第2回
出席メール
抜粋
3-51 出席メールが遅くなってしまいました。
第2回目の授業で一番印象的だったのはほかの方々が送ってい
る出席メールの内容の濃さです。
やっぱり京大生はすごいなって感じました。
同じ学生として思うことがいろいろとあり非常に参考になりま
した。
また、授業を通して感じたのは 農学部に所属しながらも農業
関係の知識の乏しさを感じました。これから前向きにいろいろ
と学んでいきたいと思います。
今回はメールが遅くなってしまったので次回は早めに書こうと
思います。 ではでは、次回もよろしくお願いします。
3-35 今回の授業も、興味深く聴かせていただきました。
出席メールとその返信の抜粋をプリントにして配布するというのも、とても良かったです。他の学生の考え方を知ることができますし、それに対する先生のお返事を読むことで、「双方向授業」という方針をさらに強く感じることができました。
大学に入ってから講義の中で、教官の方々が通説を支持するもの・通説を否定するもの、色々な主張を述べるのを聴いて、なんとなく「通説」「正論」の不確かさを感じていましたが、前回の授業でその思いはさらに強くなりました。
そう考えると、ここで一つ大きな疑問が出てきてしまったのですが、食料自給率が下がることがそこまで重要なことなのでしょうか?
もちろん、今までは漠然とですが、食料はできるだけ自国で作って自国で食べるものでありたいと思っていました。しかし、例えば石油や自動車、精密機械のように食料以外の物は、現に輸出国輸入国にかなり偏りがあります。この先グローバル化がどんどん進むのであれば、「それぞれの国の得意分野」として食料がもっと入り込んでも良いのではないかとも思えます。
しかしそれでは、石油のように相手国の状況にこちらが完全に振り回されてしまうという危うい事態になるから困る、自国でできることはなるべく自国で、ということもわかります。
本当に食料自給率を上げたいのであれば、国民が国産の食料を望むような方向に持っていく意識改革が必要だと思います。「食料自給率」は曖昧な概念だということが授業でもありましたが、そのような曖昧なものを根本にして数字だけを見て騒ぐよりも、国民の食料に対する考え方自身を変えていこうとする姿勢が大切だと思います。
3-60 まず、日本の食料自給率の低さをはじめて数値的に知って驚きました。
供給熱量自給率が昭和40年度から比較すると現在では60%以下になってしまっています。50%をきってしまうのも時間の問題のような気がしました。米・野菜・鶏卵の自給率は100%前後のままで高い自給率を保っていますが、果実・肉類・魚介類の自給率は著しく低下してしまっています。これは、最近の食料の並ぶ光景を見ていても歴然としています。アジア産の果物、オーストラリアなどからの輸入肉など日本人の食生活はどんどん変化していっています。
個人的な話ですが、私の実家は大阪の南のほうで、米や野菜の生産が盛んです。玉ねぎが特に有名で、6月ごろにはたくさん収穫され、野菜を買う必要もあまりないといった状態です。今の時期では、一気に米が収穫され、秋田こまちなどの米が近所同士で売り買いされています。 私の家は祖父が米を作ったりしていましたが、亡くなった後は田も売ってしまったということです。こういった状況こそ現代の日本の農業の現状ではないかと思います。
少しずつ開発の進む農村においては、兼業農家などではそれほど大規模な生産はされず、近隣で売り買いされる。また、若い世代は別の仕事につき、時間のある中年・老年層が農業を営んでいる。農業をしていた人がいなくなると、土地を売ったり、駐車場に変えたりする。
米・野菜など生活において欠くことのできないもので、小規模で栽培しやすいものは、自給率に変化がないというデータからも明確であるように、主に栽培されており、反面、漁業、あるいは牛や豚などの畜産といったものは自給率が著しく低下しています。今後開発が進むにつれ、大規模な土地を所有する農業を営むことはますます困難となることが予測されます。さらに、諸外国の安価な輸入品により、日本の農業製品の売り上げは厳しい状況に追い込まれていくでしょう。
日本の品目別自給率を見てみると、穀類と豆類は昭和40年代からもすでに低い値となっています。現在では、オーストラリアやフランス、カナダなどが穀類などにおいて高い生産量を誇っています。日本のこういった品目は諸外国のものに依存していくことになるでしょう。
逆に、米は過剰に生産されています。今後も米は自給率を維持していくと考えられます。日本人にとって米は食生活の大きな基盤となるもので、諸外国の米を代替とすることに不安を感じる傾向にあることは確かです。
こうした傾向の日本では、穀類・豆類のような品目を今以上の自給率にしようとするのは不可能なことでしょう。農業が衰退していっていることはいうまでもありません。これからの日本における農業の重要性を考えたとき、諸外国に匹敵するだけの日本独自の農業が必要になってくるでしょう。情報社会の進展により、身をもっての、人と人との間での技術の伝承を必要とする農業技術は若い世代には伝えることがますます困難となっています。都市化の進む地域が農業から離れてしまうことは避けられないことかもしれません。しかし、日本のIT技術同様、農業も世界に匹敵するだけのものになれば、農業における利益が期待でき、農業が復興していくことでしょう。
日本人にとっての米は特別なものです。米の自由化がなされたとしても、やはり品質・安全性などは日本の米がいいと多くの人が言うでしょう。それは日本の米の品質の高さの紛れもない証拠です。
現代社会においては、商品のブランド化が社会の大きな傾向となっています。ヨーロッパのブランド品は日本でも世界でも大変な活躍です。しかし、日本発祥のブランド品といえば、車などに限られています。
長い伝統を持つ日本の米はブランド品としては大きな価値を持っていることは間違いないでしょう。日本だけでなく、世界に向けてブランドとして米が生産されれば、米の生産が日本の農業を新しい形で支えていくことも可能かもしれません。
現代の兼業農家などは小規模なレベルでの生産にとどまっています。自分の家の需要を満たす程度の生産であるからでしょう。しかし、農地面積がもう少し広ければ、国からのそういった補助があれば、大規模な生産ができるようになるかもしれません。また、失業者やフリーターといった人に土地を貸与し、農家などで技術を学ぶといった機会を提供するといった政策があれば、技術の伝承が新しい形でなされるかもしれません。
農業における技術もさらなる向上が期待できると思います。たとえ日本では活用の機会がないとしても、日本で生産が低い品目における高度な技術を海外で活用させることができれば、しかも日本だけがその技術を用いることができるようにすれば工業と農業の一体化が実現していくかもしれません。
もちろん、農業のことを何もわかっていない人間の考えることなので、実現不可能、利益の見込みのない案であるかもしれません。何しろ農業を復興させようとすることはそんな簡単な問題ではありません。しかし、すべては政府の政策にかかっています。牛肉・オレンジの自由化問題が解決すれば突然日本の自給率の低さを発表するような姿勢ではたいした政策も実行できないでしょう。農業を真に知る人間が日本の農業を支えることができるよう、国民も政府を批判できるよう、農業の実態を知り、真剣に考えていくことが必要であると改めて感じました。
2-30 前回の出席メールを送るときは、まだこのシステムについて理解しきれていなかったので、目次以上を見ることができない時、私のパソコンだけ壊れていたらと心配していました…なので二回目の授業では心配でノートを取ろうと必死だったけれど、ついて行けず途中で断念し、話に集中していました。とりあえず、ホームページが更新されていて安心しました。結構ノートをとるので一生懸命になって、後日ノートを見返しても思い出せず、かえってノートを適当にしていても、話を聞きながら自分でも考えてみる時間を過ごした方がよい、といった経験が多々あります。このシステム気に入りました!
前回の出席メールの抜粋を読んで、この講義に出席している学生が、実に様々な考えを持っていることに驚いたとともに自分の考えの軽薄さを恥ずかしく思いました。結局自分で疑問に思っているだけで、それを外に向けていこうという姿勢に欠けていました。実際思っていることを表現するには自分自身が、何が疑問なのかをよくわかっていなければ不可能なんですよね…
さてはじめに私の思ったことです。先生は畑を耕さなくていいのですか?講義ではなくて農業実習でもして、少しでも農業生産を向上させた方がためになるのではないですか?でもすぐにこれは浅はかな考えだと気づきました。
自分たちの食べるものは自分たちで作る、という当たり前のことが当たり前ではなくなっていることに危機感を感じながらも、さあ農業従事者になれるかと自分に問うた時、私にはなれる自信がありません。実際のところ、農家にお嫁に行こうだとか、農業で生計を立てて行こうだとかいう学生はほとんどいないでしょう。(脱サラして北海道で酪農を始めた…とかいう人を特集したテレビ番組も観たことありますが。。)
しかしながら、問題意識を常に持ち続けるだけでも効果があるのでしょう。畑違いの官僚が支配している現状という問題があるけれど、各分野の問題はそれぞれ精通している人に任せて(決して投げやりという意味ではなく)責任を持ち、違った分野のもの同士が助け合っていけたらよいと思います。(けれどやはり気になるのですが…このまま農業従事者が減り続けて大丈夫なんでしょうか…?)
自給率を巡っての、農水省の言い訳のからくりの話を聞いて、かなり頭にきました!!というかあきれました…国民を馬鹿にしていますよね!(気づかないで踊らされていた私たちにも腹が立ちますが。)「官僚主義」、「村構造」、「集団論理」…前期にあるゼミで都市問題について考えたのですが、そこでも建設省と族議員との癒着…財界・政界・官僚の政官財複合体問題がある限り、現状は変わらないという結論に至りました。日本社会を変えることは、今後の日本を本気で良くしたいと思うならば、避けて通ることはできないのだと改めて感じました。
私の問題意識の一つとして、学者がいる意味とは何か?というものがあります。
農業のみならずどの分野にも言えることですが、学者の内輪だけでの問題ではないですよね。一般庶民の知らないところでは様々な研究が行われ、論文が発表されたりしています。学会などで発表されたものが、世の中にどう貢献しているのか明らかになるといいのに、と漠然と思っています。いまは漠然と思うことしかできませんが、少しずつ解決していこうと思います。そのためにはしっかり勉強しなければ!ようやく勉強する意味を見出しつつあります…
二回目の授業では、結構込み入ったお話で、理解しきれていない部分があります。たとえば食糧自給率問題で、結局先生は何をおっしゃろうとしていたのか…などです。「自給率」がもつ意味の多様性、可能性はわかりました。(理解できない原因は、日本を支配する政府によって私の中に刷り込まれた「常識」のせいかもしれません。)次回の目次を見ると、もう少し具体的な内容も交えての講義を予定されているようなので、理解を深めていけたらと思います。
中山間地域だけではなく、コメへの異常な執着が日本の農業を混乱させていること、なぜ今まで気づかなかったのか…はっとさせられることが多いです。次回を楽しみにしています。
一回目の出席メールに刺激され、ついつい二回目の授業とは関係ないことまでもつらつらと書いてしまいました。申し訳ありません。
ちなみに、何回かスイスのお話が出ましたが、私は高校のとき一年間スイスに交換留学をしていました。色々な場所に行きましたが、本当にきれいでした。この授業でまた思い出してしまいました!これを機会に、インターネットの発達した時代です、違った角度からスイスを調べてみたいなあと思ったりしています。
1-8 第二回目の講義を聴いて早速出席メールを書いています。
今日は農業とはまったく関係ありませんが、官僚体制について書きたいと思います。
僕はもともと官僚になんかまったく興味もなく、そのために京大にきたんですが、最近考えが変わってきて、官僚にいろんな意味で興味を持ち始めています。それはなにも官僚になって、豊かな生活をおくりたいとかではなく、むしろ官僚になんかなりたくはないんです。高校生の時は、数学者になりたいと思っていましたが、最近父に
数学科なんか不安定なところにいくな、といわれ、少し自分の将来について考え、何か安全な職に就いて、数学は趣味ででもやるか、と考え、その安全な職を考えていく上で官僚になることを視野に入れました。
そのとき官僚になるための国家一種試験の本などを見ていくうち、疑問を持つようになってきました。それは、理学部などの理系は研究者か技官にしかなれなくて、国の政策を考えていくのは法学部などの文型だけだったことです。僕はそのとき、専門でもないやつらに、たとえば農水省では農学部でもないやつらに、専門的なことが本当にわかるのかと、このままで本当に日本は大丈夫なのだろうかと非常に心配になりました。そこで僕は、理学部だけど、法学や経済の試験を受けて、日本の理学の将来を専門家としての立場から考えていきたいと思いました。
昔数学者の秋山仁が、大学選択のときには自分がもっとも行きたくない大学を選べ、と言っていましたが、僕にはその意味が最近になってやっとわかってきました。不合理な官僚になんかなりたくないけど、そういって何もやらなかったら何も変わっていかない。先生の講義を聴くととてもモチベーションがあがります。
出席メール、興味深く読ませたいただきました。
数学は科学の基本中の基本で、きわめて重要なものですが、これで食べていくのが容易でないことも確かです。基礎科学が尊重される科学行政を目指して官僚になる、初心を忘れない限り非常によいのではないでしょうか。頑張って勉強して下さい。
官僚制ですが、非常に有効に機能する時代もあります。日本が明治維新後に急送に近代化を成し遂げたのも、戦後驚異的な経済復興を成し遂げたのも、私が批判してやまない官僚主導型の構造(東大出身者を頂点としたピラミッド構造でもある)のおかげだったといえるかもしれません。国全体の目標実現のために、国民が「個」を犠牲にして一丸となって目標実現を目指せるのがこの構造です。
官僚主導型構造というのは、発展途上の段階では非常に有効に機能するものなのです。しかし時代は変化します。今や日本は発展途上ではなく、成熟した経済段階にあるといえます。このような時代においては、個を抑圧して目標に向かうのではなく、個の開花こそ人間に幸せをもたらすのです。私が官僚主導型の構造を批判する理由の一つがここにあります。
1-25 前回は月曜日に出席メールを送信したところ85番目ということだったので、
今回は講義を聴いたその日のうちに出席メールを出すことにしました。
さて、まだまだ農業の知識については乏しい私ですが、今日先生の仰った「村」
ということについては、私も幾分、思うところがありました。
私の田舎は岡山の
県北、文字どおりの「田舎」で、田畑が道の両脇を埋めていて、
ところどころに点々と人家が立ち並んでいるというようなところです。
若い年代の人は少なく、私自身も田舎を離れて大学に通っているわけです。
田舎というのは都会に居ると懐かしいものですが、実際住んでみると、
煩わしい面もたくさんあります。私の祖母の口癖は「人はみんな恨みと妬みの
塊だと思っておけば間違いない」というもので、年端もゆかない小さい頃から
そんな台詞を私にコンコンと言い聞かせていました。
そのような言葉がどうして祖母の口から漏れるかといえば、結局のところ、
この台詞が言い表す状況が、私の住んでいた田舎の煩わしい面を言い当てている
からに違いなかったのだと思います。例えば次のようなものです。
私の田舎ではある家に葬式ができると、近所の女性が手伝いに出ます。
とにかく葬儀場というものが無いので、個人の家で葬式の準備をするのです。
一方、男性はというと、香典を持ってやってきて、御坊さんが読経する後ろで神妙
にしています。大抵読経が終わるのが昼頃で、その後に葬式に参列してもらった
近所の男性と御坊さんに昼食の御馳走を振舞うという手筈です。この昼食の御膳の
世話や、料理の準備のために、女性が借り出されるわけです。互助的な習慣として
機能していることは確かなのですが、難点もあります。しんみりと読経をしている
部屋ではどうということもないのですが、台所では悲惨なありさまです。
そもそも、他人の家の葬式ができる度に手伝いに行くということが、
誰しも煩わしく思われるようです。その煩わしさのためもあって、
障子に埃が溜まっているだとか、漬物の切り方が悪いだとかと、些細な口論が
多々あるそうで、葬式のあった家の家族ときたら、踏んだり蹴ったりです。
我が家でも、つい数年前そのようなことがありました。私の祖父の葬式です。
それ以来、祖母は「いつ自分が死ぬか知れないから」と言って、
日頃何を気にかけているかといえば、それこそ、家の掃除だとか、
納屋に溜まった新聞の山のことだとか、門先の草むしりのことだとか、
とにかく近所の人が自分の葬式に際して我が家へ手伝いに来たときに、
悪口を言われないようにと、そのことを考えているようです。
村だとか、近所付き合いだとか、言うけれど、私の田舎では近所というのは
敵なのか味方なのか分かりません。私の祖母は幼い時分は都会で暮らしていた
ようで、田舎を随分嫌っているようです。少なくとも、祖母にとっては
御近所様は油断ならない相手のようです。
また、つまらないことを長々と書いてしまいました。お忙しいところ申し訳あり
ません。それではまた次回まで。
非常におもしろく(不謹慎か…)読ませていただきました。農学部には「むら」のことを知らないで、「むら」を礼賛する研究者がたくさんいます。私は京都生まれの京都育ちで、「むら」の出ではありませんが、父母ともに富山の農家出身であり、そのエートスは「むら」といってもよいと思います。
私は、農学部で20年近く「農村社会学」という講義を担当してきましたが、その中心が「むら」の話でした。この講義の担当を命ぜられて勉強し始めたのですが、あなたの書かれている「むら」の実態、よく理解しているつもりです。
もちろん、私は「むら」にも多くのよい面があることを否定するものではありませんが、とりわけ農学部の実態を知らない「むら」礼賛論者、「知ったか」先生達には、是非とも読んでいただきたいものです。
1-45 第2回の授業出席しました。
たとえこの授業に興味がなくとも受けようと思うくらい先生の熱心さが伝わりまし
た。大学(京大?)の先生の中で先生らしい先生ってそんなに多くないですもんね
(笑)先生は先生らしい先生だと思います。
ところで、今回の授業では、「まだ」ということだと思いますが、あまり先生の考え
方が伝わってきませんでした。「中山間地の使い方が問題だ」とか、「(貿易体制の
話で)米中心で大変偏っている」等、個々のお話や問題点は理解・納得できたのです
が、だからどうしたらいいのか、どうしたいのか、ということにあまり一貫性を感じ
られず、全体的な方向が把握できませんでした。それは私の想像力理解力が足りない
からのような気もしますので、次回以降に期待しようと思います。
米だけは特別な存在で・・・というのはやはり同感です。米が日本のお米であること
で、何とか日本の食卓の食事が日本のものであるかのような感じがするのは私だけで
しょうか。
輸入物や農薬や添加物まみれの食材ばかりで、食のクオリティーが低下し、自分で作
ればいくらでも生えてきそうな菜っ葉(祖父母が農業をやっているもので・・・)が
高くうられ、高く売るために見た目を気にして栄養や質の低い野菜が生産され、そん
な野菜ならいっそ取らなくて良いとサプリメントが流行るというこの状況が改善され
たらなぁ、と思います。食は人間を作る基礎ですから大切です。なんだか、大きな改
革が必要ですねぇ。
江戸時代のように年貢が金納ではなく米納であったことがいまだに影響しているのか
なぁ(間違ってますかねぇ・・・??)なんて思うと不思議な気がします。
「(笑)先生は先生らしい先生だと思います。」
ほめていただいたと理解してよいのでしょうか(笑)。皆が評価の対象となる研究に集中し、対象とならない教育には熱心でない状況で、教育に熱心なのは、やはりドンキホーテといわざるを得ないのかもしれません。しかし私は動くはずのないものを動かしたいという思いを放棄することができません。
「が、だからどうしたらいいのか、どうしたいのか、ということにあまり一貫性を感じ
られず、全体的な方向が把握できませんでした。それは私の想像力理解力が足りない
からのような気もしますので、次回以降に期待しようと思います。」
私が何を主張し、どうすればよいと考えているかについては、11回の講義を聴いていただかないと理解してもらえないと思います。あまりに早く理解できるのでは、学生さんも聞きに来る甲斐がないでしょう(笑)。
「コメだけは特別」ということにも、非常に深い意味があります。これも今後、理解していただけると思います。
「食は人間を作る基礎ですから大切です。なんだか、大きな改
革が必要ですねぇ。」
その通りですね。しかしこの点に関しては、他の方への返信メールでも書きましたが、生産者側よりも消費者側が意識を高める必要があるのではないでしょうか。この論点のメールが2つもきましたので、出席メールに関連して、次回、この点をビジュアルに話してみようかと思っています。
「江戸時代のように年貢が金納ではなく米納であったことがいまだに影響しているのか
なぁ(間違ってますかねぇ・・・??)なんて思うと不思議な気がします。」
この点に関して、私は、日本は今日もなお、江戸時代の呪縛から逃れられないでいるのではないか、という見解を持っています。「むら」構造というのは、まさにその一つの表現です。
戻る
1
第2回目目次
第2回目表紙
作成日:2004年10月15日
改訂日:2004年10月15日
制作者:柏 久