第9回
出席メール

抜粋



1-6 12月10日の授業、出席しました。

組織票、で思い出したのは、2年半ほど陸上自衛隊にいたのですが、
部隊で投票所に行く事を強制しており、行かなかった隊員は
名前が投票所から駐屯地にどういう風にか送られて来るらしく、
何か軽いペナルティ(外出禁止とか)を受けていた様でした。
個人情報はどうなっているのやら、恐い所だと思いました。
既に自民党に票を入れる意義は失われていたと見えて、
そうする様言われる事はありませんでしたが
(一昔前まで自民党に入れる様指示が出されていたそうです)。
私はと言うと、自衛隊など金を手に入れる為の足掛けに過ぎず
組織がどうなろうと俺の知った事ではない、と考えていたので
まあ投票所に行かずに部隊に目を付けられるのも何だし、
かと言って、部隊の思い通りに誰かに投票するのも癪に障る
という事で白票を出したわけですが。
それはさておき陸海空自衛官の数が24万人程と聞いていた為
農協職員38万人とは凄い数だと思いました。
(いやだからどうしたと言われれば
社会をどうしようとかいう問題意識を持てない以上
何も言う事が無い訳ですが、、、)


1-9 私も含め多くの人が持っているだろう米だけは外国産の市場参入はいやだとか、「米は日本人の魂」的な考え方はじつは政府によって植えつけられたものなのではないかという気がしてきました。しかしいくら米だけを保護するのはおかしいとわかっていてもやはり米もその他の農作物と同じように扱われ、外国産物が市場に大量に入ってくるとしたら、私は絶対反対だと思ってしまうと思います。

 その「日本人の魂」米によって日本の財政が苦しめられてきたとはおかしな話です。現在日本の借金額は何十兆円という恐ろしい額になっているけれど、たとえば今日の講義での米を高価格化させる一方で転作奨励金を出すといった、誰がどう考えてもおかしいだろうというようなことをやめれば、だいぶ減るのではないかと思います。国民ひとりあたりすでに500万円以上の借金があることになっているとは恐ろしいかぎりです。政治家は国の借金が何十兆、何百兆になろうとも、それを自分が払うわけではないので安易に国債発行にたよるけれども、国民にしてみたらたまらない話であり、もっと責任感を持って財政を考えて欲しいと思いました。


1-10 12月10日の授業受講しました。
お返事読みました。
日本人は面と向かって相手の気に入らないところを言うことが出来なくて、陰湿な「いじめ」という手段に出ることが多いとか、忠臣蔵の人気は「むら的」な慣習に反対した浅野その人への忠義であり同意だった(みなで抗議の意を示した、単なる「忠義」の言葉には収まらない)というのを読んでいわれてみればそのとおりなのにひとりでは気がつかなかったことを恥ずかしく思いました。同時に双方向の授業、対話の大切さ、すごさを体感しました。

さて今回の授業のお話に入ります。
前回私の中では徹底的に悪いものだと思っていた食管法が実は食糧難時にはそれなりの効力を発揮していたことに驚きました。
また恥ずかしながら食管法の実態、米の流通ルートについてまったく知識がなかったので、米の値段が政府の諮問機関で決められていたことは衝撃でした(市場があると思い込んでいたんです・・・)
いまいち、なぜ農協が力を持っているのか、政府や官僚とはどう癒着しているのかがわかっていなかったんですが今回の授業でその謎が解決したような気がします。 食管法が米が過剰に生産されたにもかかわらず、逆ザヤで税金を使い、生産調整で税金を使いながらずっと施行されてきたのはその流通ルートが農協の基盤になっていたから。そして、農協は政治団体と結びついているので選挙での票獲得のため農協の言うことをきく。官僚は官僚で農協をうまく利用することで容易に農民を管理できるため、農協と結託する。
これが私なりに今日のお話を咀嚼したものです。
こういう認識でよいのでしょうか?

毎回お話を聞きながら飲み込んでいくのに四苦八苦しているのですが、今日はわりと理解できたような気がします。
正直に言うとこの授業難しいなと思っているのですが、みんな的確に要旨をつかんで自分の論を展開していて劣等感を感じてしまいます。
理解を深めるために読んだほうがよい本などがあれば教えていただきたいです。
では次回の授業もしっかり考える時間にしたいと思います。


1-12 今日は前置きなしでいきなり講義の感想から始めようと思うのですが、 なかでも特に戦時下から延々と維持されてきた農協の系統組織と政治の 関係について聴いてそこから考えてみたことを絞って書こうと思います。

 農協組織が政治家の集票マシーン化していたということ、これがなに より今日の講義でまず私に対しての大きな刺激材料でした。コメの過 剰な状況において生産者米価を吊り上げてゆく、あるいは、生産調整と 平行して補助金を投げ与えるなどの、農協組織を介した一連の政治家の 行動からは、「合法的買収」という言葉を想像したほどです。どうした って、いい気がしません。そこで、先生が仰しゃるように、この構造を 放置しておくのは合理的ではないと思います。合理的というのは、要す るに、飽くまでも彼らを政治家として捉えた場合の話であり、いわゆる 政治屋としての彼らは、やはりサルに違いないという気がします(彼ら がサルである限り、彼らには合理的と非合理的との区別が付かず、彼ら の目にはこの非合理的な何ものかが実に合理的に見えることでしょう)。 それは、以前にも書いたとおりです。しかし、この構造がコメの不足し ていた間には有効な装置だったということについては、私も十分に頷け ます。おなじ構造であっても、時代とともにそれを操作する人が、ある ときは、政治家であったり、あるときは、政治屋であったりするという こと、このことについて、少し考えてみます。

 以前にも挙げたヘーゲルの『歴史哲学講義』ですが、私が初めて読ん だのは高校時代でした。それから、もう随分経ちますが、ある哲学関係 の講義で、最近再びこの『歴史哲学講義』に触れる機会がありました。 そこで再確認したことですが、彼に言わせれば、一国の歴史を左右する 英雄という人は、情熱によって動くとともに歴史における理性の展開に 即した人です。ということは、逆に言えば、どんな人でも歴史の理性に 合致した行動を起こすならば、その人は英雄たりうるわけです。この議 論については、ヘーゲルの言うように、歴史の本質のうちにこうした自 由を希求する絶対の理性が支配者として存在しているのかどうかという 疑問が生じないわけではないのですが、仮にそのような絶対の理性が存 在していないとしても、つまり、その絶対の理性というものを人々が肯 定し希求するであろうある種の未来像と置き換えても、ヘーゲルの言う 英雄が英雄であることには変わりはないのだと、私は考えています。ナ ポレオンは一人の情熱的人間であると同時に、当時のヨーロッパにおけ る自由主義の先導者として英雄であったことは間違いなく、そして私が 言いたいのは、その自由主義が歴史を支配する絶対的理性の要求であっ たにしろ、あるいはそれとは別に、ナポレオンに手を振る革命の子ども たちの要求であったにしろ、やはり彼は英雄だったということです。そ して、一人の英雄を生み出す多くの人々は、必ずその英雄の向こう側に 期待すべき未来像を描いているということなのです。

 私が期待するのは英雄としての政治家であって、凡人としての政治屋 ではありません。だから大胆に言えば、私は政治屋が私的な情熱を振り 回すのを別段どうこういう気はないのです。ある人間に完璧な無私的理 性を要求するというのは残念ながら不可能な話であるし、あるいは、仮 に一時的にこの要求が満たされたとしても、そのような個人が永続的に 権力の座を占めるということはあり得ないのであり(なぜなら、彼にも いずれは死ぬ日が訪れるのだから)、また、偶然によくしてこのような 理性的人間が続けざまにこの世に生を受けて過たず最高権力を継承した としても、この複雑な官僚機構の発達した現代においては、また、哲人 が存在したとしても君主が存在しない日本においては、政治機構の頂点 から末端までを理性で満たすのに、いったいどれほど多くの理性的人 間が登場しなくてはならないかを考えれば、このような議論(理性的人 間が凡人を支配してくれるという議論)がどれほど無謀なものであるか ということは、明らかです。かといって、君主制にも貴族性にも立ち返 れないこの民主主義という時代には、だから、私は一切の私的情熱を責 める気はありません(当然、それによって理性的人間が責められるわけ でもなく、賞賛されて然るべきことも確かです)。もし私が彼らを責め る理由があるのだとしたら、それは、彼らが政治的に凡人であるという、 この点なのです。というのは、ナポレオンは政治的に英雄であった。し かし、非政治的には凡人であった。政治的に英雄であるということは、 まさに、彼があの自由主義の種をヨーロッパに拡散させたそのことに由 来するのであり、非政治的に凡人であったということは、まさに、彼が 類まれな私的情熱の塊であったという点に帰されるのです。だから、私 が今の政治屋に求めるのは、非政治的凡人であることをやめること(私 的情熱による一切の権力志向を差し控えること)ではなくて、政治的英 雄であること(「ナポレオンにとっての自由主義」を見出すこと)なの です。英雄たりうることは、政治屋であることよりも、いっそう狡猾で、 かつ、事実合理的な、情熱的手段なのです。これこそ、彼らが政治屋か ら政治家へと脱皮する条件に他ならないと考えます。政治家とはこの最 良の情熱的手段を備えた人であってほしいものです。と同時に、それに は必然的に彼らに手を振る私たちのなかにも、「英雄の向こう側」が見 えていなければならないのです。

 とは言ったものの、これは想像以上に高いハードルのようです。私は、 今、オルテガの『大衆の反逆』を読んでいるところなのですが、彼が国 家の本質をその未来に(ある肯定的な未来を求めて共同社会が動くこと に)帰し、そして、彼の目に映ったヨーロッパの大衆が19世紀自由主義 デモクラシー以来この次なる未来を見失っていると見ていること、この ことを考えると、オルテガ以来、現代に至っても、果たして私たちがこ の次なる未来を発見しえたかという問題には、私としては回答が出せず にいます。むしろ、私は、現代の世界はオルテガが見た世界と同じ現在 にしか存在しないのではないか、というほうを強く感じているというの が本音かもしれません。しかし、オルテガの見た大衆は自分たちが大衆 であることを喜んでいたかもしれませんが、今の大衆(この大衆という 言葉が今でも通用するかどうかは議論の余地があるのでしょうが)は大 衆であることの限界を見出し始めているのではないか、と思うのです。 これは、楽観的な見方でしょうか? けれど、少なくともこの講義の趣 旨は未来志向に違いないのだという気がしますし、現代社会において人 々がある種の窮屈さを抱えているのは事実のように思われます。この点 から言えば、オルテガが見た大衆(もちろん、私としてはオルテガの証 言より他にこの大衆を知る材料を十分持っているわけではないのですが) よりも、現在の私たちという大衆が次なる未来へ近づいていることは確 かなような気がします。しかし、私にはまだ、その未来の具体像は示さ れていないのです。

 オルテガは、未来が現在や過去の否定であってはならず、未来が現在 や過去を超越したものでなければならない、とも言っていました。当時 のナチズムやマルキシズムを彼はこの現在・過去の否定の代表選手にし たわけですが、これは少なからず、この講義のなかでしばしば話題にな る例の問題とも関連しているなあと思う次第です。しかし、その問題に ついては、次回にしたいと思います。ただ、ここで述べておくべきこと は、過去が否定されない以上、過去は間違いなく未来に受け継がれると いうことです。ここで用いる過去とか未来とかの具体的な内容はオルテ ガの用語法には反するかもしれませんが、やはり、明日は今日の向こう にしかないというのは本当です。例え明確な未来像に手が届かないまで も、その次の未来が訪れるまでに、せいぜい見苦しい明日を作らないで おきたいものだという気がします。これが、凡人としての今のところの 私の思いです。

 以上、随分長いですね。それではまた、次回まで。


1-23 私は先生の最初の導入部のお話が好きです。

小学校で、給食の残りを全部「だいしょっかん(今思えばどういう意味なんでしょう…。漢字が分かりません。いちばん大きな、汁物が入っていた四角いおなべみたいなものですが…)」に入れていて、先生が「ブタさんのごはんにするのよ」と言っていたのを思い出しました。その時は何も考えていませんでしたが、「肥料よりも飼料に」ということなのでしょうか。「肥料にするものはいくらでもある」という先生のお言葉に、確かに!と思いました。それにしても、わたしがまだ小学生がったころに本当に残飯の飼料化が行われていたかわ定かではありませんが…。

私はあまり複雑な農業のシステムは分かりません。いつも先生のお話を「難しい!」と思いながら必死でついていこうとしている感じなのですが…。ただ、利ざやのお話は私にもすんなりと「何てことだ!」と入ってきました。自分で作ったお米を全部売ってしまって、一般市場で買った方が儲かるなんて、やっぱ何か変ですよね。コメ過保護というか何というか…うーむ。と思いました。

今年は台風の影響もあり、牛肉や野菜のトレーサビリティーを求める声も高まり、農業界も波打っている状況だと思います。朝のテレビでよく特集を見ますが、牛肉の10桁のナンバーですよね、多分私は見ないと思います。高齢の方など、インターネット、携帯を使わない方にとってあの制度はどうなんでしょうね。焼肉屋にその日の肉の生産履歴(?)の看板を出すのもうーむ、見るのかなぁ…という気もします。そういうものを形だけ表示して満足するのではなく、そうすることで生産者側の責任が生まれてこなければ、と思います。


1-42 前回に引き続き、農協と、それを取り巻く法制度と社会、特に食管法をテーマにした講義に参加致しました。少なくとも、昭和30年代という時代における決断が現在の社会の在り方を規定しているということは良く伝わってきました。歴史を学んでいるといつも思うことなのですが、法制度と、常に変化する社会状況のギャップがシステムに歪みをもたらし、崩壊に導いていくというのが革新の原動力であるのだなあと改めて感じました。

 もうひとつ言いたいのは、日本の官僚政治機構が、他国のそれと比べても変革の遅い、外力に対して鈍感な機構だという印象です。私の観点からすると、これこそが、「閉鎖的で内部告発を忌み嫌うムラ社会体質」の持つ問題点の最大の発露ではないかと思います。結局日本社会はその歪みが極限に達するまでは変化をきたすことのないシステムになっているのではないでしょうか。江戸から明治への変革においてそうであったように。だからといって、現在の世界は、日本の自壊を許す状況にありません。明治期或いは世界大戦後に日本が達成したような驚異的な回復は現在望めそうにないからです。今もし日本が崩壊すれば、他の国々によってその穴は急速に埋められ、経済的な意味での日本のニッチは最早残されないでしょう。我々が我々の生存を維持するためには、大規模な崩壊現象の前に日本の改めるべき点を明らかにし、少しずつ改善していく必要があるでしょう。私たちの責任は大きいですね。

      追伸:日本の構造的問題に食い込めるような楽しいレポート課題を期待しております。


1-49 農業は暮らしに欠かせない重要なものである 重要なものであるが故に、利権の温床となる 利権の温床となった結果、農業本来の必要性が見失われている といった、矛盾のようなスパイラルが生まれ、 現在の日本の農業・政治・経済が構築されてきたように感じた。
利権について国民がチェックをしていかなければ、 FTAを結んだときに日本の農業は急激に戦えない市場にさらされ滅んでいってしまうのではないか。


1-52 12月10日の授業に出席しました。
米が過剰となった時点でも、税金を無駄にしての買取りが行われている事を聞いて、政府の方策はいつも最善ではないことを再認識しました。構造成立時と状況が変われば構造の変化も必要です。既得権益を手放さそうとしない人達により改革がなかなか進みませんが、取り組み方も工夫が必要です。
変革は損だと感じる人に何らかの補償がないと現実的に進展が難しいのではないでしょうか。
  次回の授業も楽しみにしています。


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作成日:2004年12月15日
改訂日:2004年12月15日
制作者:柏 久