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第1回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『垣根を越えてみまひょか?』 第1回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『垣根を越えてみまひょか?』
2015年4月24日(金)

司会:中津良平先生(以降敬称略、司会)
パネリスト:京都大学総長 山極壽一氏(以降敬称略、山極)
大蔵流狂言師 茂山千三郎氏(以降敬称略、茂山)
アーティスト・京都大学高等教育研究開発推進センター教授 土佐尚子氏(以降敬称略、土佐)
司会
非常に盛り上がっておりますが、最初にお話ししましたように最後の30分はですね、是非会場のみなさんがたにも入っていただいて議論をすると。質疑応答というよりは、みなさんも議論に加わっていただくという風な形を取りたいと思いますので、是非誰か切って口火をいただけると非常にありがたいんですが……。

(挙手した尾池元総長を当てて)

はい、よろしくお願いします。
尾池
元総長
あの……じゃあ、議論に入る前に。僕はわざわざここへ今日なんで来たかっていうと(ポスターを指さして)あのポスターのチラシを見てあの二人の格好が見られると思って来たんですけど……。

(会場、笑い)

あれ見とうてわざわざ来たんで。さっきから一人しかやっとらんで、あれ見てから議論に入りたいと思います

(会場、拍手)
土佐
是非お願いします!

(山極総長と千三郎さんが前へ出ていく)
山極
えーっと、これはですね、最初だったっけ?
茂山
二回目……?
山極
二回目でしたよね。
千三郎さんが京都市動物園のゲンキさんになろうっていうときに、じゃあゴリラの格好をするのにどうしたら良いでしょうかっていうことで、じゃあ一緒にやってみましょうかってことで、まずこう腰を落とすんですね。で、足を開いたら、ちょっとがに股になります。
それで、背中は常に張ってないといけないんですよ。それはゴリラのゴリラたる所以ですから。それで、手を軽く握って、相撲節みたいに下ろしちゃうと、それは無駄なものがあるから、やっぱり上向けないといけないんですね。で、こうこう前をはっと睨みながら歩く。
茂山
ナンバですね?
山極
ナンバに行く場合もあるし、行かない場合もあるんですが、ナンバというのは実は体力回復時にこういう風に回るんですね。でも、前に進むときにナンバっていうのはあまり良くない。だから、ゴリラっていうのはただ歩いているだけじゃなくて、餌を摘みながら歩くわけですから。
こうやって、相撲の方はこうやって行きますよね。それは、やっぱり手を使いながら上半身を立てて相手に向かってきちんと意識しながら歩くときに、自然にナンバになる。だからゴリラも、ゆっくりはゆっくり歩くんです。という風にやってました

(会場、拍手)
山際総長・茂山千三郎氏
司会
是非、続けてどうぞよろしくお願いします
はい、そちらの方。
男性
あ、どうも、ありがとうございます。今見せてもらって、やはりこの世のなりたちは、一つのコントラストだなあと。山極総長が今何故こんな、ICの時代に誕生したか。これは原点、源流を遡り、原始に還れ、原点に還れという叫びだと思いますよ!
普通は選ばれるような、土佐さんが選ばれた方が、時代に合致してたと。モダニズムと伝統とイノベーションから見たら。やっぱりこれは何か意味するところがあるのを察知しなければ。山極総長誕生を。ということからこの古いことの伝統とイノベーションを草案するものを。そして、あらゆるものが比例があれば反比例があり、相反するものばかりでこの世の中対になっていますね。やっぱりそこを察知したらこういう芸術や学術がもっとわかってくるんじゃないか。iPS細胞ももっと発展していくんじゃないか。そっから見てやはり私は、もう一度人間は再びという言葉。東北の人も再び、やはり、リカバリーする、再生するということから始まり、もう一度、町を作り直す、リメイクする、そして、三番目にやはりリセットするということなんですね。心を整える、京都、ありましたね、文化財が、あれは心を整える、リセット、ほな、次の段階があるんですよ。やはり、人々の心を、東北の人々の心をやっぱり蘇らせる、リバイバルというのがなかったらあかんし、次にやっぱり、それを長く続けさせる、サスティナブルというのがなかったらあかんし。その後に、やはり究極の目的が示されてない場合が多いです!
やはり生存し生き残るという、サヴァイヴァルなんですね! 東北の人もサヴァイヴァル、日本もサヴァイヴァル、こっから思ったらやはり我々自身の京都は哲学を語るだけで良いです! そのフィロソフィー、政治家は政治、哲学、稲盛和夫さんは一番に経営哲学と言っておられます! やっぱり、哲学が一番に来て、ものの考え方いうコンセプト、シンキングというものの考え方一つで結果が、一八〇度違うんですよ!
星野監督は負けてまた次は最下位、優勝して最下位、あれは考え方やっぱりおかしかったんですねぇ、去年は。そういうことからして、やはりこの土佐さんのモダンな見事な英語になってる、やっぱり創作ポリシーというものがなかったら駄目と。必要なことだけ言うてるんですよ! そしてやはり、山極さんのような胸の内に、やはり人間性ヒューマニズムというものが、絶対になかったらいかん。茂山さんもね。そういうものがなかったら絶対駄目だと。経営も、ブラック企業なっとる。
そしてやっぱり五つ目は、今日は一二〇〇年の、確かな歴史観がなかったらいかんのです!! これを持ってない人間ばかりです! 私くらいのものですよ。それくらい確かな歴史観難しいですよ!
この五つを一つにやはり統合されたやはり日本人としてのアイデンティティなんですね! やはりこの同一性というものを培い、一つになる再一性がなければ、チームワーク良くなければ、原監督みたいに巨人全然優勝できない。そして、やはり統一性というものが日本人に欠けています! この三つこそ、我々に求められていることじゃないかと思うんですが、三名様如何でしょう!
山極
はい、ありがとうございました。まったくおっしゃる通りだと思います。私も原点に還って心を再生する、京都大学としてふさわしい心を再生するということに努めて参りたいと思っております。
茂山
そうですね……狂言やってるとですね、原点に還るもなにも、恐らく原点しかないんですけれども(笑)。
先ほどもお話した通り、足下を踏み外さないということを考えていくことが、結局一回りして原点に戻っていくんじゃないかなと……僕も、死ぬ前には元に戻ってるような気がしますんで。そこに向けて、徐々に原点に向かっていきたいなと思います、はい。
土佐
私はですね、勿論原点に向かって、原点からまたアートをいつもやってますけれども、ここに多くの学生さんがいると思うんですよね。京大の学生さん。京大の学生さんは、多くの人が京大の自由の校風を求めてやって来ているわけなんですよね。
だから是非アートもやってください。それを私としてはちょっと話したいことだと思ってます。
司会
土佐先生の方から学生さんに少し意見を……。
土佐
あのー、京大の学生の方。手を挙げた方からご意見を聞きたいんですけど、今日は別に先生方もいるけど自由に意見を言ってください。

(方々から手が上がる)
司会
では、着物の方。
着物姿の
女性
ありがとうございます。今日は着物で失礼します。あの、着物はただ趣味で来ているだけで、特に何かあるわけではないんですが……。
私は理学部の人間なんですけど、日々物理、私いま物理はそんなにやってないんですけど、物理とかを上に行くにつれて、私がやっているのは純粋物理、純粋な学問としての物理、思想のような学問のような範囲をやっているので、物理をやってて、使うものは数式だし対象は自然なんですけど、対象は自然で、それを数学で記述しているだけで、もう思想なんじゃないかって思うんですよ。
で、それを面白いと思ってやってるわけですが、数学とか今まで積み重なってきた学問の流れを知らないと、その枠組みを知らないと、面白いとか美しいとか思えないじゃないですか。私はそれをちょっと勉強したから物理が面白いなとか他の学問も面白いなって思えるわけで、美術とか芸術とかも枠組みを知らなければ面白いと思えないと思うんですよ。
たとえば、私は全然知らないので、アフリカのすごいと言われているトーテムポールとかを見ても、面白いけどすごいという感想は、感動とかそういう感情は、そんなに生まれなかったりするんですけど、美術も枠組み、あと現代芸術もよくわからないと言われるじゃないですか。その見方の枠組みを知らないと、面白さとか受け取れないと思うんですけど。
それでも芸術って、枠組みを知らなくても感動できるものが稀にあって、現代芸術でも草間弥生さんのブツブツの部屋を見たとき私本当に感動して、倒れそうになってしまったことがあって、美術とか芸術、アートの人を感動させる力、枠組みがなくても越える力っていうのが、学問にもあれば良いなと思うのですが……それをちょっと探していきたいなと思いますし、えっとどうしよう、締めれない……。
土佐
あのー、現代物理とアートをつなげると、ものすごく誰もやってない可能性が見えてきますよ。
着物姿の
女性
あー、そうかもしれない……。
土佐
是非、やってみてください。
着物姿の
女性
はい、ありがとうございます。
山極
確かに、枠組みを知らないと感動できないものっていうのはたくさんあります。でも、枠組みを知らなくても感動できるものっていうのがあって、それは別にそれ任せではなくて、自分の問題でもあるんだよね。それは要するに、何かにセンシティブな心を作り上げていくと、なんか他の人が全然感動しないものに感動しちゃうことってあるじゃないですか。
それってやっぱり人間の心の妖しさでもあるんですよね。その妖しさっていうのは自分でなかなかコントロールできないところがある。そこをつなぐのが、アートじゃないのかなと僕は思うんですけどね
着物姿の
女性
”あやしさ”ってどういうイメージの……。
山極
要するに、妖怪のような妖しさ。形のない、自分でとらえどころのない。自分の心って見えないし、自分の心ってどうなのかって自分でも定義できないところがあるはずなんですよ。ここに感動しようと思ってるんだけどすごく興ざめしちゃったりね。
でも、とんでもないつまんないように見えていたことが一瞬にしてすごいと思えるようになってきたりするんじゃないですか。それってやっぱり、自分で何とも形容のできない何かが自分の中に潜んでいる、それが妖しさだと思うんですよ。
そういうものを、それぞれの人間が持ってる。そこをつないでくれるのがアート……持ち上げすぎなんだけど、じゃないのかなって思ったりするんですけどね。
茂山
要は、全部わかってしまうとつまらないっていうことではありますね。
有名な言葉で、”秘すれば花”って言う通り、隠し事とか見せないこととか大極秘とかね。私達の芸能の中にも、ここより以上はもう見せないんだ、っていうものもやっぱりあると思うんです。で、そこを見たいっていうのが、それこそもうパンチラの世界じゃないですけど、見えないけれどもなんか見てみたいなあ見てみたいなあっていうその欲、っていうものに、どうやって自分の触覚が触れていくんだろう、みたいな。
それがまあ、今おっしゃった通り、概念的なことを知ることになると思うんですが。きっと、すごいものに出会うと思います。今の草間さんとおっしゃる通り、それが物理であるかもしれないし、他の現代アートかもしれないし、古典なのかもしれないし。そういうものにきっと出会えるのではないかなと思いますし、僕自身もそういう風になりたいなっていう風に追求していきたいなって思ってます。
着物姿の
女性
ありがとうございます。
土佐
他に、学生さん。

(手が上がる)

どうぞ。
女性
すいません。年いってるんですけど、一応学生なんです。
山極先生に前から一つ聞きたいことがございまして、変わった話なんですけど、去年くらいに兵庫県議でちょっとテレビに出て話題になった議員さんがいらしたんですけれども、あの方で日本人がびっくりしたわけですけども。ゴリラのドラミングが威嚇するけれども攻撃ではないっていうのが、あの方のあんな大声でわあっとやられたら、ま、びっくりするわけですけれど、だからといって攻撃してくる感じでもない。微妙に引いてるような、大声なんだけど引いてるって言う変わった感じに日本人がびっくりした。
やったことの良い悪いは全然退けまして、その精神性のちょっとレベルっていうので似てるんじゃないかと思ってまして、でもこんなん一人で思ってただけなんで、もしご意見いただけたらと。
山極
うん、あのね、人間って知らず知らずのうちに、建前と本音っていうのを両方見せながらやってるってことがあるんですね。
ディスプレーっていうのは、それをちゃんと周囲にもわからせ、相手にもわからせ、という劇なんですね。人間はそういうことを演じきることができる。たとえば僕がよく出す例なんですけれども、野球の試合をしていてバッターがヒット性のあたりを撃って、一塁、一生懸命走ったんだけどアウトになった。でも、その微妙な判定を巡って、監督はそれはセーフだって言ってダックワードから飛び出してくるわけですよ。審判もその判定を曲げない。いやこれはアウトだって言うわけです。
そんときに監督と審判が、接触しそうにね、お互い胸を張ってこうやるわけですよ(腕を振る)。実際殴りかかろうとしたりするそぶりを見せる。でもそれは、本当に喧嘩になるわけがないわけで、みんながわかっているんだけどそれを横行に演じながら、その戦う意欲、そして審判の判定に対して抗議をする監督っていうのを演じきるためにやってるわけですね。周囲がそれを止めるわけですよ。それで、観客も納得する。そういうみんなの思惑が、その是非に集中するというのがあって、それを監督も審判もわかっているんですよ。
そういうことが実はゴリラにもできるんです。それを、一九世紀の探検家達が知らなかったから、ゴリラの知性って言うのはそんなにないと思ってたんで、ゴリラって言うのはただ闘いたいためにね、そういう相手に対して威嚇をしたんだっていうだけで捉えてしまった。でも、そこには闘う姿勢を見せているんだけど闘いたくはないんだよっていう、お互いがきちんとそういう形を作ってわかりあう必要があるんだっていうことを周囲に納得させるために演じているわけですよね。
そういう高度なやりとりというのがゴリラでも可能なんだということをあれは示してくれたんだと僕は思ってます。動物と人間のレベルっていうのは勿論認知レベルで違いはありますけども、そのくらいのことはゴリラでもチンパンジーでもやるんだっていうことが今の我々の理解なんです。
女性
ゴリラのレベル……レベルっていう言い方がふさわしいのかどうかわからないんですけど、一昔二昔前はそういう霊長類の世界と人間の世界をスライドさせて持ってきてするような説明があったと思うんですけれども、ああいうのはやっぱり今ではおかしいでしょうか。
たとえば、あのボス制度を会社制度に移行するような……。
山極
だから、今日も私が言ったように、誤解したまま易々と垣根を越えると、大きな間違いが起こるわけですね。たとえば猿のボスだとかいうものを、人間社会に簡単に当てはめて言うのは間違いということが多いです。ただ、正しくそれを解釈して見ていくと、人間でもね、実際に我々がこういう意味だと思っていたものの由来では、由来っていうのは元々の形を辿ると、今では考えつかなくなった過去が見えてくるっていうのがあって、それが実は私の探りたいことです。
だから、たとえばさっき、千三郎さんがずーっと近づいていきましたよね。もし人間であったらほっぺたひっぱたかれますよっていうのを言った。確かにその通りなんです。でも、あれは、ひょっとしたら元々人間はああいう挨拶の仕方をしていたかもしれないですよ。それが言葉を持ったために、ちょっと離れて相手の顔を見て挨拶することができるようになった、それが常識になったから、あそこまで近づかないのが当たり前なんだけど、それは我々の古い挨拶の形を示してくれているかもしれない訳ですよ。それはだから我々の想像力をすごく広げてくれるものだと僕は思ってます
女性
すいません、土佐先生にもお伺いしたいんですけども……。
司会
ちょっと短くお願いします。
女性
はい。
最後の方で、『プロジェクションマッピングは現代の祭りであり、呪術である』から続くようなお話なんですが、アーティストの方がこういう呪術性の復活ということをよくおっしゃるのを聞くんですけれど、私は呪術社会になってほしくないと思ってるものなんです。あまりにも安易に呪術呪術と言ってるのが逆に現代に復活してきてるように思っておりまして、最後のスライドに出たようなお話のプロジェクションマッピングを今話題の日の丸でやってとか言われたときに、この論理では反論していけないと思うんですね。
本当はちゃんとあるんだよということがあれば良いんですけれど、それがなかなかわからないもので、こういう呪術って素敵ですよだけだと、なんかちょっと怖いことになってしまいそうなんで、もしそこらへんでお考えがあればお願いします
土佐
説明不足だったと思います。
呪術と言うよりは、そこまで濃いものではなくて、一つは祭りのようなもの、一つはやはりオリンピックとかああいったようなものとちょっと近いというか、同じように一つの場所にみんなが集まり、そこにその映像を共有するっていう機会はあんまりないわけですよね。だからすごく何かを伝えるインパクトを持ってるメディアだなと実は思ってます。
今回で言えば、琳派四〇〇年の京都府のオープニングですっていうのを伝えるための目的がそこにあったわけですね。それでああいう形で行ったと。一つの祭りのイベントのオープニングであったわけです。だから、そんなに呪術ばかりを強調しているわけではなくて、一つのたとえとしてお話をちょっとしたわけでありまして、そんな怪しいものではないし、どっかに持っていくようなメディアでもないし。ただ、色々な可能性っていうのはすごくあると思います。
近いものでいえば、ミュージシャンのライブだとかああいったものにも近くなってくるのかなっていう気もしますし、今から出てくると思われるのは、ただ見るだけではなくて相互作用があって、何かに反応する? たとえばみなさんのiPhoneだとか携帯電話を通じて何かと反応するとか、そんな難しいことしなくても何かを持っていて、それに対して反応するとかそういったこともこれから出てくると思うし、一つのメディアなんですよね。媒体。媒体ってあって、まあでもメディアの語源は”巫女”、巫女さんですから、やっぱり何かを伝達するメディアなわけです。そういった意味でちょっとお話をしました。
たとえば、ここにおられる千三郎さんだって、先ほどゴリラ楽をやられたときに、そういう媒体というか、ゴリラの媒体であったと思うんですよね。憑衣って言い方もあると思うんですけれども、我々がその色んな顔があって、色々なことを演じますよね。先生であったり、お母さんであったり、お父さんであったり、会社員であったりっていう顔があるんだけどそこでも色々な憑衣っていうものが軽く行われていて。
まあでも現代の中において映画の誕生、あれだけの人が集まるってことは確かにあんまりなくって野球場とかライブだとかそういったところしかなくて、そこに行くと何かうきうきするようなエネルギーってあるじゃないですか。そういうことをたとえとして私としては話しました。
司会
アートの起源とかですね、アートとは何かとかですね、現代におけるアートというのはこの三人の議論の中で色々あったと思うんですが、時間もそろそろ終わりですが最後にたぶん京大におけるアートというような議論がまったくなかったんですが、もし学生さんの中からそういう風な質問のおありの方であれば……

(手が上がる)

では一番奥の眼鏡の方
眼鏡の男性
すいません、先ほど土佐先生が学生にもっとアートをやって欲しいっていうことでおっしゃられましたけれども、たとえばアートをやるってなったときに、どうやってアートを僕ら学生がやっていくかってなったとき、たとえば場所がないだとか、さっきも今PARASOPHIA(京都国際現代芸術祭)で色々やってるんですけど、そうやって作品を作るのにあたって作品というのは芸術作品でなくても科学の成果なり学問の成果なりっていうのも確かに作品、芸術作品として一つ捕らえられるのかもしれないです。
ですが、実際そうやって僕らがアートに対して活動していく場がない。ここでのアートっていうのがどういう風に定義されているのかっていうのがまだ明確じゃないので、ちょっと芸術作品としてのアートってことを言っているのかわかんないんですけど、とりあえず僕ら学生側としては、大学の方にもっとアートな京大っていうことで目指していただくのであれば、僕らも活動できる場が欲しいと考えるんですね。
だから、土佐先生山極先生の、京大の先生としてのどういう風にアートな京大を作っていきたいかっていうことと、あと千三郎さんの京大の外から見た、古典芸能的な立場から京大にどういう風にアートな大学になって欲しいかって言うのを伺いたいのですが、最後になってしまって申し訳ないです。
土佐
まずアートって何っていうことをもう一度話したいと思うんですが、話してなかったのかもしれないですが、アートって場を与えられてやるもんじゃないんですよ。
表現せざるをえないような心の中のものがあって出てくるんですよ。それが第一。場所があるからアートやれるとか公園があるから講演で遊ぶとか、そういう話ではなくてですね、表現せざるをえないようなものっていうのがまずあるっていうのがやっぱり第一の発端じゃないかなって思うんですよね。
まずそういうのを持っていただきたい。自分の中で表現したい。これだ、これを見せたい。これを人に伝えたいっていうようなものを、自分の心に問うて欲しい。それが一番重要なことだと思うんですよね。これがなければ、場があっても、活性化しない。
それから第二に必要なことは、仲間を見つけること。一人ではできないですよアートって。私も二十代の頃結構生意気なところがあって、やっぱり様々なことを人より率先してやりたいと思ったから、いろんなチャンスを見つけようとしたんだけれども、やはり仲間が要るんですよね。切磋琢磨する仲間が要る。研究もそうだと思うんですけども。ライヴァルと言っても良いかもしれない、ある意味。そういった仲間と一緒に色々切磋琢磨して、こういう運動をするっていうような、アートって言うのは一つのムーヴメントでもあるんですよね。美術史を辿ってみても、たとえば立体派とか超現実主義とか、いろんなものがあって代表的な人がそこにいるわけだけれども、そういう風な仲間がいるということ、そういうことが必要。そういったものが同時にあったとして、たとえば芸術系の具体的な組織についてはですね、まあ山極先生がおっしゃっていただくと思うので、私はあまり言わないことにしますけれども。
まず君達の心構えとしてはそれが欲しい。京大のいいところは、普通の単科大学の美大と違って、私自身も美術大学の映像学科で十年くらい教えてたんですけど、他の学部の人とすぐ話すことができるんですね。ですから、今日のテーマである境界を乗り越えること、境界を越えてみることっていうのがわりとやりやすいんですね。同じ歳の仲間がそこにいる。だから学部を越えた人達で何か新しいことを一緒にディスカッションして、じゃあ一緒にこういうの作ってみようよっていうことが出てきやすい環境にある、そういうのを活用してほしいっていうのがあります。
勿論美術クラブだとか演劇だとか能だとかクラブがありますよね、京大には。その中で、それとはまた別に、新しい形で、横断的な学部を越えた形の、まあ大学院になるか学部になるかはわかりませんが、そういったものが建って、多分大学院かなあと思うんですが、そういった何かしらの組織のができることを我々ちょっと考えているんですが、山極先生どうでしょうか
山極
僕は最初に言ったように、なんかおもろいことを京都大学でやりましょうっていう風に提案をしました。
で、おもろいことっていうのはちょっと抽象的な表現だから、おもろいことの中にアートっていうのがあるだろうって最初にあるだろうって言いましたよね。アートっていうのは見えないものを形にすること。そういう作業を通じてこれまでひしめいていた分野の境界というものをできれば楽しく乗り越えて、新しい発想をみんなで語り合う、そういう大学にしたいな、それがアートな大学を目指してっていうことなんですね。
土佐さんがおっしゃったように、場所があらかじめ与えられてあるからこういうものを制作するってものが生まれてくるのではない。気持ちなんですよね。それを言い合う人達が増えてくれば、当然のことながら、それを一つの形にしましょう、組織にしましょうっていうムーヴメントも生まれてくるはずだし、それが必然性を持てばそれは学問として手を出してくるのかもしれない。それをなるべく早いうちに見定めたいなという気持ちは僕にはあります。
京都大学の外にもたくさんのアート系の大学があります。あるいは、アート系の組織があります。京都は芸能の都でもありますからね。そういう人達とのコラボをしながら、一体おもろいこと、アートってのはなんやっていうのを、少しずつ京都大学に取り入れながら、何か新しい動きができないかなあと今は思っているところです。千三郎さん外から見てどうですか。
茂山
すごく難しい質問でございますが、外から見てて京都大学がやっぱり羨ましいのは何でもエキスパートがいらっしゃることだと思うんですね。何か調べたいな、何か聞きたいなって思ったらすべてエキスパートの先生がいらっしゃる。で、今土佐先生のおっしゃった通り、何もないところからアートっていうのは確かにできないと思うんですね。
何か自分の中で発見して、この点をこの点をつなぐことによって何かができるんではないかなと。今回の山極先生と狂言師っていうものがくっついてゴリラ楽っていうのが生まれたのと同じように、何か火花を散らして同じものができあがっていくっていうのがまず最初だと思うんですね。それをどういう風につないでいくのかっていうのは、こんな年寄りの頭じゃなく若い人達の発想と、これとこれとつながったらどうなるんだろうなっていうところを貪欲に見つけてそれをつないでいくということができる、そういう大学ではないかなという風に思います。僕が狂言をずっとやってて一つだけ今感じているのは、狂言ってできあがって六百年、六百二十年くらいだと思うんですね。その頃、狂言ができた頃の人間っていうのは現代の人達にすごく近いと思うんですね。
たとえば、男と女の関係とか、歌を読みあって恋愛をしていたのが今メールを読みあって恋愛をしたりとか。あるいは、主従の関係・下克上の社会、そういったものが今の世の中にも混沌としていて、江戸文化みたいなものがあるんですけれど。もうその六百年前の平安ってことを考えるとなんか京都に六百年ごとに回帰してるって僕は感じるんです。
ですからこの時代に、東大じゃなくて京大が、何かの文化を作らなきゃ駄目なんじゃないかなと私はそういう風に命令形で(笑)、作り出してくださいっていう風にお願いしたいと思います。
山極
大変重く受け止めさせていただきます(笑)。
司会
まだ質問のおありの方もいらっしゃると思いますが、もう八時十分過ぎましたので、非常に申し訳ございませんがちょっとここで打ち切らせていただきたい。やっぱりちょっと最後質疑応答形式になってしまったのは最後司会の私の責任かなあと。もう少し議論形式でこちらからも問いかけて、お三人からも問いかけてという形にしたかったなあと思うんですが次回は是非そういう風な形にしていきたいと思います。それではですね、今日はちょっと司会の不手際もございましたけれど、私としてはみなさんに楽しんでいただけたんじゃないかなあという風に思います。これから二回三回と、今日の議論を元にアートな京大にしていくための議論を続けていきたいと思います。それでは本日はどうもありがとうございました。