量子論入門(その1)

 

早川尚男(京都大学大学院人間・環境学研究科)

(物理学概論第回)

はじめに

 

物質は原子・分子から成り、分子・原子は原子核や電子等から成っており、それを支配する力学が量子論である。極微の支配方程式は19世紀に未知であった原子の世界に含まれる現象の豊富さと、古典論も含む一般性故に量子論は物理や化学の中心的な地位を占める。
量子論がプランクの量子仮説に端を発し、丁度100年の命脈を保つ。従って量子論の歴史は20世紀の歴史そのものと云ってよい。量子論がそれまでの相対論を含めた古典論と異なるのは数学的形式、物理的実在お呼びその観測事実の関係が古典系の場合程自明ではなく、微妙な問題を含んでいる事である。例えば数学的形式においてすら演算子と固有関数、固有値等が現われ複雑な様相を示す。例えば古典論においてはハミルトニアンとエネルギーの区別は曖昧であったがその両者は量子論では明確に区別される。一方、標準的な解釈において量子論で予言される波束を観測することで直ちに収縮する。従って観測者の存在によって結果が変わり得るという意味でまことにデリケートな問題である。そうするとある状態の物理的実在そのものが直観的に自明なものではなくなる。実在を指すのは観測をする前の波動関数の状態なのか、確率分布なのか等。

 

応用上の目覚しい成功にも関わらず、プランクから100年、ハイゼンベルグの量子力学(行列力学)の確立から75年を経た今でも量子力学の基礎をめぐる議論は絶える事はない。むしろますます盛んになっていると言っても過言ではないだろう。

 

量子論の設立過程そのものが相対論に比べて遥かに複雑かつゆっくりとしたものであった。相対論の場合はアインシュタイン一人によって提唱、完成されたといってもよいが、量子論では十指に余る人達が重要な貢献を果たしている。また量子力学そのものにも殆んど同時にハイゼンベルグの行列力学とシュレディンガーの波動力学が提唱されており、すぐ後にシュレディンガー自身の手によって両者の等価性は示されている。いずれにしても量子論の発展史そのものが量子論の理解の道筋であり、その概略を追う事が量子論の概略を掴むのに相応しいと考える。

 

量子論の発展史を1900年から30年に限定して考えてもその中では時代区分が存在する。第一は12年までの揺籃期とでも呼ぶ時代である。この時代ではプランクの量子仮説、アインシュタインの光電効果、ラザフォードの原子模型に引き続いてボーア模型の完成に至る。第2期は前期量子論と呼ばれる原子構造とスペクトル問題へのボーア・ゾンマーフェルト模型の成功と破綻の歴史である。これが1922年頃まで続く。そして23年頃からクライマックスとしての量子力学の発見である。その端緒を開いたのがド・ブロイの物質波という概念であり、またパウリの排他律の果たした役割も大きい。第4期はその後、ディラックによって相対論的量子力学が導入されハイゼンベルグとパウリによる場の量子論の導入までを指す。同時の数多くの教科書的な例題が解かれ、現在でもその価値を失わない基本的問題の多くが解決されている。1930年以降の発展はまた別の項として独立させた方がよかろう。

 

量子論前夜

物理学における古典的世界観がニュートンによって打ち立てられたというのは間違いない。しかし天才ニュートンをもってしても時代の制約は逃れる術はなく、ギリシア時代に素朴な原子論があったにせよニュートン力学によって原子というものを記述するのは始めからその適用範囲を逸脱していると言わざるを得ない。しかしながらニュートン力学が天体力学から日常スケールまでの殆んど全ての現象に成功をおさめたことがその普遍性への過度の期待となってしまったのであろう。

 

19世紀の末あたりは物理の世界において原子論と反原子論が激しい論戦をくりひろげていた。この事は化学の世界ではドルトン等の研究によってとうに原子あるいは分子が実態をもったものとして捉えられていた事を考えると一見奇妙な状況であったと言える。1890年代に盛んであった反原子論は熱力学の著しい成功に起因していたのは間違いないが、その背景はいささか複雑であるように思われる。原子の実在をめぐる議論は改めて論じたい。

 

しかしながら1895年にレントゲンによるX線の発見、または1897年のJ.J.トムソンによる電子の発見は古典的に安定な物理像をゆさぶるに足るものであった。特に陰極線から発見された電子は原子より小さなもの、すなわち原子の構成要素であるという認識は電子の発見のときからあり反原子論は旗色が悪くなっていった。トムソンは電子を古典的な荷電粒子と考えた。その理由は電場や磁場をかけたときの電子の動きがほぼニュートンの運動方程式に従うこと、常に電荷と質量の比である比電荷が一定であること、空気中での電子線の平均自由行程が長いことなのである。特に静電場による電子線の屈曲実験は高校の物理でも大きく取り上げられる(少なくとも私が高校時代は)程、粒子説の根拠となった。(逆に言えばエーテルの振動であるという説がペラン等によって唱えられていた)。また比電荷が水素イオンに比べて3桁も大きい(あるいは質量/電荷が小さい)は(最初はそうではなかったが)電子質量が水素イオンに比べずっと小さいと考えざるを得なくなった。また1896年にはゼーマンがナトリウム炎からのD線を回折格子で調べ、電磁石の間においた場合に通常の場合よりも線幅が広がることを見出している。勿論、後年ゼーマン効果として知られるようになるこの現象は電子にスピンという自由度があり、通常縮退しているものが磁場の影響でエネルギー準位が分裂することに起因している。

 

興味深いことは古典電子論自体は1892年にいわゆるローレンツ力の導入とともにローレンツによって提唱され、その電磁気学への組込み自体は1895年に完了している。マクスウェルによって完成されたとされる電磁気学は場の方程式と荷電粒子の運動学が混在した形になっており、ヘビサイド等によって場の方程式が整備されるにつれて古典的な荷電粒子の運動学が必要となっていたのである。勿論、電荷が正であるか負であるかなどは問われていなかったがJ.J.トムソンの発見がすんなりと受け入れられた背景には古典電子論の存在がありむしろ必然であったのである。このこと自体は反原子論には致命傷にはなっていない。何故なら古典電子論で議論されていたのは自由電子であり束縛電子ではないからである。

 

世間一般で驚きをもって迎えられたのはむしろX線の発見(1895)である。現在でも医療に使われレントゲンという固有名詞を冠されているのであるからその有用性とインパクト(透過技術はなかった)は想像に難くない。この種の新種の放射線はどこにあるのか多くの人が研究に乗り出した。その中でもベクレルがウランからベクレル線を発見した(1896)ことは後から考えるとX線の発見以上に重要であったが、当時はあまり注目を集めなかった。X線は電磁波に過ぎなかったが、ベクレルは放射能を発見したのである。

 

ベクレルの2年後にキュリー夫妻が登場する。(余談であるがキュリー夫人が知っている物理学者の中に挙がって来ないのは何故であろうか?)もっとも一般の人には夫のピエールは馬車にひかれて死んだという印象程度しかないかもしれないが、理論家としてはマリーよりもずっと上手であった。例えば初期の結晶の対称性に関する研究を通して群論を初めて物理に応用したり軸性、極性のベクトルを区別したりしている。またペエゾ電流の研究や磁性に関する研究も有名である。何はともあれ夫妻は協力してウラン化合物からの放射能はウランの含有量のみに依存することを見出し、またトリウムも同様の性質を示すことをまずは発見した。そしてこれらを特徴づける言葉として放射能という言葉を提唱した。また天然鉱石の放射能を調べることでポロニウムという新物質を発見した。この物質の放射能はウランの数百万倍にも及ぶのである。更にバリウム族の中からラジウムを抽出、発見したことは伝記等でよくご存知の事と思う。放射能の発見は当時の素朴な原子論の常識を覆し、原子にも寿命があることを教えたという意味で20世紀の物理の中で重要な役割を果たす。

 

ついで登場するのがラザフォードである。ラザフォードは優れた物理学者であったが同時に優れた組織管理者でもあった。ラザフォード学派から10名を遥かに越すノーベル賞受賞者が出たことからもそのことはよく分かる。ラザフォードは最初は鉄の磁性の研究をしていたがX線の発見に触発されてウランの放射能を調べ、α線、β線を発見した。(因みにγ線はヴィラールによって発見されている)。言うまでもなくα、β、γ線は今日ではヘリウム原子核、電子、X線より波長の短い電磁波であると同定されている。(実際にそのことを解明したのは殆んどラザフォード自身の手によっている。β線は発見(1899)後、ほどなく、α線は1908年にロイドとともに同定した。またγ線と電磁波との同定は1914年に行われている)。彼はα、β、γ線等の化学的性質の研究によってノーベル化学賞を1908年に受賞しているが、その最も有名かつ重要な仕事は1911年に行われた金属箔によるα線の大角度散乱の実験である。その実験結果は今日ラザフォード散乱の式として知られる式によって解析され、原子が \(10^{-13}\) cm程度の局在した陽電荷を持った核を持つことを実証した。この実験によって原子核のまわりに電子がまわっているという今日の我々のイメージが形作られる元になった。(因みに当時、電子の発見者であるJ.J.トムソンの西瓜モデル(果肉のように陽電荷が一様に分布しており種のような電子が存在する)が一般的であり、長岡半太郎が1904年に提唱していた土星型の原子模型は安定性の観点からあまり注目されなかった。)

 

量子論揺籃期(プランク、アインシュタイン、ボーア)

 

さて量子論の誕生ははじめに述べたようにプランクの量子論からであり、それらは放射能とも電子とも関係なく、熱力学と深く関わった輻射の問題であった。固体を熱して温度を上げていくと赤熱し、更に高温になると白熱化する。こうした問題は溶鉱炉の中でも観測でき、温度と輻射量の関係は当時急速に発展していった鉄鋼等の工業でも関心をもたれる重要な問題であった。
実際の炉の中では複雑すぎて物理の問題設定としては不適切であるが、断熱壁で囲まれた空洞(黒体)中の輻射では熱平衡状態が実現でき、キルヒホッフがエネルギー密度が温度と輻射の振動数のみで決まることを見出した(1859)。ところがこの問題に当時知られていた古典統計力学の法則を適用するとおかしな発散が生じる。光は波なので定常状態では三角関数で書け、調和振動子の集まりと考えられる。古典統計力学によれば1自由度あたり \(k T\) ( \(k\):ボルツマン定数、 \(T\):温度)という等分配則が成り立っている。3次元空間(運動量の3次元自由度が重要)では振動数 \(ν\) と \(ν+\mathrm{d}ν\) の間に含まれるエネルギー密度は \(ν^2\) に比例するのでエネルギー密度は \(ν^2T\) に比例することになる。この結果はレーリー(1900)とジーンズ(1905)によって導かれたが振動数の小さいところで実験結果と合わないばかりか、全振動数で積分すると発散する。一方でそれより前(1896)にヴィーンは等分配則は成り立たず、そのかわりに重率としてボルツマン因子を持ってくるとよいとしたヴィーンの公式を発表している。このボルツマン因子の根拠は分子から放出される輻射は分子速度で決まり、分子の速度分布がボルツマン分布に従うことに依っている。ヴィーンの式は当初、実験とよく合う式として歓迎されたが、やがて長波側での実験とのずれが導出過程の曖昧さとともに問題視されるようになっていた。

 

プランクの作用量子仮説、すなわち量子論は結果だけみると上記の2つの式を内挿した形になっている。実はこの記念碑的論文でプランクは2つの重要な定数を導入している。1つはいうまでもなくプランク定数 \(h\)で \(h=6.6×10^{-34}\) J secとい う基本定数となっている。もう一つはボルツマン定数であり \(k=1.4×10^{-23}\) J/K である。ちなみにボルツマンは常に気体定数とアボガドロ数の比を用いており、 \(k\) は用いていなかった。蛇足ながらウィーンのボルツマンの墓に刻まれている不朽の式 \(S=k \log W\) もプランクが刻んだ式である。ボルツマンは実質的に同じところまで到達していたが複雑な積分形に留まっていたのである。(彼は講演上手とされているが必ずしも簡潔な形に論文を書いていない。その辺りの事情も反原子論者との論争になった事情があるのであろう)。いずれにしても一見簡単そうな内挿式でありながら2つの極めて重要な基本定数を一挙に導入しただけでなく、光速も含み、輻射と物質、分子とマクロ、量子の世界の3者を仲立ちする革命的な内容を含んでいたのである。勿論、プランク自身はその重要性を充分把握しており、むしろ内挿公式を提出してから後に様々な意味づけを試みている。ここでプランクの分布をあからさまに書くと平均エネルギー \(U\) が

 

\[
U= hν/(exp(hν/kT)-1)
\]

 

というものである。ここで小さいながらの有限の \(h\) をもつということは、エネルギーに最小単位(エネルギー量子)が存在し、それが \(hν\) であることを意味する。 \(hν/k \) が充分小さい極限で古典的な結果を回復するということは古典的な世界では量子論的な離散性はたまたま見えないだけであり、単なるパラメータではないのである。プランクは当初、電磁気学を基にして熱力学第2法則を基礎づけようとしたが失敗し、むしろ熱力学第2法則を基にして輻射公式を導いている。このあたりの事情にも興味深いものがある。

 

さてプランクの量子の発見は時代に先んじたものであるが故になかなか世間の注目を集めるに至らなかった。プランク自身もプランク定数よりもボルツマン定数の重要性を強調したため、その革新性も伝わらなかったようである。プランクの結果の重要性を認識し、更に考察を押し進めたのは他ならぬアインシュタインであった。彼は光電効果と呼ばれる現象(1887年にヘルツによって発見されていた)の説明を通して光の粒子性を鮮やかに抽出した。光電効果とは波長の短い光を金属にあてた際に表面が正に帯電する現象であり、光によって電子が飛び出す現象と考えられる。その現象の精密な測定によると

 

  1. 飛び出して来る電子の数は光の強さに比例する。
  2. 飛び出す電子の最大速度は光の強さにはよらず、波長(振動数)のみで決まる。

という性質が明らかになった。特に2では電子質量 \(m\) 、速度 \(v\) に対して
\[
mv^2/2=hν-W
\]

 

という式の成立を示唆していた( \(W\) は仕事関数)。この式をそのまま解釈すれば光量子からエネルギーを電子が受け取っているという解釈が可能である。定数 \(W\) は電子は通常束縛されているので外に出るために必要な仕事である。この式の意味するところは電子一個に光子一個が対応しておりニュートンの提唱以来文豪ゲーテを除いて支持のなかった光の粒子説を復活させたことになる。

 

当時はローレンツの古典電子論を見ればわかる通り、電磁場が波として伝播し、その中に電子等の物質が存在し、それぞれの支配方程式は異なるという二元論が主流であった。しかしながらアインシュタインは原子と光の相互作用によって光の生成、消滅があるような場合には原理的な困難があると考え、その一例を光電効果に求めたのである。いずれにしても同時代の他の人とは全く異なった考え方をしていたのはアインシュタインならではであろう。しかしながら光の干渉等の波動的性質の説明には単純な粒子描像では歯が立たず、また折角電磁気学によって統一された静電場と光の間がまた分断されてしまうなどの混乱も多々あった。尚、アインシュタインはその後、量子論を固体物理に初めて応用し、比熱の低温での振舞いをある程度説明することに成功し、ここでも等分配則の破れを明示した。

 

アインシュタインの指摘するように光が粒子として振舞うのであれば運動量も持たないとおかしい。相対論によればエネルギーは運動量 \(p\) と静止質量 \(m_0\) ,光速 \(c\) を用いると \(E=c(m_0^2c^2+p^2)^{1/2}\) と表される。既に静止エネルギーが充分大きいときには古典的な質点のエネルギー、運動量に帰着することを見ている。一方、光のように質量がない場合には運動量はp=E/cとなることになる。即ち光子は

 

\[
p=hν/c=h/λ
\]

 

という運動量を持つことになる。

 

このことを利用すると静止電子に光をあてたときの衝突前後の振舞いを質点力学によって説明することが可能になる。例えばその場合の光の波長の変化は散乱角と波長の次元を持った \(h/mc\) (但し\(m\) は電子質量)で決まることが導かれる。この現象はコンプトンによって1922年にX線をパラフィンにぶつける実験を通して確認された。現在ではこの現象コンプトン効果と呼んでいる。

 

時間的には光電効果の後にラザフォードの実験があって、原子構造が明らかになった。ところが古典力学によると原子核のまわりを電子が回っているという原子モデルでは不安定であることが容易に分かる。孤立した水素原子を考えても回転運動をする電子は輻射を出し、エネルギーを失うのでたちまち原子核に吸い込まれる。また多体相互作用で何かの拍子にエネルギーが負になってしまったら(電子の静電ポテンシャルは負なのでそういうこともある)、原子は潰れてしまう。むしろエネルギーが不連続な値しか取れず、最低の準位の下の状態はないと考えたら都合がよいというのは誰もが考えるであろう。何故最低準位があるかなどの諸々の疑問を当面棚上げにしてボーアが単純なモデル解析をして、当時知られていた水素原子の輝線スペクトルの説明に成功した。

 

当時水素の輝線スペクトルには詳しい研究が存在し、その振動数は

 

\[
ν_{nk}/c=R(1/n^2-1/k^2) (n,k:整数)
\]

 

と表される事が分かっていた。(但し当時は \(n=2\) のバルマー系列のみが知られており、 \(n=1,3,4\) のライマン、パッシェン、ブラケットの系列はその後発見された。また当時は波長の関係式となっていた)。ここで \(R\) はリュードベリ定数で \(1.097×10^5 \mbox{cm}^{-1}\) であった。原子のエネルギーが離散的であって、光量子が運ぶエネルギーが \(hν_{nk}\) とするとそれは可能なエネルギーの差 \(E_k-E_n\) と等しい筈である。従って上の式で \(m \to \infty\) で \(E_m=0\) となるようにすると \(E_n=-h R c/n^2\) となることが直ちに分かる。こうやって考えると一つのエネルギー準位が分かれば問題は完全に解決されることになる。

 

ボーアはここで古典力学との対応原理を用いた。まず対応原理は \(n,k\) がその両者の差に比べて充分大きな場合はエネルギーの不連続性は無視できるという事を利用する。この場合上の式で \(ν=ν_{nk}\) は \(2Rc (k-n)/n^3\) で近似できる。特に \(k-n=1\) の場合は \(ν=2Rc/n^3\) となる。この式を \(E_n=-h R c/n^2\) に代入するとケプラーの第3法則に似た \(E_n^3=-R c h^3ν^2/4\) という式が得られる。一方、CGS単位を用いると水素の電子が感じるクーロン力は \(me^2/r^2\) である。一方、遠心力は \(m r (2πν)^2\) である。この2つをバランスさせると電子の運動エネルギー \(m (2πν r)^2/2\) はポテンシャルエネルギー \(e^2/r\) の半分になり全エネルギーは \(E=-e^2/(2r) \) となる。この式に先に古典対応で得られた式を代入することで

 

\[
E_n^3=-e^4 m(πν)^2/2 : R=2π^2m e^4/(ch^3)=1.097×10^{5} \mbox{cm}^{-1}
\]

 

を得る。この量子仮説によってリュードベリ定数を説明することが出来たことになる。更に

 

\[
E=-me^4/2l^2 : l=mr^2ω=nh/(2π)
\]

 

と書き換えることが可能になり水素原子の量子化条件が導かれたことになる。

 

3次元空間でありながら一つの量子数 \(n\) のみで記述できるのは奇妙な事であるが、やがて円軌道を楕円軌道に拡張することで方位量子数、磁気量子数等が導入されている。これらの理論展開は主にゾンマーフェルト等によってなされ、角運動量の量子化の重要性がエネルギーのそれと並んで認識されるようになっていった。こうやって発展していった量子論を前期量子論と呼びハイゼンベルク以降の量子力学とは一線を画している。前期量子論ではゼーマン効果をはじめ多くの実験事実を説明し、またアインシュタインの理論(1916,7)によって準位間の遷移確率の重要性の指摘と誘導輻射、自発輻射の量子論の提唱があり、前者がない場合にはプランクの結果を再現することなどが明らかになっていった。

 

ボーア・ゾンマーフェルト理論はかなりの成功を収めてきたが、同時にその限界も徐々に明らかになっていった。その困難の第一はまずボーアの量子化条件を一般化したゾンマーフェルトの量子化条件は低い量子数のところでしばしば実験と食い違うことが指摘された。第2に量子化条件は変数分離が可能な周期的な運動のみに与えられているが、そうでない数多くの問題(例えばヘリウム内の運動が当時問題になっていた)には定式化できない。また束縛状態ばかりでなく散乱問題等のような無限遠まで電子が飛び去るような問題には手も足もでない。特に重要なのは前期量子論が既に触れた光の粒子性と波動性の矛盾に対して何も答えることは出来なかったのである。そもそも何故とびとびのエネルギー準位を取り得るのか、何故それが安定に保たれるのか、古典力学を使って良いのかどうかもはっきりしない。その意味で前期量子論は過渡的な性質を持っていたと言わざるを得ない。

 

 

 

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