第6回
出席メール
抜粋
1-10 十一月十二日第六回の授業出席しました。
「むら」社会というものが日本の農業にいかに影響を与えてるかというのを知り驚きました。いままで「むら」というものは単なる一つの地域社会に過ぎないと思っていましたがこれほど農業と密接に結び付いてるとは思いもよらなかったです。時代と共に日本の社会が変化してきたにも関わらず「むら」のなかではほとんど変化が起こらなかったのはやはりこの「むら」独自のシステムが原因だとおもいます。
「むら」というものが単なる生産の場にすぎないのではなくそのなかでひとつのコミュニティーが形成されているために変革が起きにくかったのでしょう。また、和を重んじる日本人の性格も少なからず影響していたとおもいます。「むら」という社会の中では自分一人だけ大きく変化することは許されないのだと思います。
以前の話になりますがこういった農村の封建的な部分も農業のイメージを悪くしているのではないでしょうか?この状況は日本の将来の農業そして食料事情を考えるうえで危機的な影響を及ぼしてるように思います。こういった体質が維持されることにより農家の人々の意識が劇的に変化することもなく日本の農業は一部の官僚の思うがままでどんどん衰> 退
していくと思います。
日本の社会全体であるいは国民全員で農業をもっと開けた形でより良い方向へ進めていける農業基盤が必要だと思います。そしてそのためにはやはりもっと一般の人々が農業について知ることが必要なのだと思いました。これで終わります。
「また、和を重んじる日本人の性格も少なからず影響していたとおもいます。」
むしろ逆で、日本人の和を重んじる性格は、「むら」という社会構造から生まれてきたものだと思います。「むら」の中では和を重んじなければ、集団の生産・生活が維持できないのです。自己主張は「むら」の和を乱しますので、自分の意見は持たない方がよいのです。それが日本人の主体性のなさにつながっています。
「農村の封建的な部分」
封建的という言葉も注意を要します。封建制ということについては、次回、少し理解を深めてもらえるものと思います。
「こういった体質が維持されることにより農家の人々の意識が劇的に変化することもなく日本の農業は一部の官僚の思うがままでどんどん衰退していくと思います。」
その通りでしょうね。それを何とか打ち破る方法を考えていかなければなりません。その意味で、あなたの言われるように、一般の人々にもっと農業について知ってもらうことが重要なのだと思います。
1-13 農協が日本の農業をだめにしたという話はよく聞くことがあります。農家の人々に農業指導と称して農薬や化学肥料などを大量に売り付け、農家の人々は農協の指導に熱心に従った結果自分たちの健康を害したり環境を破壊したり・・・。農協はどこの町でも必ずあり現在の日本の農業は農協に支配されているといっても過言ではないでしょう。しかしその農協体制をやめない限り日本の農業の未来は暗いままでしょう。しかし農業界に企業が参入することに私はもっと危機感を覚えます。なぜなら企業が求めるものは利益であり遺伝子組み換え作物の大量生産などが利益重視に行われることを私は恐れているからです。実際に遺伝子組み換え作物を企業が栽培しているカナダではいま実際に次のような事が起こっているそうです。
企業の畑で栽培された遺伝子組み換え作物の花粉は風に飛ばされ一般農家の畑の作物と交配し次世代に遺伝子組み換え作物の遺伝子が受け継がれるそこに企業が登場し我が社の特許品を勝手に用いたとして付近の百姓から賠償金をもぎとる。さらに遺伝子組み換え作物対抗するスーパー雑草が生え除草剤が効かなくなりさらに強い除草剤を企業から買うためお百姓さん達は借金漬けになるがその除草剤も効かなくなり百姓達の生活は破綻していく。しかも組み換えられた遺伝子は交配によってどんどん自然界に広がっていきだれにもとめることはできない・・・
昔の自給自足的農業がいいといっても今からもとにもどすことはできないけれどやはり私は自給自足になるべく近い形の農業が理想的だと思っています。企業が農業に参入するのが世界の動向だといっても世界の動向、先端だと思われていたことが正しいことであったことは少ない、農業への業の参入は私は起こってはいけないことだと思います。
農業に企業の参入を認めるかどうかの問題、あなたのような考え方にも一理あると思います。しかしそれではなぜ農業以外の世界では企業というものを認められるのでしょうか。企業社会を否定することなしに、農業だけには企業を認めることができない、というのはどこかおかしいのではないでしょうか。しかも、農家は企業社会における兼業で生活を成り立たせているのですよ。
とはいうものの、私も資本主義社会の礼賛者ではありません。むしろ資本主義社会を超える社会を目指すべきだと思っています。しかし現段階では、日本農業は今のまま推移すれば、遠からず壊滅状態になります。残るのは、飯米を作る程度の兼業農家ばかりでしょう。そのような状態を救うのは企業の進出しかないのではないでしょうか。
「自給自足になるべく近い形の農業が理想的だと思っています。」
私もそう思っています。しかし、企業の農業参入を否定しても、そこへたどり着けるとは思えませんし、企業=悪者、とする捉え方が妥当だとも思えません。企業=悪、農家=善、とする考え方そのものをもう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか。
1-20 11月12日、第6回目の授業に出席しました。
高校で世界史と日本史を履修していた僕にとっては、今日の授業はとても懐かしい言葉のオンパレードで、なんだか嬉しくなりました。と言っても、「開放耕地制」なんて言葉は聞くまで忘れていましたが(汗)
今回の講義は本当に歴史の話が多かったですね。僕が一番感じるものがあった点は、あまり本筋の部分ではないのですが、共有地に触れた部分でした。共有地が囲い込まれて零細な農民が困って都市へ流出して云々、という歴史の流れを思い出していました。
高校にいるときには分かりませんでしたが、あの頃に「意味があるんだろうか」と疑いながら学んでいた沢山の事は、今からは分野を超えて、基礎的な知識として役立っていくのだということを実感しています。「(分野を超えて)総合的に」というのはやはり非常に重要なことですね。
総合人間学部の学生として、こんなことをあまり言いたくはないのですが、総人という学部を新設するよりは、学部間でシームレスに交流できるような構造を築いた方が素晴らしかったのではないかと、少し思いました。もっとも、それは容易には成せないことですが。
僕は農業という分野に関しては全体的にほとほと無知ですので、少しでも頭の中身を増やすためにも、これからの講義も楽しみにしています。
また、無知なりに「一般人」として、ありきたりではあるでしょうが、感想を書いていこうと思っています。
「「(分野を超えて)総合的に」というのはやはり非常に重要なことですね。」
科学の専門分化によって、確かに科学は進歩しました。しかし専門分化は、きわめて狭い範囲の認識を、あたかも世界を認識しているかのように勘違いさせる傾向があります。このような状況において幅広い見識にもとづく総合的な認識は、実践的な領域において(たとえば環境学や農学など)、非常に重要となってきます。その意味で総合人間学部の意味も大きいと言えます。私の所属する地球環境学堂も、同じような意味合いを持った部局です。
しかしあなたのいわれるように、今の時代、学部間の垣根を取り払い、相互の活発な交流を促進する方が重要なのかもしれません。とするなら、部局の壁は厚いですが、総人や学堂がその媒介となるよう頑張るしかありません。
1-24 「むら」構造の発生した具体的過程が今回の講義でよくわかりました。世界
史や日本史で三圃制や(惣)村、入会地などの用語をよく聞きましたが、それ
が実際のむらの構造にどのようにして、どのような影響を与えたのかというこ
とに関しては今回の視点のように具体的に考えるということはそう多くは無か
ったと思います。特に三圃制については高校までは地力の回復ということに関
しては習ったことはありますが、むらの構造への影響は大学に入ってから講義
で知りました。
日本と欧州のむら構造というのは基本的には同じような原因で成り立ってい
たことがわかりましたが、2つの分岐点は一体なんであったのであろうと思い
ました。講義では「近代化の過程で欧州は個別化へと進んだ」とお話があった
と記憶していますが具体的に何であったのか少し自分でも考えてみました。今
までの知識では西欧では市民革命や産業発展というものがあり個人というもの
がより自覚されていったということが思い出されます。
日本では確かにそのような流れはあったのかもしれませんが、欧州のように
は個人というものが出てくることはほとんどなかったように思います。あくま
でも推測ですが日本は農村経営(支配)や産業発展が幕府や(明治)政府のも
とでかなりしっかりと逆に言えばうまく機能して動いていったからではないで
しょうか。明治維新や戦後の「奇跡の復興」を見ればよくわかると思います。
うまくいったが故の問題であるのかもしれません。
このように考えると、毎回思うことなのですが、農業のことを考えるのにた
だそれだけを考えていたのでは到底うまく考えていくことはできないと思いま
す。社会や経済、歴史、地理なども理解して初めて包括的に対応をできるので
す。特に世界規模での動きがある中では知っておくべきこと、考えておくべき
ことは増えています。必要なのは広い視野や長期のヴィジョンではないかと思
います。現在(政・官・業のという)孤島にもはや住んでいられることは不可
能になりつつあり、世界と続いた土地に住む時代がきていると感じます。
きわめて的確な歴史的認識をされていますね。これまで人間がたどってきた歴史の中で、工業社会が中心となった時代はきわめて短い間です。原始的な時代を除けば、ほとんどが農業社会の時代だったといえます。工業社会は、あたかもそれまでのすべてのものを制圧したかに見えても、農業社会だった時代の名残をその基盤に残しています。そうした過去のよきものをどのように生かしながら、新しいよりよい社会を建設していくかが、現代を生きる人間の課題ではないでしょうか。
日本が西欧とは異なる社会構造(集団主義と個人主義などそれを表現する言葉はいろいろあると思いますが…)になった理由は一つではなく、そこには様々な要因が絡み合っています。ただ私の研究領域から見れば、封建制時代の「むら」構造が、近代化の中でどのように変化したかがきわめて大きな原因のように見えます。その点については、次回お話します。
いずれにしても、グローバル化から逃れられない以上、日本が「むら」社会のままでありつづけることはできないと思います。
1-26 先生がおっしゃったように、農業基本法を作った方はすばらしい人ですね。今、テレビに出てる人を見てもそういうことをしそうな人はちょっと見当たりません。自分自身同じ立場になったとしても、そんな潔いことが出来るかと言われれば、多分無理です。しかし、法律というものは恐いものですね。というのは、農業基本法であれば、これが発効されたがために農業従事者の経済バランスが崩れるほどの影響が出たらしいからです。やはり、法律を作る際にはさまざまなケーススタディをする必要があり、時代の経過とともに現行の法律が不適切になったならば直ちに廃止もしくは改正することが必要なことは明確です。憲法を初めとして半世紀も昔の法律がたくさん存在している状況ですが、それらを見返してみるだけの価値はあるのではないでしょうか。時代遅れの法律に意味を感じる必要などないのですから。
ヨーロッパと日本の農業形態の違いですが、ヨーロッパは「むら」の形成理由が年貢(税金)を村全体に課されたために協力しなければならなかったのに対し、日本は年貢に加え水の確保という理由のために協力が必要だったのであったということは非常になるほど〜と思いました。さらになるほど〜と思ったのは、農業に限ったことではないのですが、『協力のためには平等が必要』ということでした。日常生活していくうえで他人と協力していく、共同で何かをするということはよくあることだし、深く考えたこともなかったのですが、大切なことだと感じました。
畑作と稲作の違いが「むら」の形成に影響があったということがよくわかりました。現在の税金というものは個人個人に課せられるモノであるため、ヨーロッパが「むら」を維持する必要はなくなるというのはもっともなことです。
水の問題は解決法はあるのでしょうか。たしかに、機械化も進み、少人数で稲作が可能になった今日なので農業から脱退するつもりであれば、農地を「むら」の中の人に貸すなり売るなりして脱退することは可能だと思いますが、自分の好きな作物を育てたりすることは難しいと思います。
政治家の票獲得のための補助金というのは狂った考え方であることは明確です。官僚主導型の農業構造についてですが、まとめてくれる人がいるということはさして悪いことであるとは思えませんが、問題はやはり授業中に出てきたトライアングルによって締め付けられているということなのでしょうか。どうやら官僚主導型の農業構造についての講義は12月に入ってかららしいので自分の意見を考えるのはもう少し知識を得てからにしたいと思います。
メール、ありがとうございました。非常にまとまりのあるよいメールだと思います。
第1弾の東畑精一の態度、非常に潔い素晴らしい態度です。さすが第1級の人物という感があります。しかし彼もまた御用学者であったことは間違いなく、今日の日本農業の窮状に一役買っているとも言えます。その点については第3部でお話しできると思います。
また時代遅れになった法律が生き続けて、社会を悪い方向に導く例は、この講義の中では食糧管理法が最たるものだと思います。これについての話も第3部でします。法学部の学生さんがたくさん聴講されていますので、彼らの見解を聞くのが楽しみです。
共同と協同という言葉は違った意味合いがありますが、共通する点も多くあります。階層の分化あるところでは共同は困難で(家父長制家族の共同ということもあり得るので不可能とは言えないが)、平等原則を貫くことが大切になります。近代社会においては、機能が分化して力を合わせるということが中心となり、階層が生まれる傾向が出ますが、今日では、機能分化しても対等関係の組織の方が大きな成果を生み出せるようになっているのではないでしょうか。
政治家が集票のために補助金を利用するだけでなく、過去の産物である法律をも生かしつづけたのが食管法です。官僚主導型農業構造については、第3部で議論しましょう。
1-31 今回の講義は今まで自分が知っていたことや、これまでの授業の中で少しだけ話されていたヒントたちが少しずつつながっていくようで面白かったです。
具体的にいうと、歴史の中での農業の変化と先生が力を入れて話されている村社会のつながりは今までほとんど結論しか話されていなくて、もやもやしていたのですっきりしました。
私は新興住宅地に住んでいるのですが日本の村社会構造を実感するときがあります。田舎で暮らす祖母はある議員の後援会に入っています。馬鹿にしているわけではないですが、おばあちゃんって政治に詳しいんやと最初は思っていました。しかし祖母は政策に関してほとんど知らないというより興味がないようでした。別にもう農業もほとんどやめてしまっているのに、ただみんなが応援するから足並みを合わせる意味で入っているようでした。今までの日本はそういう票によって選ばれた議員によって動かされていたため、現代徐々に色々なひずみが表面化してきたのでしょう。
表面化するということは村社会が少しずつ変化してきたということだと思うし、もはや時代に合う形ではなくなってきたということだと思う。多くの人がメールで言うように新しい形の社会が必要なのだろう。しかしそれは今までのすべてを捨てて欧米の真似をするのがいいとは思わない。幼い頃から自分の意見を言えることは確かにえらいことだとは思う。でも最近のアメリカの様子を少し見ているとしっかりと考えないまま自分の意見を半分無責任にいうことは、ときに勢いだけで間違った方向に行ってしまう恐ろしさもあると思う。顔が見える関係や、因果関係がはっきりあるかはわからないが近年の悪質な犯罪の増加などを考えると、今までの社会にも残していくべき部分もあると思う。
田舎のお祖母さんの話、興味深いですね。「むら」の状況をよく表していると思います。このようにして選ばれた議員でも、その議員が政治家として優れた人であれば問題がないのですが、今の政治家は大義ではなく自己の利益のために行動するような人ばかりです。いわば鈴木宗男がその典型だと言えるでしょう。地元に利益誘導をしているのだから、地元にとっては決して悪い政治家とは言えないのかもしれません。
私は、「むら」社会が全面的に悪いとは思っていません。よりよい社会を作っていく上でも「むら」社会のよいところは取り入れていくべきだと思っています。そのためにも「むら」社会とは何なのか、それがどのような弊害をもたらしてきたかを、講義によって理解してもらいたいと思っています。
もう一つ言えることは、私はアメリカ社会をよく知りませんので、アメリカの政治だけからしか判断できませんが、アメリカがよいとは思っていません。私は西欧をイメージするとき、私が短期間ではあるが生活した経験を持つドイツをイメージして話していることが多いと思います。
1-36 柏 先生:
いつも丁寧に返信いただきありがとうございます。
『「むら」社会にはもちろん悪い面ばかりがあるのではありません。ただ、日本社会がグローバル化の波に飲み込まれてしまった今
日、「むら」社会の論理では世界に通用しなくなるだけです。』
『今なお残っている集落機能を利用して集落営農という方法も悪くはありません。しかし、集落の田畑面積は30〜40ヘクタールです。
この規模なら1個人経営でも小さすぎるかもしれません。大経営であればよいとは思いませんが、集落営農には限界があるような
気がします。』
そうですか…。日本オリジナル(でないかもしれませんが)の論理は世界にやはり通用しないのでしょうか。
僕は農業でもグローバル化の波に負けず、日本に頑張ってほしいと思っているのですが。
まだまだ「むら」社会について僕は理解できていないようです。
ただ、日本において「個」というものが育たない(といわれている)のは、やはり「むら」社会の論理が根強いためなのですね。
『補助事業のことですが、補助事業で国の金が使われていない例を探す方が難しいのではないでしょうか。京野菜を説明するとき
に見せた写真の輸入急増農産物対応特別対策事業も、国の補助金が中心だと思います。美山町に関しても、国の指定を受け
ている以上、何らかの補助金が出ているはずです。』
わかりました。ありがとうございます。ちなみにこれらの補助金は今後削減対象となるのでしょうか?
WTO交渉でいう、緑の政策に分類されるのであれば、削減されることは無いと思うのですが。
それで、今回の授業で一番興味があったのは、最後に紹介された、農政改革の記事でした。
やはり「むら」社会なのですね。
実家が農家で、農協とのつながりもあり先生の話を聞いていて、
いろいろ思い出したネタもあるのですが、今後の講義の農協のところでまたメールしようと思います。
農政改革の議論の中で、自立した農家を育成しようとする今回の改革の他、
日本市場を海外に開放し、日本も農産物を輸出しよう、そういった農家を育成しようという論調も耳にします。
ヨーロッパが「むら」社会でなかったからなのかもしれませんが、
EUはWTO交渉のために抜本的な農政改革に取り組んだと聞いています。
もしご意見があれば、お聞かせください。
また、取り留めのない内容になってしまいました。
今回はここで失礼します。
メール、ありがとうございました。双方向が一段と進んだメールですね。
グローバル化を進めている推進力はIT革命です。日本農業においてもこれをどう取り込んでいくかが最大の課題なのではないでしょうか。たとえば、消費者の意識が高まって有機農産物を買いたい消費者とその生産者を結ぶことはインターネットで可能となります。場合によっては、顔の見える関係も作り出せるでしょう。インターネットを通じた産直は、市場のあり方を変えるはずです。要はやり方次第なのではないでしょうか。
「ただ、日本において「個」というものが育たない(といわれている)のは、やはり「むら」社会の論理が根強いためなのですね。」
その通りだと思います。ちなみに、インターネットが支配する社会と「むら」社会とは相反するものだと思います。その点に関しては、最終回にお話する予定にしています。
「WTO交渉でいう、緑の政策に分類されるのであれば、削減されることは無いと思うのですが。」
私は補助金が悪いものだとは思っていません。政策誘導のために補助金は不可欠であり、よいものには補助金を投入すべきだと考えています。ただ、これまでの補助金にはあまりに問題が多すぎると思っています。要するに農業政策に問題があるということです。
「日本市場を海外に開放し、日本も農産物を輸出しよう、そういった農家を育成しようという論調も耳にします。」
質のよいものといっても、内外価格差のことを考えると、限界があります。もちろん工夫次第では、これも可能になるのかもしれませんが、そのためにも内発的な力をフルに発揮できるような環境を作らなければなりません。
「EUはWTO交渉のために抜本的な農政改革に取り組んだと聞いています。」
EUは、加盟国の農業事情が異なり、各国の調整に苦労する中で共通農業政策が展開され、改革が進みました。当然に日本でも農政改革ができるはずですが、それを阻んでいるものがこれまでの日本の農業構造だと思います。
1-50 まずはお詫びから。前回のメールの最後に学部学年などなど、添え忘れていました。
今回は忘れないよう気をつけたいと思います。
さて、今日の講義では、二つばかり思うところがありました。まず第一が水に関する
ことで、第二がやはり「むら」に関することです。
まず水について。まだ私の実家でも米を作っていたころの話ですが、私の祖父は、私
の家の田んぼの隣の田んぼの持ち主と随分不仲でした。というのも、この両人の田ん
ぼは隣接しているくらいなので当然同じ水源(ため池)を利用していたのですが、祖
父が水を我が家の田んぼに引き入れるように手はずを整えておいたはずのものが、い
つの間にか隣の田んぼの方へ水が引かれて、我が家の田んぼには水がやってこない、
というようなことがしばしばあったからだそうです。我が家の田んぼはほとんど祖父
一人が管理していたので、私は水を引くといっても、どのような操作をするのか、実
際に目にしたこともないのですが、水に関する争いの一例として、ふと、思い出した
という具合です。
さて、もう一つは「むら」についての話ですが、農政改革に反対する族議員や農
協、さらには道路を待望する土地の所有者などのことから少々考えました。集票のた
めに政策に対する立場を決める族議員、自分の餌場を荒らされまいと声を上げる農
協、土地利用の皮算用にぬかりない農業関係者、どれを見ても、結局は自分の手近に
ある利益にのみ固執して動いているということです。私は経済には詳しくありません
が、これだけ個々の利益に敏感な集団というものがあって、この集団(人間)が仮に
その利己心ともうひとつ「理性的人格」という二つの要素のみから構成されるとする
ならば、そこには実に純粋な市場社会が成り立つのではないかと、ふと、畑違いの思
いつきに襲われたりもします。しかし、ここで農政を問題にするならば、そもそも政
治は(方法としての政治ではなく、実施される実効としての政治は)市場ではありま
せん。というのは、仮に日本というスケールを想定した場合、市場はこの日本の中で
いかに利益をあげうるかをということに基づいて行動する人々の集合であり、その行
動の目的は最終的には原子的な個々人の中に収まるのに対して、政治というものはこ
の日本という国家をいかに操縦するかということを常に問題にするのであって、その
目的は、結果としては個々人の利益に還元されるとはいえ、政治が対象とするとする
個人は飽くまでも国家という共同体の構成要素としての個人であるからです。月並み
で理念的な政治像かもしれませんが、今の私としてはこの理念に照らしてもろもろの
ことを考えたいと思います。すると、集票のためだけに政策を左右したがる政治家の
姿は本末転倒そのものです。飽くまでも彼の目的は日本という国家共同体の中に収ま
るべきものであり、選挙は彼にその役割を負わせた一方法でしかありません。彼はこ
の国の政治の目的が達成された後のことには目を向けることなく、この国の政治の方
法の中のある場所に組み込まれるというそのこと自体が原子的個人としての彼にもた
らす利益に目を奪われた盲人です。本来議会制民主主義では政治家は指導者の一翼で
ありうる存在のはずですが、彼のやっていることは、その肩書きとは裏腹に、まった
くの被支配者のそれと変わらず、むしろ、それ以外のことは何らしていないのです。
とすれば、仮にこのような集票機械的な政治家というものが政界というひとつの「む
ら」の基調であるとするならば(そうでないと信じたいものです)、そのとき、この
国には指導者は誰一人として居ないということになる。極端に言えば、サルが教壇に
立つようなものではないでしょうか。これは、恐ろしいことです。ここから導かれる
結論は、結局、悲観的な意味での「むら」とは、ある集合なり機関なりを貫くシステ
ムがその集合および機関の本来担うべき役割の遂行に関して不備なものである場合
に、このような集合・機関に付せられる名称のように思われます。であるので、過去
においての共同体としての村が仮に正常に機能していた場合には、そこには勿論「む
ら」という名称は必要なかっただろうと思います。「むら」の理屈とは、結局、不合
理な理屈という意味に還元できるのではないか、そして、その端的な実例が現代にな
お過去から引き継がれた、近世的むら社会の意識なのではないか、という気がしま
す。「むら」には「むら」の理屈がある、ということはもう何度も聴いて来もし、ま
た、この場で書いても来ましたが、その理屈の尻尾に微かに触れた気がしました。
以上で終わります。少々直感的な思い付きを書きすぎた気もしていますが。それで
は、また次回まで。
メール、ありがとうございました。15番目に到着した出席メールでしたが、50番目に返信しています。あなたのメールには、私の思考の不意をつくようなメールが多く、少し考えなければならないからです。いわば野球でいえば直球ではなくフォークボールというところでしょうか。
まず、水に関してですが、この前の返信メールでも書きましたように、あなたの実家の「むら」はかなり個別化の進んだ「むら」だと思います。ため池灌漑のところにこのような「むら」が多いのではないでしょうか。私が調査したことのある淡路島の集落もそうしたところでした。「むら」の共同も強いのですが、個別化指向も強く、その微妙なバランスの上に「むら」が成り立っているのです。
河川灌漑の「むら」では、水争いは「むら」の間で行われるのが一般的ですが、ため池灌漑では、ため池の水利用をめぐって「むら」内で争いが起こるのですね。この例だけでなく、「むら」内では、建前は共同なのですが、潜在的な個人感情としては何とか自分の優越感を満たしたいという思いでいっぱいで、複雑な感情がどろどろと渦巻いている社会だと言えます(ストレートに表現できないからこそ内にこもってしまう)。
さて後段についてですが、何か「むら」について、異次元空間に連れて行かれているような気がします。しかしそれでいて、真実を突いているようにも感じる不思議な世界です。
「「むら」の理屈とは、結局、不合
理な理屈という意味に還元できるのではないか、そして、その端的な実例が現代にな
お過去から引き継がれた、近世的むら社会の意識なのではないか、という気がしま
す。」
というのが結論でしょうが、それを否定すべき根拠を見いだせませんでした。後段の世界はあなたの独自なものでしょう。この独自性を大切にの伸ばしていっていただきたいとを思います。
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第7回目目次
第7回目表紙
作成日:2004年11月25日
改訂日:2004年11月25日
制作者:柏 久