第2回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」〜京大解体

2015年7月30日(金)

司会:NTアソシエイツ取締役 中津良平先生(以降敬称略、司会)
パネリスト:美術家 森村泰昌氏(以降敬称略、森村)
京都大学人間・環境学研究科教授 酒井敏氏(以降敬称略、酒井)
京都大学農学部資源生物学科4回生 大塚亮真氏(以降敬称略、大塚)

司会

前回は『垣根を越えてみましょか』というタイトルだったのですが、今回はなんと『京大解体』という、もろに、本陣に突っ込むという感じですね。
司会の中津と申しますがちょっと自己紹介も兼ねて、このテーマに関してちょっと追加と言いますか、補足説明をさせていただきます。
実は私、昭和44年京都大学の学生紛争のちょうどピークの時に京大を卒業しまして、当時京大の時計台が封鎖されたり、当然卒業式もなかったですし、そういう時代でございました。
それがほとんど50年の時を経て、今、『京大解体』という文字を再び見るとは私も思いませんでした。実はこういう文字を見るとワクワクしてくるんですね、未だに。
私はノンポリでしたから、参加したことはございませんでしたが、それでも他の学生さんの後についてちょっとデモらしきことをやったり、石を投げてみたりして、非常に楽しいひと時を過ごさせていただいたことを覚えています。
我々も当時京大を解体とか京大を粉砕とか言ってたんですが、当時の京大は、こんなこと言うと怒られそうですけど、今とは比べ物にならないほど、というとちょっと言い過ぎですかね、自由の雰囲気に満ち溢れていて、本当に、京大独自のアイデンティティーを持っていた時代ですね。あのノーベル賞の湯川秀樹先生がまだおられましたし、人文科学研究所ですね、桑原武夫先生、梅棹忠夫先生とか、こういう有名な先生方が本当に綺羅星のようにいらっしゃって、単に学問的にだけ有名なだけでなくて、やはり一般の方にも非常によく名前を知られていましたし、マスコミにもよく出てくる先生方が非常にたくさんいらっしゃった。そういう時代ですね。それに比べると現代の京大は残念ながら、皆さん誰でもよく知っているのは山中さん一人じゃないかなと、山極さんもそうですね。そういったように世の中の日本国民だれでも知っていると言ったような先生方が当時は10人ぐらいいらっしゃったんじゃないかなと。それに比較すると、今、ちょっと情けないなというのが現状でございます。
今日はね本当はこのテーマの発案者でございます山極総長に来ていただく予定だったのですが、急用で来れないということになりました。その理由を聞くと、今日は京大の寮の、ご存知ですね、吉田寮とかございますが、断交の日だそうです。学生たちが先生を離さないという、山極先生がこちらへ来ようとすると学生さんたちがついてくるということなので、これないということらしいです。 なんと京大解体というテーマにふさわしい出来事なのではないかなと。私自身、もしかしたら、ですよ、もしかしたらこの会場に途中で京大粉砕と言って叫びながら学生さんが押し寄せてくるんじゃないかなと、ある種の期待を持って、多分ないと思いますけど、そういう状況でございます。
それからもう一つ。実は私去年まで国立シンガポール大NUSというところで教授をしておりました。そういう意味で、ご存知のようにNUSとは京大とか東大と大学の国際ランキングを競っている、いわばライバル同士。そういうところで私はNUSの中身をよく知っているんですが、一言で言うと、『大変おもろくない大学』ですね。先生方が何をやっているかというと、世間一般、基本的にはアメリカで流行っているテーマを取り上げて、その論文を一生懸命読んで、それにちょっと+αして、論文を書いてジャーナルに出すと。そうすると結構他の先生方引用してくれるんですね。だから今流行っている領域で論文を書いてそれをどんどん投稿して、みんなに認めてもらうと。まさに優等生がやるようなことばっかりやってるわけです。だからおもろくないわけなんですよね。だから京大も双いう風にはなってほしくないんですけど、そうなりつつあるんじゃないかなと。その辺は後でですね、現役の教授であります酒井先生の方から話があるかなぁという風に思います。私自身そういう想いがあるので、今日は山極総長いらっしゃいませんけど、我々で『京大解体』ということで盛り上がってみようという風に思います。

それではですねパネリストの方を簡単にご紹介します。詳しい紹介はそれぞれの方からやっていただけると思います。
まず私の隣ですが、森村泰昌さんでございます。ほとんどの方、ご存知のことと思います。いわゆるセルフポートレートというんでしょうか、自分自身が、例えばレーニンのようにですね、過去の有名な出来事や過去の有名な芸術家、有名な人物になりきるという写真と言いますか、それで世界的に非常に有名な作品を作ってこられている芸術家でございます。これは森村さんから行っていただくことになると思いますが、ともかく彼の写真を見るとですね、おもろいわけですよね。レーニンの。なんでこれがおもろいんでしょう。レーニンの写真の真似と言ったら怒られますけど、だけどみんなおもろいと思うのか。と、この辺にアートの持つ秘密の力が隠されているようですので、それを森村さんに今日はお話ししていただこうと思います。
それから向かい側に酒井敏先生、京都大学、いわゆる総人と呼んでおりますが、昔の教養ですね。残念ながら昔の教養科学部はなくなりまして、今、総合人間学部という名前になってしまいましたが、そこの教授でございます。地球流体力学がご専門だそうです。地球流体力学がなぜ『京大解体』に関係するのか。これはもう酒井先生からダイレクトにお話ししていただくことになると思います。
それからその隣が大塚亮真さん。京大の現役の学生さんでございまして、先ほど言いましたようにこの後ろのゴリラの写真は大塚さんが撮った写真でございます。本人曰く、ゴリラ写真家だそうです。これから、ゴリラ写真家としていきたということで、私としては京大解体した後の再構築するときの、一つの典型的な望まれるような学生像ではないかなと思うんですが、そういう風な話をしていただければと思います。

森村

皆さんこんにちは。森村泰昌です。どうぞよろしくお願いいたします。
ここに四人いるんですけど、私は京大卒業生ではないので唯外部からの人間です。こういうのがあるんだけど、参加してくれないかというご依頼を頂 きましてその時にタイトル、年四回するこのイベントのタイトルがおもろトークだと聞きましてかなり腰を抜かしました。そうですね、京大東の東京大学、西の京都大学なんですね。そこが、総長が音頭をとって、それでやるタイトルがおもろトークだと聞きまして、これはおもろいと思いまして、喜んでお引き受けした次第なんです。おもろトークというタイトルはなかなかよいんですけど、もうちょっとひねってくれてもよかったのかなと思ったりしますね?
つまらない他の例ですけど、おもろナーレというものがあるんですよね。大阪によく行くの人はご存知かと思うんですが、よしもとが、内容は知らないですよ。何をやっているかよくわからないんですが、難波、あの辺りに行きますと、去年、一昨年あたりに行きますと垂れ幕があって、おもろナーレと書いてあるんですよ。おもろナーレというのは、ちょっと芸術が入ってましてナーレというのは大きな芸術の祭典。これにナーレと使うんですね。3年に一度のこれはトリエンナーレです。2年に1度のビエンナーレ。ナーレという言葉を使うんですね。これをかけて、面白くなれというナーレですよね。ナーレとナーレをかけてるんですね。おもしろくないんですけど、いちおう掛け言葉にはなっているんですが、おもろトークはそういうひねりがあるのかと思うと、あんまりないんですね。もう少し考えてもよかったかなと思います。
おもろいっていうのは関西弁ですが、発想は結構いいなと思ってます。というのは、芸術という分野で作品を作っているんですが、特に僕の作品はさっき中津さんと話していたら、今もおっしゃってくださったんですけど、森村の作品はおもろいと言ってくださってるんですが。
一般論として現代の芸術というのはなかなかわかりにくい。花が描いてあって美しいとか、顔が描かれていて人間味が出ているとか、考え抜かれていてよくわからない。
人間はだいたい、わからない時、反応するんですが、よくわからないものはおもしろくないとなってしまう。ここってポイントでちょっとしたひっくりがえし方をすることで世界が広がってくるような気がするんですよ。どういうことかというと、わからないから。ちっとも楽しくないから、面白くないと思うのか、わからないから面白いと捉えるか。これってちょっとしたことです。ちょっとしたことなんだけど、わからないから面白いという風にちょっと前のめりになると、世界がバーッと開けていくはずなんですよね。だからこのおもろトークというのは、何をおもしろいと見るのかがタイトルには盛り込まれているような気がしますし、この催しにもそういうことがあるのかなと思いましてね面白いものがあるといいなぁと。
別に司会者ではないんで解説するわけではないんですが、楽屋で色々と話をしてたんですね。これから酒井先生がお話すると思うんですが、僕は理数科系の人間ではございませんので、非常に分からない部分がたくさんあるんですがむちゃおもろい。
大塚さんのゴリラの写真ありますけども、なんでこういうことするんだろう。ゴリラ写真家。普通は人間に興味を持って、人間のポートレートをとる。これが普通なんだけど、それがゴリラなんだ。むちゃおもろいなとこんな風に興味をもちました。
その中でここにこさせて頂いているんですけど、まず最初にこう私が話をして いるんですが、お話をする人間ではなく、芸術作品を創る人間なんですね。ですから、自己紹介といいますか、私こういうことをしていますと自己紹介するよりも、作品を見ていただこうと思いまして、いろいろあるんですけど、作品といっても私の作品は、結構大きかったりするんですね。3メートルくらいあるのもございまして、ここに持ち込むことができなかったんですね。そこでそこの土佐先生にご協力いただいて、スライドショーを作ってみました。
このスライドショーの中には私の作品、だいたい150カットくらいあります。私の作品というのは中津先生からご紹介を頂きましたが、セルフポートレートっていうのをやってるんですが。セルフポートレートというと日本語に訳しますと自画像。小学校なんかでもよくやりますけど、自分の顔を鏡に映して、それでそれを絵に描くなんていう自画像ですね。
いろんな画家がやっているんですが、私の場合は、絵ではなく、それを写真でやっている。自分を写真に撮って、作品にすると。ですから自画像というより、自写像ですかね。そういうのをやっているんですが。じゃあどんな自分を自画像として作品化するといいますと、日常生活の中ですごしてる自分の一コマを写真に撮るとか、そういうのではないんですね。全然そうではなくて全く逆で何者かにばけるということをやってるんですね。
今日お見せする150カットばかりの作品なんですが、まず分類してみました。まず初めに見てもらうのは、美術の歴史をテーマにしたものです。有名な絵がありますね。ゴッホとかレンブラントとか、いろんな絵がありますね。その絵の中に登場人物が出て参ります。その登場人物に私がばけるというそういう作品です。
パート2。みなさん映画もご覧になると思うんですが、映画の中でもっとも光り輝いてるのはなんだろうな。たぶん女優だろうと。20世紀において、もっとも女性が光り輝いている場所。それは何だろうと考えると、意外とフィクションの世界のことなんですね。それが映画女優。その映画女優に私が、男性なんですけど、男性が映画女優にばけるという入りくんだ構造になっているんですが、これをみていただきます。
3つ目。1951年生まれなんですね。ですから20世紀を半分くらい生きてる。だから20世紀は、今21世紀ですけどかなり気になる時代なんですね。映画というのも20世紀的なもの。
現実の20世紀といいますか、様々なことが起こりました。その20世紀を返り見る時、そこで出てくる人々というのは男たちなんですね。現実の世界、報道写真とか、そういうものの中に様々な男が出てきたり事件が映されたりしますから。そういったものをテーマにして20世紀の男たちに私がばける。先ほどのレーニンもその一人ですが。そういったものをテーマにしたもの。これが三つ目。
4つめ5つ目というのは、これは最近少し手がけていることで、私は美術をやっているということで関係上、美術館ってなんだろう?というのは気になる。美術館と私といったテーマですね。一つ目はプラド美術館というこれはスペインのマドリードにある美術館でその中でとりわけベラスケスのラスメニーナスという作品があるんですね、日本語でいうと侍女たちと言いますか。この作品と、自分自身とが出会うというその中で普通じゃない美術館の中での展開をみてもらおうと。
それから最後、もう一つ、今度はえエルミタージュ美術館という これはあの、ロシアのサンクトペテルブルクにあるんですが。これも見てもらおうと。今度はプラド美術館との出会いとは違いまして、若干説明をしておきますと、最後の方なんですけど、ずいぶん前の第二次世界大戦のあたりの話、1,941年から42年にかけまして、役900日くらいなんですけど、当時はレーニングラードと呼ばれていた。レーニングラードにドイツ軍が攻め入るんですね。レーニングラードの待ちを包囲してしまうんですね。包囲するとエルミタージュ美術館のものすごくたくさんの所蔵品、これもあぶないということで包囲される直前に作品150万点を疎開させるということが起こるんですね。
美術館は空っぽなんだけど、大戦名画、大きな絵がたくさんありますから立派な額縁に入ってますでしょ。額縁ごと持っていくと大変なんで、額縁の中身をを抜いて、150万点全部を疎開させて、1941年から1944年の間、エルミタージュ美術館は額縁だけの作品、そういう美術館になるんですね。そのころのことをロシアの方が絵にしている。その絵をもとにして私が作品を作りました。ただし、その場所、これは現代のエルミタージュ美術館。たくさんのお客さんが見に来るんですが、展示されてる場所は、何十年も前の空っぽになった額縁の中が空っぽになった、そういう状況になっている状態になっている。現代と過去の重なり合ったような幻を見るというか幻視の世界。エピローグとして変な三点、これを入れてまとめております。
ライトを消して、約10分間になりますが、ぜひ見てください。

(ボレロの曲をバックに作品のスライドショーが流れる。)

はい、ありがとうございました。
ということで、ちょっとだけエピローグの三点だけ話をしますと、一つ目が三億円強奪事件の犯人。ただしその犯人というのはモンタージュでしかありませんので、お化けにお化けがなったみたいな感じ。
それから二番目の牛の横に裸で立っているというのがありますが、あれはあのーレンブラントの絵の中にさばいてないお肉があるんですね。それがあの、肉感と油絵の感じがうまくマッチした絵なんだけど、それを現代の風景に置き換えたもので。
三つ目が、これは子供になっているんですけど、この子供はあのフランツ閣下という小説家がございますが、そのフランツ・カフカのこども時代の写真もとにしています。それをフランツ・カフカの時代に、写真館で撮った写真なんですけど、5歳くらいだったんです。私のバージョンは本を持っているんです。だけど本を持っがているその本は何かというと、カフカの変身という本の初版本、それをもっているというありえないものなんですけど、変身というのは私のやってるテーマとも近いものがありまして。ということで、ありがとうございました。

司会

ありがとうございました。3人の方のディスカッションは後でやろうと思うんですけど森村先生にこれだけは聞いておきたいという質問がございましたら…。

酒井

いいですか?ご本人が変身されるのはいいんですけど、バックとか、絵画の中に入り込んだのもありますよね。ああいうセットはどういうものになるのか?観光地の首から出すようなやつになるんですか?

森村

一応ね、企業秘密なんですよね。技法的には多種多様なんですよ。ロケをして、撮ってるもの。実寸の舞台を制作するもの。こういうミニチュア、そういうのをつくって、それを撮影するやり方。首から出すっていうもののもうちょっと精度の高いもの。とかですね、様々なんです。様々な技法のものをその場その場でやって、一緒くたに見てもらおうと。そういう風にしてやっているので。どうやっているのだろうという興味は持ってもらえると思いますね。

大塚

中盤くらいにですね、ヨーロッパの街の中で凶暴にみえるゴリラが出てきたシーンがあって、それが気になったんですけども、なんの写真かもともとの写真がわからないのに、もとの写真を知りたくなるような求心力を感じました。
みなさんこういう芸術というものを知りたいと思ってると思うんですけど、こういう芸術をやろうと思ったきっかけというか、なぜ芸術をやろうと思ったのかお聞かせいただきたいです。

森村

逆に大塚さんに聞きたいところなんですけどね。もうディスカッションで、後でお話しましょうか。

司会

それでは次に酒井先生の方から10分ほどよろしくお願いします。

酒井

京都大学の人間・環境学研究科の酒井です。
タイトルが京大解体ということなんですが、このテーマをいただいたとき思ったことは『京大はすでに解体されている』ということです。正直言って、昔の京大とは違うものになっちゃったなという感じがしています。
その解体の始まりはいつかというと、20年以上前ですが、私がいました教養部が廃止されました。1993年です。教養部は昔の京大らしさを象徴するような部局でして、これを解体すると京大っぽくなくなるなと感じていました。やはりそうのように京大っぽくなくなってきました。元々の教養部がどういったところかというと、私たちが大学に入って教養部に行くわけですけども、実は教養部で真面目に勉強せいと言われた記憶がないんですね。何言われたかというと『あほなことせぇ』と。真面目に受験勉強して大学に入ってあほなことせいと言われても、何言ってるのかさっぱりわからなかった。後でだいぶ経ってからわかったんですが、これはどういったことかというと、人間の浅はかな知識で何かやったってろくなことはできやしない。そんな知恵はあえて無視してあほなことをする。つまりそれは人間の知恵の外側に出てしまうということですが、その中から偶然何かを見つけ出す方が新しいものを見つけるのは早いということを言っているんだなぁと思っております。
人間が思ってるよりも世界や自然は大きなもので知っているところなんてほんのわずかなことですよ。人間の知恵でものを考えるよりも人間がアホだと思うことをやってみると案外、外の方が賢かったりする。そういうことじゃないのかな。
教養部が廃止されてやはりだんだんと京大らしさを失っていきました。これ本当にトドメを刺されたかと思ったのは、2011年に全学教育シンポジウムというのが桂でありました。この中で当時の総長が基調講演をしまして、世界の国で、日本の研究者と日本の研究費の額も世界トップクラスなのにGDPは落ちている。これは人間の問題だ。教育をしっかり考えよ。そう言われればそうかと思いながら聞いてたのですが、この後じゃあどういう教育をしますかと。ちゃんと15回授業をやって、ちゃんと15回学生を出席させて、そうして単位の評価をしっかりしなさいと、これ、昔の京大だったら瞬間的に『ナンセンス!』という声が上がっちゃうわけですが、それが出てこない。むしろ左様でございますという雰囲気が漂っている。これは完全に京大の文化が壊れちゃったなと。
なぜナンセンスなのかはうまく説明できないですが、そんなもの説明しなくても、ナンセンスはナンセンスで通用するのが文化というものなわけです。ですから、その文化がもうすでに、完全に崩壊しちゃったと、で、崩壊しちゃったので、文化としてもう伝えられていないだけどこれそのまま、消え去るわけにもいかないねというわけで。
なぜナンセンスなのかちゃんと説明しなければいかん。何か説明しなきゃいかんので、理論を作りました。なまこ理論って言います。例えば、10人でお米を作っていたとしましょう。これを一生懸命効率化して5人で作れるようになった。5人で作れるようになったこと自体は素晴らしいことですが、問題は余った5人も一生懸命米を作ると、20人分できちゃう。余ってしまうから売れない。もっと安くしないと売れないので、どんどん値下げをしていきます。そうするとまた売れなくなってくるので、もっと効率化して3人で作るようになると。これはもう悪循環です。
そもそも余った5人が米を作るからいけないので、余った5人は米なんて作らず、海にでも遊びに行って、なまこでも取ってこい。あれが食えることを発見した人は偉いんでしょ。それでなまこを取ってきてですね、真面目に米を作っている人に、お米だけだと寂しいですよねと、これうまいんですよと言って高い金で、高い金でっていうのがポイントなんだけども、売りつけて、そのお金でお米を買って、初めて経済が回るわけなんですよ。だから米を作ってはいけない。しかも大学で、米の作り方、効率化の仕方を教えることはできると思いますが、新種のなまこみたいなものがどこにあるかと。なんていうことはわからないんですよね。大学では教えられないわけなんですよ。そんなもの教えられないので、若い連中に勝手なことをやってもらうしかないわけなんですよ。だから15回講義室に閉じ込めておくのはナンセンスで、簡単に言うと海に遊びに行けと言わなきゃいかん。それでこういうなまこ理論を作ったんですが、実は、まだこれ不完全で、他に解はないのかというと、あるんですね。
要するに、計画的に生産調整すればいいんですよ。だけどそういう計画経済って言うのは歴史的にはうまくいっていない。ですが、なぜうまくいかないのかをちゃんと説明しておかなくてはいけない。そこで重要なのがカオス理論というわけなんですが、カオスというのは混沌という意味です。元々は天気予報がなかなか当たらないという話から出ているんですけども、予測不可能、カオスになると将来、予測不可能で、計算不可能、ちょっと困ったことになります。非常に難しいと思われている方もおられるかもしれませんが、実は非常に簡単にカオスが起こります。簡単に起こるというところを今からちょっと見ていただきたいのですが…。
6つの電卓で簡単な計算をする「電卓カオス」というものを作りました。
「x~2-2」というものを繰り返すんです。最初の値を「1.33」とすると、その後、次はこれを自乗して2を引く。で、またその値を2乗して2を引く。ということをずっと繰り返していくと、すべての値が未来永劫決まる。こういうのを決定論方程式と呼ばれています。
で、これを計算します。6つあるんですがそれぞれメーカーと型番が違います。大事なのは四則演算機の電卓には二乗のキーがないんですけれども、簡単な電卓でも「×→=」といきなりやると二乗になるので「×→—→2→=」とやると、今の計算ができます。押すキーは結局、5つなので5拍子。5拍子と言ったらこの曲しかないのでそれに合わせます。

(ポール・デスモンド作曲、デイヴ・ブルーベック・カルテットの「TakeFive」が流れました。)

左下のグラフを見てください。値がグラフ乗を動きます。はい、そろそろBの電卓がやばいです。

(各電卓の値に合わせて移動していた点の内、Bにあたるものが少しずつずれ始める。)

Bの電卓が脱落しました。Aも脱落しました。そろそろC,Dあたりがちょっとずれてきます。(Dが脱落)(Cが脱落)(Fが脱落)(Eが脱落)

はい、そして全部バラバラになっちゃいました。
要するに全部、正解を出せるものはないです。たかがワンコーラスですよ。30何回。30何回でですね、全部アウトです。こういうのをカオスっていうんですが、実は世の中カオスに満ち溢れてて世の中、カオスだらけ。なので基本的に予測できません。予測できないとはどういうことかと、先ほども計画経済という言葉が出ましたが、計画したって崩れる。だから真面目に計画したってダメですよと。結局計画はダメなので、その場その場で考えていかなきゃいけない。そうやって維持できるかを考えなきゃいけないから計画経済っていうのはダメなんだ。

酒井

実はこのカオスの話は、私は授業でやるんですが、昔は1年通じて30回ぐらい講義をしまして、最後にこの話をして、世の中カオスだから予測できませんという話をする。そうしたらある学生が、講義が終わった後きまして、私はビッグバンの話から始めて最後天気予報の話で終わるんですけど、散々これだけ色々な話をしておいて、最後にわからないとはどういうことだと、そう言われて僕もちょっと困ったんですが、わかんないからわかんないんだよねと。
彼の気持ちを察すると、自分はちゃんと勉強して予測して賢く生きていこうと思っているのに、そんなこと無理だよと言われた。ではどうすればいいのと、気持ちはわからんでもない。でもしょうがないねと言っていたのですが、その時僕もちょっと引っかかるものがあって、何が引っかかっていたかというと、世の中カオス、自然界カオス、地球上のいろんなものはカオスなんですが、地球生物は35億年間ずっと生き続けてるやないのと。カオスの世界で予測ができないのに、しぶとく生きている。どうやったらそんなにしぶとく生きていけるんだろうねと思ってたわけです。
何か秘訣があるのかなと思っていたんですが、それに対する回答はおそらく、これだろうというのが、それからしばらくして見つかりました。スケールフリーネットワークと言います。スケールフリーネットワークっていうのが何かって言うと、どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、6人の友達を介すと世界中の人と友達になれるっていう話があります。そのネットワークのことを言います。例えばですね、これ、ウェブのリンク構造のようですが、こういう風にぐちゃぐちゃしている。こういうリンクのつながりをスケールフリーネットワークというのですが、これは勝手にやるとできちゃうんです。勝手にやるとできちゃって、しかも結構いい性質がある。それは何かというと、なかなかバラバラにならない。どこかが切れてもバラバラにならない。こういうのをロバスト、強靭性といいます。誰も計画がない。計画性を持っていないので、ある意味柔軟に変化ができる。柔軟に変化できて、なおかつ強固であるといういい性質を持っている。ただ別の言い方をすると節操がないとか無責任とかいろんな見方もあるんですが、まったく計画性がない。
多分スケールフリーの意味なんですが、僕の想像も入ってるんですが、ランダムなネットワークとは違うよと。この図の点を人線を友達関係そうすると、任意の人2人を取り出してランダムに友達になりなさいという命令をするとこういうネットワークができて、横軸が友達の数、縦軸がそれだけ友達を持つ人の人数とすると、平均的な友達の数というのが決まります。それを中心にしていわゆる正規分布な形になりまして、極端に多い人も少ない人もあまりいないというのが平均的に決まってくるというのがランダムネットワーク。
ところがスケールフリーネットワークというのはそうはなりません。
グラフは横軸も縦軸も対数で書いてあって、直線になっちゃう。これべき則といいますが、対数なのでここ、グラフ右下の点が0じゃないんですよね。友達たくさん持ってる奴がなかなか0にならない。一方でむちゃくちゃ寂しいのがむちゃくちゃたくさんいるわけです。非常に不平等。不平等なんだけど何が幸せかっていうと、例えばですね、僕がここで10人友達を持ってたとします。だけど10人だろうが100人だろうが、常に僕より寂しい奴の方が多いんですよね。なので僕は幸せだと思える。何人の友達がいても僕は幸せだと思える。こういう平和な世界と。こういうのに対して正反対な構造の奴がこういう奴ですね。社長さんがいて部長さんがいてみたいな。または、総長がいてみたいなのでもいいんですが、だいたい人間社会っていうのはこんな形を持っています。
だいたいの数学とか物理とかもこういう構造をしています公理があって、定理があって。これは人間の知恵としては非常にスマートなんですが、さっきのスケールフリーネットワークとは逆で1本どっか切れるとそこから先が全部、ばらっと落ちます。つまり、1箇所どこか壊れただけで分解してしまう。そういう脆弱性を持っている。それに対してこのスケールフリーネットワークという奴は、強靭でなおかつ柔軟。これをつなぎかえようと思って端の青い奴を真ん中に持ってこようとすると、ほとんど全部繋ぎ変えなきゃいけなくて、革命を起こさなきゃいけないんです。
これ(スケールフリーネットワーク)はたくさんリンクを持っているのが、2番手というのがあってそれが徐々にリンクを増やしていくと、徐々に連続的に代替えができると。ある意味柔軟に変化ができるという特徴があるとおもいます。しかもこれ、計画性がないということから、柔軟なんですが、カオスの状態、予測不可能な状態の時には、柔軟に対応できるのでこういう方が強い。
何も計画せずにやると自然とこうなるわけで、カオスの中で自然にやっていくと実は自然にできていくというわけなんですね。これウェブのリンク構造と言いましたが神経細胞とこかですね、実はいろんなところにこういった構造が見つかっています。なので自然界というのはカオスの中でこういう構造を持って、成り立っているんだろうなということがだんだんわかってきた。
ということは、綿密に計画を立てて真面目にやっていけばいいっていうわけではなくて、ある意味適当さが必要だということになります。これは多くの人が感性として持っているとは思うんですが、最近これ(スケールフリーネットワーク)が非常に失われつつある。先ほどのきっちりやらなきゃならないとかですね、厳密に何か守らなきゃいけないというような、これが、今の京大2限らず、社会の息苦しさなんだろうと思います。一方でこの構造、スケールフリーネットワークみたいな、いい加減なんだけども、全体として秩序を保つというこういう構造はおそらく、生物の本能的なところに、我々が持ってるんじゃないかな。おそらくこれは、我々がいくらいろいろ効率化しようとしてもうしなってはいけない、生物としての本能なんじゃないかと思います。
なので先ほど、京大らしさっていうのがだんだん失われてきたと言いましたが、そんなもん適当でええやん、といってそれは困りますと言われた時に、なかなかちゃんと答える答え方がなかったんですが、こういう理屈をいろいろつけていくと、昔の京大らしさというのを、理屈をつけて、こういうのを失ってはいけないんだということをつけてあげて、昔の京大を復活させることができないかなというようなことを考えています。以上です。

司会

お分りいただけましたでしょうか。

森村

はいよくわかりました。たいへんよくわかりました。
もうひとつ良くわかっていないところは、授業ではないので後で教えて頂いたらいいんですけど、ランダムなものと、スケールフリーネットワークの違いがちょっとよくわからないんですけど、カオス理論ていうのは、僕にはピタッとくるものがあります。というのは、僕は芸術をやっていますので、その分野でちょっと近いなと思うことがありまして、それは、例えばレオナルドダビンチが絵を描きますが、レオナルドダビンチも同時代の他の画家たちも、みんなやろうとしていたことは、世界をどうとらえるかということなんですけど、普通当時やっているこというのは、世界をなぞることなんですよ。
これはどういうことかというと、実は簡単で、世界に輪郭線を入れるということです。例えば、顔がある、花がある、風景がある。風景ってどういうものがあるのかという時に、山の形をこうやって輪郭線を取っていくという風にすれば世界がわかる。理解できる遠いうように、当時のラファエロであれ、ミケランジェロでさえ、それからボッチチェリであれ、みんな輪郭線の画家たちなんですよね。世界をなぞっている。これが、レオナルドダビンチの場合、輪郭線は世の中にないと。彼は空気遠近法、スフマートっていうやり方をするんですけど、世界を把握するんだけどなぞらない。
それも当然そうで、僕の顔のここと、このあたりと、別に輪郭線で区切られてるわけじゃないんですね。ここがあり、そしてここがあり、その間は非常にぼやけたものであるというものですね。これは物理学の言い方とちょっと近いけれど、不確定性の絵画だと思うんですよ。確定させない。確定させられないものなんですね。それがずっと歴史として続きてきて、例えば、セザンヌなんていう有名な画家がいますが、セザンヌなんかは、僕なんかやってた時は一番高校時代に難しかったのは、筆の置き時、いつ終わるのか。それを失敗するのでいやぁな気分になって終わることが多いんですが、セザンヌの絵なんかを見ていると奇妙なんですよね。
何が奇妙なのかというと、え、これで完成?という。まだ全然できてへんやんっていう状態で絵が一杯ある。これは完成していない絵だと僕たちは見るけども、そうじゃなく、絵画というものは、完成させえないものなんだと、いうのが、おそらくセザンヌの絵のありがたなんだと思うんですよね。別の言い方をするなら僕らの人生と同じだと思うんですけど、生きてるっていう状態っていうのは、これは未完成なんですね。僕たちが死んでしまったらやっとそれは人生が完結する。だから生きている間は全然完成できないんだけど、完成できない状態が非常に我々が生き生きしている状態なんですね。
それを絵画に当てはめてみるとよくわかるわけですね。完成されてしまった絵画は生き生きしていない。完成途上あるいは、絵画というのは人間が生きているのと同様に、完成させえないんだというちょっとした意識の革命だと思うんですけど、そういうものとして絵を捉える。僕たちは大体輪郭線をなぞって、きっちり輪郭線が全部描ければ、完成するっていうんだけど、セザンヌとかレオナルドダビンチとかはそうしていないという。これは不確定性の絵画だと思うのね。
酒井先生の言葉をつなげると、結構適当なわけ。適当なところで終わってしまってるわけなんですよね。まさに、カオス感覚の絵だなと思いましたけど。一つ問題なのは、酒井先生のおっしゃることはすごくよくわかるし、大賛成だし、正論、ある意味正論なんですよ。酒井先生自身は異端の考え方だと思ってらっしゃるかどうかわからないですが、僕は完璧な正論だと思うんですけど、問題は、その正論に人間が、耐えることができるかということなんですよね。未完成の絵画って非常に不安になるかけなんですよ。苛ついたりする。これで完成ですよと言われるとみんな安心するでしょ。これはどうしても人間は、秩序を求めるんですかね。カオスとコスモスの問題なんですけど、どうしても秩序を求めてしまうんですね。
そうすると先ほどもう一つあった、ヒエラルキーの図があったと思うんですけど、あれって完璧なある意味、別の意味で美しい秩序の世界。ああいう秩序があればあの秩序の中の、自分はどこにいるか、トップにいるか、相当下の方にいるかわからないが、あの秩序のしっかりした図があれば、自分はどこにいるんだということで輪郭線が描ける。人間は輪郭線が描けるとちょっと安心するんですね。ところが、不確定性でようわからんという正論だし、自然はそうなっているんだが、ところが、人間はそうなっていないという奇妙な生き物なんですね。
だから京都大学の話もされましたけど、僕は1951年生まれなので僕の大学は、京都市立芸術大学なので、通ってた時が一度浪人したので1971年からなんですね。酒井先生がいう意味とは違った意味で大学というのが、相当解体されていた。解体された状態で、ともかく京都大学というところは僕の印象としては汚いところ。京都市立芸術大学も相当汚かった。汚いけど小さい学校だったので、うちの小さい学校のスケールアップしたような汚さで、京大というのがあったので、ある意味、それまでの秩序のあった大学が解体されて、ある種カオスになってたんですね。
カオスは当時の私たちにとっては結構居心地は悪くなかった。僕なんかは非常にそれで美しくなっていくとある種の秩序ができてくるわけですよ。そうするとどうも居心地が悪い。僕は今教えたりしてないんですけど、これまでいろいろ教えていくような仕事も幾つかさせていただきましたけど、すぐ登校拒否になっちゃうんですよ。特にそういうところから来られてる方いらっしゃれば悪口ではないと但し書きはしておきますけども、美しい学校のキャンパスライフって、一番苦手で、そこのところを通過するのがもう嫌なんですよね。なんで嫌かっていうと、多分そういう美しい大学の美しいキャンパスライフは建前だと思うんですよ。みんな楽しい風しているけど、いっぱいいろいろと暗いことを抱えてるに違いないけど一見明るく感じるという歪なように感じてしまうんですよね。かなり辛くなるんで、大学に教えにくるの嫌とずずずっとやめてしまいましたけど。
どうしてもね、秩序を求めてしまうんですね。その秩序を求めてくる時に先程出たカオスであるとか、そういったもう一つのネットワークのあり方というものに、それって自分を非常に位置付けにくい世界なんじゃないかなと。だって混沌としているわけだから、秩序のある世界と全く違う。
そこのところで、最初に申しましたけど、酒井先生はこれがおもろいと言っている、っていうそういう感覚ですよね。その感覚を掴むと結構いいんだけど、このカオスという状態は反面、人の不安を煽ると。不安を煽るので、これはいかんということで、何かを本当に予測したがったり、予測しないと、いつ地震が起こるかわかりませんよなんか言われたらパニックになりますよ、みんな。だけどここでは何十パーセント起こりますよ。ここの地域は、っていわれると、自分のところが確率が高くても低くてもなんでか、安心しちゃうわけなんですよね。秩序を求める気持ちが自分の中にあるから。だけど、そこのとこかな、非常に難しい人間というものの難しさを感じました。

司会

ありがとうございます。これ以上喋るともうディスカッションになっちゃうので。僕もよくわからなかったところを森村さんに説明していただいてすごいなぁと僕も思っております。
時間も少し迫っておりますので、大塚さんの話にいってあとで議論することにしましょう。
ではよろしくおねがします。

大塚

京大農学部4回生の大塚亮真と申します。
よろしくお願いします。皆さん改めましてこんばんは。今日はよろしくお願いします。
先程ご紹介していただいたんですけど、後ろの方に僕が撮ったゴリラの写真が展示されてまして、これを入った時にちゃんと見ていただいたという方手を上げていただいてよろしいですか。まぁそうですよね、だいたい2割ぐらいの人が、見ていただいたということなんですけども、今回の展示は左側から順に2枚ずつ同じゴリラのちょっと違った表情を並べるようにしました。ゴリラは人間が十人十色というようにそれぞれが、そのゴリラ自身も個性的な顔をしていますし、その時場所によって色々な表情をします。そのあたりを気にして今回写真を選びましたので、お帰りの際にでも見ていただけたらと思います。
簡単に自己紹介をします。僕は小学校低学年の時からゴリラにずっと魅了されてきていまして、今、写真家を目指しながら、人とゴリラの関係学とか保全活動みたいなことを学んでいきたいなと思っています。
京大解体というテーマがありますけども、先ほど覚醒紛争という話がありましたが、僕らの同年代の世代にはそういったイメージがあまりないと思うんですね。字面のそのままの意味で、京大のイメージを白紙にして新しい京大のイメージを作っていくことだと思います。じゃあ、京大のイメージとはなんだろうということで、2ちゃんねるとかNAVERまとめとかで京大のイメージを見て見たらですね、自由とか、変な人が多いとか、ノーベル賞とか、ゴリラもありますけども、中には奇人変人気取りとかいう辛辣な意見もあったりして以外とまとめてるんじゃないかなと思うんですけど、こういうようなイメージがありました。
僕にとっての京大のイメージとはなんだって言いますと、これ実家から引っ張り出してきたんですけど、

(大塚さんの小学校の時の自由研究の写真)

小学校の時の自由研究ですね。ゴリラについてっていうんですけど、絵の才能がないなっていうのは一目でわかると思うんですけど、ていうのをやっていました。なぜゴリラかということをやっていたか、僕も最近こういうの書いてたって思い出したんですけど、下の方にゴリラは絶滅の危機にある動物なので、役にの字が投になってますけど、ということを言ってます。今もやっていることは大して変わらないんだなぁという感じで、12,3年前から同じようなことをやっているという感じです。
それで、自分にとっての京大のイメージというのはゴリラ、あるいは山極先生でしかなかったということです。
ではなぜ京大に入ったのに、生態学的な研究をせずに写真家をやろうとしているのかということで、これが京大でアートをやる意味を考えた時、一つの事例としてみていただけたらいいなと思うんですけど、僕は農学部に在籍していまして、結構割と実学的で目的がわかりやすいような学問を普段は学んでました。よく山極さんの研究室とかも遊びに行かせてもらってたんですけど、今いらっしゃらないのでこういうことを胸を痛めずに言えますが、ちょっとですね、僕は面白いんですけども、その目的ってなんなんだろうということにつまづきまして、霊長類学とか人類学とか文化的学問がどうやったら社会に還元されていくんだろうというということに疑問を持ちました。
霊長類学や人類学ってなんのためにあるんだろうとか、そもそも学問ってなんのためにあるんだろうとか、これ上野動物園のももかちゃんというゴリラなんですけど、こういう風に悩みました。

(悩んでいるような表情を浮かべるゴリラの写真)

悩んだ結果普通は現実逃避をしますよね。多くの大学生の皆さんはそこでなやむと考えることをやめてしまうんじゃないかなと思います。いろいろなことをやりまして、いろいろ売り込みとかもしてですね。写真家になろうと思っていろんな写真を撮ったんですけど、これはある人に、ある有名なファッションデザイナーの方に言っていただいたことで、いい写真だけど、響いてこないんだよねっていう風に言われました。じゃあ、この響いてくるってなんだろうという風に考えて、自分の写真にはおしゃれだったりカッコいいというのは求めていたんですけど、コンセプトを決めていなかったし、なんのためにその写真を撮るのかということが欠如していたということに改めて気付きました。それで、自分が本当に撮りたいものはというと、ヤパッパリ自分の人生の中で、非常に大きなウエイトを占めていたゴリラだろうということになります。
それでこうやっていろいろ勉強し直しますと、先ほどよく目的がわからないと言っていたことがですね、わからないけど、でも勉強しなおすとめちゃくちゃ面白いということに気付いたんですね。ここのなんで面白いのか、なんでゴリラが魅力的なのかっていうことを探すためにも今後写真を撮っていきたいなと思っているんですけど、とにかく、ゴリラを撮っている、みている、考えていると、すごい胸がドキドキするんですよね。それと同時に安心感も与えてくれるというような存在なんです。
この感動であったり面白さというものを写真を使ったら表現できるんじゃないかということで、ゴリラ展というのを去年の11月に、学祭でやってみました。ゴリラの魅力を伝えたいということで、学問とか保全活動の入り口になっていただければいいなと思いまして、写真展ではなくてインスタレーションという形をとりました。写真は出すんですけど、右奥の方で、霧の彼方にっていゴリラ映画を上映して、ゴリラの音楽も、既成のものなんですけど、流しながら、写真を見ていただくということをやりました。一応SNSのTwitter上で、このくらい(3500)リツイートがあって、2000人ぐらいの人に来ていただいたという、グッズ販売とかもやったりしました。将来的には、視覚や聴覚だけじゃなくて、ゴリラの匂いとかゴリラが食べているものとか、そういうものを含めて、五感に訴えるようなゴリラ空間を作りたいと思っています。それが僕の夢ですね

大塚

ちょっと話は戻りますけど、京大のアートってじゃあどんな、京大でアートをやる意味はなんなんだろう。京大には面白い人であったり研究っていうものがたくさんあふれていると思うんですよね。さらにそれを表現したいっていう内なる本能的なエネルギーのものも、いっぱい潜んでると思います。それを誰もが面白いぞと、わかりやすいというのは違うかなと思いかけているんですけど、わかりやすくなくても面白いっていう風に思っていただいて興味を持っていただくということが大事なんじゃないかなと思います。難しく言うと学問と社会を結びつけるような役割があるんじゃないかなと思います。ここを大学内だけじゃなくて京都市中あるいは日本中に広げて、ゲリラ的に、ポンポンといろんな場所で、こういう活動が起きていたら面白いんじゃないかなと思います。
それでこの、Student Art Lab.を今後立ち上げようと思っていまして、気付いた方もいるかもしれませんが、SAL(さる)っていう。ここまでゴリラゴリラと言って来てさるかよと言われてしまいそうですけども、自主ゼミですね。京都大学は自学自主がモットーということで、芸術系の自主ゼミをやってみようと、将来的にちゃんと活躍したいっていう人達で集まって、ただその人たちは技術も何も持っていなくて、これからみんなで学んでいこうという感じですね。学問とちゃんと両立させて、お互いに活きていくようなことを考えています。
今後の課題というか、学生から大学の側に聞きたいことなんですけど、例えば、環境のことで聴きたくなってしまうので、実践的な講義はこれから増えていくんだろうか、とかその芸術系の、美大に授業を聞きに行ったりとかが今後できるようになっていったらいいなぁと思っていまして、それを他の学生の皆さんの意見も聞きたいなという感じです。これは一つの提案にすぎませんので、もっともっと多様性があるはずです。これをしっかり議論していけたらいいなと思っています。
最後に宣伝だけ、来年2月の21日から28日にデザインウィーク京都というイベントがありまして、その一環で、ゴリラ展2016をやります。僕は卒論を書かなくても卒業できるという素晴らしい学科にいますので、これは卒論を書かずに卒業制作という形で出します。場所未定、資金なし、もちろん単位も出ませんということで切羽詰まってますので、ご相談乗っていただける方いたらよろしくお願いします。ウガンダとルワンダという国に11月行ってきまして、野生のマウンテンゴリラを初めて見に行きます。そこで撮った写真だったりとか、感じたことなんかを、こういう場所に行って写真を撮ってくるんですけど、それを何か形にできたらいいなと思っています。詳細は僕がやってるInstagramのGoristagramというやつですね、発信しますのでぜひ、そちらを見てください。ありがとうございました。

司会

お二方、今の発表に対してダイレクトに質問があればどうぞ。

森村

大塚さん、いっぱい聞きたいことやら色々あるんですけど、それは置いといて、ゴリラ写真関係で、お友達っているんですか。

大塚

友達ですか、基本的には一人なんですけども、この分野としては、まぁこれは友達というか、先生のような方が、いらっしゃいまして、ゴリラの絵しか書かない画家さんがいらっしゃってその方と一緒に動物園を回ってということはします。

森村

素敵だと思います。

司会

大変楽しく聞かせていただきました。
お三方の答えはもう出ているようの気もするんですが、それだけでは面白くないのでこれから議論していこうと思います。ちょっと私なりの理解を言いますと、これは先ほど森村さんと酒井先生のやり取りの中でですね、ある意味で明らかなことなんですけど、京大がもうすでに解体されているという非常に強烈な言葉がありましたが、それを、なぜか、どうしてかと説明すると、そこはもう、森村さんの非常に適切な、ある意味で酒井先生の理論のご説明があったと思うんですが、それはつまり、昔はと言ったらいいんですかね。
秩序というもの、本当は人間は秩序あるものをどうしても好むんだけど、京大はある時まではカオスだった。それがいつの間にか秩序に基づいた大学になってしまった。これも森村さんの話によると、つまり秩序というもの、人間は秩序を志向するというか、逆に秩序がないことに耐えられないということなんですよね。それは、昔はそれに耐えられた人がいたのに、今、どうも耐えられなくなっている人間がどうも、京大に増えてきているんじゃないかということですよね。
それはなぜかとか、じゃあどうすればいいのかという風な話にどうしてもなっちゃうと思うんですけど、どうしましょう。まず、酒井先生そういう理解でよろしいんですか。

酒井

ええ、それで、先ほど汚いのが心地いいということをおっしゃりましたが、基本的に生物は汚いのが好きなんです。例えば、サンゴ礁の綺麗な海、あれは僕らから見たら綺麗なんですが、あれは生物から見たら砂漠ですよね多分。だから僕らから見て汚いものが、生物は好きなんですよ。
さらに秩序がなくて未完成だから生物って生きていけて、生物の完成っていうのはつまり死を意味すると思うんですね。だから生物的な、本能的な部分と、その一方で先ほどおっしゃった秩序がないと不安だ、これは多分人間の特殊なある意味能力、秩序が作れるから人間は他の動物とは違って、すごい力を持っていると思うので、だからこの二つ両方とも僕は必要だと思うんですが、非常に矛盾していると思うんですね。だから矛盾しているものを二つ持っていて、これはなかなか療法を同時に満たすということはできなくて、すべての人にこういう汚いものを心地よく思えといっても多分無理だよと、逆に京大の変人みたいなのがですね、綺麗なところを嫌いなわけですね。むしろ綺麗なところに来ると、その辺がムズムズしてくる。こういうのを変人というんですが、変人の世界ってやっぱり普通の人の世界と違っていて、これは共存しなきゃいけないんだと思うんですね。
別に違う人を無理やり連れてくることはないんだけど、お互いにそういう人たちがいないと困るというのを認めておかないといけないと、京大生には無理っていうバイトがあるんですが、どっかのパン屋さんのアルバイトで、ずっと同じ仕事の作業をすると。これは京大生には耐えられないと。そろそろ飽きたし塩を多くしてみたけどどうですかとか、京大生がパン屋さんでバイトをすると同じ味のパンが食べられなくなっちゃうわけですが、一方でそういうことがちゃんとできる人がいるから世の中成り立ってるわけです。
でもそういうきっちとした仕事しか、というかそういうことをやっている人だけだと、小麦が採れなくなったとか、そういうときに別の代案が出てこない。変な奴がやっぱり必要なんですね。平時ははですね、コミュニケーションが非常に難しいと思います。だけどやっぱり、そこのところで、違う価値観を持つものが、人間社会としては違う価値観を持った人間が共存していないといけない。
そのアートという話なんですけど、多分その違う価値観を持つ人にですね、片方の価値観をそのまま押し付けると、これは拒絶反応を起こしちゃう。多分相当苦痛を与えちゃう。実はそこがアートになるとある意味そこが疑似体験で、体験するんじゃなくて、疑似体験することで、そういうのもアリかと、思ってもらえる。そういうソフトなコミュニケーション手段としてアートは重要なんじゃないかなという気がします。

司会

今の意見よろしいですか。ソフトなコミュニケーション手段ってちょっと違和感あるんですが…。

森村

僕が別の言い方をすれば、今、酒井先生がおっしゃったこと、芸術というのは暗黙の了解か、社会の役割っていう言い方はあまりしたくないんだけど、社会の中であえていうんですけど、ある種、先ほどのかつての京大の話じゃないけど、ある種治外法権、特区、芸術だからっていう特権的なところがあるんですね。それはある種のリングだと思うんですけど、誤解を招かないよう願いますが、芸術の中だと、殺人もオッケーなんですよ。これは本当に殺人をするというわけじゃなくて、小説とか、そういったものの中で、人を殺すということが、物語の中に出てきますよね。ドエススキーのラスコルニコフは人を殺人、殺したりする。そういう物語があるわけですから、こういうことが芸術の和久々野に中でなら許される。芸術だからっていうところがあるんですね。
芸術の中であれば思いっきり汚くてもオッケーなんですよ。そういうところがあるんですよ。だからそこのところが、ソフトにとおっしゃいましたけど、そこのところが、ある種のツールとして、成立するっていう可能性は十分あるし、そういうことを芸術と言っているのは、やってきたのかなというふうに思いましたね。
もう一つ、大塚さんのお話があったので、僕、酒井先生だとちょっと真面目すぎるんじゃない?とおっしゃりそうですが、僕はすごく共感を持って素敵だなぁと思いながらお話を聞いていたんですけど、一つだけ気になることがありました。それは、今、学問と社会を結びつけるという話をなさっていて、僕は、自分が芸術という分野で、学問とはちょっと違うのかもしれないけど、一番表現で大事なことは、これは酒井先生絶対賛成してくれると思うんですけど、何の役にも立たないこと、芸術というのは。役に立つと思ったら終わり。そういうものだと思います。
これは、本当は研究もそうなんだと思うんですよね。これは多分、京都大学だけでなく、多くの大学がそうだと思うけど、大学って大学の役割を問われてると思うんです。だから、大塚さんの僕がやってることなんなんだろうという。一つは面白い、ドキドキするとおっしゃったからちょっと安心してるんですけど、でもなにか自分のやっていることっていうのは何かの役に立つべきとどこかで思っているかもしれない。
それはどういうことに置き換えられるかというと、大学っていうところは、やっぱり、社会の中の、世の中の中の、筆の組織であると。そこが多額の税金なんかが使われたりする場所ですから、そういう場所であれば、やっぱり恩返しをしないとダメじゃないか。世の中の役に立たないといけないんじゃないか。要するに社会のニーズというものがある。社会の方からこういうこと研究してほしい、あるいはこういう人材がほしいという社会のニーズに応える感じで研究があったり、ある人材を育成していったりということになりかねない。
つまり社会との関係っていうことを考えると。でも大学っていうのは本来そうなんでしょうか。社会の役に立つためにあるんだろうか。これは僕の独断と偏見かもしれないけど、大学というのは大学としての自治が必要だと。それは、世の中がどう言おうとうちはこうですよと、っていうある種のまさに芸術と同じ特別の場。この中では何をやってもいいと、何をやっても許されると、いう場所でないと、簡単に言うとおもろないと、なるんじゃないかなと思うんですね。そこのところが、先ほどのお話ですが、非常に不安なものを醸し出すんです。何やってもいいですよって、大塚君もゴリラの写真撮ってる。ドキドキするし、いいなと自分で思って京都大学でそういうことできるしやってる。ちょっと不安がある。何やってもいいからやってるんだけど、ちょっとお聞きすると、基本的にお一人でやってると、これがたくさんの仲間がいる。100人、200人といるとですね、みんなやってるという感じが安心感をもたらすんですね。
よく世の中で、これは大学の話じゃないけど、みんな並びますよね人気のお店とか。あれと同じです。ロールケーキとかのお店がここがうまいとかなると、みんな並ぶでしょ。たくさん並ぶと、自分もまた並びたくなると。これは同じ価値観を持ちたいんですよ。たくさん同じ価値観を持っている人がいると安心するっていう。ところが今の時代は、おそらく安心感を持てる一つの価値というものの一個一個が非常に脆弱なんですよね。ロールケーキですから。ロールケーキでなくても別にいいわけ。やわらかプリンでもよかった、やわらかプリンが流行るとやらかプリンでよかった。別に塩パンでもいいです。なんでもいい。非常に脆弱。かつてはそうではなかった。これはいい意味でも悪い意味でも。
例えば、神様がいたわけですよ。神様がいると、どうしたらいいでしょうと悩んだ時に問うことができる。人殺しはいけませんよと神様は言ってくれるわけですけど。今神様は解体しちゃいましたから、人間。そうするとどうしたらいいかというとこで非常に困るんですよ。そうするととりあえず並んどくかなとなるんですよ。ところが、並ぶアイテムが非常に脆弱でしょ。じゃあどうなるかっていうと、今度は強固な、ものに並びたいとなりますよね。強固なものってなんでしょうか。
これって またぞろ になるけど、例えば、国家という。これかなり強いです。ロールケーキややわらかプリンは全く敵いません。国っていうものがあればそこに並ぶ。これはかなり強固な一体感をもたらせるという風になっていくんですね。そういうことになるわけなんで、それでいいんでしょうかという話になりませんか。
そうするともう一度こちらに戻って、この京大、大塚さんが何をするかっていう時に、社会の役に立つ、社会貢献って言ったようなものを考えながら、芸術作品を作るっていうことが下手をすると、非常に危険なものを招いてしまうということに、なりはしないだろうかと。そうすると、芸術なんて何の役に立ちませんよというスタンスに、先ほどから同じこというんですけど、どれだけ耐えるかというその、僕の例でいうと、信号機渡りますよね。信号機を渡る時に、今青が点滅している時に、パッと立ち止まって、うわっ、素晴らしい青だって立ち止まってるとどうなるかっていうと、邪魔邪魔、早く渡ってくださいよ。そんなとこで立ち止まって見上げている場合ですか。なぜならば、この信号機というのは交通をスムーズに運んでいく、そういう道具に見とれていてどうするんですか。青だったら渡る。赤だったらストップ、止まる。そういうもんでしょ、そういう役に立つツールでしょ。それが青の輝きが素晴らしいなんて言っていると、それ、邪魔ですって言われるんですね。
だけど、大塚さんのゴリラを見てドキドキするというのはそれと同じだと思うのね。役に立つか役に立たないかわからないけど、そのブルーの輝きに見とれてしまったっていうのが最も重要なことなんですよね。それが一体何の役に立つんですかって言ったら、役に立ちません。むしろ、有害です。信号機にとって。だけど自分にとってドキドキすることだから、それは例えば、これは人間に置き換えてもいいんですよ。人間に置き換えて、人間が、何かの役に立つから、人間って素晴らしいのかっていうと、そうじゃない。それは、人間っていうのは生きてる。ちょっとロマンティックな言い方ですけど、生きていて、そうしたらそこに命の輝きが、それが感動的なんだと思うんですね。それは何の役に立つかとは全然違うレベルの問題で、美しいってそういうことだと思うんですよ。
だから、僕は大塚さんが素晴らしいなと思ったのは、ゴリラとの出会いが子供の頃からあって、そこのドキドキ感というものが持続的にある。そこが、一番ポイントなんだと思っていることですよね。このゴリラ研究を、例えば、ゴリラの研究をしてそれを論文に書いて、何か、著名な学者になろうと、そっちじゃないという感覚は、まさにアートなんですよ。そう僕は思うんです。なんか、そこを大切にして欲しいななんて思いました。

司会

結構森村さんがおっしゃっていることはラディカルなことですよね。京大で役に立つことやっちゃダメよとおっしゃってるわけですよね。
我々が見たら、工学系の人間はどうすりゃいいんだということになってしまうんですが、時間もそろそろなくなってきたんですが、ちょっと酒井先生の方にですね、いくつか質問があるのをちょっとお答えいただきたいと思いますが。
京大が解体されているというこれも非常にラディカルな意見ですが、何かいいものは残っているのだろうかということ、京大らしさというもの、があればそれは何かということですね。それともう一つはですね、逸脱することの重要性ということを、おっしゃったんですが、これはじゃあ逸脱して、なおかつ、役に立つとは書いていないな。我々が根元に訴えかけるような研究をするにはどうすれば良いか。これは無い物ねだりなのでどうすればいいかという感じですが、もしお答え頂ければと思います。

酒井

まず、何か残ってないかと、正直言って先ほど生物っていうのは汚いところを好むという話はしましたが、生物っていうのはどんどん同時に成長していってソフトランディングしない。だからとことんいっちゃって絶滅するのが生物なんだと。そういう意味では、京大ももうそうやって絶滅するんだなと実際僕は覚悟決めたというんですが、幸か不幸か、ブレーキがかかりました、去年。
今ここにはいらっしゃいませんが、山極総長が誕生したわけで、かすかに、昔の何かを残しているんだろうなと、まだ完璧には死んでない。何か残ってるからこういうことになっているんだろうなという風には思います。ただそれが生物として、いいことか悪いことかよくわかりません。それももう今言った、絶滅しとけと。恐竜が絶滅したから僕らがいるので、次の何か新しいものが出てくるには絶滅した方がいいのかもしれませんが、そういう意味では、幸か不幸か少し残りましたねと、で答えになってるかな。で、もう一つなんでしたっけ。

司会

秩序から外れるだけではなくて我々の根元に訴える研究を、そういう風なテーマを見つけるにはどうすればいいかということなんで、それはちょっと無い物ねだりかなとも思いますけど。

酒井

多分先ほどから役に立ってはいけないという話もありましたけど、今役に立つことにこだわっているとそういう表現になると思うんですけど、多分ですね、今役に立たないことっていうのは想定外のことが起こった時には、今役に立ってることはほとんどダメな訳ですよ。
だから、想定外のことが起こった時に役に立つものを持っているために今役に立たないことをやっていなきゃいけないと。だからそういう意味で、今役に立たないということもですね、さっきのカオス界だと思うと、これは役に立つことだと思います。だから今役に立たないだけで将来役に立つと保証はしませんが、役に立つかもしれないと。

司会

はい、時間がそろそろ迫ってきましたので、一番最後にですね、答えていただきたいと思うんですが、今日のお三方は先ほどのお話から、ある意味で秩序のないことに耐えられる人間ですよね。でも大半の方はなかなかそう簡単には耐えられないので、こういう質問が来ています。
仕事ではなく趣味として、アートをやりたい。そういう人間はこの、今日のパネリストから見るとどういう存在なんですか。いらない存在なのか、どうなのだということなんですけど。
どうでしょうかそれは。趣味じゃダメなんですか、やっぱりアートっていうのは。

森村

いや、素晴らしいと思いますが、なんていうのかな、僕も趣味でやっているようなもの。というのは、どう言ったらいいのかな。仕事っていう自覚がないですね。好きかなぁ。広い意味で好きでやってるかな。大変しんどいから、作品を作るのって。こういう化ける仕事をやっていると森村さんが一番楽しそうですよねと言われるんですけど、じゃあやってみって言うんですけど、どれだけしんどいかわかるよって言ってね。次の日首回りが動かないですから。
でも昔なんですけど、随分前のことになるんですが、自宅でぶらぶらして、そうすると近所の人がね、あなた何やってるのって言われるので、ちょっと絵のようなことをやってます。と言ったら、素敵ですね、いい趣味をお持ちでっておっしゃって、あぁ、僕のやってることは趣味なんだと思っていたんですね。ですから、それは自分にとってよかったなと思っているんですけどね。永遠のアマチュアリズムといいますか。俺はプロだってこう思いあがった気持ちは持たない、っていう。
履歴書に今趣味の欄ってないんですね。ちょっとできてきましたけど、長らくなかったんですよ。で趣味っていう欄が職業っていう欄に移っていったと、そういう感覚なんですね。だから、僕自分のやっていることと、別の職業をお持ちでなんか好きで芸術作品なんか作ったりとか、そういうことをなさる人とは地続きだって思うし、もっと翼端なこと、化けるっていうことをやってるといえばね、コスプレイヤーとか自撮りのひととかいっぱいいますでしょ。ある種、いろいろありますけど、私は君とは違うみたいなことはあるけども、地続きだとは思っています。
地続きだとは思っていますけど、何が違うかといいますと、年季が違う。僕は一番最初、ゴッホの作品を見せましたけど、あれは1985年に作りましたから、この道30年です。そこぐらいまでやってみと、こういう風には言いたいけど、基本的には変わらないんじゃないですかね。と思うんですけど。

酒井

はい、あの私も趣味と仕事の区別がつかないという意味では似たようなもんですが、やっぱり、僕らみたいなのは変人ですが、

森村

僕らってどういうことですか(笑)。

酒井

まぁ京大には変人が多い(笑)。
京大はやっぱり変人がいないと困るんだけど、変人ばっかだと困って、世の中それでは成り立たないわけで、だからちゃんと普通のひとがいないと明日のご飯に困るわけなんですよね。だから僕ら変人は普通のひとにご飯を食べさせてもらっているので、非常にありがたい。
だからこれはあえて変人の中に入ってもらう必要はなくて、趣味として付き合っていただければ、理解していただければそれでいいんじゃないかと思います。

司会

大塚さん何かあります?

大塚

はい、僕も学生なので、まず完全に趣味の領域でやっているものですから、すごいちょっと短めに言いますけども、本当に僕も今後こういう活動をしていく上で、大事なことは先ほど森村さんがおっしゃったように、10年、20年、30年と積み重ねていくことだと思っていますね。
僕の写真を今たまたまこういう巡り合わせというか、運が良く話させていただく機会をえていますけども、まだまだ僕はゴリラのことを知りませんし、実際にアフリカに行ったこともないですし、そうやって未知なことを30年、40年、50年できれば死ぬまで、やっていくかどうか、僕も今後どうなるかわかりませんけども、今はそういう気持ちでいるので、まぁ、それでも趣味になりますよね…。どうしたらいいんでしょうちょっと閉まらないですけどこれで。

司会

どうもどうも、それではですね。一番最後に京大唯一のアーティスト土佐先生にですね、今日の議論を聞いてどういう感想を持たれたか。締めていただけるとありがたいんですけども。

土佐尚子氏

京都大学の土佐でございます。京大に来て約10年ぐらいになるんですけど、酒井先生によりますと、ほぼ解体された後にやってきたと言われましたけど、今日のお話を聞いて非常に深いものがあるなと思いました。いわゆる、学生運動の頃の解体とはですね、また別の意味での解体と、創発的なものを感じましたし、今の時代ご存知のように価値観が複雑化していて、森村先生もおっしゃいましたけど、脆弱な価値観の中にいて、その中で私たちは生きていかなきゃいけなくて、一方で、安倍政権のような国家があって、非常に不安を煽るような、政治をしていますけども、その中でやはり、サバイバルと言いますか、想定外の中で生きて行けるような、賢さと言うとちょっと偏った言い方なんですけど、サバイバル力というか、そういうものがこれからの一つの指針となって、「京大おもろトーク」そのあとに「アートな京大を目指して」というのがありますので、一つの京大力として、想定外のサバイバル力っていうのがあるのかなと今日は感じさせていただきました。どうもありがとうございました。

司会

非常にたくさんの質問をいただいたんですが、時間の都合もありまして、それぞれにお答えすることができなくて申し訳ないです。それでは本日は2時間ちょっとオーバーしましたがその間に京大解体というちょっと重いテーマを議論させていただきまして、答えが出たのかでなかったのか。これを受けまして、次回どうするのかということを、我々オーガナイザー側としては考えさせていただきたいなぁという風に思います。
次回は四半期に一回ということで10月頃を予定しております。次回は京大再構築という風にテーマに持っていければいいんですが、まぁそれは今日の議論をもう一度我々としても集約してから考えさせていただきたいと思います。
それでは本日はどうもありがとうございました。これで終わりにさせていただこうと思います。

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