分子の実在性と統計力学の成立(その1)

早川尚男(京都大学大学院人間・環境学研究科)

(物理学概論後期第1回)

 

はじめに

アインシュタインの世間一般に知られていない業績の一つに分子の実在性をめぐる激しい議論に実質的に終止符を打ったという事が挙げられる。無論、分子の実在をめぐる議論の主役はボルツマンであり、敵役はマッハやオストワルドであり、アインシュタインやペランはその終結に寄与しただけというのが正しい見方であろう。しかしながらボルツマンの悲劇的な死によって彩られたこのドラマに終幕を下ろし得たという功績は大きい。
そもそも20世紀に入っても原子・分子の実在をめぐる論争があったことは驚くべきことであろう。一応の決着がついたのをペランの実験とするならば、1909年の出来事であり、それはラザフォードがα線を用いた散乱実験で原子核の存在を明らかにしたわずか2年前の事である。化学の分野では周期律表が広く使われ、既に放射性元素も含めて殆んどの原子が発見されていたにも拘らず、この深刻な論争は起こっている。それどころか、論争が起こり始めたが19世紀も後半になってからであった。このように錯綜した歴史的な事実を理解するのは容易ではないが、ポイントとしては(i)19世紀半ば以降の熱力学の発展と成功、(ii)熱力学における不可逆性と力学の可逆性の矛盾、(iii)古典原子論の限界、(iv)目に見えぬ原子というものに対する懐疑主義等が背後にあったという事が出来るであろう。特に(ii)は未だに完全な理解には至っていない難しい問題であり、本講で紹介する統計力学の基礎に関わる事である。また(iii)は言うまでもなく量子論の発展によって解消されていった疑問点であった。(iv)がある意味で最もアインシュタインと関連した事であるが、彼は花粉等の不規則な運動として知られていたブラウン運動を理論的に解明し、その機構は液体分子がランダムに衝突することによるとした。彼の理論はその一方でアボガドロ数のかなり正確な予言を行い、原子運動の可視化という問題と共に分子の実在性を証明した事になっている。

 

さて分子の実在性をめぐる論争の歴史をおさらいしてみよう。原子論は古代ギリシアでも論じられたが、形而上学的な論であって実態を伴ったものではなかったために衰退していった。近代に至って1808年にドルトンが素朴な原子論を近代風に復活させた。この原子論をもって近代化学が誕生したとも言える。尤もドルトンの言う原子は現在の分子にあたり、当時には用語をめぐる混乱が相当あった。それだけでなく1809年のゲイ=リュサックの倍数比例の法則(気体分子同士の結合ではその体積は簡単な整数比をなす)、1811年のアボガドロによる、「一定温度と圧力の下で同体積の気体は同じ数の分子を含む」という仮説等、今日では原子論の証拠として紹介される諸々の仕事をドルトンは受け入れなかった。この混乱した状況はドルトンが分子と原子の区別が出来ていなかったためである。これらの混乱は19世紀半ば過ぎまであったが1860年のカールスルーエの会議を境にしてアボガドロの仮説は浸透し、急速に普及していった。(因みにメンデレーエフによる周期律表の発表は1869年である)。しかしながら普及の中でもかなりの数の化学者が原子論に不信を抱き、それなしにすませればそれにこした事はないという意見を持っていた様である。

 

気体がばらばらの粒子から成り立っているという気体分子運動論の萌芽は18世紀に遡る事が出来る。おそらくは1738年にベルヌーイが気体の圧力は粒子が壁に衝突することで生じるとした仕事が最も古いものであろう。また熱力学の建設に携わった大家の中でもクラウジウスは固体、液体、気体の区別は分子運動の形態の違いという正しい洞察を示している(1857)。電磁気学の定式化に成功し、19世紀最大の物理学者の一人と目されているマクスウェルは1860年に現代にも通用する形で気体分子運動論を提出した。そこでは分子を完全弾性球とみなして、衝突によって実現する速度分布がいわゆるマクスウェル分布(=正規分布或はガウス分布)に従う事を導いた。この論文は物理学に初めて積極的に確率分布を持ち込んだものであって、統計力学の始まりと見倣すことが可能である。またマクスウェルは気体の粘性係数を計算し、それが密度によらないことや温度とともに増加することを予言した。この結果は常識に反するように思われたが、マイヤーの1861年の実験やマクスウェルの1866年に行った自らの実験によってその正当性が支持された。同じ頃に気体分子運動論の確立に大きく寄与した人物としてロシュミットが挙げられる。彼は分子の大きさを推定したばかりでなく、アボガドロ数の推定にも成功している(1866)。マクスウェルに至っては \(4 \times 10^{23}\) という今日知られている値 \((6 \times 10^{23})\) に近いアボガドロ数を算定している。

 

19世紀の終わり頃に分子・原子の実在を否定することはますます難しくなってきたが、その一方で原子(atom=分割できないもの)という言葉そのものに抵触する発見、即ち原子の分解や構造に関するものが続々と報告されるようになってきた。例えばJ.J.トムソンによる電子の発見(1897),イオンの発見(1899)は原子を一部分解したと解釈せざるを得なかったし、放射能(1896)の発見も原子の不易性の神話を打ち破り、原子の分解を意味した。これらの事実は古典原子論に対する深刻な反論となっていた。

 

分子の実在をめぐる議論及び統計力学の建設の主役は紛れもなくルードビッヒ・ボルツマン(Ludwig Boltzmann)である。ドストエフスキーに似た風貌を持ったこの男は、その自死という悲劇的な形で自らの命を絶つ。彼の人生の終止符は1906年に打たれたが、その3年後にはペランの実験で原子の実在をめぐる論争は終わりを告げるだけに一層の悲劇性を感じざるを得ない。
ボルツマンは22歳のとき(1866)に熱力学の第2法則、即ち熱の不可逆性(エントロピーの増加)に関する定理を力学的に導出することを試みた。無論今から見れば熱力学と力学の異質性を鑑みない理論ではあったが、その若々しさは注目に値する。次いで、1872年に気体分子運動論の中での記念碑的論文を出版し、その中で(本人は)エントロピーの増加を力学的に導いた(と思った)。そこで用いられた手法は今日ボルツマン方程式と呼ばれる分布関数の発展を記述する方程式を導入し、そこで分布関数とその対数の積の積分をH関数として導入し、そのH関数(エントロピーの符号を反転したものに比例する)が単調減少をすることを示した。またそのH関数の時間発展がなくなった状態を彼は平衡状態と見倣し、そこでは分布関数がマクスウェル分布となることを示した。

 

ボルツマンは以上の解析によって熱力学を力学的に記述することは解決されたと思ったが、1876年に気体分子運動論で顕著な業績を挙げていたロシュミットが力学的な運動方程式の可逆性を基にしてボルツマンの仕事を批判し、より注意深い議論が必要とされるようになっていった。ロシュミットの批判はいわゆる可逆パラドックスと呼ばれ、ある瞬間に分子速度を反転させたとするとH関数が増加する事になる。

 

ボルツマンはロシュミットのパラドックスに対して、とてもありそうもない状態に導く初期条件があることを示しただけで圧倒的多数の初期条件ではH定理は成立すると反論した。その反論を具体化するために彼は1877年に第2の論文でエントロピーを確率と結びつけ、微視的に可能な状態数Wの対数とエントロピーが関係している \(S=k \log W\)という有名な式を実質的に導いている

 

1896年にはツェルメロによって再帰パラドックスと呼ばれる反論が新たに加えられた。ツェルメロは1890年にポアンカレによって示された力学系は有限時間のうちに初期状態に再帰するという定理を基にしてある時間帯でH関数が減少したとしても系はいずれ減少し最初の状態に戻るという事を意味するとしてボルツマンを批判したのである。ボルツマンはここでも再帰時間が圧倒的に長く、また確率的考察から実質的にH関数の減少(エントロピーの増加)しか起こり得ないという反論をしている。

 

これらロシュミットやツェルメロの批判に答えるうちに不可逆性を原理とする熱力学と可逆性を原理とする力学の間の溝が浮き彫りになっていった。そこでボルツマンは長時間平均とアンサンブル(集団)平均が等しいというエルゴード仮説を導入し、マクスウェルを経てギッブスによってアンサンブルの理論である統計力学は完成していった(1902)。尚、アインシュタインが1902ー3年に殆んどギッブスと同じ形の理論を展開していることに触れておこう。

 

ギッブスによって大枠が完成された統計力学は今日では平衡系の多体問題を扱う学問分野として理工系の必修科目の一つとなっている。統計力学の出現によってミクロな力学とマクロな熱力学との間に架け橋が出来た事になる。無論、現在に至っても何が時間の不可逆性をもたらしたのかを一言で説明するのは容易ではないし、厳密な多体計算は出来ないために近似的な計算法に頼っている側面もある。同時に熱力学とは矛盾しないがマクロな現象に限ればその枠をはみ出さず、安定性等についてはより予言能力に乏しい。統計力学の有用性は量子効果が顕著になる低温物理で認識されるようになり、また各種の厳密に解けるモデルの発展、繰り込み群等による相転移現象の理解等を通して統計力学の学問とその適用範囲は飛躍的に発展した。

 

一方、歴史的に重要な役割を果たした気体分子運動論やボルツマン方程式はその後も非平衡を扱う学問体系として平衡統計力学とはやや異なった発展の歩みを見せた。ごく平衡に近い領域では線形応答理論等の一般的な枠組が作られたが、平衡から遠ざかると一般論の建設は難しいのが現状である。しかしながら近年は非平衡から遠い系に対して、散逸構造、カオスやソリトン、果ては生物を視野に捉えた複雑系の研究まで対象が広がり爆発的な戦線の拡大を示している。

 

時間の不可逆性については後程にまた触れるとして、物理学史上でも屈指の興味深い論争が19世紀の末に起こった。この論争は原子が存在するか否かというものであった。この論争は一見すると矛盾した性格のものであり理解し難い側面がある。それは反原子論が19世紀も後半の80年代になってから盛んになったからである。言うまでもなく1880年代というのはメンデレーエフの周期律表の提出よりかなり後のことであり、化学の分野では原子の存在は疑うべき段階を過ぎていたのである。
反原子論の急先鋒は実証主義を標榜するマッハであり、エネルゲティークのヘルムやオストヴァルト等であり、他に熱力学の建設で活躍したデュエムもその著書の中で原子の存在を斥けている。

 

この反原子論の勃興の背景には19世紀中盤でのエネルギー概念の発展と熱力学の完成がある。またマクスウェルによる古典電磁気学の完成も大きな影響を与えた。いずれも18世紀迄の力学的自然観とは対照的に連続量をベースにおいた場の理論である。特に熱力学では現象論で閉じた理論体系が完成し、殆んど原子論(或は統計力学)は気体にしか適用できなかった当時に熱力学は状態変化、溶液論、化学平衡等汎用的な一般法則を論じる事を可能にしていた。また熱力学において時間の方向性は安定性を基に内在されており、可逆な力学法則からどうやって不可逆なものを導くのかという難しい問題を避ける事を可能であった。更に低温での比熱の問題(エネルギーが内部自由度に等しく分配されるという等分配則が破れていた)や完全剛体に基づく古典原子論に内在する論理的非整合性、はては放射能等の発見による不易な原子観の動揺,プランクによって解決される熱輻射の問題等、後に量子論等の考慮によって解決できる多くの問題が原子論に対する深刻な疑義を生み、反動的な保守勢力のみならず革新的な原子構造論の論客からも攻撃されることとなっていた。

 

このような背景の下で原子モデルを実証されていない単なる作業仮説として斥けて全ての自然現象は熱力学的観点から論じる事が可能であるとする熱力学一元論を展開しようとするのは理解できなくはないであろう。

 

20世紀に入ってこの閉塞した状況に変化が見られた。まずは記念碑的論文であるプランクの論文の登場である。既に前期に述べた通り、プランクはプランク定数と同時にボルツマン定数を導入した。ボルツマン定数そのものは気体定数 \(R\) とアボガドロ数 \(N_A\) との間に \(k=R/N_A\) という関係がある(というよりもボルツマンは以前より気体定数とアボガドロ数の比を用いていた)。実際にプランクの公式が実験と著しい一致を得た際に2つのフィッティング・パラメータとしてプランク定数とボルツマン定数(あるいはアボガドロ数)が決まってしまうことになった。実際、プランクが見積もったアボガドロ数は有効数字1桁で現在知られている数字と一致している。いずれにしてもプランクの量子仮説はミクロ領域に非連続な構造があることとそれに伴う2つの基本定数の導入をもたらした画期的なものであった。しかしながらプランクは輻射公式を扱っただけに、アボガドロ数が推定できるにせよ、分子の実在に関する決定的証拠とは受け入れられなかった。(またこの方法でアボガドロ数が普遍的な値を取る事を指摘したのはアインシュタインであり1905.3.18の事であった)。
ここで科学界の巨人、アインシュタインが登場する。アインシュタインのブラウン運動に関する理論は非平衡統計力学の魁をなすものであるが、ここでは後のペランの実験と合わせて、分子の実在に関する動かしがたい証拠を提出したという事を強調しよう。アインシュタインは従来、統計力学の対象とされていなかった溶液中で不規則な運動(ブラウン運動)をする粒子に着目した。ブラウン運動そのものは花粉等の運動でおなじみであろう。そうした馴染み深く目に見える現象で、実験の容易な現象と分子の実在を結びつけた点にアインシュタインの天才性を窺う事ができる。

 

アインシュタインはまず溶液中における溶質粒子の示す浸透圧の法則(ファント・ホッフ則:因みにファント・ホッフは初代のノーベル化学賞受賞者である。物理学賞はレントゲン)を用いた。この法則は理想気体の運動方程式と同じ形をしており諸君も化学の授業でならったかもしれない。この法則によると浸透圧は温度と数密度に比例し、その比例定数としてボルツマン定数が現れる。1個のブラウン粒子に働く力は圧力の勾配に比例することからその力を数密度と温度の関数として書き下す事が可能である。また流体力学によると遅い流れの中(或は粘性の高い流体中)に球が存在すると抵抗力は流れの速度、粒子の半径及び粘性率に比例することが知られていた。無論この法則は静止流体中で力を加えて動かしたときの粒子速度とその力の間の関係式と読み替える事も可能である。ブラウン粒子の流束(数密度と速度の積)を拡散流束即ち、密度勾配と拡散係数の積と等しく置くことによって拡散係数を求めることができる。その結果は

 

\[
D= RT/(N_A*6πηa)
\]

 

である。ここで \(T, η,a\) は温度、粘性率、粒子半径である。粘性率はよく知られているので拡散係数を測ればアボガドロ数 \(N_A\) が分かる事になる。

 

アイシュタインの論文は1905年から翌年にかけて出版された。この論文自体は特殊相対論や光電効果に比べると地味な印象もあるが、非平衡統計力学の礎を築いたという意味でも、分子の実在の問題の決定打となったという意味でも、その価値は他の2つの論文に劣らないものである。もっともこの論文の出版後すぐにアインシュタインの主張が受け入れられた訳ではなく、その解析の正当性を疑問視する声もあった。それというのもアインシュタインは様々なスケールで従来別々に成り立っていると思われた幾つかの法則を繋ぎ合わせて最終的な表式にたどりついたのである。一般に物理法則は適用限界があるので、アインシュタインの手品のような解析に疑問符がつくのももっともである。

 

こうした論争に終止符をつけたのがペランである。ペランはフランスの化学者であり、アインシュタインの理論に対応した実験を注意深く行い、アボガドロ数の同定に成功した(1908)。その結果は従来の他の方法で得られたものと変わらないものであるが、前期量子論の勃興期であることもあって、彼の実験は原子の実在を最終的に決定づけるものと受け取られた。彼は後にこの業績でノーベル賞を受けている(1926).ペランはまず、均質な球形のコロイド粒子を作ることから始め、ブラウン粒子にも流体力学の抵抗則が成り立つ事、気体と同様にエネルギー等分配則が成り立つ事、ブラウン粒子が(当時知られていた)拡散方程式に従う事、等を注意深く調べ、また少なくとも3種類の独立な方法でアボガドロ数を求める事に成功した。このペランの実験によって原子の実在に疑いを抱くものはいなくなり1909年にはオストワルドでさえ原子の実在を認める様になった。ここで長い論争に終止符が打たれた事になるが、その間、1906年に原子論の旗手であったボルツマンは最終的な勝利を見る事なく自らの手で命を絶っている。

 

実はアインシュタインは以上のよく知られた一つの方法のみを提出したのではなく、分子の実在に関する多種多様な実験方法を提案している。2つめの方法はアインシュタインの粘度式として知られている有効粘性の式を理論的に導いた。今日ではレオロジーの出発点となるこの式はコロイド等の溶液が溶質の存在によって粘性が上がる(粘り気を持つ)ことを定量的に示したものである。その式はサスペンションの体積分率 \(φ\) が小さい場合に有効粘性率が

 

\[
η=η_0(1+5φ/2)
\]

 

となるというものであった。但し \(η_0\) は純粋溶媒の粘性率である。この式が何故分子の実在論の証拠になるのか:それは体積分率が \(φ=N_A n V\) という式を満たすことと、有効粘性率が実験で容易に測れる事による。ここでVはコロイド粒子の体積、 \(n\) はコロイド粒子の数密度でまた容易に計測できる。従って実験によって容易にアボガドロ数 \(N_A\) を特定できる。実際、この方法で求めたアボガドロ数は当時の実験でも \(6.6 \times 10^{23}\) という実際の値に近いものであった。(尚、アインシュタインは計算間違いをおかし \(η=η_0(1+φ)\) としていたが、学生に検算をさせて間違いを訂正した)。

 

次の方法はプランクの輻射公式に基づくものである。既に述べたので繰り返さない。また1905.12の論文ではブラウン運動に基づく他の2つのアボガドロ数の推定方法も提出しており、また1907年には電圧揺らぎによって決定する方法を提出している。

 

またブラウン運動の解析の論文で、いわゆる酔歩(ランダムウォーク)の問題とブラウン運動を同定し、粒子の平均2乗変位が拡散係数の2倍と時間に比例することを指摘したのもアインシュタインである。この方法から実験で拡散係数を測る事ができ、その結果、アボガドロ数の算定も出来た。それに留まらずこの式は揺らぎと散逸の間を結ぶ揺動散逸定理の一種であり、非平衡統計力学の出発点かつ最も大事な関係式を与えた。

 

最後に臨界乳光の方法を紹介しよう。これはスモルコウスキーが1908年に気体中の密度揺らぎが

 

\[
δ^2=RT/(N_A V(-\mathrm{d}P/\mathrm{d}V))
\]

 

で与えられる事を示した。この式は臨界点 \((\mathrm{d}P/\mathrm{d}V=\mathrm{d}^2P/\mathrm{d}V^2=0)\) で揺らぎが発散することを意味し、その近傍で光の散乱が増加することを指摘したことになる。スモルコウスキーはレーレー散乱への補正が必要になるであろうと指摘をしたに留まったが、それを受けてアインシュタインは補正を計算し、アボガドロ数の算定がここでも可能になったのである(1910)。

 

このようにペランの実験に留まらず、様々な独立な方法でアボガドロ数の算定が可能になり、それがほぼ一致した結果を与えた事は分子の実在を疑う事の出来ないものとした。また同時にブラウン粒子に着目したことが原子、分子の不可視性に対してアンチテーゼとなり、分子論の受容へと拍車をかけたことは疑う余地はない。更に反原子論の論拠となった古典物理学と原子論の矛盾が、量子論の進展と共に次々と解決していった。こうした中でオストヴァルドは転向し、マッハのみが反原子論の孤塁を保った。しかし時代は原子構造を論じるのが主な話題になり、既に分子・原子の実在を議論するときは過ぎていた。

 

 


  1. マクスウェルは分子の速度分布は空間的に等方的であること及び、独立であることを仮定している。しかしマクスウェル自身が第2の仮定が強すぎる事に気がつき、1867年の論文では衝突過程の平衡からマクスウェル分布が導かれる事を示している。またこれらの2つの論文を通して分子の種類如何に関わらず、全ての分子は(自由度に比例する)同じ運動エネルギーを持つというエネルギー等分配則が存在することを明らかにした。
  2. ボルツマンは分子の速度およびエネルギーが離散的な値を取るとして状態数を計算し、然る後に連続極限を取って積分形でエントロピーを求めた。現在ではその離散のユニットがプランク定数と関係しており、連続極限を取る必要がないことが知られている。その意味でプランクがしたことをボルツマンがしておかしくなかった訳であり、そのことをプランクが最も認識していた。従ってボルツマンの墓碑としてプランクが \(S=k log W\) という最終的には自分が書き下した式を刻んだのは正しい選択であったと思われる。
  3. Pierre Mauriece Marie Duhem, 1861-1916. 相共存状態における圧力の温度依存性を示したGiibs-Duhemの公式で理系の学生にはお馴染み。プリゴジンが強く影響を受けて、彼の非平衡物理の定式化はDuhemの考え方に基礎をおいている。一方で彼はマッハ等と同様な実証主義者であり、科学理論は相対的なものであるという立場にたち原子論に厳しい批判を加えた。例えば1914年の著書物理理論の目的と構造(訳書:勁草書房1991)から彼の考えが窺える箇所を幾つが抜粋してみよう。
    (訳書p.91)力学的(機械論的)モデルの使用というものは展開せねばならない理論の特殊性を粗っぽいある種のアナロジーでもって連想させるものである。
    (p.92)イギリスではモデルをみることが理論を理解すること自体と混同されたままで終わる。
    (p.96)物質の究極的要素がもつ還元不可能な属性がいかなるものかをいかなる形而上学にも求めはしない。物質が連続的であるのか、それとも個別的要素から合成されるのか。物質の究極的要素の体積というものは不変であるのかそれとも変化しうるのか。一個の原子が及ぼす作用とはいかなる本性のものか。そうした作用は距離を隔たっても働くのか、それとも接触によって働くのか。
    (p.97)原子:無限大の堅さ、絶対的剛性、神的遠隔作用、不可分性という想定と結び付いている。

これらのデュエムの原子論に向けられた批判は当時としては答えられないが的確に原子論の欠点を指摘していた。当時、原子そのものを記述する物理学がなく神学的存在であると看破したことは爽快ですらある。もっともこの本の出版はペランの実験より5年以上遅れ、また既に時代は量子論によって原子の内部構造が盛んに議論され(1909にラザフォードの実験,1913のボーアの原子模型を思い出せ)たことを考えるといささか時代遅れであった。いずれにしても20世紀の初頭に原子論の持っていた致命的な欠点は量子論の発展と共に多くは解決されていった。

PAGE TOP