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第1回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『垣根を越えてみまひょか?』 第1回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『垣根を越えてみまひょか?』
2015年4月24日(金)

司会:中津良平先生(以降敬称略、司会)
パネリスト:京都大学総長 山極壽一氏(以降敬称略、山極)
大蔵流狂言師 茂山千三郎氏(以降敬称略、茂山)
アーティスト・京都大学高等教育研究開発推進センター教授 土佐尚子氏(以降敬称略、土佐)
土佐
それでは私土佐が、発表させていただきます。
私は、専門がアート&テクノロジーと呼ばれるもので、簡単に言ってしまうとメディアアートの分野に入るんですけれども、ちょっとですね、時代が今までの人間の起源っていうところからもう少し進みましてですね、少し現代のアートのことを少し、話したいと思います。で、現代のアートの、それと現代にとってアートとは何か、ということと絡めて話したいと思います。今日ちょっとお話しますのは、『TOSA RIMPA』と書いてありますが、芸術と先端技術の融合で日本文化を継承する、ということについて話してみる。
まずですね、今日のテーマであります、私にとって垣根とは、っていうことなんですが、何かなぁ、って色々考えたんですが、私自身は今までアーティストとして仕事していますので、垣根をいかに越えていくか、ということ自体が仕事なんですね。よく考えてみればそうだなぁ、と思っていて。細かく言うと、芸術とテクノロジーを、水と油のようなところがあって、論理と、そうですね、合理的なものと非合理的なものを越境するというものをいつも考えています。最終的にはですね、それはどういう形でできるかというと、やっぱり自分自身を越えることだと思うんですね。いつも考えていることは、タブー、自分にとってできるかなぁできないかなぁ、っていう選択肢が二つあって、一つは簡単な方、一つは難しい方、まぁよくあるパターンですよね。簡単だけどつまらない方、それから難しいけど面白い方。そうした場合、私としては、難しくて面白い方を選ぶ。こういう生き方をして、垣根を少しずつ越えていけたらいいなぁ、と思っております。
こういうことをちょっと考え始めた背景としてはですね、これは2009年に書いた本なんですが、『カルチュラル・コンピューティング』という本を書きました。これは実は、私は京大に来る前にMITに三年くらいいたんですが、日本を外から見たときに、自分は初めて日本人だっていうことを感じたんですね。これもそうなんですけど、よくあるパターンなんですが、日本がとてもそれまであまり好きではなかった。海外の方が、アメリカの方がかっこよく見えて、1960年代の生まれなんで非常にアメリカ文化の中で育ったんです。で、アメリカに行った。MITに行った。でもそこで求められている私の立場、というものは、やはり日本人であり、日本の文化であり、様々な日本のアートをそこで作ってほしい、ということを求められていたし、そこで今まであんまり好きじゃなかった日本が、すごくいいところが見えてきたんですね。当たり前のことなんですけども、私たちは、日本人だ、日本人でない方もこの中におられるのかもしれないんですが、文化を洋服のように脱ぎ捨てることはできない。明日からアメリカ人、とか、明日のその次はフランス人、とかいうふうにはなれないわけですよね。そういうことを考えているうちに、アート&テクノロジーの中の芸術の外側にある文化に興味を持ちました。文化、っていうのはもちろんあんまり目に見えないものなんですね。こういったものをですね、現代の方法で、私はコンピューターにすごく興味があったので、こういったものでデジタル化して、そういった形のもので作品を作り、人々の心に触れるようなもの、っていうことができればいいな、と思っていたわけです。
さらに京都に来てですね、日本文化の様々な素晴らしいものに出会いですね、そういったものの末端に、一番、そういったものの末端の一番末端に自分がいる、っていうことに自覚的に気づき始めていて、そういった伝統を継承できればいいな、と思っています。うちの研究室では、特に日本文化のコンピューティングっていうことに興味を持って進めていて、移ろいやすい、日本の移ろいやすい風物とか、侘び寂びですね、それからアジアの文化との関係だとか神仏習合のことだとか、和歌、俳諧での言葉での特徴ですね、そして、最後に日本的な意匠について研究してます。
土佐尚子氏
土佐
日本的な意匠といえばですね、日本の意匠、ここから始まった、っていう琳派でございます。琳派というのはご存知のように、俵谷宗達、尾形光琳っていう有名な方がいて、特徴としては王朝文化の美しい金箔ですね。あと装飾性だとか。リズムを持った風流だとか、デフォルメされた大胆な構図だとか、垂らしこみ技法、表現技法っていうものがあります。垂らしこみ表現技法っていうのはこういうもので、真ん中のマーブリングのようなものですね。それはジャポニズムを経てですね、琳派のヨーロッパの印象派に影響を与えてます。これは、グスタフ・クリムトの作品ですが。それでですね、こういうものに非常に私は影響を受けて、なんとかこれに太刀打ち、引き継げないか、っていうことを考えており、最初に『音のいけばな』というものを作りました。ここに見えている紫の杜若。音で作った生け花でございます。
これはですね、いろいろ、参考にいろいろなものを読んだんですが、風流は先代、先人の上に立ってそこから工夫を凝らし新しいものを作る、ということをですね、林屋辰三郎先生がおっしゃられてます。これは京大の人文研の先生であり、京都国立博物館の館長も兼任された方ですけれども、そこで、この琳派の風流をコンセプトに基づいて、伝統と現代性をミックスして新しい芸術を創出する。これをですね、メディアアートですから、高速度カメラを用いてですね、まだ発見されてない自然界に潜む美、っていうものを表現したい、ということをコンセプトにしました。
これはよく見られる自然界に潜む美のパターンですね。さらにもうちょっとミクロなところに行くと、氷の結晶ですね、こういった様々な裸眼では見えない世界、自然界のものがあります。それで、方法論としては、絵の具などの粘性を持った液体に注目しました。液体にですね、高速の振動を与えて、スピーカーをもってですね、それが融合する様をですね、毎秒2000コマで撮影をいたしました。そうしたところですね、試行錯誤の上ですね、これまで見たこともないような造形物が生成されました。それとさらに、金箔銀箔の伝統色、そして液体が様々な色が混じること、粘性を変えて、あと音の振動をもって形を作ることを、いろんな実験を行い、生け花のように見えるように見立てました。
それちょっとお見せしたいと思います。これがセッティングで、実験室ですね、うちの教授室をつぶしてやっておりますけれども、スピーカーの上にゴムを張って、様々なものを載せるわけですね。で、音の振動を与えます。そうするとこういうふうに飛び上がるわけです。でもこの形は、やっているときには見えない。できたあと見えるものです。撮影後のカメラも、もう大変な状態になっております。これはもう、何十回何百回とやった後ですね。それをですね、二年前、シンガポールで、マリーナベイサンズという新しくできた場所があるんですが、そこのマリーナベイサンズの持っているアートサイエンスミュージアムで、個展をしました。さらに、この蓮の形をした白いものが美術館で、その外側にもプロジェクションマッピングをしました。これはですね、すごい最初にやったプロジェクションマッピングで、非常に感激をしまして、夜の夜景の中に落ちてきた惑星のように見えたんですね。じゃぁ、ちょっとこの映像をお見せしたいと思います。

(土佐、映像を流し始める。)

シンガポールは四季がありません、ご存知のように。ですから、日本の四季を表現しようと思いました。日本の四季を様々な色ですね、それで色でやって、さらに俳諧、俳句でですね、芭蕉、一茶、蕪村の俳句で四季を表現しております。新春から始まります。新春と言えば、赤、白、金ですよね。で、だんだん春になっていきます。春のパステルカラーの色。それから桜ですね。これは平安時代の襲の色目を、弥生の色。面白いことにですね、これはシンガポールのプラナカンカラーなんですよ。これを、日本の春の色の中に入れても、全然違和感がない。いろいろやってですね、試したんですけれども、アナログの世界なので、一つたりとも同じ形が出てこない。これが非常に面白いところでした。
これは私が、一番面白いと思っている形なんですが、なんていうんですかね、こう人がダンスをするような。ここにもいろいろな、様々な物理の法則とかがまだまだ秘められているんじゃないかと思うんですけども。

(土佐、映像を止める。)

このあとですね、去年から準備をしていて、今年のついもう先月ですけれども、プロジェクションマッピングをですね、京都ですることができました。先月ですね、琳派四百年記念ということで、京都国立博物館の方でですね、風神雷神、二十一世紀の風神雷神伝説ということで、これからの未来をですね、なんとか引き継いでですね、琳派の未来を引き継いで我々がいけないか、ということで私のほかに笹岡隆甫さん、生け花未生流笹岡の家元でございますけれども、それから茂山逸平さんですね、狂言の、と一緒に三人で、伝統とIT、まぁメディアアートのことでですね、プロジェクションマッピングをつい先月行いました。それをですね、ちょっとお見せしたいと思います。

(土佐、動画を流し始める。ところどころ飛ばしながら進めていく。)

このプロジェクションマッピングはですね、全国から約二万人弱の方が来られて、山極総長にもご挨拶していただきましたけれども、本当に本当にもう大勢の方が来られました。老若男女ですね。風神雷神伝説と謳ってますので、最初はその、菅原伝説、風神雷神伝説の由来であります菅原道真伝説の、あのところから始まってですね、そこでは様々な火事があって、そこから菅原道真の、なんていうんでしょう、レクイエム、のところから始まります。
本当にこれまだ、三月の半ばなんですけども、非常にですね、もう寒い中本当に大勢の方に集まっていただき。で、風神雷神が現れるんですが、ここではまだその人格神にはなっていない、アミニズムの風の神、それから雷の神が出てきて、京都を、京都中を非常に荒れ狂っているというか、そういう状況を表しております。
ちょっと先を進めますけれども、ここからですね、風神雷神図が出てきて、伝統と新しいものの融合ですね。ここからですね、まぁ風神雷神の由来のある狂言っていうことで、狂言の『神成』ですね、が上映されます。神が成ると書くんですけれども、この雷の神がいつも雷を落としてたんですけれども、誤って自分自身が落ちちゃうわけです。こうやって落ちちゃって。で、腰を打って、痛い。ってこういうときに通りすがりの藪医者に腰を見てもらって、そこの場所を八百年守り続けた、というようなお話でございます。これをですね、この狂言の身振りをですね、まさにこの狂言を引き継ぐかどうかはわかりませんが、アニメがですね、追従するわけです。同じような行為をします。
その後ですね、これは笹岡隆甫さんとのコラボになってくるんですけれども、杜若ですよね、これは尾形光琳の杜若のオマージュですけれども、夏、秋、冬、春という形で進みます。もうちょっと先に進みます。はい、こちらはですね、もちろんご存知の尾形光琳の、紅白梅図屏風。で、だんだん春になっていきます。ちょっと早めます。梅ですね。音楽はですね、近藤等則さんというジャズトランペッターの方です。春です。

(土佐、動画を止める。)

という、本当は二十七分あるものだったんですけども、こういうことを行いました。
最後にですね、まとめとしてちょっとお話ししたいな、と思うんですが、現代に芸術が必要な理由ですね。まず、現代の技術を使うことで今まで表現できなかった新しいものが生まれてくる。伝統を継承していくっていうか、伝統が守られているっていうのは、実は守っているだけではなくて、変えていっているから伝統が引き継がれているんだと思うんですよね。そのへんはあとから、ちょっと千三郎さんにお聞きしたいところなんですけども、それをですね、今回の伝統に携わっている人たちとコラボレーションをして、すごく感じました。現代の方法でもって変えていくということ、一つのその方法として技術を使う、現代の技術を使うってことがあるんではないかと思います。
あともう一つは、これはプロジェクションマッピングをする時はいつも思うことなんですけれども、これもう祭り、祭りであって、もうちょっと深く言えば昔の呪術のようなものではないかと思うわけです。様々な時にですね、昔の人たちが、能も最初そうでしたけれども猿楽と言って、神様への、踊りを捧げるっていうようなこともありましたけれども、これは一つは呪術であって、その呪術をみんな信じてるわけではないんだけれども、この現代において必要な理由っていうのは、なんですかね、非常に様々な合理性を重要視される現代において、こういうときに合理性を解き放ってですね、なんていうんでしょう、人が本来持っている生命力ですね、生命力っていうものを非常に感じるっていうか共有できるというか味わえるというかですね、そういう力があるのではないかな、と非常に思います。
このプロジェクションマッピングっていうのはですね。なかなかやるまでにものすごい大変なんですけども、シンガポールでやったときも、京都でやったときも本当に思ったんですけれども、様々なそうですね、ところを乗り越えていかなきゃならないわけです。それが予算であったり、たとえばそれが様々な管轄の観光庁とかですね、様々な都市開発庁だとか、様々な省庁を乗り越えてですね、OKをしていくところが面白い。実は。で、もちろん最終的に映像を作るところも面白いんだけれども、そこはもう一つ垣根を乗り越えていってるし、あぁいった、ってだんだん現実に近づいているわけですよね。だからそういったように、現代人にとってですね、アートっていうのは昔以上にですね、こう切実に生命力を感じる感じで、生命力を発散する場としてですね、必要なのではないかと思います。以上でございます。
山極
はい、どうもありがとうございました。それでは三人の鼎談に移ろうかと思います。
お二人の発表を聞いて、いやぁ俺はアートから遠いなぁと思いました。遠いな、と思いましたよ。でもね、最初の千三郎さんの狂言を見てみんな驚いたと思うんですけども、僕が最初に見たとき本当に驚いたのは、茂山さんの構えが本当にゴリラの構えになってるっていうことだったんですね。あれをね、実はゴリラって腕が足よりも相当長いですから、人間のように足が長くて手が短い動物があの構えをするとすごい大変なんですよ。腰が辛い。ですよね。
茂山
辛いです。
山極
腰をそらなくちゃいけないから。
茂山
はい。
山極
そうしないとゴリラらしさは出ない。
茂山
でも、それ逆なんですよ

(茂山、壇上に上がって構えの実演をする。)

実は今日も入れようかなと思ったんですけれども、そのゴリラの構えをしているのが、そのまま上がってくるのが狂言の構えなんですよ。だから、恐らくゴリラの方が先ですよ。

(茂山、着席する。)
山極
いやぁ、ありがとうございます。それでね、僕は千三郎さんよりゴリラの構えをよくできると思う。
茂山
そうですね。
山極
それはね、なぜかっていうと、僕はやっぱり実践的な必要に迫られてそれを覚えたわけだから、ゴリラの群れの中に入ってゴリラに「お前はゴリラ的だ」と認められないと、群れに受け入れてもらえないから、一生懸命勉強したわけですよ。でも、私の究極の目標は、別にそれを表現することではなくて、ゴリラの群れに受け入れてもらえて、彼らの行動をきちんとデータにとって、それを分析することにあったわけだから、それでいいんです。
でも千三郎さんの場合には、それを自分で表現をして人間に見せなくちゃいけないわけですよね。そこに大きな芸があるわけです。そこは僕が越えようと思っている垣根とは違う垣根がそこには存在する。それは僕らは人に見せる必要は全然ないわけですよ。でも千三郎さんの芸はそれをゴリラとして見てもらう。しかもその中に狂言独特の雰囲気を味わってもらう創作というものが入っているわけでね、そこでだから、千三郎さんはどういうふうに垣根を設定してそこを越えたのか、っていうことをちょっとお聞きしたいと思うんです。
茂山
そうですね、今山極先生のおっしゃった、恐らく山極先生はゴリラと対面して、自分がゴリラになろうとされて、本当になられたわけですよね。

(山極、ゴリラのお面を顔に当てて、外す。)
茂山
ち、違うか。
で、ゴリラに受け入れられたわけなんですが、私たちの芸っていうのは、どうしてもベースになっていくのは世阿弥の説いた『花伝書』であったりとか、『風姿花伝』どいうところの中で述べられている「離見の見」、という言葉ですね、離れたところから自分をもう一度見なさい、と。自分がそのものになるんではなくて、客席にたった目で自分をもう一度見ることによって、冷静な表現ができる、というところがやっぱり今の話の中では一番違う部分ではないかな、と思うんですね。
中にはもうその役になりきるんだ、っていうお芝居のやり方も当然あるとは思うんですけれども、それだけでは自分っていうものは制御ができない、コントロールができない。その眼を持とうっていう戒めだと思うんですね。そういう部分で自分が鏡を映して演じていくことによって、どういうふうに見えているんだろうか、ということをやっていくというところが今のお話の中では一番違う点と言いますか、論点になるんじゃないかな、と思います。
山極
土佐さんはその離見の見っていうのはあるの?
土佐
離見の見。そうですね、私今ふと思ったんですけど、離見の見というか自分を省みるというか客観的に見るというか、あると思います。まずそれができないと、アートは成立しないと思います。自己主張してるだけだというのは、起源はそこにあるという説もあったみたいですけど、もう少しその客観的に見てですね、客観的に見てというのはどういうことかというと、たとえば、何か一回絵を描いた、と。で、絵を描いて、翌日それをもう一度冷静な目で見た、と。で、それを人々に見てもらって意見を聞く、と。そうやって芸術っていうのはだんだんうまくなっていくものだと思いますけれども、そういった中でまず人の意見を聞く、ということなんですよね。
それはどういうことかっていうと、聞けなかったりする意見ももちろんあるんですけれども、すごく深く考えて、それが正しいかどうかっていうのを非常に吟味していくっていうことは重要かな、と思いますし、そういうものっていうのはどのアーティストでも持っていると思います。
山極
さっきさ、土佐さん発表の中で、アナログでやっているから、これは二度と繰り返せない、毎回違うんだって話してましたよね。
土佐
えぇ、一期一会です。
山極
実はね、そのサイエンスっていうものが追究してきたものっていうのは、アートと同じように見えないものなんですけれども、見えないものは繰り返せるもの、その法則性というものをサイエンスは、多くのサイエンティストたちは追究してきた。だけどそれは形にならないわけですよね。でもそれを形にする方策というのを図形にしたり、数式にしたり、言葉にしたりして表してきたっていうのはこれまでの歴史だと思う。
でもアートっていうのは、いつも僕も疑問に思っているんですけれども、版画は何枚でも刷れるんですけど、普通一個しか作らないですよね。複製っていうのをすごい嫌がるじゃないですか。あれなんでなんですか。
土佐
オリジナリティということにこだわっているんではないかと思います。オリジナリティ、版画もエディションっていう形で五枚とか十枚とか五十枚とか限定付きでやるんですけれども、オリジナリティのあるもの、っていうところにこだわるのではないかと思うんですが、これもですね、美術の定義なんて時代によってやっぱり変わってしまうと私は思うんですね。
このなかでひょっとしたら反対する方がいらっしゃるかもしれないんですが、私たちがやっているメディアアートだって複製ができてしまうし、いくらでもできちゃうわけですよね。じゃあ何が残るの、って話になってきたときに、やはりですね、そこででてくるんですけども、ベンジャミンが言っていたオーラ、アウラ、っていう話もあるんですが、それも一つであり、非常にオリジナリティのあるものというか、コロンブスの卵的なところも少しあるんですけれども、そういったものを、だれもやっていないことをやる新しさと驚きと、歴史の中でそれが出てくる必然性というのを考える。そういった道筋が大事かな、と思います。