甲骨走馬燈歌仙

 

研究課題
日本のメディアアートを学ぶ学生は、以下の寺田寅彦の連句雑俎におおいに触発され、目覚めてほしい。 漢字の表意性は、一種の脳内イメージであり、その象形性は東洋文化と西欧文化を結合し、世界を文化的につなぐ可能性を持っている。

まず連句作成における余情を、漢字の表意性を使ってメディエーションする研究を行う。 連句を作成し、歌の余情を句で使用した漢字で表現する。 漢字→甲骨→絵の一連のつながりで句をメディア化し、 ゾートロープアニメーションとしてまとめること。 *発句のみ、松尾芭蕉を使用する。

寺田寅彦随筆集:連句雑俎より
近代のモンタージュ映画は次第に音楽的、連句的の方面に進展しているように見える。たとえば最近に見たソビエト映画の「春」のごときもそうである。特にこれには「季題感」が背景として動いているところに俳諧的な感じが強い。そうして、律動的旋律的和声的(かせいてき)の進行を企図している点も実に連句的である。ただこの「春」と「炭俵」「猿蓑(さるみの)」等の中の歌仙とを対比して見ると、私はいかに前者がまだ幼稚で、いかに後者が洗練されているかに驚嘆するものである。それにかかわらず、わが国の映画界や多数の映画研究者・映画批評家はいたずらに西洋人の後塵(こうじん)を追蹤(ついしょう)するに忙しくて、われわれの足元に数百年来ころがっているこのきわめて優秀なモンタージュ映画の立派なシナリオの存在には気づかないように見える。あるいは気がついても認めたくないのかもしれない。そうしてプドーフキンがどう言った、エイゼンシュテインがどう言ったと言わなければ収まらないように見える。
(中略)
こういう点からまた私のここで仮想しているような連句の指揮者の地位はまた映画の監督の地位に相当するようである。いかによい役者やロケーションを使いいかに上手(じょうず)なカメラマンを使っても監督の腕が鈍くて材料のエディティングが拙ならば、一編の作品として見た映画はいわゆる興味索然たるものであるに相違ない。実際に芭蕉がいかなる程度までこの監督の役目をつとめたかについては私は何も知らないものである。これについてそれぞれ博学な考証家の穿鑿(せんさく)をまつ事ができれば幸いである。しかし私がここでこういう未熟で大胆な所説をのべることのおもな動機は、そういう学問的のものではなく、むしろただ一個の俳人としてのまた鑑賞家としての「未来の連句」への予想であり希望である。簡単に言えば、将来ここで想像した作曲者あるいは映画監督のようなリーダーがあちらこちらに現われて、そうしてその掌中の材料を自由に駆使して立派なまとまった楽曲的映画的な連句を作り上げるという制作過程が実行されたならばおもしろいであろうということである。おもしろいというだけではなくて世界にまだ類例のない新しい芸術ができるであろうということである。この理想への一つの試験的の作業としては、たとえば三吟の場合であれば、その中の一人なりまた中立の他の一人なりが試験的の監督となりリーダーとなってその人が単に各句の季題や雑(ぞう)の塩梅(あんばい)を指定するのみならず、次の秋なら秋、恋なら恋の句をだれにやらせるかまでをも指定し、その上にもちろんできた句の採否もその人に一任するとして進行したらどうであろうか。これははなはだむつかしい試みには相違ない。そうしてその指揮者の頭がよほど幅員が大きく包容力が豊かでなければ、結局狭隘(きょうあい)な独吟的になるか、さもなくばメンバーのほうでつまらなくておしまいまでやり切れないであろうと思われる。しかしともかくもこういう試みは未来の連句のためにわれわれの努力し刻苦して研究的に遂行してみる価値のある試みである。たとえ現在の微力なわれわれの試みは当然失敗に終わることが明らかであるまでも、われわれはみじめな醜骸(しゅうがい)をさらして塹壕(ざんごう)の埋め草になるに過ぎないまでも、これによって未来の連句への第一歩が踏み出されるのであったら、それはおそらく全くの徒労ではないであろうと信ずるのである。

 

(1)閑さや岩にしみ入蝉の声(吉田桃子 文学部)

(2)短い命絞るがごとく(森雅之 総合人間学部)

 

(3)秋の夜雲から月が覗いてる(池宮由楽 工学部)

(4)酒の肴に黄金のススキ(針長右京 工学部)

 

(5)想い告げ友達になれど恋未完(萩原裕規 理学部)

(6)月の兎も炬燵に籠もる(与田亮哉 経済学部)

 

(7)窓の外子供に帰る雪の庭(今西優友 法学部)

(8)春の日差しで大人に育つ(斉藤伎瑠子 文学部)


(9)春雨と共に降り落つ桜花(塩野渚 法学部)

(10)雨で??増す春の残り香(松田都 経済学部)

(11)庭先につくしの光る露のあと(植松広一郎 工学部)

 

(01)-(11)のまとめ

 

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