間奏曲-ソーカル事件と「知の欺瞞」
早川尚男(京都大学大学院人間・環境学研究科)
(物理学概論第8回)
ニューヨーク大学物理教授のアラン・ソーカル(Alan Sokal)が(私から見ると質の悪い)悪戯を思い付き、実行したのは1996年の春の事であった。ソーシャルテキストという雑誌に「境界線を侵犯すること——量子引力の変形解釈学へ向けて——」という論文を投稿した。この雑誌はカルチュラル・スダディーズという近年流行している分野の代表的雑誌の一つと目されており、あろうことかその論文はポスト・モダンと呼ばれる哲学分野の最も有名な何人かが寄稿している(それも後述のサイエンスウォーズの)特集号に掲載されてしまった。何故あろうことか、と言えば、この論文はパロディ論文であり、ソーカル自身の言葉を借りれば
この論文の一番笑えるところを書いたのは、私ではないのだ。もっともおもしろいところは、ポストモダンの大家の文章のそのままの引用であり、私はそれらに嘘の賛辞を浴びせたのだ。実のところ、この論文の骨格は、フランスやアメリカの名高い知識人が数学や物理(及び数学や物理に関する哲学)について書いたものの中で、私がみつけた限りでは、最高に馬鹿馬鹿しいものの引用でできあがっている。私がやったのは、これらの引用を結びつけ褒め讃えるための無意味な議論をねつ造することだけだった。(ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと(What the Social Text Affair Does and Does Not Prove)翻訳:田崎晴明:以下WSTADDNPとする。)
というものであった。ソーカルはポスト・モダンと呼ばれる学問分野で科学関係の新概念を無意味かつ無理解な引用が横行することに危惧を覚えて、逆に自分自身でパロディを作ってそれを排除できるシステムがあるかどうかを試してみたのである。
数週間後、別の雑誌誌上でA・ソーカル本人が驚くべき告白をした。『ソーシャル・テキスト』に受け入れられた彼の論文はカルチュラル・スタディーズ系の学者の言説のパロディのパッチワークに過ぎない事を告白した。当然の如く、からかわれた当事者たちは反撃に出たが、控え目に言っても今まで有効な反撃をなし得ていないだろう。
更にとどめを刺すべく、ソーカルは友人の数理物理学者であるブリクモント(Jean Bricmont)と一緒に「知の欺瞞」を出版した(訳書名は「知」の欺瞞だが、以下では知の欺瞞とする)。この本は最初、フランス語で出版され(1997年10月)、その後、英語に翻訳され、遂に日本語への翻訳も完了した。そこではフランスの権威ある知識人たちが如何に科学に無理解でばかげた引用を行っているのかを詳細に記している。そこで批判されているのは彼らの
私が「馬鹿馬鹿しい」というのは、正確にはどういうことだろうか?ごく大ざっぱに二つの範疇に分類してみよう。一つ目は、無意味な主張や馬鹿げた意見、知ったかぶり、まがい物の教養をひけらかすことなどである。二つ目は、ずさんなものの考え方(sloppy thinking)と薄っぺらい哲学で、これら二つが軽薄な相対主義の形をとって同時に現れることが(いつもではないが)実に多い。(WSTADDNP)
という側面である。
ソーカル事件と「知の欺瞞」についての詳細を知るには
- 田崎晴明(学習院大物理:知の欺瞞の翻訳者の一人)のページ
- 黒木 玄(東北大数学)によるリンク集
- アラン・ソーカル自身のページ
が参考になる。おそらく事件の全容が明らかになるであろう。
「知の欺瞞」を読めば、多くの人が反論不能として彼らの主張を受け入れざるを得ないであろう。ポスト・モダンの知識人はおそらくその恥を雪ぐ機会は永久に訪れない、と思わせるに足る注意深い論考を行っている。また彼らの主張である
- 自分で分かっている事をできるだけ平易な言葉で語るべし。
- 人文科学の分野では自然科学の猿真似や過度の比喩に頼るべきではない。
- 曖昧で不明瞭な論を張るべきではない。
等といった事は当然の主張である。(世間一般の疑似科学や無意味に晦渋な論に対するパロディは痴の偽呆にある)。要は「知ったかぶりをしない」という子供向けの教訓以上の事を言っていない。ポスト・モダン知識人による新科学哲学やソーシャル・スタディーズは実質はともかくとして、その発表の仕方はまさにその反対を志向しており批判されるに足るものである。
同時にこれらの心がけは受講生である諸君にとっても重要である。相対論を最初に学習したのはその神秘性とそれに伴う多くの誤解を解くためである。文系の諸君が、現代物理学の一端に触れて、それを拡大解釈と共に誤用することは避けなければならない。またそういうことを言っている文化人や大学教授、科学者を警戒する必要がある。このように至極まっとうな事をこの「知の欺瞞」は語っており、文系の諸君は必読の書と言っても差し支えないだろう。
それにも拘らず、筆者(早川)の読後感は不快であった。第1にソーカルの悪戯自体が相互信頼のもとに成り立っている学問分野全体を踏みにじる行為である。例えば物理学の論文であっても、最近の様にレター誌が重視されるようになると、理論の計算の詳細は書いていない事が多く、実験にしてもデータが載っているだけである。そうすればデータの捏造等にどう対抗できるかという事は自明ではない。こうした不正行為を排除するシステムがないことが欠陥とするならば、科学は何もその正統性を誇る事はできない。多くの不正行為に基づいた科学論文は実在するし、過去においては政治的運動と絡んで人の生き死にに関わる悲惨な事件(例えばルィセンコ事件を思い出せ)もあった(これらの不正科学は「背信の科学者たち」にまとめられている)。実際には科学の方がその影響は深刻とも言える。そうした事実を踏まえると、ソーカルの行為は科学者の良心を踏みにじった行為と私には映る。従って、どうしても生理的嫌悪感を禁じ得ない。以下では少し冷静さを欠くソーカル批判になっている。
そもそもソーカルは
パロディー論文が出版されたという事実だけからは、大したことはわからないと私は考えている。それによって、カルチュラル・スタディーズ、あるいは、科学のカルチュラル・スタディーズという分野全体が無意味だとか、まして科学社会学に意味がないといったことが示されるわけではない。また、これらの分野での知的水準が一般的にいって厳しさを欠くことが示されるわけでもない。(実際にそうなのかもしれないが、それを示すためには別の根拠を持ち出さなくてはならない。)やや風変わりなたった一つの雑誌の編集者が、その知的な義務を怠ったことが示されるだけなのだ。(WSTADDN)
と語っているが、「知の欺瞞」では明らかに対社会的な影響を意識し、ポスト・モダンと呼ばれる分野の失点を集めて披瀝している。そもそもロス等が声高に掲げるサイエンスウォーズに対する極めて政治的な行為と捉えるべきである。この点は知の欺瞞のエピローグで「政治的要素」(pp.261-271),「なぜ問題なのか?」という章(pp.271-276)に詳しく正直に書いてある。そこではポストモダニズム全体の三つの弊害が
- 人間科学の時間の浪費。概念的に混乱した中から何も生み出さない袋小路状態にあるポストモダニズムが否定し難い影響力を持つ事。
- 蒙昧主義を生み出す文化的混乱。つまり明快な思考と明晰な書き方の放棄による教育文化への悪影響。
- 政治的左派の弱体化。政治的左派を自認する著者等が被る不利益。例えば言葉を重視し、気取った専門用語を多用することで知識人を不毛な論争に囲い込むこと、と混乱した言説が左派全体の信用を失わせる事。また主観主義によって社会批評が強く伝わらない事。
等と明白に記されており、特に第2点目は文句のつけようがない。(第3点目は余り興味がない。むしろソーカル自身の個人的な問題に思われる。また第1点についてはおそらくそうであるが、そうでない可能性もあることを後述する。)これらの事自体は彼らの個人的見解としては問題ない。だとするとソーカルの先の言説は何であるのか。単にソーシャルテクスト誌の編集者の無能ぶりを嘲ったのではない事は明白であり、ここに彼の2つめの嘘(1つめは匿名のパロディ論文を投稿したこと)がある。何故、彼らはそんなに不正直なのか。最初から知の欺瞞を出版していれば、このような不快感はなかった筈である。
また著者等のポスト・モダン知識人の言説に対する引用や攻撃のスタイルは一貫していないように思われる。実際、「知の欺瞞」に関して
ニュートンの著作の90%が錬金術や神秘主義を扱ったものだといわれているにもかかわらず、それ以外の仕事が「経験に基づいた合理的な議論にしっかり支えられているから、今日でも色褪せていない」(知の欺瞞p.10)
としているにも拘らず、有名人の挙げ足取りに終始している。逆に言えば、こうした攻撃ではポスト・モダン側の上記そっくりそのままの反論が可能になる。つまり(私は信じないが)ポスト・モダン側に仮に普遍的でかつ意味のある内容があったとすれば、彼らの比喩や表現が不適切であったとしてもソーカル等の批判はまさに無意味であるという事になる。そう考えると、些少な無意味な言説を集積して批判する(嘲る)という彼らの戦略にはいささか問題があったと思われる。また有名人だから批判するに足るという態度も権威主義的である。そもそもポストモダニズムにおいて科学が手頃な標的になったのは手頃な権威であったからである(知の欺瞞pp.267-269)。そう考えるとポストモダニズムが目に余るとしても著者らが単に有名であるからとして批判するのは当たらないのでないかと思わざるを得ない。(おそらくはこの点に関しては著者らの反論が最初に用意してあるが、筆者にはピンとこない)。
確かに彼らに対する批判「(ちんけな)教師」というのは(ちんけな)を除いて当たっている。ポストモダンの哲学か文学か分からない分野が彼らが力説すればするほど批判に値しない分野に見える。そもそも物理学はもっと影響力があった分野ではなかったのか。仮に流行の思想家として彼らが必要以上にもてはやされたとしても学問の王たる者は、そんな小物には一瞥をくれてやる必要すらないのではないか。或は注意を与えるとしても普通に本を書けば良く、何も人格に強い疑義を持たせる様な悪戯までしてすべき批判なのかという事はどうしても理解できない。物理学の斜陽化の中で、いい加減な社会科学の一分野がはやっていることに我慢できずにこうした事件を引き起こしてしまったという佐藤文隆氏の評(物理学の世紀)は当たっていると感じざるを得ない。
読み物としては退屈な本の部類に入るであろう。これは彼らの論調が単調だからである。その意味ではソーカルのパロディ論文と「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」に尽きているという感がある。そうしたら悪戯を取ったらそれほどの新味はない。もしその新味をつけるための悪戯であるとしたら、これ程質の悪いものはないであろう。
ソーカルとブリクモントは博識には感嘆させられたが、同時に平和な時代に制約されているという印象を禁じ得ない。彼らは経験事実の重要性を指摘する(知の欺瞞pp.252-253等)。無論、多くの場合は彼らの言っている事は正しいが、経験事実が全く意味をなさない革命期もある。物理学においては20世紀の前半の30年はまさにそれで、素粒子論では70年近くまで革命が続いていたと言える。もし、そうした革命の唯中にあれば経験事実は殆んど無意味である。例えば相対論的な現象が人知を越えているとしてもそれは日常のスケールを外挿した結果である。坂田昌一は「経験主義と歴史の忘却」を最も戒めていたが、まさにソーカルとブリクモントはその逆を行っている。
また彼らが物理学や数学を完成度を誇らしげに強調することはかえって彼らは物理科学の形成時に存在する矛盾だらけの状態を決して受容できないのではないかと邪推してしまう。逆に言えば、真に独創的な研究をしてきた人物は結構きわどい事も受容している。実際、湯川秀樹はまことに鷹揚に人文科学の人と交わっていたし、湯川の○とか素領域といった実を結ばなかった研究は怪しい内容を含んでいた。ボーアやハイゼンベルクにしても哲学めいたことを語っており、事ある毎に、量子論の限界を主張し、ハイゼンベルクは最後には宇宙方程式という万物を支配する?方程式を提出している。アインシュタインにしても統一場の研究は実を結ばなかったし、量子力学に関しては反主流の立場を貫いた。独創が枠をはみ出る事によってもたらさられるのであればこうした自分に対する逸脱だけでなく、他者に対しても鷹揚であると思う。同時に革命の最中にはよく分からない哲学もどきが流行する。坂田や武谷が哲学的側面を強調し、その用語の濫用が見られたのも、ボーア等の相補性原理が神秘性を帯びていたのもその例である。しかし、おそらくは自分自身を信じさせるためにこうした言動を繰り返していたので、彼ら言う事を鵜呑みにすれば危険であるのは言うまでもない。しかし曖昧模糊とした状態を表現しようとする革命の産婆までも彼らは否定しようとするのであろうか。また決して明瞭でない言説が乱れ飛ぶ事は革命時にはしばしば起こる事であり、彼らのポストモダニズムに対する「袋小路に入った状態」という評が当たっているのか判定できなくなる。
こうした印象は彼らがプリゴジンとスタンジェールの「確実性の終焉」(みすず)に対する批判にも通じる。確かにこの本は間違った事をずさんな論理で語っている様に思え、読者は書いてある事を真に受けてはいけない。しかし一つのアジテーションとして学生がこうした分野に興味を持つのであればその目的を果たしているのではないか、と思う。実際、私が非線形分野に惹かれる様になったのはプリゴジンの荒唐無稽な話(存在と時間)に魅了されたからという事を告白せざるを得ない。そもそも毒がない本はつまらないのである。
知の欺瞞ではポストモダニズムの論理的な破綻を指摘しようとしているが、そもそも物理学が決して論理的な学問ではないという事を忘却しているのではなかろうか。例えばファインマンはファインマンルールの正しさを証明できずに使っていて、シュウィンガー流の計算では1日かかる計算を30分で実行できた。またボーアはその原子模型で当時知られていた物理法則を無視して電子が定められた軌道上を動くとした。ゲルマンやツバイクは当時あり得ないとされた分数電荷を持ち込み、更に統計則を無視してクォークを導入した、等枚挙に暇がない。彼らからすると坂田昌一のような人物は許しがたい事になってしまいそうである。こうした歴史の忘却は単に過去に対するロマンチズムへの決別なのだろか。いずれにしても彼らの意図とは無関係に、彼らの行為一つ一つへの嫌悪感から反科学という大きな動きを加速してしまった側面も否定できないだろう。
- 近年流行の科学論の一つであり、科学が真実の探求によって進展するのではなく、社会的な要請に従って相対的に発展していくとしたもの。新科学哲学や相対主義科学史観と関係する。特にこの分野での認識は最近の科学研究の主流は、専門分野ごとに縦割りにされた科学者共同体がもっぱら学術的な関心や規範に基づいて自律的に行う「モード1」から、制度的枠組みを超えたコンテクストで行われる専門分野横断型の社会的プロジェクトとしての科学研究の「モード2」にシフトしつつあること。従って対社会的な側面を重視せざるを得ない事等を強調する。より詳しくは野家啓一の説明を見る事。
- ポスト・モダン物理というものを南部陽一郎氏が語っている。(素粒子論研究81(1990年6月号pp.122-150).そこでも質問があって「ポストモダン哲学というのは今から50年も前にやられたことを継ぎはぎにして形だけ変えて、中身は全然新しくないものがどんどんできてきたと思う。それがもしポスト・モダンの物理学になるとどうなるのでしょうか」と質問を受けている。南部さんの答えからはイメージでネーミングをしただけというのが窺えるが、むしろ危惧すべきはその後に起こった物理学の現象はまさにポスト・モダンであったのではないかといことである(ここで言っているのは複雑系批判です)。
- 彼はむしろ、米国の左翼がポストモダン的相対主義に誘惑されるあまり、自らの思想的起源であるはずの「啓蒙」の精神を裏切っていると考え、そのことに苛立ったからこそ、警鐘を鳴らすべく、意図的に「事件」を起こした,ということが「知の欺瞞」に書かれている。
- Andrew Ross は Science Backlash on Technoskeptics: `Culture Wars’ Spill Over (The Nation 261 (10), October 2, 1995, pp.346-350) にお いて “Science Wars” を次のように説明している:
Seeking explanations for their loss of standing in the public eye and the decline in funding from the public purse, conservatives in science have joined the backlash against the (new) usual suspects – pinkos, feminists and multiculturalists of all stripes. (科学における保守主義者達は、社会の注目における評判の失墜と公的予算からの資金供給の減少の理由を捜し求め、(新しい)いつもの容疑者達——左翼がかった人達とフェミニスト達とあらゆる種類の多元文化主義者達——に対する反動に結集したのである。)
これは黒木氏の掲示板の記事(サイエンス・ウォーズ・キャンペーンとは何か)より借用。
- ブリクモントはボーア等によって唱えられた標準的なコペンハーゲン解釈にも批判を加えているが、それは偶然なのだろうか。