売新聞の政治マンガなど、いろいろ連載されていて、京都精華大学の漫画学部を作られた先生としても有名でございます。それではよろしくお願いします。

牧野

漫画家の牧野でございます。能の話から一転して漫画ですが、この取り合わせをお考えになったのは土佐先生でございまして、このコントラストはどういうことになっているのか、ですね。私の世界ではごく当然で、コントラストがはっきりしているほうがお話もしやすいし、表現もしやすいんですが、今回300人ぐらいいらっしゃっているということですが、どういうふうにお考えになるかですね。
この今回のイベントのチラシはお持ちになっているんですかね。これを今ここの画面にちょっと映していただけたらと思いますが、お手元にもしもお持ちであれば、ご覧ください。二頭身の私の似顔絵が描いてあります。横の方にはトランプさんの、これちょっと小さくてわかりませんがね。今話題のアメリカ大統領候補のトランプさんを描いてあるんです。パンパン、ピストルを撃っている絵なのですが、毎日暴言を吐いているっていうのをこういう表現でするわけなんですが。

(トランプ氏の似顔絵)

牧野

今日は、顔というテーマでお話することになっていますね。漫画でいうと、似顔絵を描くわけなんですね。似顔絵にもいろんなレベルがあるんですが。これ今皆さん見て、そんなに不自然だとは思われないかもしれませんが、これ2頭身、2頭身以下ですね。1.5頭身か2頭身ぐらいですね。これは今回わざと描いたんですが、トランプさんはほとんど一頭身。首の下にすぐ足をだすんですね。これリアルな絵ですから、不気味ですよね。これを似てると思われるかどうかわかりませんが、私でございまして。

(スクリーンに映る自身の似顔絵を指しながら)

牧野

大きなメガネとモジャモジャ頭なんですよね。それでもってわかっていただこうとしているわけなんですが、この前に、世界中の子供たちが初めて描く絵ですね。頭足人間っていうんですね。頭足人間っていう世界中の三歳児、二つか三つの子供たちが初めて絵を描くと、こう描いて。

(丸と棒、点を描いてそれに髪の毛をぐしゃぐしゃと描く。)

牧野

これが何かって。ママ。上手に描きなさいとか下手だねとか上手いとか評価されない、二歳児ですから。「あ、なんとかちゃんお上手ですね。描いたね。これ誰ですか」と。すると「ママ」っていうんですね。ここにですね、なぜか共通項があるんですが。子供たちはこういうふうに描く。

(先程描いた顔に、点のような手足を描き加える。)

牧野

これは、この点はなにかっていいますと、手足なんですね。これが手で、足。私は心理学者じゃないんですけれども、三歳児まではお母さんの顔だけ見ている。顔だけ見ている。だからお母さんを描くと、顔はあるんですよ。手足まで、身体まで見てないんですね。そうすると、世界中の子供たちがこういう絵を描く。もう少し進んでも、こうなるだけ。
(先程描いた点のような手足を輪っか状に描き直す。)
これを、頭足人間とか、頭足人とか言うそうです。要するに、子供たちの発達段階でこういう認識をしている。 それと私の描いたこれとそう変わらないんですね。頭足人間。
(自身の自画像を指しながら)
これはもっと実験的に、トランプさんと北朝鮮のトップを描いています。リアルな顔に足だけつけると、不気味ですよね。不気味の壁とかよく言いますけど、不気味なんですね。ですから、このほう(子供の描いたお母さんの絵)がずっと可愛らしい。
(新しく同じように円を描いて頭足人を描き始める)
自分の見た通りに、こういうふうにお母さんを認識して、頭にモジャモジャしているのがあって、とにかくここに黒い点があって、これが私を見ている。私もお母さんを見ている。お母さんは子供のことをよく見てくれている。だけど、ただ顔だけ浮いているわけではなく私を抱っこしているわけですから、こういうふうに表現する。頭足人間。
(先程の円にモジャモジャの髪、黒い点の目、棒のような手足を円から突き出るように描き足して、頭足人間を完成させる)
私はご紹介にもありましたけれども、京都に来てですね、清華大学で漫画学科、漫画学部の創設に関わらせていただきました。その後で京都造形大学でも漫画学科をつくって、そこで漫画を教える、漫画学科教授という厳しい肩書がついたのですけど。しかしですね、悪口言うわけではありませんが、これは受け入れられなかったですね。はじめは、芸術大学に漫画をいれるとは何事だ。特に少女漫画のあの大きな目は何事であるかと。あれはですね、いままでの芸術大学の規範である美術解剖学からいうとですね、あれは許せない。少女漫画の大きな目はですね、こういう
(少女漫画の絵柄で女の子の顔を描き始める)
私の妹は少女漫画家なんですけど、里中満智子さんが先生ですね。こういうのですが、概ねこんなかんじの絵がありますね。
(大きな目が特徴的な女の子が描き上がる)
少女漫画の典型的な。これだけの大きな目だと、つまり眼球っていうのはこのくらい、でかいんだ。

(顔の輪郭から大きくはみ出すように丸を描いて眼球の位置と大きさを示す。)

牧野

解剖学の常識から言って、顔からはみ出すような目っていうのを描くのは許せないと。少なくとも、大学にそういうものを持ち込んでもらっては困る。それがですね、たった10年前、要するに、京都精華大学に漫画学科をつくったのは2000年です。まだ16年しかたっていない。竹宮惠子先生を鎌倉から、「是非お願いします。約束通り漫画学科を創りましたから、先生おいでください。」とお呼びしました。竹宮先生もあまり聞きたくない言葉をたくさん聞いたと思いますが、15年目に学長になってしまった。今、京都精華大学の学長は竹宮惠子さんです。
目の大きな少女は許せない。こんな理屈に合わないものは、大学に入れるべきではない。大学で教える漫画というものはゴヤ、ロートレック、ドーミエ、こういう要するに名画の中のユーモアとか風刺。これは許しましょうと。しかし頭骨から、頭蓋骨からはみ出るような目玉を描く絵というものは、大学に持ち込んではいけないと、本当に大真面目に議論されました。私はよく言う、吊るし上げですね。「そういうものを京都に持ち込むな。それは東京だけにしておけ。」という感じで、もうほとんど犯人扱いでありましたけれども、まだ生きていますね。(笑)当時本当に身の危険を感じたぐらい厳しかったですね。ですけど、ご案内にもありましたようにマンガミュージアムまでつくらせていただきました。つまりそういう拒絶反応もあるけれども、東京とか他の都市にくらべて、はるかに京都はそういうものを取り入れていく許容性と言うべきか、寛容なところもある。古い文化を育てるっていうことは、いつも新しいものを最初に取り入れていくからだというのが、非常にわかりやすい説明でありました。この目玉の大きな少女、これを受け入れて今京都精華大学は、漫画を非常に大切に育てる学校になりましたし、それを見ていてライバルの京都造形大学も、「うちもつくる」と。時の理事長さんはですね、「牧野さん、俺は正直に言って漫画が大学に、芸術大学に入ってくるのはよくわからない。だけど皆がもうそろそろ、理事長、もう入れなきゃだめですよ。という説得で入れることにした。」というふうに本音をおっしゃっていました。それくらい漫画の価値観、漫画の視点は大きく違う。
ヨーロッパ型の解剖学、ミケランジェロとか、要するにルネサンス期の皆さんがご覧になっている、いわゆるヨーロッパの名画というものの描き手は、美術解剖学と言いまして、本当に自分で今のような明るい場所ではない、暗い地下室で遺体を解剖していました。「ははあ、皮膚の下はこうなっているのか、こういう筋肉があるから手が動くのか」と。そういう勉強や研究をして、それをベースに絵を描いた。日本の芸術大学というところはそれを規範にして大学を作ってきたのですから、頭蓋骨からはみ出すような絵はとても許せない。つまり評価の対極にあったわけですね。だけど世界中の子供たちは、さっき申し上げたようにお母さんの顔の周辺に点で表現する。
(再び先程と同じように頭足人間を描きながら。)
目はあって私を見つめてくれている。お鼻もある。口もある。これがお母さん。ここに、こういう認識をしているのですね。これが上手いとか下手とかという評価ではなくて、「私が認識しているお母さん」はこれなのです。上手か下手かじゃないのです。書きたいのです。お母さんを書きたい。お友達のなに子ちゃんを書きたい。隣のみおちゃんが、今はみおちゃんって言わないかな。さゆりとか、それも言わないですね…。(笑)78歳だっていうのがバレてしまいますが。時代が変わっても、今の子供たちもみんなこれを描くわけです。アンパンマンのやなせたかしさんが言っておりましたけれど、僕は子供たちが描く、描けるように描いているのだと。
(アンパンマンを描きながら)
丸をかいて、丸をかいて、点々で、手も丸だ。誰でも描けるのですね。これでヒーローをつくって、たいへんな人気者をつくりあげました。上手いか下手か。サザエさんの長谷川町子さんも、やなせたかしさんも、漫画界では下手だ下手だと言われました。下手だ下手だと言われた人が、みんなたいへんな成功者、売れっ子になって活躍したわけですね。
これが漫画家の顔を捉えるという…。これはですね、私に対して言っている、なんか文句を言っている、私の中のガン細胞です。ガン細胞の擬人化というのですが、「嫌うなよ、お前のなかのガン細胞だぜ。死ぬるも生きるもお前と一緒だ」というようなことをここで、吹き出しの中で言っているのですが。つまり、漫画にタブーはないのですね。これは描いちゃいけないということはないのです。特に日本の漫画はそうです。一神教の世界だと、タブーがあります。ムハンマドさんを描いてはいけない。要するに教祖様を漫画などにしてはいけない。共産党の中国のトップでもそれは嫌います。似顔の漫画にする、風刺漫画にするっていうことはほとんど許されないのですね。笑いを取るわけですから。しかし、子供たちは何も教えなくてもこういう認識をしているのだということです。
いわゆる解剖学から始まったヨーロッパ絵画、日本の芸術大学の評価基準というものはヨーロッパの基準できています。ところが今、日本の漫画が世界からクールだ、かっこいいとフランスでも受け入れられているというのは、この全くヨーロッパ型の評価基準ではない三歳児の描く頭足人間が象徴しているんだ、というようなことが前後の先生とどう繋がるのかというのは分からずに言っていますが。後から、学長さんを交えた統括があるようですので、そこでまた言い訳をしたいと思います。これで私の時間が参りましたので、終わります。

土佐

牧野圭一さんでございました。
それでは次にコンピュータで顔を見る、画像認識の研究者をご紹介しましょう。本学大学院情報学研究科、知能情報学専攻の川嶋先生でございます。よろしくお願いします。

川嶋

京都大学の情報学研究科の川嶋と申します。今日はこんな機会をいただいて、どうもありがとうございます。私の方からは、またさらにコントラストの違う話題なのですが、コンピューターは顔をどう見るかということについて、ちょっとお話をしたいと思います。

川嶋

もともとずっと画像をコンピューターで撮る、要するにカメラを繋いで画像を撮ると。で、そこから何が映っているか、どんな動きがあるのか、そういったことを認識するというような研究をしてきました。その中でやはり、顔っていうのはかなり面白いテーマでして、以前に顔を扱った研究も行っていまして、今日はその紹介も少しさせていただければと思います。
まず、コンピューターと人の「目」の違いというところから見たいと思うのですが、人の目はレンズがあってですね、網膜がある。光が入ってくると、視細胞、例えば、実は視細胞は大きく二手に分かれていて、色をみる細胞と、動きとか白黒に感じる細胞があるのですが、人間も赤とか緑とか青に反応するような三種類ぐらいの細胞がある。で、ここの情報が脳の後ろ側の第一次視覚野に入ってきて、ここから脳の中での処理が始まるということです。網膜から映った像が、処理されながらここに入ってきてくる。

網膜断面図:http://webvision.med.utah.edu/book/part-i-foundations/simple-anatomy-of-the-retina/, 視覚野:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Constudeyepath_ja.png (by RobinH, translated by was_a_bee.)

川嶋

じゃあコンピューターのほうはどうかというふうに考えてみると、コンピューターはカメラが繋がっています。やはりレンズがあって光が入ってくる。ここに光が電気信号に替わるような素子(フォトダイオード)が並んでいまして、上にやはりこういうRGBのフィルターがある。高いカメラだと実は3枚あるのですが標準的な1枚の場合にはこういうフィルターがあって、あとで赤と緑と青の値を相互に補完していくということが行われて、画像が電子回路に入ってくるわけです。そうすると入ってきた画像というのは、例えばデジタル画像には、ご存じだと思いますがピクセルというものがありまして、それぞれに赤と緑と青の値が入っている。この辺は緑が強いですし、この辺は青が強い、ここは赤が強い。そういったピクセルが並んでいる訳です。これが処理の入力です。そういう意味で言うと人間の網膜の像が入ってきて処理が行われるところと近いのですが、要はそれを脳で行っているということですね。ものが見えたり意味が分かったりするという認識は全部脳が行っていますが、コンピューターのほうはこの箱の中にCPUプロセッサーが入っていまして、そこで行われているということで、若干類似点もあるのかなというふうに思います。
コンピューターが顔を見る時は、実はいろんなアウトプットの方法があります。誰が映っているかを認識する、フェイスブックだとマウスを置くとだれが映っているのか名前が出てくるわけですね、今は。コンサートのチケットの購入なんかにも顔認証を入れようと、そういうふうに人を認識するような話もあります。もしくは、年齢ですね。何歳ぐらいの年齢で、男性か女性か。そういったものの属性を推定したりとかです。さらにはその動きとかですね。こういう表情の場合、これは少し怒りの数値がちょっと高いのかなというかたちで表情を認識する。そういったことをコンピューターは画像が入ってきたときに行っていくわけです。
これが「出力」ということになるのですが、じゃあ「入力」と「出力」が、最初は画素が並んでいるだけ、色が並んでいるだけ、それがなぜこういう「出力」ができるのかというところなのですが、今の主流のプロセスはだいたいこんなかたちになっています。

川嶋

最初はやはり顔を見つけてくる、どこに顔が映っているのかという事が必要です。今日のポスターの画像で実際に顔を検出してみたのですが、顔が映っているところ、顔と認識されて、こうやって抽出されてくる。実はここら辺(川嶋先生の写真の後ろの暗い部分)も認識されているのですが、実はうっすらとここに顔があって、それが検出されている感じです。そのうちの一部を取り出して、今度はその顔の特徴点、要するに眉毛の点だとか、目の端だとか、目の周りだとか、口の周りだとか、顎など、そういうのを取ってくる。人物の顔の認識を行う場合は、この特徴点をベースに大きさと位置を合わせていくわけですね。それから、もともと登録されていているものと照合してあげて、一致するかどうかで顔認証をします。
一方で表情の方では、顔の特徴点は非常に大事になってくるので、より詳細に解析していく。当然顔の向きなど、そういったものも計算しながら、各部位がどういうふうに変形しているか、眉毛がどのくらい持ちあがっているか、そういったものもすべて数値化して統合して表情認識をしていく。そういった流れになります。今日はですね、このスライドの下側の流れ(表情認識)をメインに紹介したいと思っています。

川嶋

特徴点の検出というのはここ数年でかなり精度が上がってきているので、どういう方法かというのを少し紹介させていただきたいと思います。基本的には形のモデル、あと見た目のモデル、この二つを組み合わせていくということになります。形のモデルというのは簡単に言うと、目があってそれが横に並んでいる、下に鼻があって、口がある、そういう配置関係ですね。この配置関係で許される配置関係、許されない配置関係というのがあります。顔らしいかどうか、顔のパーツらしいかどうか、表情が変わると当然配置関係もずれるのですが、どこまでそれを許容するか、それをデータから学習しておくということになります。当然こういうのは、顔以外のたとえば肺の動きであるとか内臓の形とか、そういったものにも使われているモデルでして、形状を使っていきます。
もう一つは見た目ですね。見た目に関してはふたつ流派があるのですが、一つはこういう特徴点の周りのテクスチャーです。顔の柱というのはちょっと三角のようになっているとか、そういった特徴をそれぞれ局所的に見た目を持っておくということでやります。これのいいところは、多少はある人を学習するときに使ったデータを、また別の人を入力してもその人に対してもよく動くということで、かなり今こちら側の方法が主流になっている感じです。もう一つは、つい5年から10年くらい前まではこちら側の方法がかなり主流で、こちらは顔の中のテクスチャーをそのまま使いましょうと。こちらもいいところがありまして、顔のこちら側の形状モデルと合わせるとCGの顔の生成みたいなことができます。実は今回のポスターで顔が並んでいるところがあるのですが、あれも実はこのモデルを使って生成した顔の画像です。あれはコンピューターで生成した顔なのです。学習しておくと実写に近い顔の形の生成ができる。よくCGとか唇の動きを音にあわせて、しゃべるときに口をアニメで動かすとかいったのは、こういう方法でやったりしています。
こういう特徴点の検出があるのですが、あともうひとつ出力の方で話しておきたいのが、表情認識の最後のところで、どういう表情の分類にするかということです。これもいろんな議論があるのですが、よく使われるのは、実はログカテゴリーと言って、幸福とか悲しみ、驚き、恐怖、怒り、嫌悪ですね。確かダーウィンのあたりでですね、万国共通の感情としては7種類だったと思うのですが、そこからきています。またポール・エクマンという方が70年代にこの6つに関しては万国共通の表情だよということをかなり詳細に調べまして、いろんな議論もあるんですが、今かなりの認識方法ではこの6種類か、もしくは何種類か加えた大体10種類くらいの表情に認識しようということでいろいろ取り組んでいます。いくつに分類するかほんとうにいろんな議論がありまして、喜怒哀楽なのか、もしくはさらに二つ追加する。もしくは、中国だと五情という形だったと思うのですが、いろんなカテゴリー分けがありますが、まあ大体これが基本になっています。実はそういう表現も、例えば二次元でさらにマップされたりしています。横軸が「快・不快」で、縦軸が「興奮度・活性度」で、喜びだとポジティブでかつ活性度が高いとか、そういったような分類もできるよ、というような話もありまして、コンピューターで最後にこういった形で出力するようなこともあります。

川嶋

じゃあどうやってこういう認識をしていくかということなのですが、一番よく使われている方法というのは、FACS(Facial Action Coding Systemの略:顔動作記述システム)と呼ばれる方法で、これもポール・エクマンらの提案したものです。要は各部位の変形情報の足し合わせで表情を検出しましょうというものです。例えば驚きであれば、眉の内側が上がる、外側も上がって、上瞼が上がる、かつ顎が下がる。で、これで驚きだということですね。1+2+5+26って書いてあるのはこの番号なのですが、こういう表現の仕方でやります。実はコンピューターでやるときも、まずAU(Action Unitの略:各部位の変形情報)、これをまず学習しておいて、顔を読み込ませた時に「今AU1番が高いよ」とか、そういうことを出力できるように学習しておきましょうというようなことをやったりします。
こういう組み合わせで、ということを考えていくとLINE(スマートフォンのチャットアプリ)とかで、顔文字の代わりに使えるかもしれないなと思いまして。例えば、「今から向かうわー」とか言って、AUの足し算で見せると、「46+12+27」となります。まあわからないですね。間違い無く はてな が返ってくるか、スルーされるかだと思いますが。実はこれは、こんな感じの表情ですね。46番ウインクですね。12番がちょっとこう頬が上がって、27番で顎が下がる。このぐらいの情報量ですね。

川嶋

こういった感情による表情の表出は、実は自分の状態がこれで伝わるわけですね。相手は読み取ってくれると。ただ、今のLINEの話のように、実は「伝える」っていう話もあってですね、表情というのは実は感情だけじゃなくて、意図的に作っているときもかなりあるだろうと。獲得過程を見てみると、もともと笑うとか泣くとか驚くというのはあるとは思うのですが、後天的に生まれてからずっと親の表情とかを見ているわけですよね。そうすると、いないいないばあをしてみたりとか、あとは表情遊びで親の顔を真似てみたり、その顔を親が真似てみるとか。相互に真似し合っていると、どうもなんか繋がっている感覚がするとか、そういったコミュニケーションの手段としてよく使われるのではないか。もしくは、アメリカで歩いているときに誰かとすれ違う。目が合うと、その時に必ずこちらも少し笑顔になって挨拶をするわけですね。もちろん元々は敵ではないよということを示したいというのはあったのかもしれないのですが、やはりそれも社会的なある種のルール、規則になっているというのをアメリカに行ったときに非常に強く感じました。そういった文化的な、もしくは社会的な文脈での表情の作り方というのはある。もともとの感情に意図がオーバーライトして、表情が出ているよと、要はコミュニケーションの手段としての表情だよ、ということを考えながら表情認識をしなきゃいけないのではないかなというふうに思っております。
実は今はまだ感情レベルでやっています。やはりFACSとかでやっていくことの限界がとこかにあってですね、エクマン自身も表情の持続とかタイミングのズレ方とか、そういった情報が意図的な表情を扱うのだったら大事だよということを言っています。それではどういう表情の記法が今後いいのかなということで以前考えた方法がありまして、要は顔の各部位がパートだし、動きが音符だと考えると、いろんな動きが顔の中で統合されていると。英語だと統合とか組織化とか” orchestration”という言葉を使うのですが、そうすると顔の中にもなにかしらオーケストラがあって、なにかこう動きが統合されて、組み合わさって表情を作っている。そうすると音楽のような形で、顔の中の表情を捉えられないかと。これはピアノロールでメロディラインですし、これはあのアバーノーテーション、舞踏句ですね。各ボディパートがどんな動きをするかを記述する。時間軸上での動きを見るわけです。そうするとこれはある種、和音みたいな形になっているので、動きの足し算ということですね。

川嶋

やはりこの時間軸上で、こういう譜面の形で、何か表したい、表情を表したいということで、以前提案したのが表情譜という表現方法です。顔パートがこうある、眉が上がるとか下がるとか、要は要素的な動きが切り替わる。そんな形でメロディのように、顔の部位の動きを捉えたいというような方法ですね。これをいろんなパートについて行うわけです。ちょっと口は複雑な動きがあって、しゃべったりすると特に複雑な動きがありますが、一つの音符にあたる、モードと呼んでいますが、あるモードはすぼめるとかですね。こういった動きを関連すると。こういった記法にしておくと、動きのタイミングと持続長が見えてくるかなあというので、実際やってみた話がありますので、ちょっと紹介します。

川嶋

これは入力が画像の系列だと。画像を、先ほど言ったトラッキングで特徴点のトラッキングをして、表情によって今の譜面みたいな形に変換する。こうすると持続長とか動きのずれ方が解析しやすくなるので、そこから意図的な笑顔とか、自発的な笑顔を分離できるような解析ができないかということです。
おもしろいのはこれが逆向きにも使えてですね、表情を与えることができるのです。ここから今度は画像の系列が形成できる。つまり音楽を再生できる形で表情を再生すると、映像が出てくる。そういう枠組みを提案してみました。例えば目の動き、頬の動き、瞬きしたり、笑うときに目が細まったりするわけなのですが、ここから一回音符として使うための動き、単純な動きが何通りぐらいあるのかな、それそのものを見つけてくる。同時に自動採譜ですね。譜面を自動的に獲得できないか。入力はこのデータです。y座標を見てみると、まばたきがあったり、目が細まったり、そういうデータですね。

川嶋

これをちょっと詳細省いていますけど、似たような動きをどんどんまとめていくと。最初は全部違う動きだってことで切っていきますが、だんだん似ているのをまとめていくと最後は2種類ぐらいになって、細まる動きと開く動きぐらいになります。実際に得られた表情はこんな形なのですが、これが各部位ですね。

川嶋

この縦軸、それぞれ違う動きに色が付いているのですが、それぞれまとめた動きを12個ぐらいにしたときに再生してみると、これが再生された生成された動きですね。(生成された表情の動画を再生する。)CGの顔になります。そうすると瞬きとかは残っているのですが、わりかし自然なのかな。こっちは最終的に2個にしています。(もうひとつの動画を再生する。)各部位2個ぐらいにしてしまうと、瞬きも消えてしまって、かなりロボット的な感じになっていますけど、まあこういう動きになってくると。
で、こういう生成ができそうだ、じゃあ認識に使えるのでしょうかという話になります。要は、意図的な笑顔と自発的な笑顔。こういった笑顔がそもそもコンピューターで判別できるのか。実際にデータをとってやってみました。結構データ取るのは大変で、意図的な笑いの方は「作り笑いをしてください」でいいのですが、自発的な笑いは最初の方は冗談を言い合ってがんばって笑わせていたのですが、ちょっと限界を感じまして漫才の映像を見てもらう形にしました。そういう形で、6人ぐらいの実験参加者でやっていただきました。私の場合を見てみると、意図的な場合は全部のパーツが同期しやすい。笑うときなぜか、下の方、口の方からだんだん動きが始まるということもあって、動き出しのずれ方をうまく縦軸横軸にとると、意図的な笑いと自発的な笑いがそれぞれ分離できるということですね。これはもしかするといけるのかもしれないと思いましていろんな実験参加者でやったのですが、人によってどこの特徴点を見ればいいのかというのが、かなり違います。それぞれの人で、例えば笑い出し、笑っている、笑い終わり、それぞれの持続長とかずれでどの特徴点が最も意図的・自発的表情を分離するのに有効なのだろうか。

川嶋

有効な特徴2個を取り出してやると、だいたいこんな形になります。6人分です。青い方が自発的な笑い、これ1個1個笑っているのですごい回数笑っています。赤い×印が笑いですね。意図的な方は自発的な方と比べてかなりずれ方とか長さとかが分布としてかなり狭いですね。毎回同じような笑い方をしています。自発的な方は広がっています。ただ、かなり動き出しのずれとか動き終わりのずれとかを特徴点として使うとよさそうだと。人によっては持続長が大事とかあるのですが。これで最後認識してみると大体8割から100%ぐらいの確率が出ます。実はこういう単純な特徴なのですが、タイミングを見るだけでも実は人の表情認識ができる。こういったタイミングを使うような情報ってあまりこれまで注目されていなかったのですが、こういう情報をうまく使ってもっと詳細な、表情だけじゃない人の「間」の取り方とか、そういったものが認識できないか、そういうことを考えています。
最後に、コンピューターの顔認識がどこに向かっているのか。私自身、とことん顔認識の専門家ではないのですが、検出とか特徴点認識とかこのあたりの技術が今かなり実用的なレベルになっていると感じています。基本感情の認識もかなり進んできているのですが、やっぱりこれではちょっと限界があって、普段現れる表情の認識ということになると、感情プラス意図ですね。意図でオーバーライトしているとか。あとは文脈の中の表情、例えばこれ(赤ちゃんの笑っている画像)だとハピネス度が高いということで、これは笑っているかということになりますが、実はこれは恥ずかしがっているかもしれない。だから文脈の中で見ないとわからないわけです。個人差もあります。付き合いが長ければいい。機械の学習でいうと学習量がもっともっとあればいいということです。それと顔だけでは難しいですよね。頭の動かし方とか傾きもかなり情報を持っていますし、しゃべり方のイントネーションとかもあります。こういったところを使ってかなきゃいけないと。あと面白いのは、頭部の動き方ですね。商用の認識ソフトで、同じ表情だけど頭の傾きだけを変えるとなぜか認識ソフトは喜びの値が変わるとかいうことも見えて、どうやってこの辺と分離しているのか。もしくはこれも含めて認識するべきなのかと色々考えたりしています。
あと、本質的な難しさとしてはやっぱり最終的には人の内面、内部の状態というのはわからないところがあるので、どうやって対応をとっていくのかということは、最後までなかなか難しいのかなと考えています。はい。以上になります。コンピューターによる表情の見方ということで紹介させていただきました。どうもありがとうございます。

土佐

はいそれでは、パネルディスカッション始めさせていただきたいと思います。顔というものを様々な分野の方に語っていただきまして、先程回収しました質問票よりこの質問がちょっと面白いので、ここから入ってみたいと思います。牧野先生への質問です。「ピカソは子どもですか」という質問がきているのですけれど、いかがでしょうか牧野先生。

牧野

ピカソ自身が子ども的な感性なのかということでしょうかね。

土佐

だと思いますね。

牧野

文字通り受け止めていいのかどうかわかりませんが、どなたかちょっと質問なさった方…。

(質問された方が挙手)

牧野

そうですか。子どもでもあり、とてつもない大人でもあると思うのですね。つまり、ごく平凡な答えではつまらない、自分の考えていることが平面的になっているのか、こう1に対して1に返したのでは、とても収まらないっていう方たちは、もっと一つ質問いただいたらぺぺぺぺっと花火のようにいろんなイメージが湧いてしまう。表現についてもAという答えに対してBを書くのではなくて、おそらく万華鏡のようにイメージが湧いてしまうのだろうというふうに私はいま思っています。
つまり天才というのか、その方たちの表現というのはまさにそうなってしまう。多角的になってしまうのだろうと考えています。どうぞおっしゃってください。

質問者

それはピカソが長い間、意図的に作り上げたものなのか、元々持っている感性なのでしょうか

牧野

これはおそらくピカソの専門の方から見れば私の言葉などは取るに足らないものになってしまうかもしれませんが、少なくとも私たちが幼少期から象徴的に「ピカソ」というものがあり、漫画家はピカソのことを茶化して書いたりしますけれども、後からいろいろなもの、彼の評価とか、この年になってから感じるものを鑑みると、あれを発表して対社会に表現するということは大変な勇気がいるだろうと思うのですね。それでなくても、彼の若い時の表現というのは非常にリアルな、写実的な絵を描いておられるのですね。それが突然、いわゆるピカソ流の絵となってしまうのはもうそこから突き抜けてしまっている姿なのだろうと思いますね。
つまり当時の絵描きの水準からいったら、もう極めてしまった。行きつくしてしまったところまで行ってしまって、あとはこれ以上やることはないよといったときに、じゃあこういう見方はどうだろうか、ご自分の中で考えてああいう表現をされたのだろうというふうに私は想像しております。それでよろしいかどうか。

土佐

会場を交えて話をしたいのでもう一つ。これは金剛さんと、山極先生に関係することなのですが、
「白目があるのはヒトだけで、サルにはないという話を山極総長が紹介されていましたが、先ほど見せていただいた2つの面も、般若は白目を剥いていて、無表情の能面には白目が目立たないという対照的な目の表情の違いを感じました。それぞれの面で舞う時に、目の使い方には違いがあるのでしょうか。」
という宗家へのご質問があります。

金剛

そうですね。小面、女面なんかは白目を作ってはいますよね。ただ、それは線で作っています。だから白い部分が出ますけど、黒い線を横にひくような形で作っておりますね。能面で一番大事なのは、やはり目線が効くか効かないか、ということです。よくできている小面は非常に明らかに、目線が通るのです。ただそれが不思議なのは、私の家の面で今日は雪の小面を持ってきて、それを見ていただいたのですけど、もう一面別の面がありまして、それはこうして手に持ってみるとやぶ睨みなのです。雪の小面は結構普通の目線だと思うのですけど、そのやぶ睨みの面も効くのです。目線が効くのですね。
なにが原因か僕にはわからないですけど、全然目線の効かない面もあるのです。要するに遠くを見ない面もあります。と思うと、名作といわれるものは必ず見ていますね。遠くをちゃんと目線がすーっと通っていく。そういう面でないと、舞台上での演能の時の効果も出ないです。
案外狂乱の能もありまして、ちょっとうつつない人が出てくるお能もあるのですよ。子供を盗人にとられちゃって、ちょっと精神状態があっちへ行っちゃって、子どもを求めてふらふらと彷徨うような役柄のお能もあるのだけど、そういう役柄だったら目線がなくてもいいようにも思うのだけども、そういう種類の面でも目線が通ってないと、やっぱりお能にならないですね。
だから目線っていうのは本当に、お客さんに対する訴えかけのものすごく大事な部分を面は担っていると思います。ただ、白目黒目の話とちょっと違うかもしれないですが。すいません。

山極

確かに白目の動きというのは、方向性を示すのですね。だから、目線とはちょっと違う。多少重なるところはあるのですけど。実はさっき私も同じ質問をしようと思っていたのです。般若と比べて小面は、目がスッとあって、要するに目玉が出てない。あれによって非常に隠されている内面があるわけですよね。だからいうなれば、般若ほど激烈な感情を面に出していないからこそ、そこにいろんな表現が可能性なのだと思うのですね。
皆さんに思い出していただきたいのですが、能舞台というのは観客と役者の間に距離があるわけですね。今はテレビ映画になっちゃうと顔のアップなんかが出てきて、その目の動きというのが微細にわかるような近距離で見られることが多いわけです。当時も今も、アップというのがない時代はああいう距離で見ていた。そこで起こっているドラマというのが我々にとっての真実だったわけですね。そのときにやはり、おっしゃるようにこの目が向いている方、それがスッと向かっている方を端的に表現するために、いかに精巧に作れるかというところが面を作る上での一つの勝負だった気がします。そこに目玉があると、あまりにも直接的になりすぎてしまって表現力が劣ってしまう。だから般若の面はせいぜい10分だっておっしゃっていましたよね。あれはあまりにも直接的すぎるので、感情を露わにしすぎるので、舞台で表現の持続性は保てないのではないかなと思った次第でございます。

金剛

今先生がおっしゃったことだと思いますね。要するに般若の面のようなのは、あまりにも一元的すぎるのですよね。だから、いろんな動きはないのです。だから結局、時間的に短いのだと思いますね。
それと今ひとつ思い出したのですけど、確かに目線が、中央が埋まっている面が一つあるのですね、私の家にも。それは増髪という面でして、上村松園さんが「花がたみ」という絵だったと思うのですけど。恋人を求めて彷徨う女性を描いているときに目が描けなかったというのがあって。その時に、こういう面がありますよってうちの爺さんが松園先生にその増髪を見せたのですね。それを写生されて、「花がたみ」はできています。確かに目が少し飛んでいるのですね。そういうのもありますね。

土佐

能は非常にミニマリズムの芸術だと思うのですけど、先ほど楽屋で宗家が、見せるのは、能の世界とか精神性というお話をされていて、そこに面がどういう役割を果たすのかという、表情がないと言われていましたよね。だから表情がない中に、私たち見ていて表情を感じるわけですよね。その受け取り方とそのストーリーのなかで、その時はその感情しているのだなということを考えつつあるのですけれども。
その中で非常にああいう般若の面はすごく直接的で、しかも女性の場合は角まで生えていて。角が何で生えているかというのも知りたいところですけれども。動物の場合もちょっと違いますよね。その辺の表現の極みというか、その表現の中での面の役割というか、そういうところをちょっとお聞きしたいなと思うのですが。

金剛

要するに、例えば「泣く」ということは能の中でこれくらいのことなのですよ。(うつむいて片手で顔を隠すしぐさをする。)面の角度を少し陰にして、目を隠すのですね。それで確かに泣いているように見える、ように能面はできていますよね。目を見せているとなんぼ下向いてもそうはならないですけど、目を隠すという工夫だと思うのですね。それを単に傘としてやっているのでは伝わらないですよね。ある程度中に入って、役者も結構その気持ちになって演じて、それがお客さんの方にいくという世界であると思いますね。
それと同時に、それぐらいの表現しかしないといえばそうなのです。歌舞伎だったらもっとほんとに、大声で泣いて、ほんとに泣いて泣いて、涙を流してでも泣かれるのでしょうけど、能の世界っていうのは、我々能楽師がよく言うのですよ。能の世界っていうのは万華鏡の世界だなと。覗き込んでもらわないと、見えない。こっちからこんなふうにして(椅子にふんぞり返って)見ていて、こうバーンって持ってくるのではなくて、覗き込んでもらったら、そこに見えるような世界がお能の舞台の世界だなと我々よく話し合っています。
だから、見る方が見ないと何にもない世界です。向こうからそんなに持ってこない。とにかく、何かその舞台にはあるのだけれども、そこを覗き込んでもらわないと、お能は何にもないと思いますね。

山極

「顔で笑って心で泣いて」という言葉がありますけど、川嶋さんのコンピューターの話とも通じると思うのだけど、感情表現というのは人間の場合、顔がほとんど全てだと思うのです。能の場合では目を隠すだけで泣いている表現になるという、むしろ想像力をかきたてているわけで。顔というところが表す部分をむしろ否定しているからこそ、そこに表現が生まれるわけでね。
そういう意味で喜怒哀楽ということを顔に、我々の能力は顔の表現に集中させてしまったという感じがしないでもないのですが、どう思いますか。

川嶋

そうですね。電話越しで感情がどのくらい伝わるのかと考えると、声のトーンというものとかも実は感情を伝えているところはあるかなと思いますし、表情だけではないのかなとは思うのですが。ただ確かに目がついている回りですから、どうしても互いに意識しやすいところなので、そこに感情表現が集中してきたっていうのはおそらくその通りなのかなとは思います。
ただ、能の少し頭を、目を隠して涙を表現するという話になったときに、機械の学習という観点から行くと、もともとこういう(俯いて目を隠す)ことをしているときにはそれとともに伴っている表情があって、もうこういう傾き方を見ただけで、もしかしたらこういう表情なのではないかなとふわっと想起するというのがコンピューターでもやっぱりそういう処理があるのですが、人間もやっぱりそういった想起が常に働いていて、それで埋めていっているのかなと感じます。

土佐

あともう一つ、川嶋先生への質問で、皆さんからの質問も多いのですけれども、コンピューターで今回のチラシの画像の中から顔の認識をされていましたが牧野先生の似顔絵が認識されませんでしたよね。決してコンピューターの限界というわけではないと思うのですけど、顔の特徴抽出が狭かったのではないでしょうか。

川嶋

そのとおりです。よくわかりましたね。実は顔の最大のサイズをあの時は限定していたので、大きい顔には反応しなかったというのが真相かとは思うのですが、ちょっと試してみないことにはわからないですね。
ただ機械の学習はデータが命なので、見たことのないデータには対応できないというところもやっぱりあって、要は漫画的な顔とかそういったものに慣れているような学習をさせると反応はできるのですが、そもそも陰影を使っているので陰影の付き方が人間の普通の写真と、線画との違いがあるのでどこまで出るか、ですね。ただ実際に出ているところは出ていたので、やっぱり今回の原因は大きさなのではないかなと思います。

山極

聞いてみたかったのですけど、室町時代の能面を持ってこられていましたよね。あれを未だに使っておられるということは、要するに600何年も日本人の顔の表情、つまり感情の表現は変わっていないということなのですかね。
我々は例えば源氏物語だとか、いろんな古代の日本文学を読んで文字からくる人々の感情のふれあいの表現というものを想像することはできるわけですが、能はまさに表現として残されてきた芸術であって、それは要するに平安朝や室町時代の日本人の持っている、今度は表情という、あるいは心の持ち方みたいなものを伝えていると思うのですけど。それは変わらないという風に考えてよろしいですかね。

金剛

難しいですね。例えば、室町時代にできた能が現在あるというのはある特殊な事情も考えた方がいいと思いますね。江戸幕府が自分のところの芸能として保護したわけですね。300年近くずっと。その間に江戸幕府が能の世界に「変化させるな」と言ったのです。新作を作るなと。だから新作を作る必要がなくなったので、面も室町時代にできた面の種類から増えてないんですよ。
江戸時代に作ってもらった面は何かというと、室町時代にできた面の模作なのです。室町時代の面を本面と我々は呼んでいます。これ原本なんですよね。江戸時代につくられたものは写しているんです。だから能の家でも、すごく価値観を違えて持っているのですね。室町時代のものは原本・本面。これはもう本当に大事に、そう使わないぐらい大事にしていこう。江戸時代で作られたのは、あくまでも全部模作だから、普段使いにしようという。
そういう特殊なもの、特殊な社会、特殊な事情で500年~600年きていますので、もし江戸幕府がなかったら能も滅んでいたかもしれませんし、もっと能が変化していたかもしれません。その時代に合わせるためにね。江戸時代には歌舞伎が出てきて、ああいうものを江戸の方は好まれたわけですから、室町時代の方が好まれた能のような文化的意識とか美的意識では300年もたなかった可能性の方が強いですよね。
だから能が歌舞伎化するとか、していても普通、そのほうが普通なのです。それをさせなかった江戸幕府が鎖国に入って、固定したものを残そうという意識も強かったこともあり、あまり変化もせずに600何十年ある可能性が高いと思いますね。

山極

横に広げてみるとね、漫画の世界で顔の表情っていうのはすごく重要だと思うのですけど、それはまず日本で広がった。でもそれが世界中に今人気になった。風刺絵などで顔はすごく表情豊かに描かれる。それは共通しているからなのだろうか。
それか、コンピューターの世界でもあの認識っていうものはコンピューターに日本人の顔を認識させるのと、例えばアフリカ人の顔を認識させるのと違うのだろうか、同じだろうかというのを聞きたいんですが。

牧野

漫画の表現っていうのは要するにタブーを一つも作らない。束縛が全くないのですね。無残なまでにと言うのか、とんでもない表現だと自分がその仕事をしていながら思うんですが。
今、漫画家協会の会員が倍増したのですね。ちばてつや理事長の力かもしれないのですが、その増えた分というのはいわゆる「エロ漫画」という世界ですね。性表現の世界で、皆さんご覧になったらびっくりすると思います。どうしてそんなものを、公益社団法人が許すのかといってお怒りになるに違いないほど自由奔放なんですね。要するに、歯止めが効かないという風に思ってしまいそうなのですが、それに対して私のような年になってくると言い訳をしなきゃいけない。公益社団法人がどうしてこんなものを会員にするのだ。それは読者である皆さんの咀嚼する能力というのが飛躍的に伸びたのであるという風に私は説明しています。苦しい表現かもしれないのですが。
つまりそれは漫画家だけがそういう性表現に特にだらしがないとか歯止めが効かないっていうのではなくて、実写であれ、お芝居であれ、何であれですね、要するに観客とともに伸びていって、漫画というのはその状態を映しこむ鏡であるという風に、私は言い訳しているのですね。そうしないととても収集がきかないくらい、とんでもない表現まであります。浮世絵の春画どころではないという話もあります。そういったものができて、時々それが社会的な糾弾を受けて非難されるのですが、実際に今漫画家協会は1000人の会員がいまして、前は500人だったのが倍増したのです。
じゃあどうしてそうなったのかというと、今巷の女性ファッションを見てもそうですけど、いい言葉でいえば非常に開放的ですが、ほとんど寝巻のままで歩いていると思われる人たちもいっぱいいて、電車の中でもそういう人がいる。それを彼女らが良いか悪いかというのではなくて、そういうものを容認するというか、理解する空気が日本には生まれている。宗教的な縛りもないし、いわゆる道徳的にあれはけしからんという声もだんだん消えて行ってしまうのですね。
ですから今お話しいただいたように、ずっと評価基準というものが変わらないでずっと来た世界と、一方で全く歯止めがない世界というのが隣り合わせに座っているわけですが、全く歯止めがきかない世界がありながら、それが容認されているということで、まあフランスをはじめ…

土佐

でもフランスで見られるように、風刺画ひとつで、テロのような惨事が起きたりする世界が地球上にはあるわけですよね。だから漫画って全く歯止めが効かないと私たちはとても思えないのですけれども。

牧野

私は新聞社を長く勤めて、風刺漫画を描いていたわけですが、今はおそらく管理している人たちの方が大変だと思いますね。これは掲載してよろしい、これは掲載してよいという基準をどこで切るのかと言ったら、もう切れないのです。切れないですけれど、毎日新聞は出ていくわけです。
ですから今、印刷媒体の表現力が軒並み低下しているというのは突きつけられている課題があまりにもしんどすぎる。

土佐

多様化しているということですか。

牧野

深く入りすぎて、露骨という線を越えてしまっているわけですね。ありとあらゆる表現が可能になった、もうされてしまっているのですね。これから取り締まるとかそういうのではなくて、あらゆるものがもう表に出されてしまっていて、まだご覧になってない方はたまたま見ていらっしゃらないだけで、そのうちに「えっ?どうしてこんなもの許すのだ?牧野もこんなものを見て許しているのか」ですね。私のところに石つぶてが飛んでくるような、こういうことが同時進行型であるのですが、情報量があまりにも多すぎるものですから目につかないだけなのですね。目につかないけれども、実際にはそういうものが表現されているということなのです。

土佐

川嶋さんも山極総長の質問に対してお願いします。

川嶋

日本人とかアフリカ系の方の共通性ということですか。

山極

つまり同じように認識できるのかっていうことですね。日本人の表情はアフリカ人に対しても同じなのかということにもつながると思うんですよね。

川嶋

なるほど。そういう意味でいうと表情はかなり近いように思います。実際に調べてみたことはないですけど、表情のカテゴリーという意味で言えば、感情につながるようなカテゴリーはかなり近いかなあという印象があります。
ただ、これはさっきのポール・エクマンも書いているのですが、出す場面が全く違うと。だから例えばアメリカだと人前で笑顔をあえて作るところがあって、そういう文化ですよね。それが正しいっていうことになっているのですが、日本だと人前でどんどん笑顔を作る人もいれば、作らない人もいて結構バラエティがありますよね。だから文化的背景が大きくて、いつその表情を使うのかというところがかなり違っているのかなと。ただ感情に結びつくようなところはかなり近いかなという印象はあります。

山極

喜怒哀楽が四象限になっていたでしょ。さっきの般若の面の解説の時にちょっとびっくりしたんだけど、この眉から上は悲しみといいますか、苦痛といいますか。で、下は怒りなんですよね。あれがパッと入れ替わるのが人間の面白いところで、こんなことができるのは人間しかいないんですよね。動物はやっぱり怒っているときずっと怒っていますからね。初めから怒りを表現しますので、しかも嘆きというのはあまり顔には表れないですからわかりません。そういう極端な変貌の仕方っていうのは、何か頭に入れておられますか。

川嶋

そこまではちょっとあれなんですが、急に表情が変わったときに本当に内部の感情が変わったのかというのと、作り出している側が変わっているのかということはまた違うと思うのです。本当の表情で悲しんでいたのが急に怒りに変わるのか、両方とも、もしくはどちらかを意図的につくっているのか、でも恐らくヒトの場合は本当に切り替わるわけですよね。そうすると感情のシーケンス、系列があって、そういう文脈を含めてその人の状況を理解するというのは考えてみたいと思います。面白い話かなと。

山極

般若がなんでああいう非常に奇妙な顔の表情を作ったのかっていうその意図も知りたいんですけど、いかがですか。

金剛

般若の面には小作の面というのがあって、小作の面はあんなに苦しんでないんですよ。そのもとには蛇の面というものがあって、大蛇といったらおかしいですかね。道成寺の清姫が蛇に変身しているところから来ている蛇の面というものなのですが、これも怒っているばっかり。
ですから般若というのは室町時代のかなり遅れて出てくると思うのですけどね。室町後期頃にああいう造形が出てきて、その頃には今やっているような、こうしてこうして(前かがみになり、手を振り回すようにして)襲いかかる演技形態が先にできていて、それから般若の造形が出てきているように思いますね。
それとちょっと話が違うのですけど、さっきおっしゃっていた話で、僕去年ロシアへ2回行ったのですけど、ロシアの方は作り笑いされませんね。

山極

おお、そうですか。

金剛

本当にまじめな顔をして。だんだん私も、向こうでしゃべっているうちに真面目な顔になって、笑わなくなりました。だからロシアは笑われないですね。
女性の方でも愛想笑いなんて全然なかったと思います。だから、ロシアでコンピューターの機械に愛想笑いは必要ないのではないですか。

土佐

プーチン大統領は愛想笑いしているように見えますけどね。あれは見えるだけかもしれませんね。

金剛

いろんな国の方と交わって、そういうのが必要だと思っているのではでしょうかね。基本的にはしないと思いましたね。

山極

実は、逆さになった顔っていうのを人間は認識できないんですよ。逆さになった顔を見せられると誰だかわからない。表情も全く認識できません。怒っているのか、笑っているのかもわからないんですよ。
漫画家ではそういうことを意識したことありますか。表情をつくるときには大体顔というのは、さっきもそうでしたけど横になってもいないんですよね。縦になっているんですよね。そうしないと人間の感情表現というか、個性というのは表現できないのでしょうか。

牧野

ですからね、リアルに描いてその感情を表現する、能面で表現するというののはいかに難しいか。感情をいかに観客に伝えるか。漫画、特にストーリー漫画の場合は、あらゆる手段を使って声にならない心の中の声まで「ドーッ」と描いたりですね、「ガクッ」というような文字を入れたりして表現します。そこまで描かなくてもいいだろうというところまで描いてしまって、わからせようとするわけですね。ところがそれを繰り返している間に読者の方がどんどん進んで「これは作者は描きすぎだよね。」「オーバーな表現だよね。」というふうに、つまり総評論家をつくっている。
日本の漫画やアニメがなぜクールか、外国人から見てなぜクールかというと、描き手の技量が高いからというよりも、読者のレベルが高いからですね。読者のレベルが均一で、非常に長い間学習していて、自由なもの、あらゆるものを見てきてしまったので、性、暴力、差別表現、あらゆる表現を全部自由に見てしまった。つまり、表現者の方の抑制がない状態で全部表出したので、読者の方がきちっとそれを整理してパニックにならないような状態を作ってきた。
それを私が感じているのは、毎年、もう25回目になります漫画甲子園って企画を高知県がやっているのですが、ここに参加する学生たちの読み取り能力は非常に高くなっているということを感じています。

土佐

最後にお一方ずつ山極先生から「顔の未来」というか「未来の顔」というか、そういう顔に関する未来のご意見を聞いて終わりたいと思います。

山極

「変わらない顔の表情と変わりゆく顔の表情」という今日の話だったように思います。未来の顔は漫画によって作られる。だから、我々はこういう顔になるのだなと漫画家の先生はすでに準備されているという気がしました。コンピューターで言えば、先ほどちらっと言った、逆さの顔でも横の顔でも喜怒哀楽を読み取れるという時代が来るかもしれない。我々は後ろを向いてしまうと、あるいは顔をちょっと横にずらしてしまうと表情を読み取ることができない。そんなふうにして人としてきたわけですが、それがすべて見抜かれてしまうという時代が来るかもしれない。そうすると、コミュニケーション自体を変えなくちゃいけなくなる。
実際我々は顔を認識する能力をだんだん失い始めているかもしれないんですよね。これは学ぶ必要がないことなのかもしれないんですね。ちょっと前まではよかった。生まれつき、まず子どもは牧野先生がお描きになったように顔で相手と対面するわけですよね。顔が全てだ。そこから何もかも始まるんですよね。それが顔から始まらなくなるかもしれない。というちょっと恐怖を抱きました。それだけでございます。

金剛

今ちょっとロシアの話をさせていただいたのですけれども、ロシアの女性の方になぜ笑わないのかと聞いたんですよ。「笑うことは失礼なのです。」と。我々はこうコミュニケーションをするのに柔らかく付き合わないと失礼だと思って笑いますよね。逆なんですね。人と会って、何でおかしいっちゅう話なんですよ。ちゃんと親からも教えられるそうです。会ったときには笑うなと。ちゃんと真面目なものなのです。だから表情というのは難しいとその時思いましたね。
それぞれの国の文化に依りますが、特に「笑い」が難しいような感じがします。その「笑い」を柔らかいコミュニケーションと感じる文化を持っている人と、笑われたら失礼だと思われる文化をもっていらっしゃる方もいるわけだから、やっぱりその人たちに対するときに自分の顔のもっていき方というのは本当に気を付けないといけないなと去年ロシアで思いました。私もアメリカとヨーロッパで何度も公演していて、ロシアで初めてそういうことを言われたんですね。大抵、にこやかに人は交流する、顔を柔らかくして交流するのが普通だと思っていたら、それはいけないといった文化を持つ地域もあるというのを知って、人は人種によって色々な思いが、中にあるものが顔の表情になるのだなと思いました。

牧野

今、私「漫画家」というタイトルをつけておりまして、社団法人日本漫画家協会には1000人の会員がいますが、漫画という分野がどこからどこま でなのか、もうわからなくなっているんですね。漫画って定義できない状態になっていて、それでも漫画家協会っていうのが作られているわけですが、一人一人に突っ込んで聞いても、もう答えられないぐらい広がってしまった。そういう世界が今の日本の漫画でありまして、一応旧来の形で漫画という括りをつけていますが、一人ひとりの漫画家に聞くとわからない。
繰り返して申していますけど、本音の世界が日本では通用するんですね。神様、仏様のことをどのように表現しても、後ろから刺されたりはしないわけです。すばらしいなと思っているのは、八百万の神々がいらっしゃる形でですね、そこにいつも話がいってしまうんですけれども、漫画がやってきたことは一つの漫画っていう面白おかしい絵、楽しい絵という世界から、それは確かに表現としてはそうですけれども、まさにタブーのない自由な表現を重ねているうちに読者の方が進歩して、一般の方々の方が進歩して、受け入れる心の非常に広い社会を形成しているというようなことが、今の私の受け止め方です。

川嶋

「将来・未来の」という話でいくと、一つは自分の顔を見てくれるようなコンピューターみたいなものがこれから多分できてくると思うのですが、当然それはデータとしても自分だけが持つような仕組みになっていて、こっちの状況を見てくれて、うまくサポートしてくれるとか、そういったものがあるといいなと、要するにそういう認識システムがあるといいなというのが一つあります。
それとやっぱり今度は生成側ですね。認識じゃなくて感情表現していくときに、例えばLINEのスタンプとか、これはSNSと比べると格段に感情表現をしやすくなっています。色々な表情のスタンプもありますし、身体動作で表現するような話もあって、ある種漫画的な要素もあると思います。実は日本人は感情表現をあまりしないというふうによく言われるのですが、実はそうではなくて感情表現をする手法が違うのかなというふうに思ったりしています。そうするとコンピューターを使って感情表現の仕方、新しい感情表現の仕方みたいなものもこれから色々と出てくるのかなと思っております。以上です。

土佐

四者それぞれご意見をいただきました。
ポケモンGOとかが今流行ってきて、あれも漫画だと思いますし、あれもシンボルで、あれも顔かなとちょっと思いを巡らせていたのですけれども、それぞれ顔の思いというのが皆さん感じられたと思います。
それではですね、お時間ももうずいぶんまわりましたので、今日のおもろトークはこれで終わりたいと思います。みなさんどうもありがとうございました。

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