第4回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」〜ちょっとぐらい ええやないか

2016年3月21日(月)

司会:土佐尚子 氏(以降敬称略、土佐)
パネリスト:坂口恭平 氏(現代美術家)(以降敬称略、坂口)
山極壽一 氏(総合生存学館准教授)(以降敬称略、山極)
泉拓良 氏(フィールド科学教育研究センター准教授)(以降敬称略、泉)
東田大志 氏(総合人間学部4回生)(以降敬称略、東田)
コメンテーター:那須耕介 氏(人間・環境学研究科准教授)(以降敬称略、那須)

土佐

皆さんこんにちは。それでは第4回目の京大おもろトークを始めたいと思います。本日はたくさんの皆様にお越しいただいてありがとうございます。「アートな京大を目指して」というテーマで2015年度に4回開いてまいりました。今回は「ちょっとくらいええないか」ということで、昨今いろいろな規制やルールが厳しく、それにちょっと違反すると、「あっ!違反してますよ!」とか「はみ出てますよ!」と言われてしまうようなことが数多くあります。そういったことに対し、アートの力を使って少しずつ拡張していったり、ちょっと面白くしていこう、そういうことをテーマに話し合ってみようと思います。
それでは最初に京大の山極総長と、今回のメインゲストである坂口恭平さんの対談にうつりたいと思います。
それではお二人、壇上へよろしくお願いいたします。

山極

じゃまず坂口さんの方から。

坂口

初めまして、坂口恭平です。よろしくお願いします。
結構、応接間でだいぶ盛り上がって話しましたんでね、ちょっと何話していいかわかんない、とか言って。あれなんですけど。 ちょっと今日は鬱で、鬱になったら出られないかも知れないと思うとちょっと心配だったんですけども、精神状態は安定してるみたいなんで、無事に開催できて嬉しく思います。
僕はですね、37歳の男性で、ヒトです。それでですね、僕はもともと早稲田の建築学科の、自己紹介は適当にしますけども、建築学科で建築やろうと思ってたんですけど。僕は10歳くらいの時にお天道様と契約、契約じゃないけれども、何らかの僕が感じた疑問があったんですよね、そのいろんな疑問があって。なんでこっちの村の人の集落は古くてみんなそのままあって何らかの集落を形成しているんだろうとか。僕はNTT電電公社から、勝手にこう来たような感じ。横に砂浜、海辺があるんですけど 糟屋郡てところ、福岡県に居たんで、有明海の砂浜があるんですけど、新宮浜っていう。そこの砂とですね、その裏で福岡藩が作った松林の浜があってそこの砂と、NTTのところの建物のですね、植栽の下に砂があるんですけど、その砂が三種類どうも違うように感じてたんですね。
その横にはですね、のちにシーサイドももちという、福岡の再開発をする、安藤忠雄とかの師匠になるような建築家がいるんですけども、その人がシーサイドももちというセキスイハウスの建築群を作っていた。それはアメリカナイズドされた、すごく広い道があって、いわゆる多分高いんでしょう。そこに僕の好きな女の子が住んでいて、で家庭訪問に行くと、僕はそこからそちらのモリナガカズコさんのとこに送り迎えに行ったついでにそのモリナガ家を初めて見るんですけれども。その子は一人部屋を持っていて、帰ると僕は3DKくらいのところに家族5人で暮らしていて、僕は長男だったんですけど、でNTTの社員、親父は。で僕たちはアパートというところに住んでいて、なんでこんな差があるのかって、僕は意味がわからなかったっていう。それでお父さんに聞いたら私たちは家を買えない、と言われまして。その代わり調度品ていうのを丁寧に揃えるから。お皿、器などはしっかりと恩田焼で揃え、漆の入ったちゃんときれいなお箸を使おうと。その代わりお家は買えないので建築家になってくれという風に言われたんですよ。
ていう状態で、でまずですねやっぱり僕にとっては土地所有とかそう言ったものが非常にその自分の中の哲学的命題が突然そこでボッコリと出てきてたんですね。あとは人間が何か区別されてるような感じがする、そういったものとか。あとは砂ですよね、自分にとって。だからこう、そういった自然物というように見えても、自然ってのはいろいろ違いがあったりとか、松林も元々は福岡藩が植えたものだし、そうやっていくと自然てものは海の水だったり砂だとかは大事なんだけど、じゃあ俺らのとこは何なんだろうとか。あとは境界ですよね、土地の境界っていうものがあったり。色んなものに、こう、後で気づくとそういった問題があった。
そういうの抱えて建築家に行ったもんなんで、建築家ってのは土地所有者が依頼したものを建てるだけなんです、はっきり言うと、この現在の建築家の仕事っていうのは。で、もうはじめに僕は手を上げて、先生こんなのではまずいんじゃないですかというと、恭平、食っていけないよと、こういう感じで(手振り)。こういう仕草があるんですよね、人間ってのは。こういうのがあって、こういうのじゃなくてこういうのが大事なんだけど、みんなこういうのになっちゃってるんで。ですぐ辞めまして、そうすっとお天道様に当たってるのが路上生活者って言われてる人。でその人たちは、この社会が間違ってることを完全に自覚してたので、でそれをもとに僕にいろいろなことを教えてくれた。いわゆる貧困で困っているホームレスという人もいることはいると思います。で僕が世話になったのはですね、路上生活者ではなく、隅田川に住んでるスズキさんっていう人と、多摩川に住んでるフナコシさんっていう二人の人ですね、自称、いわゆる「自由人」です。で他称ホームレス。そういう人たち。でそういう人たちに教わって、作業してたらですね、野良猫は土地所有を知らないのに、俺らと同じ空間で生きているだろう、っていう僕とほとんど同じことに気づいてた。つまりこれは同じ空間なのに、僕たちは必死こいて家賃を払ってんだけど、そういうことをしないっていう野良猫もいるし、そういうことをしない、人間からギリギリ離れたヒトがいたっていう。でそれが僕にとってのスズキさんでありフナコシさんだった。
まあそういうことをもとにフィールドワークを始めて、自分で経済圏を作るとかそういうことに関心があったんですけど、まあそれごとが延長で3.11以降ですね、まあ今日も来てんですけどうちの嫁さんが無政府状態だというものだから、ないものは作らないかんというのがうちの信条で、ないんだったら作りましょうということで歴史の教科書を見直したら、江戸幕府から新政府になってる時に、どうも新政府というのがあったらしいからちょっと俺もう一回作ってみるわっていうことで、近代は終わったねっていう合言葉と同時に新政府を勝手に発足して、その初代内閣総理大臣に今就任してます。で国民が今5万人いるんですけども、それはですね今世界で第100位くらいですかね、人口が。リヒテンシュタインとかよりはもう、モナコとか超えてるんで。でそういったものをですね、10年後やるとどうやら2025年にちゃんと国になるよという勝手な啓示を受けてるもので、論理的ではないんですけれども、実行させてみようかなというふうに思ってまして。これでも実際やると捕まってしまってですね、死罪なんですよ。これはオウムの時も使われてないんですけども、2.26事件の時になんかあったんですかね、内乱罪っていうのはね。そういう死罪になるので、芸術活動という振りをしているんですね。で僕小説とかも書いてますけども、僕小説なんか書いてるつもり全くなくてですね、全然日本語を使って全く別の共同体の言語を作りたいというのが自分の本当の思いなんですけども。でも根本はやっぱり10歳9歳くらいの疑問。それが、僕にとっては非常にこう、なんていうんですかね、絶対にそっちに行っちゃいけないってことを約束されたような気がしてて。そういったことはですね、今もみんなレールに乗ったとかいうじゃないですか。乗ってないんですよ。
で僕は携帯番号をですね、この携帯番号を公開してるんですね。世界で唯一wikipediaに携帯番号が載っている人間ということでギネスブックにも登録されてるんですけれども。まあ調べたらすぐ嘘だとわかりますけれども。携帯番号を世界で唯一乗っけていると自称している人間なんですよ。それで「新政府いのちの電話」っていう、100%かかるんです僕の電話は、かけ直すので。日本の現政府のいのちの電話はですね、4%しかかからないらしくて、それで今3万人くらい自殺者がいるんですね。で僕が2012年に始めた時は31,000人だったんですけど、今4年たったらですね、ちょうど2,000人×4で8,000人減りまして、今年発表は23,000人だったんで、つまり10年後にはおそらく自殺者は0になるという。というですね、ロボットのような国にしたいなという風に思ってるんですけど。自殺をしない人間っていう、自殺をしない人間っていうのが、僕の中の次の、ネクストステージのヒューマンビーイングの在り方かなと思ってて。でももう今切腹することみんな笑うじゃないですか。でもその当時は本気だったんで。多分そういう風に常識っていうのは常に変わるから、今の常識では囚われないようなことをどうすればいいかっていうのを日々研究してですね、活動してる人間でございます。ちょっと長くなりましたけども。

山極

どうもありがとうございました。
私の方は山極と言います。京大の総長をしてるんですけども、今日のテーマにちろっと引っ掛けて言うと、私は40年近くゴリラの研究をしてきました。でゴリラと一緒にアフリカのジャングルを歩いてきて、でまずゴリラの群れの中に入るのに、まさに今日の言葉ね、フレーズ、「ちょっとぐらいええやないか」という気持ちで、彼らの群れの中に入れてもらっている。最初はね、彼らにとって人間は敵ですから、攻撃されるわけですよ。邪魔者は出て行けと。それをストーカーのようにこう、しつこくしつこく、しつこくしつこくつきまといながら、ちょっとぐらいいさしてくださいよ、と言い続けてやっと数年後に、まあガボンでは10年近くかかりましたけど、彼らの群れの中に、こう片隅に置いてもらえるようになった。それで、彼らの群れの中で、いろいろ観察をしてきました。そこから見えてきた自然の暮らし、そこから投影されている人間の暮らし、このギャップが一体何のために作られたのかっていうことを研究してるのが、私なんですね。
で実は僕数年前に、坂口さんが、今総理って呼んだ方がいいのかもしれないんだけど、0円ハウスのね、青山で展示をやった時に、見に行ったことがあるんです。でね、あの時思った感触はね、あこれは、ゴリラだな、と思ったのね。なぜかっていうと、ゴリラって毎晩毎晩ベッドを作ってるんですよ。これ0円です。お金かけてません。彼らは基本的にお金をかけずに暮らしてるわけですよ。大体十数平方キロの範囲をぶらぶらと散歩しながらね。食べたいものをつまんで、夜眠たくなったら自分でベッドを作ってそこでみんなで一緒に寝る。ただ、ベッドは1人1つ。2人以上では絶対寝ない。それが彼らの、自分を保つ範囲だと思うんだよね。しかも彼らは言葉を持ってない。だから何か癇癪を起こしたら胸をたたくわけですよね、勇壮に。それでみんな、あ、こいつちょっと機嫌悪いんだな、とわかってくれる。そういう暮らしをしていて、朝顔を見合わせると、んっんー、て挨拶するんです。言葉はしゃべらない、自分のことは説明しない。相手のことも知ろうとしない。だけど、なんか気が合って一緒に居られる。こっから出てきたんだなあ人間は、と思ったわけですね。そっからどんどん変わってきたわけ。でその変わったところで、多分みんなすごく悩んでるわけですよ今ね。すごくいろんなものを作り出したんだけども、その作り出したものによって逆に変な悩みを抱え込んじゃってるというのが今の人間じゃないかと思ってるんですよね。それをあえてね、0円ハウスを作りながら、そういうものを取材しながら、何を求めてきたのかって、ちょっとお聞きしたいんですけど。

坂口

そうですね、ゴリラなのかは僕もわかんないんですけどね、でもやっぱりゴリラと繋がってるヒト、ヒトがいるわけじゃないですか。人間って、まあヒトと人間を分けるとするならば、人間っていうのはいわゆるこの社会、社会的存在の人っていうか。でも生物学的にヒトっていうのがいて、でそのヒトは毎日働けるわけないんですよね。で一週間で区切られるわけもないし、やっぱりこういうつまんないときに立ちにくいでしょみんな。僕立たないと気持ちが悪くなるんですよ。だからつまんない人は立っていいですからね。でそういうものが、本当に「ちょっとええやないか」なんですよ本当に。だからそういうことで、僕の場合窮屈になった瞬間に鬱になるんです。だから、あまりにもみんなにとって当然らしいんですよね、毎日仕事に行くとか、約束を守るとか、つまりこういう300人の会があったら、もうやらないと無責任だと言われるらしいと。でもそういうこと考えてしまうとどんどんどんどん落ち込んでいってしまう。だからもう元々僕はもう外れるしかなかったんですけども。でも僕は早めに外れてる人を調べてた、っていう感じですね。はじめに自分の参考例を見つけてたので、そっちも有り得る、という風に教わっていたっていう、路上生活者の人たちは、そういう風に言ってて。非常にシンプルな思考をしてた。もっというならば幸福であると言ってたんですよ。
僕新作が「家族の哲学」っていう、僕の家族全員が出てくる、いわゆる小説にしてるんですけども、まあほとんど事実なんですけど書いてある内容は。その時に参考文献を読みなさいと言った僕の同郷のですね、渡辺京二さんという思想史家がいるんですけども、京二さんがそれこそ山際さんの、「家族の起源−父性の登場」を読めと、父性がどのようにしてできたかっていうのをちゃんと読んだ方がいいよって言われて、で僕さっきも言いましたけども本が読めないんですけど、第5章まではパラ読みで、で第6章は全部読めたんです。で第6章の最後の文章は、てかあそこで一冊、てかあの先が知りたいし、社会学的母性がなくなる、崩壊するってあの最後の文章とかは、すごいドキドキしたんですけれども、すごい今回は自分の中では非常に興味深いというか、いろいろ聞いてみたいこともたくさんあるし。自分の中では生理的に、いわゆる生物学的になのかもしれないですけど、非常に生理的に、おかしいっていうものを一切しない実験をやってみてるんですね。それが非常に健康的なんですよ、自分にとってはでも。でも今ほとんどの人は精神病院に送り込まれてるんですよね。あともしくは引きこもりであるとか、あとは自殺者ですよ。でも僕そこと同じラインにいると思ってるんですけど、一歩間違えればそうなっちゃうんで。でもね健やかな錯乱ってものがあって、錯乱はしてるんですよ状態としては。つまり人の言っていることが、論理的に説明しても、僕にとって論理的に聞こえないんですよ、やっぱり。どんなにアベくんが言ったって、非常に非論理的に見えるし、「マンション買ったんです」って言ってる人を僕は本当の気が狂った人だと思ってるんですよ。意味がわからないんですよ、35万円で買いましたって持ってもないお金を何であなたはこう買えるんですか、っていうと、いや何とかこうこうってところからお金が借りれるんです、って言っても、意味がわからないんですよね僕。ないものを。

山極

だからローンでね、自分の将来の夢を買ってると思うんだけど。実は将来の自分に、自分は今奴隷になってるわけだよね。

坂口

そうですよね。

山極

それってやっぱり論理が逆転してると思うんですよね。そういうことになっちゃったっていうのは、やっぱりおかしいんですけど。さっきの質問で言えばね、私が「家族の起源」を書いたのはもう随分前の話なんだけれど、言いたかったのは、父親というのは作られたものだと、作られるものだということなんですよ。いわゆるアクセサリーなんですね。でそのアクセサリーを作ったことが人間の文化の始まりであって、要するに文化を定義しようとしたら、文化っていうのは、ある計画性をみんなで共有することなんですよ。父親ってこれまでなかった。ゴリラだって人間みたいな父親ってありませんから。チンパンジーは父親すらない。でそういうものをみんなで合意して、子供を育てる上で、大きなアクセサリーをみんなで作りましょうよってことで父親ができた。だからむしろね、無理に引っ掛けて言えば、父親はアートの起源かもしれんと思っていて。
つまりこれはどうでもいいんですよ、ほんとはね。だけどそれがあることによって、何か重しができるっていうか、社会が変わるってものなんだと思うわけね。これあの、よくゼロ制度のっていうこと言われるんだけど、皆さんここで裸になる人一人もいないわけじゃないですか。みんな服着てますよね。しかも服は自分の好みって言うけれども、他人の視線を気にしながら服着てるわけですよ。今日私がネクタイ締めて来たのも、やっぱりこの時計台でやるんだったら、ネクタイくらい締めないと総長としてまずいだろうと思ったからしてきたわけで、普段こんなものしてるわけじゃない。やっぱり坂口さんだって、今日みんなに見られる時に、ふんどし一丁じゃまずいだろうと思うよね。だからそれは他者の目から見た自分。で生の自分というものを裸になってさらけ出すことはやっぱりこの雰囲気を完全に乱してしまうので、そういう存在になりたくないと思うからじゃないですか。で父親ってのも、元をただせば同じような問題でね、やっぱり父親であらねばならぬと思ったら、つまりみんなの合意に応えようと思ったら、何らかの振る舞いをするわけですよ。子供に対しても奥さんに対してもね。あるいは他の人々に対しても、自分が父親であるということについての何らかの雰囲気を身にまとってなくちゃいけない。それが文化だと私は思ってるわけですね。そういう意味で言ったんです。

坂口

父性が誕生したのが、いわゆる今勝手に思ってる家父長制みたいに、一人の力が強い男がいて、その人たちがある種手なずけてるっていうわけじゃなくて、その社会の要請として、男女の要請として父性というものが必要だったと。それこそインセクトを忌避するためとか、まあいろんな理由があったんでしょうけど、それもすごい関心、興味があったんです。
あとは人間が森から出たのは、豊かさを持っていたからじゃないかっていうことを、僕はそう読み取ったんですけども、それも僕はすごい同意したんですよね。今ってこう生活が苦しくなることが心配でみんな固まってるっていうか、不安を抑え込むために、不安を解消するためにいろんなものが必要なんじゃないかと思ってるんだけど、本当にそうなのかっていうのを思ってるんですよね。
で僕が家族の哲学で書いたのは、自分が勝手にみんなが父親だというものにならなきゃいけなくなると。僕も窮屈なんで、僕は父親っぽいけれども父親じゃないんだけど、なんかそれに代わるものはないのかっていって、いわゆる社会学的な存在としては何になりえるんだろうっていうのを、いっつも自分でやるんですよ。だから新政府総理って家族で宣言してみたり、それこそ時々は女性問題でも喧嘩になったりもするんですよね、そういったこととか、いろんな問題を抱えて、道化を演じてみたり、歌を歌ってみたり、つまり社会学的父性じゃなくて、なんか他のないのかっていう実験を今やってるような感じがしてて。
で、なんかこう、その時にこう、なんていうんですか、豊かさをとにかく提供したいみたいなんですよ。で、豊かであるっていうことはすごいこう、なんていうんですかね、それがほんとに人が集まる、それこそ水に人が集まるんですから、水ってこの前水源に行ったら毎分60トン、うちの阿蘇の水源から出てるんですよね。過剰供給でしょ、しかも。過剰供給の毎分60トンの水が、澄んでて中に銛があって、やっぱ見てると声とかがばらばらと聞こえてくるんですよ。で、こういうところから生きてて、俺ら普通にバイトとか行ってんのかーとか思うと。
でちょっと最近社会学的精霊とかに関心があるんですよ。僕達に神様とかいないものと思ってしまってるんだけども、そういうのある種社会の要請として、そういったスピリットとか、そういったものが次浮かび上がってくるんじゃないかって。それをしかも人間が立ち演じなきゃいけないかもしれないと。だからそういうこととかを、僕は今ちょっと、危ないですけど関心を持っている。でそれをあんまりここでなんとかセミナーとか言ってホワイトボードを元に言ってしまうと、入り口で「入信したい人」とかいって名前書くようになっちゃうんで、そうはどうもしたくないみたいなんですよね。

山極

坂口さんはね、建築家から出発して、いろんなものづくりをやってきたんだと思うんだけど、ものを作る衝動って一体何だろうかと思うのね。でさっき坂口さんが、人間が森から出て行った理由は豊かさっていうことを言ったわけだけど、豊かになろう、なりたい、っていう衝動は、誰もが持ってるわけですよ。でも豊かになろうってことと贅沢になろうってこととは違うわけだよね。で物質的に豊かになって、人より質の高いものを身に纏ったり、周りにはべらしたりしながら、豪華に暮らしたいって思う気持ちと、豊かさっていうのはどっか合わない気がする。坂口さんが言っている、ものづくりをしながら豊かさを追求するっていうのはどういうことなんだろう。

坂口

「くぅ〜っ」とかいう感じですけどね。言葉で言うと、「くぅ〜っ」とか。なんかないですか、春とかの、今日とかも、すごい気持ちがいい時に、まだ咲いてない蕾がこうポンポンポンってしてるとこに、2、3個ぱーんって開いてて。こう耳元で僕はデンマークのペデルセンっていうジャズ、ベーシストがいるんですけどもウッドベーシストが。優しいんですそのウッドベースが。それでですね、ノルウェーの民謡を自分でアレンジして弾いてんですけど、ベース音で子供達がわらべうたを歌ってるその歌をベース音でやるんですよ。それを聞きながらこう「くぅ〜っ」って涙が出てきたんですよ。僕にとってはこれが湧き水だと思ってて。涙っていうのは「波だ」なんですよ。This is a waveっていう。わかりますか、もうこれトークショーですけど適当な話ししてますからね。だから音楽と思って聞いてもらえればいいんですけども。This is a wave って言ったんですよ。これが「波だ」って、だから、波がこう来てるので、その波を感じたことが音楽に変わってくんですよ。で、絶対に音楽っていうのが、あの、なんていうんですかね。鳥って豊かでしょやっぱり。鳥とかが、猿は絶対惹かれてたはずなの。だから樹上で、見てたでしょ、どう考えたって鳥と同じ視点でテナガザルは見てるわけで。

山極

猿にとって実はね、鳥は敵だったからね。

坂口

はあ〜。

山極

だって猿の食物、食卓をさ。

坂口

そっか食レーンが一緒なんですね。そっか。

山極

鳥とね、争うわけよ。だけど猿は、だから樹上で暮らす猿たちって鳥みたいに色とりどりなんですよ。顔にいろんな色、毛にもいろんな色、はべらしてるわけ。

坂口

それ擬態なんですか。

山極

あれは樹上の世界で、要するに色彩を中心に暮らしてるからね。だけど音に関しては、鳥の方が圧倒的に豊かなの。

坂口

憧れがあったと思うんですよ、猿たちも。

山極

それはね、遠くに飛ぶ、猿は飛べないじゃないですか。鳥は飛べるでしょ。だから、少し離れて音声を相手に伝えることができる。距離感が全然違うんですよ。あっという間に相手に近づけるでしょ。猿は、枝から枝へこう伝っていかないといけないから、声ってそんなに遠くまで響かせるものじゃない。だから圧倒的に猿は負けてるんですよ。でも猿を祖先とする人間は、鳥になろうとしたわけでしょ。

坂口

精霊って大体鳥じゃないですか。精霊が鳥なのも、一番近しいし、やっぱり今でもこう鳥の声が聞こえるとドキッとしますから。で僕はその、わかりますかね、こんだけ安保とかなんとかとか言ってて、俺今音楽でしょ、って思ってるわけですよ。今音楽をやんないとダメだと思って、ずーっと曲作りしてるんですよ。どうやったら人間全員がブワ〜ッと、「くぅ〜っ」っと言ったり、わかりますか、言葉にならないのでこれって、で非言語の方に向かっていかないとダメだと思うんですよ。

山極

例えば「感動」って言っちゃうと、あまりにも浅ましい話になっちゃうんだけども、元々ね、僕は言葉の前に音楽っていうのがあったと思ってて。音と音との組み合わせで、あるいは音を作り出して、お互い伝達する、心を一つにするみたいな時代がかなり長く続いたと思うんですよ。そっちの方にね、さっき「くぅ〜っ」って言ったけど、そういう瞬間が毎日毎日、いくつかあって、それが人々を遠ざけたり人々をくっつけたりしてきた時代がある。そっちの名残をね、我々は強く持ってると思うんですよ。今言葉で表面的に他者と繋がってるような気がしてるけど、本当につながるのは言葉ではなくて、言葉っていうのは繋がったことの説明でしかない、あるいは別れたことの説明でしかない。でしかもそれは自己満足にしか過ぎなくて、結局人と人とをこう結びつけているのは、音そのものだと思うんですよね。

坂口

そうだと思うんですよね。トークショーとかも今これほとんど錯乱している会話なはずなんですけど、なぜか意味わかっちゃったりしてる人とかいるんですよ、メモれたりとか。俺おかしいと思うんですよ、メモれてる人とか。だからそういういこととか、でもこれが矛盾がないように、一見矛盾がないように会話ができているとか、そっちに僕今ちょっと気付いてきて。
初めは路上生活者フィールドワークしてたんだけど、だんだんだんだん今、今回こう「家族の哲学」っていうのはもうほとんど家族だ、しかも台所でしかほとんど繰り広げられてないんですよ。で僕が書斎で鬱状態で引きこもってる時の記録なので、移動がないんですよね。だけどここでフィールドワークし始めてるんですよね。でこう家族をフィールドワークしながら、してるとですね、観察とか客観視では捉えられないものがあるっていうか、そのなんていうんですかね、それを。昨日ねちょっと書いたんですよ、なんて書いたんだっけな。人間はフィールドワークする、客観視する、観察する、然りそれだけで人間の体はそれ自体が一つの装置でもある、と。つまり僕たちは観察をしつつも、同時に自分たちからなにかこう出してたり、感じてたりするので、楽器のようなものだと。で猿は樹上で鳥と同じ視線を獲得していたのではないか、その時に音楽を学んでいた。つまり鳥の視点。で死ぬと骨になって土に戻るので、土、土地の記憶も俺らは持っている。それらを持っていることに気づけ。それは観察では不可能である。だからこそ想像する必要がある、って書いてあるんです。で俺これ記憶があんまないんですけど、メモで書いてるんですね、携帯で。耳を澄ませ、って書いてあります。

山極

多分ね、「想像する」ということはどうやって出てきたかというと、ゴリラ、チンパンジー、これはすごく人間に近い類人猿だよね。彼らは非常に高い知性を持っている。だけど彼らとやっぱり我々人間が一番違うのは、仲間の不在を受け入れられるってことなんですよ。チンパンジーは一旦離れちゃうと、しばらくは離れてられるんだけど、でも声は聞いてるわけだよね、声の聞こえないところに出ちゃうと、これはもうよそ者になっちゃうわけですよ。二度と戻ってこれない。ゴリラもそうなの。戻ってこれない。人間はね、四六時中どっか行っちゃって、また帰ってくるわけじゃないですか。家族って言ったって、ちょっと離れて、また帰ってくるでしょ。それでも家族なんだよね。あるいはその、家族でなくても、村の仲間が、一ヶ月どっか行って帰ってきた。でもそれは村の仲間であって、決してよそ者じゃない。そういうものを受け入れられる。じゃあどうやって受け入れているのかって言ったら、そいつがいなくてもそいつがいる形があるんです。例えば座布団が残っている。つまり、人間は記憶っていうのを外に出した。だから、彼が作ったもの、あるいは彼が座っていた椅子、彼が食べていた食器っていうのがそこに残っていることによって、いるんですそこに。でそれが人間の想像力で、これがね、圧倒的にゴリラやチンパンジーと違うところ。それで人間は、奴らが作れない社会をものにしたんです。
だからそこがね、僕はどっちかっていうと、ものに乗り移る心、それは音楽にも通じるし、造形にも通じるし、まさにアートの心に通じると思うんだけど、そういう心を持ったことによって、人間っていうのはかなり許容力が高くなった。つまり家族を、離れても家族を維持できるようになった、っていうことじゃないのかな、って思うんですけどね。

坂口

それで僕がですね、今新作書いてるんですよ。それが「現実宿り」っていうタイトルなんですけど。雨宿りじゃなくて。雨宿りってshelter from the rain under the treeとかじゃないですか。だから雨からの避難所なんですよね。だけど日本語だと「雨宿り」って書くんですよね。だから不思議だなと思って。しかも軒先の下に入った途端に雨が、嫌だった、それまで雨に打たれてたはずなんだけど、入った途端に雨が壁に変わったり、なんかこう雨の日ってちょっと眠くなったりするじゃないですか。だからrain is shelterとか、そういう風な共感性を持ってて。で今回shelter from the realityってのを書いてみたんですよね。僕たちは現実ってものをあるものって思ってんだけど、今僕は書いてるんですよなぜか、毎日10枚誰から書かされたかのように毎日書いてるんですけど、それが今28万字書いてるんですよ。止まらずに28万、もうなんか大本教みたいな状態になってて、で主人公がですね、あるどこかの砂漠の砂、でこれが「私たち」っていう人称で、砂と、もう一人が片目を失った、鷹かなんかに食べられてしまった、中くらいの、中型の鳥の片目なんですよ。右目で。もう一人が、現代の2016年の誰か、まあ「私」という人間、っていうその3人に分裂してて。この前精神病院に行ってそういう話してたら、「あ、坂口さん症状が落ち着かれたのは、こういった形で分裂がもう完全に定着してきてますね」ってな感じで。分裂がうまーくこう、浸透してきてて。

山極

でもさ、昔のね、人間って、色んなものやね、岩とも語れたし、さざ波とも語れたし、木の葉っぱとも語れたわけでしょ。でそれは人間の言葉に固執するから語れないと思っちゃうんで、ちゃんと反応するわけですよ相手はね。まあそれが人間の独善性というか、想像の世界で遊んじゃった結果なんだと思ってて。それを今やってるんじゃないの。

坂口

そうですよね。だからずーっとフィールドワークしてたはずが、ちょっとずつ裏っ返しになってきてて、でそれが今ちょっと物語を作るっていう、創造の方にこう、こんな感じ(手振り)でひっくり返ってるんですよ。で僕ん中でこれ、でも政治的な活動のつもりなんですよ。いわゆるアンガージュマンというか、完全に政治参加としてやってるつもりなんですよ。で、非常に書斎でただ書いてるだけではあるんだけど。で完全に分裂した錯乱したような原稿なんですよ。読み返しても何のことやらわからないし、構成も何も考えてないんだけど。ある文字列があって、文字だけ読んでても言葉の意味はわからないんですよ。ただ、読み聞かせてるんですよ友達に。そしたらね、あと10分くらい聞きたいって言って、延長、って感じで言ってくれるんですよ、意味はわからないんだけど。だから、誰もバイオリンのコンサートで、それはドのシャープですか、レですかとか聞かないじゃないですか。だから、音楽はみんなすーって聞いてんだけど。

山極

それはね、多分、「境界」って話じゃないかな。つまり「バリヤー」ね。あるいは「フロンティア」ね。そういうものを、人間は人為的に作ってきたわけよ。で結局そんなものはないんですよ。僕はだからいつも、いつもっていうか大学はジャングルですって言ってるんだけど、ジャングルってのはとにかく圧倒的な生物多様性があって、虫もいれば、いろんな植物もいれば、鳥もいれば、獣もいればね。トカゲもいれば蛇もいれば。っていう、そういう連中が、境界なしに暮らしてるわけね。で境界ってのは、今人間が物理的に線を引いてるわけですよ。人間の居住域には、野生動物は立ち入らせない。で来たものはみんな害獣か害虫なんで、みんな追っ払うわけでしょ。で観賞物だけカゴに入れて、あるいは鉢植えにして置いとくわけですよ。で本当はそんな暮らしなんかしてなかったわけでしょ。境界を引けなくなったら今度は人間にも境界を引き始めたわけじゃない。それが政治なんですよ。でそれにね、嫌気がさしていて、坂口さんは、どんどんそれを取っ払って。本来そういうものだと思うんです。そういう心のあり方から、人間は出発した。だから、みんな受け入れられるはずなんですよ、自分たちだって受け入れられた。僕がそれに気づいたのは、最初に私がお話をした、ちょっとだけって言いながらゴリラの群れの中に入っていけたって時。彼らは、全くの異物の私を、最終的には受け入れてくれるわけですよ。でそういう心を人間もずっと持ち続けているはずなのに、何か境界を設けないと安心できなくなっちゃって、その境界の中に閉じこもることで、しかもその心理的な境界だけじゃ満足できないから、いろんな装飾品で壁を巡らしてるわけでしょ。それが逆に自分を規定してるわけですよ。自分を圧迫してるわけですよ。

坂口

やっぱゴリラに名刺渡せないですからね。そういうのとか俺すごいドキッとするんですよね。渡せないんで振る舞いでやるしかないじゃないですかね。あんまり怖くないよ、でも結構好奇心はあるよ、とか。結構好きだよ、とかそういうことをなんかこう、こういう感じ(身振り)でやるわけじゃないですか。

山極

熱意だけじゃ駄目なんだよね。

坂口

餌ですか。

山極

向こうの世界のルールに、こっちが体ごと表現しないといけない。だから、どんな動物だって表現型を持っているわけですよ。身体そのものが表現型だし。で身振り、表情ってのは表現なわけでしょ。その表現っていうのはまさにその世界のルールだから、そのルールを知らないといけないわけね。知らなくてもやっていけるわけ。いい加減でいいんですけども、それは敵対視されないことが条件。そのように振る舞えるように、実は身体っていうのは作られてるはずなんです。それを逸脱しちゃったのがアートなり、人間の作り出したものであって、建築物ってのはまさにその典型だと私は思っていて。どうですかそういうの、そういうふうに思いません?つまり建築物って元々はね、人間の社会の、個人個人の関係を表すものだったはずなんです。だけどそれが逆に、個人のものに建築物がどんどんなっていって、それが今度は、人間関係を逆に規定するようになってしまった、っていうのが私の印象なんですけどね。

坂口

でも昔話とかそう言ったことは読めるじゃないですか、それでみんな地獄に落ちてたので、いわゆるそう言った社とか社殿を作ってた人たちは全員地獄に落ちてたじゃないですか。で、わかりますか、皆さんからもらったもので建ててる人とかいうは全員地獄に落ちてるんですよ。で僕はそれを見て、非常に、ただエデュケーションを受けているという。もうそれ、ああ地獄に落ちるので。この前、細川さんっているじゃないですかね、僕護熙(もりひろ)さんの長男とすごい仲いいんですよ。背中を触ると音量がすごいんですよ。触るだけでね、ああやっぱ土地所有ってのはきついんだね、って言ったらきついよ、って。それはきついと思ってマッサージをずっとしてたんですよ。そしたらそこにある、彼は陶芸家なんですけど、楽茶碗をね、たぶん何十万ってするんでしょう、「あげる」って。手当てしただけですけど僕、「あっ、ありがとうございます」って言って、こう、本当に物乞いするチンパンジーですよ。弱い、劣位者の。そういう感じでやってて、あっそうか、大変、よかったマンション買わなくて〜と思ってんですけども。建築も典型だけど彼らはもう自ら地獄に行くっていう、そのために聖(ひじり)にならなきゃいけないくらいのつもりでやってる人しか僕信用してないですよね。だって、これも武田五一さんが作ったわけですよね。こういう人とかはもう、一歩間違うととんでもないとこ行くので。つまりあらゆる、ジェノサイドですからねこれは。土を掘るだけであらゆるものを蹴落とすというか、大量虐殺ですから。そういったものを含めて自分の中で、入れるっていう。僕ね建築自体に否定はしてないんですよ。そういう役目を持っている人であるっていう。で僕の仕事としては、そうじゃないあり方を、それこそゴリラの世界に入っていく人のように、多分。
あ、時間ですかそろそろ。時間過ぎましたね。

山極

過ぎちゃったね。もう一言くらいしゃべって。もう一言くらい最後にしゃべってください。

坂口

なんですかね、僕はだから、最近はそういったこと、さっき今までずっと言ってたようなことに素直に耳を澄ましてるだけなんですよね。でみんなもそれぞれ納得いかないこととかおかしいこととかあるし、いのちの電話してたら単純なんですよ。連絡とるでしょ、繋がって、ほっ、って言って切るんですよ。こういう状態になってるんだなあと思ってて。で俺が考えてること意味わかるでしょっつったら、わかります、って。「くう〜っ」ってしますかっつったら、「くう〜っ」ってなります、って。じゃあオッケーオッケー、10年くらい続けるから、それまで死なんどいてくれっていう。わかりました、っていう。だから理解されるとかされないとかでもなんでもないので。どうでもいいんですよ、だから。俺はもう原稿用紙今10枚ずーっと書いてんですけども、年間3,650枚ですよね、そうすっと。それを10年続けて36,500枚書いてみようと思ってんですよ、大本教のように。そんときに、なんか人に伝わればいいと思ってて、だから何かこれで理解されるとか、そういうものをもうちょっと超えたものにならなきゃいけない。今の人間の論理的に理解されるとか、認知されるとかじゃ、もうね、碌でもないですよ。こんな民主主義って言って全部嘘ですからこれはね。だからそうじゃないものにどうやってすればいいかっていうのを言語化していく、っていうか音楽化していく、っていう感じなんですけど、そういうことをやっていきたいな、と思ってます。

山極

ありがとうございます。坂口さん最近は、人前にあまり出ないっていうんで、心配してたんだけど、いやあ、パフォーマンスの人だなあと思いました。

坂口

ギターも持ってきてね、歌いもせずに。

山極

後で歌ってもらうけどさ。やっぱり僕はアートは元々自己表現から出てきたと思ってるんですよね。で自己表現って今、単に言っちゃうと、単にコミュニケーションと誤解されちゃうかもしれないけどそうじゃなくて、なんなんだろう、やっぱり自分が自分でいられなくなっちゃうっていう、そういうことなんだと思うんですよね。自分を変えたい。しかも、人間っていうのは、自分を自分で定義できなくなっちゃってるから、他者に定義してもらわなくてはいられないわけですよね。だから人と付き合う。でその中で自己表現をする。それがこう、どんどんどんどん膨張しちゃって、しかもさっき僕が言ったみたいに、いろんな境界を張り巡らされていると、それをちょっと越えたいという気持ちが出てくるんですよね。それをすごく正直に表現してる、っていうのかなあ、坂口さんはね。そういう気が、すごいしました。

坂口

わざとやってますけどね。これも1つのパフォーマンスというか、これやってんだからっていうのをわざとやるんですよ。自由ですよーって言うと、ドキッと人間がして、一瞬その境界がぶれるんですよ。それを僕は見てて、何人かちょっと目がぐってなってる人とかを確認するとそれで帰っていくんですよ。なんかそういうことは思いますけどね。

山極

ありがとうございます。すごい力を感じました。

坂口

ほんと面白かったです。ゴリラとして頑張りたいですよね、だから。まあ人ですけどね。

山極

もうちょっとゴリラになった方がいいと思います。自分自身ですよ。
どうも、お騒がせしました、ありがとうございました。

坂口

ありがとうございますほんとに。

土佐

それでは引き続き本日のパネリストのトークを10分位ずつしていただきたいと思います。
坂口さんはそのまま残っていただいて。坂口さんから始めさせていただきたいと思いますが。

坂口

せっかくだから歌いましょうかね?

土佐

そうですね!ではよろしくお願いします。

(坂口さんが歌いだそうとするとお子さんが登壇し、一緒に坂口さんのギターで弾き語りをしました。)

土佐

ありがとうございました。ほんとに家族のあたたかい雰囲気が伝わってきました。
それでは続きまして京都大学の教員のパネリストの発表にうつります。
考古学が専門の泉先生でございます。泉先生は現在、京都大学総合生存学館の教授をしておられます。それではよろしくお願いします。

なかなか次を繋ぐというのは大変なことだというのを初めて実感しております。自分も大学の中では少し変わった存在ではないかとは思うんですが、うまく繋げるかどうかわかりませんが、お話をさせていただきたいと思います。失礼ながらちょっと座らせていただいて、また後で一度、最後立ちたいと思いますけれども。
どういう話をしますかということで少しいろいろあったんです、事前に一回発表したんですが、少し内容を変えてみました。僕は東京生まれでありまして、この「ええやないか」というのをうまく発音できないんですね。「あさが来た」ではないですけども、東京人がこういう関西弁を話すのは大変苦手なんですが。まあ一応縄文ええやないかということで。今ある画像、もう答えは書いてあるんですが、ご存知の通り、国立競技場、二つ、A案とB案が出たんですが、みなさんどう思われたのかわかりませんが、決まったのはA案であります。B案見ていただくと解説にですね、「縄文的」というのが書いてあります。見ていただいてどこが縄文的かなと、いやこれはギリシャ違う、とかそうイメージを持つと思うんですけど、実は縄文的なんです。それは今日の話から省きます。もう10分ということですので。
今日私たちが、私が話したいのはですね、それこそ総長が研究しておられますような霊長類と、そして現代人とをつなぐところの部分であります。そしてその中に、アートとはどういう位置付けになるのかという話を、少し例を上げる形で説明をしたいと思います。
最初に私達の祖先は、人類700万年の歴史と言われていますけれども、旧人と呼ばれる人間、もしくは原人、その中から生まれてきたと言われています。先ほど話しましたんで慌てて書き換えたのでありますけれども、私達の祖先、ホモサピエンスはアフリカで20万年くらいに生まれたんでありますが、1万人くらいだったんじゃないかというのが総長の先ほどのお話でありました。非常にボトルネックというか、非常に少ない人間から出てきたためにいろいろなことが起こってきたんだと。でそれが結果的にですね、いろんな意味でホモサピエンスを地球全体に広がらす要因になったかもしれません。その鍵になる部分が、実はアートと関わるんではないかというのがまず最初の話になります。
実は約7万年前にアフリカから我々の祖先、ホモサピエンスの古い連中が出たようでありますけども、そこはアジア方面とヨーロッパ方面と幾つかに分かれて行ったといわれております。その中で比較的よくわかっているのは、ヨーロッパでの状況でありまして、今から4万年ぐらい前に、ちょっと寒い時期がございます。その時期に、それまでヨーロッパを支配していたネアンデルタール人からホモサピエンスに変わった。でその時何があったんだろうかという時の1つの考え方として、ネアンデルタール人とホモサピエンスの間の違いとして、2点今挙げられているものを提示しました。
真ん中にあるものが、思春期の存在であります。いわゆるチンパンジーや霊長類、それから原人の間には、だいたい成長しますと大人になってすぐに子孫を作っていく、こういう行動があるんですが、その間にいろんなものを学んだり、そして社会に出る準備というんでしょうか、そういうのをしていくんでありますが、一番右側、真ん中の表の一番、皆様から見ると右側にあたります、現代人では、非常に長い時期がございます。それは思春期と言っている時期で、一般的に思春期というのは何も特徴がないのかというと間違いでありまして、右側のように実は成長が一度低くなって、また改めて15歳、14歳くらいの時に少し成長が大きくなると。人類、ホモサピエンス独特の時期がございます。でご存知の通り思春期というのは、皆さん、ほとんどの皆さんご経験されてると思いますが、親に反発をするとかですね、それから何か冒険に出て行くとか外に出て行くとか、これ採集狩猟民の例としてあるんですけども、外に出かける率が非常に高いんですね。そういうことで人類の拡散だとか、様々な新しい試みというのがこの時に生まれてきたんではないかというのが1つあります。
もう1つはネアンデルタール人が非常に骨太でがっちりして筋肉が強い、現代と2倍くらい体が丈夫であり、その分エネルギーを消費するんですが、現代人はひ弱であります。ホモサピエンスはひ弱でありまして、その分寒気だとかそういう適応に優れていたんだと言われています。ひ弱で、さっき言ったように親に反発して、どっかふいっと行ってしまう。なんとなく自分たちと、私達の孫なのか息子なのかわかりませんがそこらへんの世代の話としてあると。そこの部分に、非常に可能性があったのが、まあ1つではないかと思います。
大事なのはここからなんですが、私が関係するのはここからなんですが、4万年前から、実はもう既に芸術っぽいものが出ております。で1万年後の3万年前を越しますと、こういう様々な芸術品が出てきます。ご存知の通りだと思います。左側にあるのが洞窟に描かれたものなんですが、妊娠した女性のように見えるビーナス像とか。角笛を持っております。多分音楽が始まったんだろう、そしてこういう祭祀も始まったんだろう。そして、今日で言えば芸術と呼ぶような作品を作り始める。でたくさん、みなさんご存知のようにたくさんの骨や石で作ったビーナス像が作られます。多くの人はこれは女性の繁殖能力の象徴で、ある意味では象徴的なものなどと考えられておりますが、いやそうじゃないよと言い出したのが実は京大に留学をしていた、ケンブリッジ大学から留学してきたサイモン・ケイナーという研究者がいまして、これがロンドンの大英博物館で縄文の土偶展をやった時に、こんなことを書いてるんですね。(スライドを)見てください、これ、わかりますよね。左側が実際の女性でして、右側は実際はあの旧石器のビーナス像であります。抽象的なだけじゃなくて全く一緒であると。即ち見方の違いでしかなくて、彼らがいかにこうリアリティを持ちながら、こういうようなものの中に一つの考え方を投影していたのか、というふうに思います。でこれを含めて、様々な旧石器時代や、先史時代の芸術というのが言われます。これを原始美術というふうに呼んでいますが、実は東京の世田谷博物館の開館記念などで、そういうことをやっておりますが、それに知恵遅れだとか、現代の未開民族の芸術を加えて、そこの共通性を強調しております。そういうものを原初的感動といっていいんだと思いますが、その持つ共通性っていうのはまさにボトルネックで人類が、ホモサピエンスが出現するときに共有したある姿なんではないかなと、こんな風に思っております。
時間がなくなってるので進んでいきますか。これ、私の専門である縄文なんですが、見ていただくと左側が、お金をかけてですね国の特別史跡で復元した三内丸山遺跡の縄文の集落の一部のものであります。ところがですね、つい一ヶ月前、室蘭市の小学校の閉校記念パーティーに行ってきました。これ、134年間ありがとうという、室蘭市の、元は西小学校の閉校の時に描かれたものですが、これ室蘭小学校の設立時の建物であります。どっちが縄文でね、どっちが現代建築だと思いますか。いかに今の人たちが持っているイメージが現代的なのかと。ちなみにですね、実はこれ、僕のひいおじいちゃんの家なんです。開拓民でありまして、自分の家を小学校に提供したので、この家があるんです。私の130年前の祖先の家がこれであります。なんで縄文を研究したのかよくわかると思いますが、まあそれはジョークでございます。
縄文土偶、たくさんみなさんご存知だと思いますが、この土偶、左側にありますのが日本で一番古い土偶の仲間であります。右の、真ん中の下のをみてください、西アジアの新石器道具っていうのは首にソケットがあるんですね、穴があるんです。こういうのを含めて非常によく似ています。すなわち初期の、縄文時代初期の芸術作品と言われているものは、世界共通であります。何もグローバリズムと言って英語を勉強しなくてもですね、彼らは当時共有した一つの芸術を持っているんだと。すなわち我々の持っている原初的な部分、感動的な部分に一つの共通性があるんではないかと思います。
これで一つ締めくくりたいと思います。つい最近でありますが、青森県の五所川原の、これ五月女萢(そとめやち)と読むんですか、五月女萢というところで、こういう綺麗な、まあ美男子ですよね、今の日本人にしてもすごい、りんさんも顔負けというような美男子でありますが。これ、仮面であります。この仮面は、こういう形には多分なるんだと思いますが、変わっているのは側面で、見るとわかりますようにこれ浅い、浅鉢、月の形をしております。真っ赤に塗られておりまして、ちょっとそれを実験するためにですね、あるものをもってまいりました。これは実は全然縄文とは関係ないんでありますけども、ちょっとパフォーマンスをさせていただきます。(バッグから赤い器を取り出す)これからお見せしますが、これを先ほどの縄文の瓶(かめ)と思ってください。実はこれは韓国のものです。でここに、あすいませんちょっとお願いできますかね。(瓶を取り出す)これはある国立大学で作っているお酒であります。米のお酒。これをこういう風に例えば(酒を器に注いだふりをし、飲むように持ち上げる)これを飲み干したとします。わかりますか。飲むと、真っ赤な顔になっていきます、先ほどのものは。すなわち、ここで赤い顔の人間になります。これはご存じの方多いと思いますが、韓国でたまたまなんですが、チルバというものの仮面であります。なんで赤く塗られているかというと、これは辟邪の意味を持つということと、チルバは実は交わってですね、子供を作ります。そういう意味で、繁殖の意味を持っています。すなわち先ほどのように、何か液体を飲むと、顔が変わって豹変し、そこに何かが乗り移ってく、いわゆる憑依を表現するのかもしれません。まあその前に、真ん中に書きましたようにこれ有名なヨーロッパの、旧石器時代のシャーマンの絵なんでありますけれども、これは左側が本物で右側が絵なんですね、だから本当にこうなるかどうかわからんですよね。ちょっとそれを疑うとですね、実は縄文時代の土偶の中に、先ほどの話があったんですが、鳥とか、今とか確実に3つなんですが、鳥と、鹿、あごめんなさい間違えた、猪と、猿です。鹿って書いてありますけどこれ間違いで猿です、の面をつけて、体に乳房と女性器を表現する場合があるんです。すなわち、まさにシャーマンのようなものがですね、縄文時代に存在していた。実は男ではなくて、ひょっとすると女かもしれない、が被ってたかもしれない。でこれが見つかった場所、さっき言いましたね、青森であります。青森にいるシャーマン。もう、すぐ気がつかれたかと思いますが、イタコ、という風に浮かぶんですが本当かどうかわかりません。ただこういうものが私たちと古代の人たち、もしくはそれ以前の人類の発生の部分と、関わるんではないか。アートこそ、我々のコミュニケーター、いわゆる交信する道具ではないかと、こういう風に思うというのが、今日の私の話でございます。どうもありがとうございました。

土佐

泉先生ありがとうございました。
それでは今回の京都大学の学生代表で、本校初のパズル博士になられました、東田くんよろしくお願いします。

東田

本校初のパズル博士と言われましたけれども、人間環境学研究科で博士課程で、ちょうど博士号をいただきまして、この3月に京都大学を出ることになりました、東田大志、または京大生の皆さんはビラがパズルの人ということでご存知の方も多いかもしれないんですけれども、僕はパズルについてずっと大学で研究してきまして、パズルについて論文を書いて、今回博士号をいただきました。で今日は「ちょっとぐらいええやないか」なパズルということでですね、アートなパズルについてご紹介を差し上げようと思います。
まず早速なんですが、皆さんにちょっとパズルの問題をいくつか出そうと思いますので、ちょっと考えてみてください。はいこれ上のカタカナ語と下の日本語が同じ意味になるように、四角の中にですね、空いているマスに、文字を当てはめてくださいという問題です。わかった方いらっしゃいますか。上のカタカナと下の日本語が同じ意味になるように。わかった方っていらっしゃいます。結構難しいですか。どうですか。では後ろの方で。あっ、じゃあ折角なので、坂口さんにお願いします。(坂口さん解答)正解です、「ウェディング」「けっこんしき」というのが正解です。素晴らしい、早かったと思います、はい。僕自身実は昨年結婚しまして、パズルで結婚式を挙げたところなんですが、ちょっとまだ結婚生活というパズルはまだちょっとよくわからないところであります。
次の問題にちょっといこうと思いますが、今度は漢字が4つ並んでるんですけど、これうまく当てはめて、漢字4文字の言葉を作ってください。ヒントは人の名前です。人名です。わかった人います。早い。すごいですね、めちゃくちゃ早い。ちょっと折角なので、はいじゃあ後ろの方、そこからお答えお願いできますか。(解答)はい「板垣退助」が正解です。よくわかりましたね、板垣退助ということで。でさっきのウエディング・けっこんしきの問題とか、こういう類の問題、この形式を色々と僕の方で考えて、テレビとかで出題したりというような活動をしてきました。
最後の問題はちょっと難しいです。これは何を表しているでしょうかという問題になります。これはちょっと考えないとわからないと思いますが、どうですかね。わかった人は、手をバッと上げていただければと思いますけれど。ヒントはですね、真ん中はこれ「隹(ふるとり)」ですよね。部首、ふるとりという部首で。右側はキャベツではなくてレタスです。どうでしょうか。で一番左はメガネですよね。いかがでしょう、わかった人、いますかね。フル、おっ、はい。(解答)「ネックレス」正解です。よくわかりました。さあなんでネックレスなのか。メガネは「メ」が「ネ」と読みます。「メ」が「ネ」に変わる、ということです、メガネは。なので、「メ」を「ネ」に変えてください。ふるとりは「フル」を取り払うという意味なので、「フル」を取ってください。そうすると、「ネックス」という言葉が残りますね。で最後にレタスなので「レ」を「足して」ください。レタスは「レ」を「足す」。というので、「ネックレス」というのが答えになります。
こういう類のパズル、これは友達の結婚式で出したものなんですけれども、そういうパズルの依頼も受け付けておりますので、もしご用命がありましたら、ということで。その他、算数のパズルですとか、こういう数字を入れていくようなパズルですとか、これは割と比較的最近作ったものなんですけれども、見た目が珍しいタイプの、円がたくさん描かれているようなものだったり、あと英語のパズルなんかも作っております。国語、算数、英語という、基礎になっているような、主要3教科と言われる、教育では言われるようなところすべてに、パズルというのは関わってきている、というところです。もしこういうパズルに興味のある方は、本もたくさん出しておりますので、是非お買い求めいただければと思いますけれども、こういうパズルを作ってきました。ただですね、今まで僕が紹介してきたようなパズルは全て、お気づきだと思いますけれども、答えが1通りになるように作られています。そしてルールもかなりしっかりと作られているものばかりです。パズルの世界っていうのは実は「ちょっとぐらいええやないか」と今回のテーマからですね、とても程遠いというか、もうルールがバシッと決まってしまって、それを逸脱したら、それは反則ですよ、解けたことにはならないですよ、ていうような世界観が、だいたい主流です。今でもそうです。今でもほとんどのパズルは、ルールを破って解くことは許されない、ということになっていると思います。しかし、実は現代のパズルの中に、たまに「ちょっとぐらいええやんか」的なパズルがあります。で今日はちょっとそういうお話を、そういうパズルを紹介しようと思います。
でアートとパズルの関係の変遷というのはすごくわかりやすく、古代から中世、近代、現代という風に分けていきますと、昔はですね、パズルとアートっていうのは、そんなに分割できないぐらいだった。アートの作品の中にパズルが入り込んだり、逆にパズルとして作られているものであってもそれはアートに非常に近いものだったりした。区別ができないぐらい似ていたんですが、近代に入ってこの二つは完全に分かれてくる。アートとパズルは正反対のものになってく。そして現代になって、またこれが再接近してくる。こういう、アートとパズルの関係の歴史が見られるわけです。ちょっと具体例として、古代から中世の例としては、こういうパズルと言っていいのか、アートと言っていいのかよくわからない、詩のような作品があります。これは、一応詩になってはいるんですけれども、ところどころにですね、縦読みができたり、それから回文があったり、それから絵の上に描かれている文字を読んでいくと、またこれが意味のある言葉になっていたり、行の数を数えてみると、当時は数字と概念が結びついていましたから、行の数を数えていくと、また何やら意味が見えてきたり、そういういろんな読み方ができるように作られた、そしてそういういろんな読み方を発見させるように仕向けられたパズルの詩なんですね。でこれは、十字でクロスしているような文章があることからも想像がつくかもしれませんが、キリスト教の人が、キリスト教のかなり上の方の神官の人が作ったものです。でこういうパズルみたいなテキストを、宗教家の人が作ったりしていた。神の啓示っていうのが、非常にわかりにくいパズルのような言葉として、神官の人たちに発せられて、でそれらを解かなければならなかったわけですね、宗教家の人たちっていうのは。そのため、こういうパズルのようなテキストというが、宗教的なものとして、しばしばアートと一体化して、昔の芸術作品っていうのは基本的に宗教と非常に結びついているものが多かったですから、パズルと一体化してこういう風に出てきた。
で近代になるとこれが分かれてくる。一つの理由としては、ちょっと難しい言葉なんですけど、バウムガルテンという人がですね、近代になると美学という学問を始めるようになってきます。でここでバウムガルテンはこんなことを言っているわけです。「可知的なもの、すなわち上位能力によって認識されるものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である。」ちょっと難しいことを言ってますが、要はですね、論理学の対象と、美学の対象は別なんですよと。美学は芸術を扱う学問で、こっちは感性なんだと。で、論理的に考える方、これはパズルですね、パズルっていうのは美学とは違うと、論理学の方だから美学と違うと。これ論理と美を分けるようなことをバウムガルテンが言って、これが現在も存在する美学の最初の定義というふうに言えると思うんですけども、こういう考え方が出てきます。これ以降美学について、幾つか、いろんな人が言うんですけれども、近代のあたりでは、概ねこの考え方というのが主流になってきて、パズルと芸術というのは、ちょっとベクトルが変わっていく、ということになります。
しかしですね、現代になってくると、芸術も広がっていくわけですね。芸術も美だけを追い求めるものではなくなってきて、でパズルの方も「ちょっとぐらいええやないか」というその芸術の影響を受けたか受けてないか、それはなんとも言えないのですが、「ちょっとぐらいええやないか」という感覚が出てきています。これが今日のメインテーマです。現代のパズル界は、「ちょっとぐらいええやないか」という感覚がある、たまにですけど。まず、答えが無限にあるパズルというのが出てきています。あんまり見たことがないかもしれませんが、パズルの本の中に、最近では「あなたとミミズの共通点をできるだけたくさんあげてください」という問題が、パズルの本の中に出てきたりします。こういうものが徐々に、90年代、1990年代くらいから出てくるようになってきました。 そして2つ目は、入社試験とか入学試験の中に、アバンギャルドな、答えがいくらでもあるようなパズルが出てくるようになってきました。「アメリカにガソリンスタンドは何件あるでしょう」という問題が、マイクロソフト社の入社試験で出ました。これは、誰も知らないんです答えを。誰も知らないんだけれども、答えを出す過程を見ようとしている試験だったわけですね。こういう答えがわからない、全くわからないようなものとかを出すような試験とかが出てくるようになってきました。入学試験でも近年、ハーバード大学とか海外の方ですね、優秀な大学なんかでは、そういうアバンギャルドなパズルが結構出るようになってきました。京大も最近特色入試で前衛的パズルのようなものを出したりしているようですね。
最後3番目が、パズルのルールを作品とみなす傾向というのがある。これはルール自体はですね、例えばクロスワードパズルというパズルであれば、そのルール自体はあんまり作品とはみなされなくて、そのルールに基づいて作られる一つ一つの問題に対しては作品とみなされてきたんです、これまでは。でも近年ではルール自体を作品とみなす傾向が出てきた。でこれは、ルールっていうのは、答えを1通りにしないんですね。ルール自体はあって、そのルールからいろんな問題が生まれてくるわけです。だから、ルール1つ自体は答えを1通りにしないにもかかわらず、そのルールが作品とみなされるような傾向が出てきた。こういうパズル界の中でも、答えが1通りじゃなくてもいいんじゃないかという、そういう考え方というのが少しずつ生まれてきている。ルールを多少逸脱してもいいんじゃないかというようなものも出てき始めています。
更にちょっと、「ちょっとぐらいええやないか度」というのをですね、分けてみました。1〜5まで分けてみました。で、今回私が作ったパズル同好会、京都大学パズル同好会がですね、あちら、皆さんの右手の後ろの方にパズルの「ちょっとぐらいええやないか」なパズルを展示していますので、また後で見ていただいたらいいと思うんですけれども、そこに「ちょっとぐらいええやないか度」というのをが、それぞれ付いていますので、それと対応しています、この文章は。でちょっとぐらいええやないか度が一番低い1は普通に解くことができる作品。そこからだんだんだんだん、それなりに解けるけれども常軌をちょっと逸しているとかね、解が開かれているけど比較的作者の意図はまだわかるね、解はたくさんあるんだけども作者の意図はまだわかる。でさらに進むと作者の意図すらよくわからないものね。それから最終的には不特定多数の観客が作品制作に加わってしまう。これ1〜5まで作品が用意されておりますので、もしよかったら、特に最後の不特定多数の観客が作者に加われる作品も用意してありますので、皆さん是非後で参加してからですね、休憩時間などにやってみていただけるといいと思います。
僕自身のこのたすきをかけた活動についてちょっと最後にお話をして終わりとしたいと思うんですけれども、僕自身もですねちょっとぐらいええやないかなパズルを自分で活動することで目指してですね、この5番目、不特定多数の観客が作者に加わるような方法というのを考えてきました。それの1つの例として僕が活動しているこのビラがパズルの人、世界進出中というたすきをかけているんですけれども、僕自身は、このたすきをかけてですね、47都道府県を自分の作ったパズルのビラをですね、配って47都道府県を回っていくという活動をしてきました。全国の駅前で配っていくという。この3月も、鹿児島と宮崎でパズルのビラを配ってきたんですけれども、そういう活動をしてきました。はい、これは北海道の札幌駅前でパズルのビラを配った様子です。こちら大分県、大分駅前ですね、でパズルのビラを配った日。この日はちょうど成人式でした。成人式の振袖の方が来たのでちょっと写真に写ってもらったんですが、こんな活動をしたり。そしてこれは、オーストラリアのシドニーです。オーストラリアでも、パズルのビラを配ってですね、こうやって道行く人が、そこにたまたま居合わせた人が、そのビラを受け取るということで成り立つ1つのパフォーマンスというのをパズルを通じてやってきました。またよかったら今日の作品の方も見ていっていただければと思います。今日はどうもありがとうございます。

土佐

それではですね、ここからはですね、ディスカッションという形で進めさせていただきたいと思います。ここでですね、新たに登場していただく京都大学の先生がおられます。皆さんから向かって一番右側に座っておられます、法哲学がご専門の那須先生でございます。今回はですね、このテーマであります「ちょっとぐらいええやないか」っていうこの言葉をですね、まず最初にいただいたのは実は那須先生が喋られた言葉から私たちの方がちょっと引用して、これタイトルにいいなあと思ってつけさせていただいたんですけれども。法哲学の先生がね、ちょっとぐらいええやないかってね、中々ね、中々面白いと思ったんですよね。でちょっとだけ自己紹介でどうぞ。お話しされませんか。

那須

はい、那須でございます。東田君と同じですね、人間環境学研究科に在籍をしておりますが、元々が法学部にいたということもあって、専門は法哲学と、今ご紹介いただいた通り法哲学ということで、法学部で育った人間がなんでこんなですね、「ちょっとぐらいええやないか」という言い方をするのかということが、驚きをもって迎えられたということに私は大変驚いております。法学ってそれぐらい堅苦しいというかですね、何事もルール通りきちっきちっとやっていくのが法律の世界だというふうな誤解をずっと与え続けているのだなというふうに思うわけですね。実際には、我々はこういうのを「官僚法学」と言って非常に馬鹿にするわけですけども、法律というのは物事を全部ルール通り、きちきちっとやっていって動くもんではないというのを学ぶのが法学部の、法律学部の勉強だというのが。最近はそうでもないんだよという先生もいるんですけどね、法学部の先生には。でもむしろルールに対しては必ずどういう例外がありうるのか、いつどういう形で例外を認めていく必要があるのか、っていうようなことはいろはの「い」にあたる部分であり、なおかつ最後まで悩まなきゃいけない部分なわけですね。例えば裁判官が判決を下す時にですね、これはルール通り答えを出したら、大変大きなむしろ損害をもたらすとかですね、あるいは誰も喜ばないとかですね、いうようなことになればですね、この場合ルール通りやるっていうのはあんまり賢くないですねという判断をしなきゃいけないわけですけれども。一体それはどういう場合に、どういう風にしてそういうことをやるのかというのがむしろ法学の最も重要な、むしろ法学というか法律家がですね、実際の実務の世界で実際されてることはそういうことなんですよね。それで法学部の法学の勉強というのは、まさにそういう実務の世界を追いかけて、一体どういう理屈でそれやってんのかと、実務をやってる例えば裁判官の方に聞くと勘だと、勘だとは言わないかもしれませんが、ここはそういう風にしないとおかしいじゃんという風にしかいわないんですけども、それをまあ理屈つけて考えるのが法学の世界だというところがあるんですね。ですから元に戻ってこの「ちょっとぐらいええやないか」という感覚がない人が法律家になってはいけないというのが、我々法律家にとっての常識であるわけです。
そういう趣旨もあって、しかしですね最近は、これは土佐先生が最初におっしゃってくださいましたけれども、どんどんどんどんこの世の中窮屈になってまいってですね、食品の添加物の表示がちょっと間違っていたりですね、前にもホテルのメニューが言った通りのなんとかエビっていうのが違いますよみたいなことで大揉めに揉めたことがありましたけれども、まあちょっとぐらいええやないかという典型ですよね。あの例になんか、お袋の手作りのハンバーグっていうメニューが、おじさんが作ってたということで、これもやっぱりメニューの詐称であると批判を浴びたという例がありましたけれども、アホかという感じがしますけども。ああいうのも本当に、ああいうことをいちいち気にする社会になって。まあもちろん「ちょっとぐらいええやないか」では済まない問題もあってですね、原発の運転とかを「ちょっとぐらいええやないか」という気分でやってもらってはこれはもちろん困るわけですけれども。あれはいくら頑張ってルール作ってもうまくいかないでしょ、というのがむしろ常識だと思うんですが。やっぱりあの食品の問題であったりですね、要するにちょっと悪いってわかっててもまあ、悪いことすべてをですねこの世の中から一掃しなければ安心して生きていけないと、安心安全っていうのは今の社会の最も大事なキーワードですけれども、安心安全っていうのは本気で追求し始めたらどんなに窮屈になるかということを私たちここんとこ身にしみてですね、感じ続けていて。一番今言いにくい、実はタブーになりつつあるのが、この「ちょっとぐらいええやないか」という言い方ではないかと。ですからちょっと、これから皆さんもですねぜひ、日常生活において時々「ちょっとぐらいええやないか」という風に隣の人に言ってみるということをぜひ実践していただきたいという風に思ってこういう提案をさせていただいた次第でございます。
であんまり私がですね、先ほど坂口さんがですね、こういう話を聞きながらメモを取るっていうのはアホかという風におっしゃってましたが私ちゃんとメモを取っておりまして、やっぱり大学の、大学の先生の性ですね。なんかまとめなあかんのかなという風に思いながら、でも諦めました。全然今日の話はまとまることは、まとめることは非常に不可能だと最初から諦めてますから、皆さんこっから好きなことをおっしゃると思いますし、私もそうさしていただきたいと思います。
もう一個だけ。今日全体のお話を伺ってて面白かったことをいくつかピックアップしてお話しさせていただくとですね、私は普段学校にいて教える立場にいる人間ですから、基本的には学生さんとですね、言葉で付き合ってですね、言葉の中で、言葉と理屈だけで物事を全部処理するということを基本にしているわけです。筋の通らないことを言う学生がいたら、その人には単位を上げないというのが私の仕事なわけですね。そういう風にして言葉をちゃんと使うということだけをいわば基盤にしてやるというのが学校という場所なわけですけども、学校における言葉の使い方って幾つか多分あると思うんですね。何か目に見えたものを正確に描写すると、記述するということですね。それからそれが一体何でそうなのかということを説明したりですね、あるいはそうでなきゃいけないことを論証したりですね、あるいはもっと自分がこういうことを主張したいというのをですね、根拠を持って理由を持って、主張するというそういう言葉の使い方がいろいろあるんですけれども、今日のお話は、そういうことにとらわれてたらあかんよねっていう話だったわけですよね。
特に坂口さんと山極先生のお話っていうのはそういう話だったと思うんですけども、何かって言うとこれは、坂口さんが繰り返しパフォーマンスという言葉を使われていたと思います。で言葉には多分もう一つ、言葉だけじゃなくておそらく言葉っていうのはもっと広くですね、私たちは言葉っていうと日本語とかですね、そういうものしか思い浮かばないかもしれませんが、多分先ほど坂口さんがまさにパフォーマンスされた音楽っていうのも言語の一つだというふうに考える。ならばそれぐらい広く。あるいは私が今こうやって身振り手振りで喋って、なんか知らんけど手を動かしてるわけですね。こういうのも一つの言葉だという風に考えるなら、言葉ってもっと広い働きを持ってる。これ別に何か描写してるわけじゃないですね。とにかく動かしてないと気分が乗らないから動かしてるわけですけれども、そういう、示すっていう働きですね。それは何かを描写するわけでもないし説明するわけでもないし、ましてや論証したりですね、訴えかけたりするものでもないと。単に、あるだけのもの。で、こうでしか示せないものですね。まさに踊りっていうか、私一度阿波踊りに参加したこともありますけれども、こうじゃないとできないことっていうのはあるわけですよね。そういうパフォーマンスとしての人間の振る舞いっていう部分が、先程言った学校の世界で最もすっぱり切り落とされてしまうものだというふうに思います。
学問の世界って基本的にはそうじゃないともちろん困るということはあるので、私の学生さんにはそうしなさいというふうに普段言うわけですけれども、それだけで物事進むと思うなよということもどっかで示さなきゃいけないわけですよ。まさにこれ示さなきゃいけないわけですね。つまり私自身も含めて、日本で普通に教育を受けて小学校、中学校、高校まで全く切れ目なく学校の箱の中にいて、そのまま大学に入ってきた学生さんっていうのは、言葉の示すっていう働きについての感覚が非常に弱くなっているというイメージがあります。言葉っていうのは今言ったこういう、仕草も含めてです。だから、わかんないっていう時にどういう風に言ったらいいかとかですね、あるいは私が日々直面する問題としては、レポートが期日までに出せなかったと、これを受け取ってほしいという時に学生さんがどういう行動をとるかっていうのを日々注目して見てるわけですけれども、ほとんど大半の人は締め切りを過ぎるとその瞬間に諦めちゃうんですよね、多分。そういうのないですか。諦めてしまう、もう過ぎちゃったからダメだと。これは完全に言葉に囚われている姿勢ですよね。私が締め切りを何月何日って決めたら、そこ超えたら絶対にレポートは出せないと思い込んでるわけです。でもうちょっと一生懸命、何とかして受け取ってほしい、これ出せなかったら卒業できないという学生さんは、こっそり私のですね、研究室のドアの隙間からこう、レポートをこうやって投げ込む人がいるんですね。気持ちはわかるんですがこれちょっと伝わらないですね、示すという意味では。でやっぱり、顔を見てですね、どんな顔をしてこれを出すのか、で私がそれを受け取った時にどんな顔をするのかっていうことを見る勇気がある人に対しては私は、それでもまだ受け取るかどうか決めないですけれども、対応はするわけです。
こういうのを、やっぱり学校っていうのはこういう態度をとる人をむしろどんどん減らすというかですね、そういうところであり続けてきたなあと、自分自身の反省も含めて思うわけですね。あ、すいません長く喋っちゃいました。

土佐

はい、どうもありがとうございました。それでですね、那須先生の役割っていうのはコメンテイターなので、この、先ほどのお話の中で、総長と坂口さんの対談も含めてですね、それをちょっとお聞きしたいところなんですが。もしくは坂口さんとか、よく本にいろいろ法律のことも書いておられますが、ぜひお聞きしたいこととかあれば。

坂口

ていうことは僕ですかね。

土佐

どちらでもいいんですけど、どうしましょうかね。坂口さんどうぞ。

坂口

「ちょっとぐらいええじゃないか」っていうのが氾濫してる、逆に俺は氾濫してるのかなとか思ってるわけですけど。面白いなと思って、土地の所有のこと調べてたらですね、土地基本法の第4条は、いわゆる土地をですね投機目的で売買してはならない、と書いてあるんですよ。だから不動産全部違法なんですよね。で僕いっつも、警察官の親友がいたんで、その警察官の親友と手繋いでですね、不動産なんかに入って、こいつらとりあえずとっ捕まえてくれっていうのをやってたんですよ。俺もう土地基本法見して、これ違反してるから、と。でそしたら、ええ、なんですか、みたいな感じでバイトの人とか顔青ざめて、いやもうこれ違法だったんだよっつって、本当にっつって。君は真面目に不動産に入ってきたけれども、騙されてたんだよこの現代社会にっつって。そしたらもうそいつ泣き崩れてね、田舎から出てきて就職したばっかりでこれからどうすればいいんですかって。懲役はないようにしとくから、こっちはもう弁護士もちゃんとつけてあげるからね、仲介料だけは俺に払えと。って言ったら後ろの方で、あ、恭平さんこれ罰則がないですよって。あっ、罰則がないんか、そっかそっかって言って帰ってくっていうドッキリゲームをよくやってたんですよ。
もう嫌だったんでですね、中指立てて生きてたんで、でもやっぱそういうもんですもんね、不思議なんですよ。それでどうにか保たれてるっていうのとか見てて面白いなとかね。
あと、多摩川でですよ。枇杷っていうのがあるじゃないですか。で枇杷が好きな人がいましてね、いわゆる路上生活者って言われてる人が。川沿いに小屋を建ててるんですよ。で家の前に枇杷の木を植えたんですよね。でそうすっともう真面目そうなですよ、散歩のおじさんが、散歩途中に枇杷がなってるものですから、ついその枇杷をですね、口に含んだところ、そこの家の前に住んでる人が、まあ家って言っても違法ですからね、これ河川法では違法なんですよ、工作物作るのは。それでですけれども、窃盗じゃないかっていうのをですね、私の生電話にしてきたわけですね。で窃盗ではないかってこちらは弁護士に相談しましたところ窃盗だという。つまり窃盗の法律とですね、河川法っていうのは違うんですよ。その人が河川法を違反しようがなんだろうが、その人が植えた枇杷をパクってるわけですね、この男は。一見普通の善良な市民ですよ。その人が言ったわけですよ、こいつは何かと、川沿いに勝手に住んどるじゃないかと。こいつが植えてる枇杷をつかまえて何で俺が捕まらなきゃならないんだと。ここ手錠がかかってるわけですよね、おじさんが。そしたら、いやそうしたところ、法律が違うらしいですよとか。しかもこの方はですね、河川法などというクズ法よりもさらに上位のですね、日本国憲法の基本的人権を侵されている方でございまして、国土交通省的にはですね、彼を追っ払うことができないという。僕の国交省の親友がいまして、彼を呼んできまして、りん、と呼び出しましたところ、そうなんですよ、暗黙の了解で言えないですけれども、彼らは追い出せないんです、っていう。で、彼はさらに面白いことに、墨田区にいると墨田区から追い出されてしまう、墨田区は警察を雇っているというか、警察が管轄なので。国交省には警察入ってこれないんですよ。で、だからそこにいる。それをその人のまた警察官の親友から教えてもらってるんですね。
これが面白いなあと思ってて。そういうふうなものを、まあなんか、そういうふうになってるんだなあと思ってずっとやってるんですよ。
僕が今車輪で家をいっぱい作ってて、この前もアラブのですね、国王かなんかに呼ばれて一戸建てを作ってきたんですよ

土佐

モバイルハウス。

坂口

40平米くらいですけどね。でも一戸建ての二階建ての車輪を、これがまたですね、車輪がついたら可動産になりまして。不動産じゃないとですね、日本の法律でコントロールできないんですよね。だからですね、どんなとこでも置けて、固定資産税もなし、建築士免許なし、ローンもなしなんですよね。それ総工費0円で作ったんですよ。それ全部ゴミになって捨てられるところを、これゴミですかっつって、はいもらっていいですかっていう材料で全部使ったんですけども。
そういうのを考えて、僕はですね今、一応ようやく本題に戻るんですけど、今考えてるのは、0円生活圏っていうのを作ってみたいんです。これが基本的人権を唯一ちゃんと、つまり憲法3条でしたっけ、いわゆる最低限度の生活を守る権利がなんとかかんとかってあるんですよね。僕たちはその絶対に、お金がないからって食えないとか、餓死するとかいうのがありえないんです、税金を1円でも払っている以上。消費税払っている以上ですよ、年金なんか払わなくていいんですよ。消費税払っている以上もうなんでも、そういう権利を持ってるんですよ。だから、それを踏まえて、生活費を0円の地域を作るっていう夢を僕抱いてたんですよ。みんな笑ってたんですけど。
先月ぐらいですかね、ある熊本の近くの市がある、荒尾市っていう。それこそ宮崎滔天っていう人がいまして、土地の所有にかなり早い時から問題意識を持っていた熊本人なんですけども、孫文に自分の金は全部あげて、孫文は革命を起こすような人。そこの生まれた、その市の市長さんから、依頼を受けたんですよ。で面白いなあと思って、なんでそんなことするんですかって聞いたら、いやもう生活保護費がもう半端なさすぎて、家を借りるとかお金を払うぐらいだったら恭平さんのその0円生活圏の方がいいですねって言って。
これはもう「ちょっとええじゃないか」どころか「だいぶええじゃないか」みたいな感じになってきて。僕の場合はまあ面白いなあと思ってて。法律をほとんど小説と思って読んでるんですよね僕。すっごい面白いんですよ。わかってるやつほどそれやってるんで。

山極

ちょっといいですか。あのね、日本でもアフリカでもね、かなり僻地の方行くと、その土地使ってもいいよと、別にお金なんか払わなくてもいいし、勝手に耕して、家建てて住んだらって言われることよくあるわけですよね。ただ、昔ヒッピーはそういう生活してて、本当に0円生活で、みんなでコミュニティー作ってやってたんだけど、結局お金が必要になるのはどこかっていうと、子供ができて学校に上がる、学校に上がるとこれは、スタンダードな子どもの生活をさせないといけないわけよ。アフリカだったらスクールフィーを払わなくちゃいけないとかね。金稼がにゃいかん、ちゃんとした服を着せないといかん、教科書を買わにゃいかん。日本は授業料は無料になってるけど、いろんなことで金かかるじゃないですか。他の友達がテレビ見てるからテレビも買わなくちゃいかんということになって、どんどんスタンダードに合わせなくちゃならなくなるわけですよ。
個人的には0円生活ができて、しかも自分で魚釣りも出来る、なんでも、家も建てられるという技能を持った人が、結局子供を持つと生活を変えざるをえなくなるというのが現実なんだけど、その辺はどう思う。

坂口

そこがですね、みんなそう言うんですけど、何を言ってるんだって言ってるんですよ。0円生活圏なんですから、ノーリスク・オンリーリターンなんですよ。生活そのまま続けてろって言ってるんです。その代わり家は買わないでいいわけだから、35年ローンとかいうことからはまず抜け出せますと。でも、3000万貯金があるんだったら2000万のマンション買えよと。別にそう言う人たちはそう言う人たちでいいと思ってるんですよ。
ただ、貯金が500万もない人がですよ、その、会社に入っちゃったからってローンになるんですよ。

土佐

借金を持つっていうのがよくないしね。

坂口

借金は存在しないっていうか持っちゃいけないんですよ。だからそこから僕は、僕の精神病院に入っちゃってるんですよね、そう言う人たちは。僕の精神病院に入っちゃってるんですけど、僕が来週精神病院に行くことになってるんですよ。
それがこの世の中のすごい面白いところで、精神病院の先生は、ねえ、恭平くんの言っていることはすっごく真っ当、って言われるんですけど、でもこの現代社会に合わせるためにじゃあデパケン、つって渡されるんですよ。そのてんかん薬ってやつをですね。この社会にいるとてんかんになるから気をつけて、ってぐらいのノリですよ。で9割キチガイ、って言っちゃいけませんね、キ○ガイぐらいですよ、っていう。あと1割ですけど。そういう社会なんだけど。さっきの話で言うと、0円生活圏を作ったら、とにかく若者はノーリスクになると。

土佐

坂口さんの本で読んでたんで思ったんですけど、労働っていうことの価値が根本的にそうなると変わるでしょう。そこをちょっと聞きたいなと思って。0円特区の場所で生きている人たちの、働くっていうことは、もっと生きがいとか、やりたいことに直結したことですよね。

坂口

でもね、それが会社で実現してたら別に僕いいんですよ。会社で働けよ、じゃあ月で20万ぐらいねって。でも一応計算しときますけど、会社で8時間労働っていうのと、自分の得意な作業を24時間作業できると、快感しかないので、快楽の世界に入ってくんですよね、こっちの仕事、自分がやろうとしてることっていうのは。それをやってるのと、生産量が抜群に違いますから、換金率も抜群に違うわけですよ。だから、会社員で今20万くらいの仕事は、本当に自分が作業すると、10年後には大体こっち120万くらいになりますけど、そういうふうなことを言いますけど、それでも会社がいい人は会社に行ってください。でも1円もかからないのであれば自分でまず活動できるでしょ、若い人は。あとはホームレスと言われている人たちも、そこん中に入ってきますから。その人たちは技術も持ってるし、さらにその、なんていうんですかね、あんまりリスクがない気がしているんですよ。子供ができる、僕も一応子供2人いるんで。僕ほぼ無職なんですよね、一見すると。僕どこにも属したこともないし、誰とも所属してないし、絵も売ってますけど僕ギャラリーにもいないんですよ。ただ金持ちリストっていうの僕持ってますから、金持ちリストを元に、金持ちの中の「くう〜っ」てのがわかる人がいるんですよ、さっきでいうと。ただの金持ちっていうのは非常にくだらないと僕は思ってるんですけども、やっぱりお金を持ってるって人はまずそれなりに技能を持ってますから、そういう人たちのとこに行って、頭下げて、絵を売ると、10%こっちに入りますからね。そういうことをね、俺はもうちょっと、若いうちから経験をしたら面白いかなと思ってて。
学生はね、最近面白いのは、ごめんなさいね、ちょっと僕がいっぱい喋ってますけど今、16歳の人とかがトークに来るんですよ、僕んとこに。で、おー恭平さんありがとうございます教えてくれてっつって、誰も大学行かないんですよ僕の読者。あんな金かかるとこ行かないっすよって。どっかに行かなきゃいけないし、そこでの生活費もかかるし、東京なんか行ったらキチガイですよねと。そんなことしないで毎日原稿10枚書けばよかったんですねっつったら。そうなんですと。そんなことしないで毎日10枚絵を描けばよかったんですねっつったらそうなんですよって。僕哲学者なんで毎日10冊哲学書読むぞっていう気概で1冊ぐらい読めばいいんですねって。
それで10年経ったらとんでもないことになるから、早めにやっといたほうがいい。13歳にやったら23歳にとんでもないことになる。みんな気づくのは会社で働いてはてはてになって38歳ですって、同級生くらいですよ俺の。もうね会社辞めて自分で、って、無理、って俺思うんですよ。それじゃきついから、だからこう若いうちからそれをやっておく。僕がわざとこうガーンと自由にやるのはその意味もあるというか、とにかくそれを早めにやんないと、今のシステムはちょっとね、なんかこう奴隷に似てるっていう。だけど否定はしないけど。

土佐

だからそういうところにアートっていうのがある気がするんですけどね。

山極

泉さんに聞いてみたいんですけど、縄文ぐらいからそういうのって始まってないですか。つまり未来に賭けるみたいなね。だって、家の話してたじゃないですか。あんな三代丸屋みたいな棟を作って、未来というか住民の合同意思みたいなの象徴として作って、でっかい家に住んでたわけでしょ。
あれは結構いろんな投資をしてたと思うんだけど。いや、人間の本性からしたら、坂口さんみたいなのが本性なのか、それともやっぱり慎ましやかに貯めて、未来の自分ってのを想像して、未来に投資してみんなでなんか作っとくみたいなものもあったかもしれないとふと思うんですけども、どうなんですか。

縄文の評価はそこで変わりますけど、以前は、適切かわかんないけど坂口さん的な生き方っていうのが縄文時代で、その日暮らし的なイメージがあったんですけど、最近は物を貯めて、貯めれば当然のごとく差が出てきて、次の、時間的には未来のことを考えるし、逆に言うと過去からの引き継ぎっていうのも出てくる。そうすると自分の祖先を村の中心に飾ってみたり、ところが実際は死体がないからそのために泥で形を作った胸像を埋めたりですね、そういうものがやっぱり生まれてくるんで。
やっぱり縄文の中で前期以降、6000年以降はそういう雰囲気になってきて、時間を認識するようになってくると、自由でなくなる、ということが生まれてきたと思いますね。

坂口

ちょっと気になること言っていいですか。僕がですね、いつも思うのは、僕ねその日暮らし、いやこれ否定してるわけじゃないですけど、僕むっちゃその日暮らしじゃないつもりなんですよ。つまり僕、18歳ぐらいから、ずーっと鍛えてるんで、景気に左右されたことがないんですよ、人生で。
で、ずーっと収入こう(右肩上がりの手振り)なってんすよ。で、一応会社で役員クラスなわけですよ。だから会社とかに入るとか何かこう、それこそ大学に入っちゃうと、大学なくなったらその人「ええ〜っ」ってなるわけでしょ。助成が入って、その助成によって研究してるので。俺とかもうほっといたって土地所有の研究を1人でやり続けるわけですよね。
この岡潔スタイルですから。こっちの方は、見た目はその日暮らしなんだけど、僕ん中では知性の貯蔵をすごいしてると思ってて、いや、非常に面白いなと思ったんですよね。

いえいえ、単純に、まさにその通りで素晴らしいと思うんですが。

坂口

縄文はそうです。縄文はたぶんそうだったと思ってて、非常に絶対、なんかこう、木の実は適当にあるからわかってて、余裕をこいてたというか。

山極

縄文とね、要するに弥生と違うのは、農耕暦ってあるじゃないですか。やっぱり投資して、種まいて、秋に実るっていうような予測を立てずに、一応は自然のサイクルの中で、出てくるものを刈り取って食べてたわけでしょ。だけど定住してた。そこに豊かさってのは当然あったわけで、豊かな所じゃないと定住して狩猟採集的な生活はできなかったんじゃないかと思うけれども、その時の人生観ね、つまり未来をどこまで予想してたのかっていうところは、やっぱり弥生の農耕中心の時代とは随分違うと思うんだけども。どうですかね。

その通りですね、はい。そこらへんが今学べる部分ではないかなと。結構縄文的なものの魅力というのは、おっしゃられたような部分だと思います。

那須

ちょっとね、僕も1つ話を付け加えたいのは、坂口さんがまさに、私だって未来のこと考えてますよという話をされましたけれども、むしろその、なんていうかな、ひとつは弥生で、弥生時代の一つの特徴っていうのはやっぱり集団で共同作業の部分が非常に高くなってくると。狩猟の時代ももちろんある種の共同作業はあるんですけれども、みんなで足並み揃えて一緒になんかしなきゃいけないっていう側面が非常に強くなってきて、それで例えば生活上守んなきゃいけないルールがある程度固定されていくっていうことがあると思うんですよね。
坂口さんの場合は、たぶんそれをかなり常に自分の中で組み替えられるっていうか、要するに周りの環境に合わせてその都度新しいルール、ゲームに変えていく、生活そのものをね、ゲームを変えていくと。だからクイズの話に絡めて言うと、クイズっていうのが初めから固定されたゲームの中で問題を解くというところから、もともとはそうじゃなかったっていう話なわけですけれども、むしろゲームのルールそれ自体が常に可変的なものであると、変えられるもんだというふうに考えられていて、そうじゃないともちろん生き延びられないわけですよね。
狩猟採集民っていうのはいつもここに行けば美味しい肉が落ちてるってもんではないから、常に居場所を変えなきゃいけないし、気候の変化みたいなものに非常に過酷にさらされるので、非常に柔軟なルールの考え方を持たなきゃいけないのに対して、農耕民っていうのは、かなり環境を一定の状態に保って、例えば会社みたいなものですよ、典型的にそうですよね、毎日そこに行けば、じっと座っていてもお金がもらえる、そういう環境を作ってしまうわけで。そうすると、ルールっていうのは変わんないものだというふうに考えられる。
坂口さんは要するに景気に左右されたことがないとかって仰ったけども、そういうものとは違うところで常に見てるわけじゃないですか、色んな。だからどういうアンテナの張り方してるのかってことを仰ってくれると。僕はあの「独立国家の作り方」でしたっけ、あの本の中で繰り返し「レイヤー」という言葉を使われてたと思うんですよね。要するに、普通の人が見てるところとは違うところに、例えばここに落ちてるものは、それこそさっきの土地の話でも全部そうですけれども、これは別に使っても何も誰も文句は言わないんだと、文句言える筋合いのものじゃないんだと。例えば、空き缶を集めて回る時にはどういうところに気を配れば、何の問題もなく、1日いくらいくらのお金が作れるというようなことってのは結局目の付け所だと。目の付け所というのでレイヤーという言葉を使われてたと思うんですけども、坂口さんもやっぱそのレイヤー、他の人が見ないところにこう目を向けるね、そのアンテナの張り方が、他の人と全然違うので、病気なんですか、とかって言われるっていうことがあるんじゃないかという気がするんですけども。それはどういう風に、ご自分では考えてらっしゃるんですか。

坂口

そうですね。面白いことにこういうの精神学会はですね、躁鬱病というらしいんですよ。今度僕、病跡学という、あの病気の跡の学と書いて、いわゆる病跡学から芸術作品とか作った人とかから病気をやる学会があるらしいんですよね、精神医学界の方に。そこの基調講演で呼ばれて、生きたサンプルということで、なかなかいないらしいんですよ、生きたサンプルっちゅうのはですね。
それを後悔しながらやってて、僕の場合はですね3ヶ月にいっぺんぐらいで死にたくなるんですよ。ギリギリ首に縄はかけないぐらいな感じですかね、持つぐらい。そういう状態で、僕はですね、毎日がイニシエーションって言い聞かせることにしてるんですけど、いわゆる通過儀礼をその時にやってるんですよね、僕の今の認識では。その当時は苦しかっただけですけど。本来ならそういったものはある程度いろいろな薬草などをですね、摂取をして、まあ集まりがあって。で先輩がですね、そのような落ち込んでる人に対して、肩をトントンと叩いてあげて、そういうのをバッドトリップっていうんだと。ちょっと冷や汗垂れてて顔色緑色だけど、まあ2時間半くらい経てばその効能はなくなるから死ぬことはねえから自殺すんな、ってやつがいるんですよ。
いたんですよ昔は。そんなの70年代くらいまで実は日本にいたんですけどね。そういう人たちが一掃されてる、というか一掃されてもないですけどね。そういう人たちがちょっとこう散り散りになっている可能性もあって。でその時に何をしてるかってことなんですね。現実からちょっと、エクスタス状態って僕は言ってんですけど、剥離してるというか遊離してるんですよ、やっぱり。で明らかに帰り際、西日が痛い時あるでしょ、皆さんも。ああいう状態です。空しいとか、簡単に言えば空しいとか、突然何か知らないけど涙が出て、確かにこの涙は悲しく重いとか、だからそういう嬉し涙とは違う時とか。もっと言えば嬉し涙もそっちの方ですけど。
それとまた違うバージョンですけどね。そういう風に、気分がこう、ぐーって落ちるんですよ。で、ちょっと今もう一回質問の内容を聞かしてもらっていいですか。なんかそれを閃いて言ったんですけど、どういった質問でしたっけ。レイヤーですよね。

那須

レイヤーですね。

坂口

その時に現実っていうものが、one of themっていうことに気づくんですよ。でいわゆる、今回は僕登壇しましたよね、登壇して、聞きに来てくれてる方っていうのが一応この京都大学っていう空間の中では、そういうレイヤーなんですよね。ある程度そういう位置関係とか、そういうものがあるけど、それとは全く別の感覚があるんで。いろんなものがある。
で僕は会社に行ってる人と自分区別してないのね全く。つまりそういう人たちはいけてるってもう思ってないんですよ。レールに乗ってるとも思ってない。知ってるんですよ、いのちの電話っていうもう一個レイヤーを僕持ってるんで、その携帯電話にかかってくるのは、「もうきついっす。会社では普通の顔してますよそりゃ」っつって。「でもねベッドじゃいっつも独りだよ!」とか言ってそこですごい声出すんです。もっと言ってくれ、もっと言ってくれって言ってんすよ。その声聞きたいって、こっちで録音してんすよ俺。すごい声出てる、今すごい声出てる、もっともっと言って、とか言って。「なんですかこれ、演劇ですか」、みたいな。「いや演劇だよもっと言ってもっと言って」、「俺は死にたいんですよ本当に」、「そうだ現実の中でお前は演じてるんだ」って。そうするともう段々向こうもわかんなくなるんすよ。で、「ちょっとごめんなさい、ふざけすぎました」って後で一応ごめんなさいって言って、ちょっと意味わかりましたかって言ったら、「確かに今ちょっと不安じゃないです」とか。
そっちも持ってるぞっていう。そっちの理解者がいたら、全然違う関係で、親密さを感じたら、ちょっと楽になったりするんです。肩をポンて叩くとか、そういうときにポンて叩くだけでこう変わったりするから、単純に反応に、自然に、わざと自然にしてる。あまりにも自然にしてないように、この共同体の人々がしているように見えるっていう。だから気になってんすよ。演じてんすよこれ、自然なように。だからそれはすごくわざとやってますね。非常に意識的に、わざと、自然な振りで素直で、小学校のときから思ってるままに生きてますっていう振りを、いかにこう、頭でっかちじゃないように、みんなも聴きやすい言葉で、つまり理解しやすい、常用漢字だけを使った、小学校4年生もわかるくらい。でも複雑に伝えたいので「くう〜っ」っていう感覚は忘れないようにとか。
みんな、でも、そういうのわかるでしょ、話をしてて。だから、色んな引き出しがあるんで。馬とかの脳に似てるって脳の先生に言われました。だから人間とちょっと。だけどみんなあると思うんですよ、カエル脳の人もいれば、鳥脳の人もいるし。

土佐

わかりました。じゃあパズル王の東田君は今までの話を聞いてどう思いました。

坂口

今パズルっぽかったんじゃない。

東田

そうですね、とても、今日の僕の話でも、答えが無限にあるようなパズルがあるとか、ルールから逸脱してもいいという話で、ちょうど坂口さんの生き方なんかに通ずるところはあると思うんですけれども、一方でおそらくパズルをですね、旧来のパズルを支持する人ってのもたくさんいるんですね、パズルの世界には。答えは絶対1通りじゃないといけない、そういう人の方がよっぽど多いです。
もう9割9分、答えは1通りじゃないといけないと信じてます、パズル作家の人たちは。

那須

無いって言うと怒るからね。

東田

そう、答えがなければ、僕も連載とかたくさんしてますけど、答えが無い問題を出してしまったら苦情が何件もきます。それぐらいやっぱりみなさんそう思ってるわけなんですけれど。僕自身はそういう立場じゃ無いんですけどね。
ちょっとそういう人の立場になって考えると、ルールがあるからこそ生まれてきた作品っていうのもたくさんある。アートからすると、ルールによって逆に新しいものがどんどん生まれて行って、アートの世界が豊かになって言ったっていう側面はあるとは思うんですね。ある種そのルールを作るっていう行為自体も、何らかの価値があるのではないかなというふうに思うんですけれど、坂口さんはそういう法律を作ってとかっていうことに。

坂口

さっきの俺の話聞いてたらわかるでしょ。徹底的にルールに則ってるわけよ。全部ルールの裏返り見てるわけだから、ルールを、でも大事なのはルールはルールだから、ルールはパズルってことは、ルールはゲームってことだし、どうだっていいだろってことでも、ギリギリある。でもルールはルール、っていう感じなんだけど、みんなはルールがライフみたいな、なっちゃうと、ちょっと落ち着かなくなってきて、ちょっと俺は全然違うことを、わざと対角線のやつを見して、おーいって言って、ルールと俺の対角線のおーいっていう声の波動で、この距離感を見せると、ここに空間が立ち上がりませんかっていう感じはあるんですよ。
時々みんなここの一点にだけいるので。パンって叩いて音が聞こえたりすると、それだけで反響音で暗いとこでもどれぐらい広いとか感じるじゃないですかみんな。そういう猫騙しとか、舞の海とかそういう作業だと思うんですよ。だからね、土俵の中にいるんですよ、結局。いるんだけど、土俵の上とかをピョンピョンピョンと跳んで、ちょっと輪郭線をちょこちょこちょこって見せると。そういう作業には近いから。俺むしろ、あの4つ目のパズル(抽象画で描かれたものを当てるもの)とか、もうね、ズボラすぎてやっぱりダメなんだよね。落ち着かないというか。抽象的すぎるとまだちょっと落ち着かないというか。それって人間の今のルールで考えて抽象的になっちゃってるから。本当の抽象ってなんだろうとか考えると、なんかドキドキするかな、って思って。そういうパズルは面白いかなと思うけど。
だから抽象的な考え方とかルールを逸脱したとかいうことが非常にルール的になりすぎてるから、アンチとなんかじゃないとダメでしょ。何でもみんなやり方が。

土佐

そろそろですね、終わりの時間に近づいてきたんですけれども、もうホントは終わらなきゃいけないんですけど、せっかくですね、観客の皆さまから質問をたくさんいただいてますので、お一人ずつ1つずつですね、お答えいただければと思います。
まず山極先生からなんですけれども、「自分の尊敬する先住民や少数民族に滅びてしまった人が少なくありません。生き残るかということはなんなんでしょうか。人類の生存競争はゴリラや他の生物の生存競争と同じなのでしょうか」という質問が来ております。

山極

あのね、生き残るかっていうと、やっぱり子孫を残さないといかんわけです。だから自分一人で子供を作れない以上、やっぱり少なくともパートナーは要るわけだよね。誰か他人に認められないと、しかも子供を作って子供を繁殖齢まで育てないと、生き残ることにはなりません。
でね、他の動物と同じじゃないかって、それは生物学的に一緒なわけですよ。ただ人間が違うのは、要するに人間が人間だけに通用するルールを作っちゃったわけですよ。他の生物だったら、自然の中の自然の出来事に応じた適応力を身につければ、生き残る条件は満たせた。だけど人間はそれだけじゃ生き残れないわけですよ。社会生活というなんか変なものと作っちゃった。それを、多分ゼロにしようとして、坂口さんはやってるんだと思うんだけど、坂口さんは成功した。
しかし坂口さんを慕ってくる16歳の少年少女たちがそれで生き残れるかどうかはわからない。それは、やっぱり人間が作った非常に特殊なルールなり、これは「ニッチ」と生物学用語では言いますけども、特殊なニッチを作っちゃった。そこで生き残るための何らかの強かさを備えないといけない、というのが多分難しいんでしょうね。今その壁にぶち当たってるんじゃないでしょうか、今の青少年たちは、と思います。

土佐

はい。では坂口恭平さん。「自分のやりたいこと、働き方がわかりません。坂口さんにもそんな時期はありましたか。また、どのように坂口さんなら考え、解決しますか」という根源的な。

坂口

悩み相談でしょこれ。悩み相談は受けないっていうのが一番いいんですよね。俺も悩み相談しますよって感じなんですけど。僕もわからないので、わからない時にはですね、わからない時に、わからないって止まってると後ろから虎に喰われますので。わからない時、後ろからちょっとカサコソ音がした時、ちょっと右行くじゃないですか。だからああいう活動をするんですよ。
その人にね、僕電話ですぐ聞くんです。「自分の好きなものがわかりません」、はい、問題です。赤か青どっちが好きですか、「青です」、はいそれがあなたのやりたいことです、って。二択にしろ、って。全部二択に一回してみて、それで選んでみたらっていう。
その人、質問した人、ちょっと手挙げてくださいよ。
(質問者が手を挙げる)
一回やりましょうか二択。はい、はいどうぞ。行きますよ。事務仕事、肉体仕事、創造的な仕事、その三者のどれがいいですか。

質問者

創造的。

坂口

創造的な仕事、じゃあ手を使う感じがいいですかね、頭だけでふやんふやんていく方がいいですかね。あ、頭使ってふやんふやんですか。
じゃその文字列と数列どっちが好きですか。

質問者

文字列。

東田

パズル作家をお勧めします。

坂口

っていう感じですよ。それ以外なくないすか。それで遠近法の、焦点をいっぱい作るしかないの。それで西洋式の二点透視図法だけで生きてたら、全然面白くないけど、いろんな遠近法の焦点作っちゃうと、なんか無限四次元遠近法見たくなっていくと、少しずつそれが円形になってくるから、それを人にこう元気玉、って投げるしかないっていうのが俺の結論です、人生の。
だからもっと分裂させないと。統合したらろくなこと起きないと思うけどね。だから非常に詩に興味があるんでしょ、としか思えない、俺は。だからそういう詩に興味があるんなら詩をちゃんと読んでみたらいいし、そういう風にやっていけばいいの。詩は食えないからって詩をはじめっから抜かすんじゃなくて、そういうことをやってみるとか。

山極

だからそれを選んじゃった自分って一体なんなんだろうとか考えないことだよね。

坂口

だってバイトすりゃいいじゃないですか。いや、ヘンリー・ダガー先生なんか30年間掃除婦しながら、世界で一番長い小説を書いてんですよ。もちろんそれは一例ですけど。
そっちのほうがいいでしょっつってんですよ。評価されるとか食えないとか淘汰されて死ぬとか飢え死にしてもよくないすか。最高の幸せな24時間を過ごしていったフランツ・カフカの方が俺いいんじゃないかと思うんですよ。まあ、それぐらいにしておきましょうかね。

土佐

はい、ありがとうございました。では次、泉先生なんですけれども、「思春期のチャレンジ精神がどのように人間の文化に現れるのでしょうか」。核心的なもの?って括弧して書いてありますけど。

そうですね。私も実はその思春期の問題を議論していることを読んだのは、人類学で、旧人とホモサピエンスの交代劇という本でしょうかね、一連の本が出てると思いますが、その本で読んだところでありまして、ちゃんと深く考えきれてはいません。
ですが自分の思春期なりを考えた時に、どんな時期だったかなということを思い起こせば、やはりすごい可能性があった時期だし、やはりこういうことやりたい、ああいうことやりたい、これができるかもしれない、とにかく親の元を離れて下宿したい、いろいろな思いがあったと思うんですが、それまとめてみると、以外と我々が、例えば、狭い地域から広い地域に出て行って新大陸まで渡ってとか島々に行くとかそういう動機につながるんですね。今じゃあ、あなた行きますかって言われたら、私のように60、もう70に手も届くような人間は思いませんよね、単純な話。そこら辺っていうのはやっぱそこの時期の重要性と、我々人類がいつしかこの地球全体に及んだ原因になるんだろうと。
で、それ自身がひょっとすると、っていうか文化を生み出す。それから多様性を生み出しますよね。なぜかといえば地球上のいろんなところに進出すれば当然そこで生きていくために様々な多様性を生み出すわけですから。人間の多様性だとか、創造性を。そういう風に、移動と、今言った、野心っていうかな、広がろうとする気持ちとか、そういうものの源になっているんだろうと、いう風に考えています。

土佐

はい、ありがとうございました。では東田くん。「縄文以前の古代文字のカタカムナ文字をパズル研究にご活用されるご予定は」。かなりスペシフィックな質問が来てますけども。

東田

僕自身が直接というよりは、パズル全体の歴史の中ではそういったものっていうのは非常に重要な意味を持っていたのはまちがいなくて、例えば魔法陣っていう結構有名なパズルがあるんですけれど、縦横斜め全て、数字を足し算にすると同じになるっていうパズルですけれど。
そのパズルの起源って例えば亀の甲羅に描かれた模様だったりするわけなんですね。つまり神の発するものっていうのが文字のような形で残ってくるっていうのが、やっぱり文字も元々神々と深いつながりを持っていますから、神聖文字っていうのも、エジプトのヒエログリフというやつですけども。あれなんかも元々神々の世界と結びついているものとして考案されてきたようなものだったりもするので。それを解読するというのは、ある意味究極のパズルを解くというか、そういうことなのではないかなとは思いますが、僕自身がそんなかれこれ数年とかで解読できるようなものではないと思いますので、直接ちょっとそれを生かすことは難しいかもしれませんけれど、ただその解読された時に、解読の方法なんかはですね、非常に興味はあります。
そんな答えで大丈夫でしょうか。

土佐

では最後にですね、那須先生。最後のコメントをちょっと締めていただいて。締めはあんまり気にしないでいいです、コメントを。

那須

もう締めくくるとか考えない方がいいと思うんですが、はい、全然気にしません。やっぱ全体をお伺いしててですね、例えば0円っていう坂口さんのコンセプト、やっぱすごい面白いと思うんですよね。
要するに僕らは、お金がなきゃ生きていけないということが坂口さんの言うところのリアリティだと思ってるわけですけれども、そういう一番私たちの頭の中に深く根を下ろしているもの、当たり前みたいなものを、それがわかんないという人は生き延びられないという前提で私たち生活してるわけですけど、これをまあ、どうやって、どういう形で揺さぶるか。
クイズってまさにその一番お手軽バージョンですよね。当たり前の風に思ってるとなかなかわかんないところを、ちょっと見方を変える。このちょっと見方を変えるっていうのが多分、こうやって、こうやって見方を変えるっていうのが坂口さんの言うところのレイヤーの発見みたいな話だと思うんですが、それをやるということで。大学の学問って多分僕は、そういう当たり前っていうことをずっと追いかけてたら何にもやったことになんないと。ここまではそうだと思うんですけども、大学に入ったら、違う、全くそうじゃない見方、何それってみんなから言われるっていう見方をいくつ作れるかということが多分学問で、同時にアートの仕事ってそういうとこだと思うんですよね、普通の人が見ないものを見るという。
僕はだからその東田くんがだんだんパズルの精霊に見えてきてですね、あんまり可愛らしくない精霊ですけども、要するにスピリットってのはそういうもんだと思うんですよ。これわかりますって言って、みんなが、えっ、て思うような場所をどれぐらい作れるかということで。もちろん坂口さんは僕から見ると、何の精霊だかよくわかんないんですけども、精霊なんですよね。お金なんかなくても生きていけるよっていう、非常に誘惑的なですね、言葉を吐く、悪魔かもしれませんけども。そういうものを平気でのみこめる場所じゃないと大学っていうか大学じゃなくなるっていうことだと思いますね。
最初の話に戻すと、言葉でわかるということだけで物事を解決しようとするならば、私たちはどんどんバカになってですね、精霊のいうことがわからなくなると。今日は二人も精霊が座っててくれて非常に嬉しかったです。というのが締めくくりじゃないですが感想です。

土佐

はい、どうもありがとうございました。本当にね、今日は坂口さん見てて、現代のシャーマンってこういう人かもしれないとちょっと思ったこともありましたけれども、やっぱり皆さんに与えてるんだな、っていうのをものすごく感じました。
違う形でね、我々大学にいる人間とは全く違う形で、いろんな人たちに、本当に与えてるんだなと、だからこんなにたくさん、100人も、前回より多くきたのかなとか、ちょっと思ったりもしましたけれども。
いろいろこの、様々なお話の中、まとまりがつきませんけれども、またこの次のおもろトークもきっとあることだろうと思っておりますけれども、とりあえずここでですね、締めたいと思います。みなさん今日はどうもありがとうございました。

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