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第1回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『垣根を越えてみまひょか?』 第1回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『垣根を越えてみまひょか?』
2015年4月24日(金)

司会:中津良平先生(以降敬称略、司会)
パネリスト:京都大学総長 山極壽一氏(以降敬称略、山極)
大蔵流狂言師 茂山千三郎氏(以降敬称略、茂山)
アーティスト・京都大学高等教育研究開発推進センター教授 土佐尚子氏(以降敬称略、土佐)
司会
それではお待たせしました。第1回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」。これが全体のテーマなんですが、その第1回目個別のテーマは『垣根を越えてみまひょか?』。いかにも面白そうなテーマでありますが、これから始めたいと思います。
私は司会の中津と申します。京大のOBで、このアートな京大を目指して委員会のようなものがありまして、そこの委員をしております関係で、今日はちょっと司会をやらせていただきます。
まずですね、この鼎談ということでお三方のお話で、話と議論で進めていく、という形になりますので、三人の方を紹介したいと思います。
まずは、皆さん、もう本当に紹介するまでもないと思いますが、山極総長。京都大学の総長で、かつ、ゴリラ学の権威としてよく知られております。
それからその隣が土佐尚子教授。京都大学の教授で、メディアアーティスト。あとはご本人がそれぞれの話の中で、自己紹介されると思います。
それからもう一つ向こうの席は、大蔵流狂言の茂山千三郎さんなんですが、いらっしゃいません。もう始まってるんですが、遅れて来られるのか、というふうに皆さん思っておられると思いますが、この謎はあとで、おいおい解き明かされるということでございます。
さてそれでですね、「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」ということなんですが、「アートな京大を目指して」とはなんだろう、ということで、そういうこともあって、今日は非常に多くの方に来ていただいているんだと思います。私自身もそういうことで、京大出身ではありますが、京大にはアートの学部と学科というものはございませんので、その京大が「アートな京大を目指す」というのはどんなことなんだろう、と私自身も非常に興味をもってこれから聞かせていただきたいと思います。
具体的にどういうふうなことを今日ですね、お三方にお話しいただくのかというと、アートの起源ですとか、アートとは何かとかですね、現代におけるアートの意味とか意義とか、京大にとってアートとは何か、とかそういうことなんですが、この京大おもろトークはこれから、今年四回やっていきますので、今日全部答えが出てしまうと、もうこれ以上やる必要はありませんので今日はそのとっかかりということで、ともかく議論を盛り上げていこう、というふうなかたちで、ぜひ議論が盛り上がるような方向にやっていきたいと思います。
それからもう一つはですね、聴衆の方は単に聞いていただくだけではなくて、インタラクティブな形で議論に参加していただくということを期待しておりますので、最後の三十分は聴衆の方も議論に入っていただいて、単に質疑応答ではなくてですね、議論に入っていただくという形で盛り上げて終わりたい、というふうに思っておりますのでぜひよろしくお願いします。
それでは、最初に山極総長の方から口火を切っていただきたいと思います。よろしくお願いします。
山極
皆さんこんばんは。山極でございます。ちょっと花粉症をこじらせまして、少し声が悪いんですが申し訳ございません。
去年総長になって以来ですね、京都大学でおもろいことをやりましょう、というふうに呼びかけてきました。このおもろいこととアート、っていうのは相性がいいんですね。で、おもろいことってなんや、ってよく聞かれますから、じゃぁまずはその相性のいいアートからやっつけてみようか、というふうに思いました。
アートっていうのは、軽々と垣根を越える力を持っている、というふうに思いました。じゃその垣根ってなんや、って言われたら、私にとっての垣根はこれでございます。

(山極、ゴリラのお面を顔に当てて、外す。)

ゴリラのことですね、人間に似て人間に非ざる動物がおります。これが私の垣根で、私の学問はこの垣根を越えて向こう側から、人間の世界を眺めるということを長年やってきました。自分では垣根を越えたつもりなんですが、越えてないかもしれん。で、そのあたりがアートのうごめく領域だろうと思っておりますんで、そういうお話をしようと思っております。
私の考えでは、まずアートっていうのは、見えないものを形にする装置ではないかな、と思っております。これも後から披露してもらいたいんですが、それと、さっきも言った通り、既存の垣根を越える力を持つ。しかし、彼らが私の学問の面白さ、誤って垣根を越えると、由来を間違って解釈をすることになる。その、一番いい例がドラミングというゴリラの行動なんですね。
山極総長
山極
(ゴリラのイラストが示される。)

これ、十九世紀のアーティスト、絵描きが描いたゴリラのドラミングの絵なんですね。非常に獰猛に描かれています。そして、右側のイラストでは、ゴリラが人間を襲う、イラストが描かれています。まだゴリラをこの目で見たことのないヨーロッパの人たちは、ゴリラをこういうものだと思った。そしてこれで、この絵で垣根を越えられると思った。そしてその言説は、こういうポスターや『キング・コング』という映画になって百年以上も伝えられました。そもそもゴリラが凶暴だ、戦い好きだというふうに人々が考えたのは、ゴリラがこう二足で立って胸をたたくという行動をしたからなんですね。これを最初に見たヨーロッパの探検家は、宣戦布告だというふうに解釈をした。でもそのことによって、実はチャールズ・ダーゥインによってアフリカにいるゴリラっていうのは人間の祖先に一番近いといわれて、人間の昔の祖先たちはゴリラと共通の祖先を分かち合う、実はその共通の祖先というのは今のゴリラと同等な、あるいはそれ以上の強大な攻撃力を身に秘めた人物だったに違いない、という誤った解釈がなされた。それは誤って垣根を越えたがゆえに、人間自身の由来を間違って解釈をした結果なわけです。
これは、皆さんひょっとするとご存知かもしれませんが、『2001年宇宙の旅』の冒頭に映されている、「夜明け前」というシーンなんです。右側の上下の写真を見てください。これは人類の祖先が昔、それまで暮らしていた熱帯雨林の森を離れて、サバンナへと足をのばしたときに、狩猟を始めた。それでその狩猟を始めるのに、近くに転がっていたキリンの大腿骨を使って動物を殺すことを覚えた。そして下の写真は、人間の集団同士が水場を争っていて、それまで獲物を殺すために使っていたキリンの大腿骨を今度は人間同士が戦う武器として使い始めて、人間はさらに道具によって自らの凶暴性を表現能として高めた、という一つの構図なんですね。まさに人間は狩猟によって攻撃力を高め、そして武器によってそれをだんだんと人間の社会に律する形に仕上げていったというのがこのストーリーなんです。それが現在だというのが『2001年宇宙の旅』でした。そしてそれは、アメリカの劇作家のロバート・アードレイによって瞬くうちに世界に広まったわけです。
未だにそのストーリーを信じていらっしゃる方は多いと思います。そのそもそものきっかけは、人間の祖先は強力な攻撃力を持って生まれたんだ、という誤った考えなんですね。それはゴリラのドラミングを誤解したところからきている、と私は思います。

(音声とともにゴリラに関する動画が流れ始める。)

ところが、実際にゴリラの群れの中に入ってドラミングを見てみますと、そうではないことがわかる。これ、ちょっと見てみてください。
動画の
ナレーション
(以降動画)
午後、食事が終わると、群れのメンバーはみんなでお昼寝。あぁ、あぁ、気持ちがよさそう。リーダーのシルバーバックは起きています。うわぁ、大きなあくび。でも眠いわけではありません。何か緊張しているときのサインです。群れに何者かが近寄ってきていたのです。
群れのメンバーも気づいて起きました。侵入してきたのは、別の群れのオス。メスを奪い取ろうとやってきたのです。群れに緊張が走ります。群れのリーダーが胸をたたいたり気をゆすったりし始めました。
山極
これ胸たたいてますが、誰も怒ってないんですよね。
動画
俺は強いんだぞ!直接戦うのでなく強さを見せびらかして、相手を追い払おうとしているのです。これがゴリラの争いのルールです。
山極
自己主張しあう。それはむしろ戦うためのものではなくて、戦わないためのものなんですね。
動画
ところが侵入者は出ていきません。興奮したリーダー。動きは激しさを増していきます。このままでは取っ組み合いに発展してしまう!と思われたそのときです。一等のメスがリーダーに近寄り、身体に触りました。リーダーの気を静めているのです。
まぁまぁ、あなた。少し落ち着きなさいよ。メスのおかげで戦いにはならず、一時間ほどのち、侵入者は立ち去りました。力の強いオス同士が直接戦うとどちらかの命が危険にさらされます。そのため、ルールを作ったり興奮を静めたり、ゴリラは力の勝負を避ける方法をいろいろと発達させてきたのです。
山極
屈強なオス同士が向かい合って、いざ戦おう、というふうに見せかけておいて、でもその間を、子供を持ったメスが引き分ける。で、そういうメスの提案に唯唯諾諾と屈強なオスたちが従うわけですね。そういうことが、ある意味ゴリラの社会を生むんです。そのときの自己主張にドラミングが使われるわけです。もう一つお見せします。

(音声とともにゴリラに関する次の動画が流れ始める。)
動画
ゴリラの行く手には巣だって間もないフクロウ。もう自由に飛ぶことができます。ゴリラがフクロウに気が付いて近づいてきました。そしてお互いに見つめ合います。
山極
確かにゴリラのオスというのは強大な力を持っていますが、それを見事にコントロールして、いろんな相手と付き合うんですね。
動画
こんなとき、同じ類人猿のチンパンジーならすぐに捕まえて殺してしまうこともあります。ゴリラはいったいどうする。ついにゴリラが手を出しました。あ、でも逆にびっくり。ゴリラは実はフクロウと遊びたいのです。そーっと指をのばして、撫でようとします。あぁ、触れた、大成功。
山極
このコントロールの仕方っていうのが実はアートの源泉なんだと、私は思います。このときにゴリラは、フクロウの側になって考えているんです。
動画
ゴリラはフクロウの反応に遊び心を掻き立てられます。木の揺らし方をいろいろと変えて、反応を見ます。胸をたたくドラミングは興奮の表れ。
山極
この時に胸をたたくわけです。これはもう楽しくてしょうがない。興奮しきっているっていうことですね。決してフクロウを傷つけることはしません。
動画
ゴリラはフクロウの見せる様々な反応が面白くて仕方ないようです。
自分とは違う動物に興味を持ち、遊び相手にしてしまう。ゴリラの遊ぶ能力はこんな形でも発揮されます。
山極
これ、興奮してるわけです。楽しくて。こういうときの自己表現として胸をたたく。ですからゴリラのドラミングっていうものは決して宣戦布告ではなくて、自己の提示、状況の変換、興奮と好奇心、遊びの誘い。いろんな局面で使われるコミュニケーションのことだ、と。
これ、真ん中に、赤ん坊がいます。赤ん坊の時から胸をたたいているんですね。人間の言葉のように、相手と離れてコミュニケーションをする大切な道具なんです。で、二足で立って相手の正面を向くという行動は、実はゴリラだけではなくてチンパンジーもやります。これチンパンジーのオスが自分の強さを周囲の者に示して、自分の社会的地位をみんなに納得してもらっているところなんですけども、これゴリラのドラミングと全く同じ行動なんですね。そして、面白いことに、この行動は人間にもあります。

(歌舞伎の写真が示される。)

これ、歌舞伎の見得です。全く同じ姿勢なんですよ。私はこのようなことにびっくりしました。ゴリラもチンパンジーも人間も、オスが、男が、同じ姿勢をとるじゃないか。この姿勢には、たぶん、同じ由来があるに違いない、と思いました。これを単に現代的なところで比較をして、誤解をしてしまったのがゴリラのドラミングでした。正しくその由来をたどれば、これは自己主張なんだな、っていうことに思い当たるはずです。そこから人間社会を眺めなおしてみると。とても面白い。まだあります。

(ゴリラと力士の画像が示される。)

これはゴリラが自分を相手に顕示する時によく使うポーズなんですけども、これやっぱり相撲と一緒なんですね。これ、相撲っていうのも一種の完成された芸能です。で、ゴリラのようみたいに、人間ナックルウォーキングと言ってね、こぶしを軽く握って指を強くつけて、仕切りをしてるわけですね。こんなこと、本当はする必要ないじゃないですか。
だけど、いかに、この、形の美しさを表現しようかというときに、やっぱりよく似た由来を持つゴリラと、よく、同じような形式を持ってしまう、というのはやはりこの二つっていうのがよく似ているからだろうと思っています。よく似ているというのは、身体が似ているというだけではなくて、社会を持っていて構えていけるか、ということだと思っています。だから、アートの起源というのは、先に私の感想を言ってしまうと、自己主張だろう、と。そして、自分とは違うものに憑依することによってそれを表現したというのがそもそもの始まりなんじゃないかな、というふうに思います。
さて、ここでですね、実際にゴリラと人間の垣根を越えて、それを芸能として表現をした千三郎さんをお呼びしたいと思います。千三郎さん、ぜひ、顔を出してください。

(面を被った茂山が会場後方より登場。前に向かって歩いてくる。)
茂山
ウオッホッホッホッホッホッホッホ、ウオッホッホッホッホ、ウオーウオー、ウオッホッホッホッ。ウオー、ホッホッホッホッホ。

(茂山、壇上に上がる。)
茂山千三郎氏
茂山
ゴリラです。それがし、日本よりはるか西、アフリカ大陸のルワンダに住まいいます、マウンテンゴリラでござる。
先ながら、それがし未だ七歳なれば、ゆくゆくは大人ゴリラ、シルバーバックになりたいと思うて、今はその修行の身でござる。それが本日は、都は京都大学において、われらが父と仰ぐ山極総長のお話が聞けるとあって、これより京都大学に参ろうと存ずる。
ありゃ、何かとをするうち、早京都大学についた。さてもさてもおびただしい人かな。我らのアフリカでは、めったによそのゴリラに会うことはござらぬが、このようにしかじか会うて、戦いをいたすもいかがなり。それについてまずは挨拶をせずばなるまい。
この挨拶の第一と申すは、ゴリラのまず、構えでござる。総じて物には構えというものがござる。

(茂山、役名を言うごとにポーズを変える。)

たとえば、狂言であれば、これが、太郎冠者。山伏。女。あるいは狐。狸。そして、ゴリラでござる。我々、それぞれ構えと申すものがござる。それは、このゴリラの構えをもって挨拶をいたす。お主、それがし、ゴリラでござる。

(茂山、壇上を降りて、最前列の観客を至近距離で見つめる。)

ちと、人間では近うござるが、これほど寄ります。

(茂山、離れながら壇上へ戻る。) 

辛うござろう。さようでござる。ゴリラの挨拶は、なかなか離れませぬ。定めて、今のように人間が人間に近づいたならば、張り倒されるでござろう。ゴリラと申すものはこれが一慣用でござる。ものに会うてそのものに好意ば見せるは、まず構え。横歩き。そして覗きこまれ、じーっと見つめるのでござる。
ファッファツファッファッファッ。今のは狂言の笑い声でござったが、我らもこのような声を出しまする。ホーッホッホッホッホッ。この通りでござるが、この○○と狂言の笑い声は、なんぞ因果でもござるか、山極殿。失礼いたしました。

(茂山、壇上を降りて着席する。)
山極
最後質問で終わられたので、お答えしなくてはならないのでしょうが、その前に土佐さんの発表をお聞きした後で、鼎談の中で。
茂山
すいません、この面は取っていいんでしょうか。
山極
そのまま被り続けるとそれはそれで。人間に戻ってください。
茂山
はい。じゃぁちょっと自分の顔を出させていただこうと思います。すいません。どうぞ、お話続けてください。

(茂山、面を外して着席する。)