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第6回「京大おもろトーク: アートな京大を目指して」〜矛盾をはらんだ創造
2016年10月17日(月)

パネリスト:高橋 剣氏(東映株式会社 京都撮影所制作部次長)(以降敬称略、高橋)
北野 貴章氏(株式会社テレビ朝日 「しくじり先生」チーフディレクター)(以降敬称略、北野)
山極 壽一氏(京都大学総長)(以降敬称略、山極)
富田 直秀氏(京都大学工学研究科教授)(以降敬称略、富田)
司会:土佐 尚子氏(高等教育研究開発推進センター教授)(以降敬称略、土佐)
司会挨拶:伊勢 武史氏(京都大学フィールド科学教育研究センター准教授)(以降敬称略、伊勢)
伊勢
パネルディスカッションでは、ご講演いただきました3名の先生方に加えまして、京都大学の酒井先生、土佐先生にも加わって頂きます。それではどうぞよろしくお願いします。
土佐
それでは8時10分までこれからはパネルディスカッションのほうに入ります。私は高等教育研究開発推進センターの土佐でございます。モデレーターを務めさせていただきます。本日は「矛盾をはらんだ創造」ということなんですけども、最後の方にはみなさんからいただいた質問票にもいくつかお答えできればなあと思います。まずはですね、しくじり先生の北野くんにお聞きしたいんですけど。すごい努力だなあと思いましたね。やっぱり本数がね、ともかく絶対に作りたいっていう信念で頑張ってたんだろうと思うんですけれども。しくじり先生の次の案とか、こんなところでいわないだろうとは思うんですけど、でもなんかちょっと聞いてみたいなという気もしましたので、どうですか?
北野
しくじり先生の次の案?先生の案ですか?
土佐
いえいえ。しくじり先生の次の企画みたいなもの。このしくじりから。
ディスカッション・北野氏
北野
しくじり先生じゃない番組の企画?僕はやはり監督はやりたかったので、しくじり先生って番組は物語を先生とスタッフでガチガチに固めて物語を作ってきたものを誰も知らない8人座ってる生徒たちに披露してプレゼンする場なんです。決まりきった物語性に半分バラエティの要素、なんていう質問が返ってくるかというそういったところに関しては決まってないのでそのあとスタジオで完結してる物語なので映像的には語りやイラストで物語を想像するものです。なので僕としてはもっとより映像的にも映画的で、かつ映画ではない、何でもできるのがバラエティのよさなのでそういったものを作っていきたいなと思います。
土佐
あと、このしくじり先生の企画をお聞きになって山極総長、年齢差はいろいろあると思いますがどう思われたかちょっと聞いてみたい気がします。
山極
僕ね、富田さんの話とものすごい重なってると思うんですよ。ていうのはね、やっぱりしくじったっていう話はさ自分のやろうと思っていたことがテレビ制作現場の常識からすると全然違ってた。あるいは自分は別に意識していなかったんだけど、現場の人から見たら報告していないとかなんのかんのいわれた。要するにこれまで自分の世界を形づくっていたものとほかの人が常識として見ていたものがズレていたわけだよね。そのズレに気が付いたときにむしろ、あなたの場合は単に合わせようというのではなくてその中からなにか新しいことができないかと見つけたところが面白いわけで、まさに富田さんはそういうことをいおうとしたんじゃないかと思うんですよね。
富田
総長のいわれることは、まさにそうですよね。しかもそれが自然ですよね。これから矛盾をやってやろうっていうんじゃなくて、自然にできてるっていうのが素晴らしいですね。
山極
それともうひとつ富田さんの言ってることっていうのは、「すき間」っていうことなんじゃないかと思うんですね。いわゆるものとものの間っていうのは見えないわけじゃないですかものとものがぎっしり詰まっている世界っていうのは。でもその中にすき間があるっていうのはなにか新しいものが出てきたときに、あっこことここの間に余裕があったんだ、こういう思考の余地があったのかということにはじめて気が付くんですよ。たとえば僕らの世界だとね、生態系っていうんですがいろんな動物や生物たちが一緒に生きている。でもものすごくたくさんいていろんな生活の仕方をしてるから、その中で新しい生き方ができるなんて誰も思っていない。だけど新しい種が生まれてくると、おっ、すき間があったんや、こんなに違ったんやと初めて気づくんです。それは我々の弱点でなんかモノができてこないとそのモノとモノの間にすき間があったってことに気づかない。それは僕らの意識の慣性ってやつだと思うんだけど、そういうことをおっしゃってたんじゃないのかな。だからテレビの企画だって、新しい企画っていうのはまさにそういうことをやってるんじゃないかと思うんですよね。既成の番組ばっかり同じようなことをコピーしてやってたら新しいものはできない。だけど、あえて新しいものと思うものを作っちゃって、すき間を無理やりこじ開けてみるっていう話なんじゃないのかなと。だからこっちは結果でこっちはプロセスっていう話を今日はしたんじゃないかなと思うんです。変にまとめました。すいません。
土佐
あとそうですね、このトークはアートサイエンスユニット、京大のフィールドワークなんですが、アートサイエンスユニットの酒井先生、どうです?三人のお話を聞いて。
酒井
まず、正直このタイトルを見てですね、そりゃ創造するのは矛盾だろって、想像に矛盾がないなんてありえないなって思っちゃってたんですが。今日の話を聞いてると、それぞれ想像以上に矛盾で面白いんですけど、北野さんにお聞きしたいんですけど、京大の成績はどうでした?
ディスカッション・酒井氏
(酒井氏)
北野
京大の成績は4回まで単位は残ってましたけど、ちゃんと4年で卒業しました。
酒井
4年で卒業したと。非常に京大っぽい感じがするんだけどたぶん京大として高い評価を与えていないんじゃないかなと。
土佐
今?
酒井
いや当時。
北野
当時は経済学部だったんですけどほとんど学部に行ってなかったので。ほとんど土佐先生の研究所に日中いて、午後は映画とったりとかしてたのが多かったので。
酒井
本来の経済はあまりやってなかった。
北野
そうですね。
酒井
それがそもそも京大として矛盾でですね。
土佐
そういえば北野くんの経済学の先生おられますよね、こちらに。坂出先生、ちょっと一言どうですか。このままじゃ立つ瀬がないですよ、めちゃくちゃ言われてますよ。
坂出
北野くんはですね、とにかく単位が大丈夫かってことだけが私は心配していまして。ちょっと土佐先生が働かせすぎているんじゃないかっていう危惧がありまして、いっぺん彼のゼミの先輩からとにかく卒業できるかどうか聞いてたんですけど。本当に連絡・相談しない男でして、いっぺん話したんですけどまあそれで方向性もわかるしどうするかっていうことで。ゼミもあんまりまともに出ていなかったんですけれども。
ディスカッション・坂出氏
(坂出氏)
土佐
やっぱり映画を作るためにはやっぱりお金のことを知らなきゃいけないじゃないですか。だから映画と経済について卒論を書いたという美しい話を聞いたんですけど。
坂出
ああ、それは非常に矛盾のある話なんですけど、基本的には僕は彼に2回生、3回生、4回生のゼミ6単位と卒業論文の6単位、12単位供給したということになります。京大の先生は教えることが好きでうまい先生はいるんですけど、僕の場合はあんまり教えないことが大事じゃないかと思ってまして、そういう部分で矛盾を切り抜けていたという風に思ってます。
土佐
ありがとうございます。そうですね、高橋さん。今時代劇ねすごい矛盾抱えてると思うんですけど、今日その話なんか言われるのかなって思ったんですけど、意外とそこはあんまり触れないで、なんかあると思うんですけど。
高橋
え、どういった?
土佐
いや今時代劇売れてないし大変じゃないですか。正直なところ。東映の撮影所がやばいんじゃないですか。
ディスカッション・高橋氏
高橋
やばいやばい。いやまあでも一時期よりは良くなってるんですよ。比較的。で、時代劇まあ僕が映画祭を始めたって話しましたけど。その時に時代劇ってものすごく手あかのついた言葉になってて、もう滅んでたんですけども。でもそこに対する郷愁がものすごくみんなあって。時代劇っていうものを守ろうっていうことでものすごい固執してたんですよね。今も、そういう勢力というかもういくら時代劇時代劇って言ってもみんな昔の時代劇を思い描かないくらい使い古された言葉がもう腐りました。言葉自体としてね。だから、今は映画祭始めた当時は歴史映画みたいなことをとりあえず声高に売ってたんですけど。もう最近はね、そういうことを無理にいわなくても、時代劇っていう言葉自体が完全に死んじゃったってことを言ってもあんまりおかしくなくなってきた現状にあって。という意味でいうとだいぶシンプルになってきた気はします。
山極
あのね。いいですかちょっとひとつ。「時代劇は現代劇である」っていうのは、目から鱗だったんです。あ、そうだ。時代劇って例えば未来劇もそうですよね時代劇ですよね。つまり時代という枠組みを変えて実は現代のことをやりたいんだっていう話。これはねすごい発想が、時代劇・歴史劇というのにあるんだなという。つまり僕らはあんなことやって時代錯誤じゃないってよく言うわけだけど、そのアナクロ的なところを利用して、逆に現代で通用しない考えをそこに押し込めて語らせてしまう。そういう意図をはじめから持ってねやってる映画ってどのくらいあるんですか。すべてがそうなんですか。
高橋
本来映画ってやっぱり今いるお客さんに向けて作るものですから、それはすべての映画がそうだと思うんですけど。時代劇っていうものがザ・時代劇っていうかそういうものになっちゃったていうのはやっぱりジャンルに安寧しちゃったというか、そこでもう既知の見慣れたお客さんとだけの会話をするようになって、ダメになっちゃったんですよね。そうなってくるともう江戸時代の出来事を史的に描く、そういう退廃が起こってきてっていうことになるんです。やっぱり本来は時代劇だろうが未来劇だろうがアニメーションだろうがファンタジーだろうがなんでも現在のお客さんに対してコミュニケートしてくるものだと思うので。本来はすべて現代劇ですよね。
山極
たとえば歌舞伎っていうのがあるじゃないですか。あれは江戸時代の前期に流行った。形式的にはすごく昔のことを踏襲してるんだけども、しかも内容もあの時代のものが多いんですよね。それでも観客は現代なわけですよ。だからすごく矛盾しているようなんだけども観客は拍手喝采してものすごく涙流したりしてるわけですよね。あれも映画と同じ発想なんですか。
高橋
やっぱりフィクションの世界をどう純化していくかというかどれだけピュアに蒸留していくかっていうところの歴史というかノウハウが歌舞伎なんかもあると思うんですけど。時代劇というフォーマットをとると大変フィクションの純化というか蒸留化っていうのかシンプルにできやすいっていう気がしますよね。だから物語の世界の密度が大変濃くなる。それをだから歌舞伎もそうですけどそこにある普遍性を感じてエモーションをうちぬくパワーになっていくんじゃないですかね。
山極
とても難しいことをやっていると思うんですよ。文脈からすれば、たとえば江戸時代の衣装とかそういうのはいいんだけども人々の機微とか人々の関係っていうのは当然封建社会だから今とは違うわけでしょ。だけどそこになにかを誘わせるような物語を我々に見せて、で、感動させるわけだからね。そこにはなにかやっぱりトリックがあるんじゃないかという気がするんだけどね。もともとが矛盾をはらんだものなんですよね。で、100年前、200年前と今の人とは違うわけだから。だけど、今の人がたとえばロミオとジュリエットを見てね、あの純愛にねポロポロくるように、そこは作り方として何かトリックというか工夫を凝らしてると思うんですが、そこはどうなんですか。
高橋
それぞれの作品になんというか一種のすさまじさというか迫力みたいなものっていうのはあるはあると思うんですけど一概に一般論としてねこうだというのは、方策っていうのはなかなかないと思うんですよ。しくじり先生の場合は本来NGだったものを全部取り入れたことが正解だったわけで。ロミオとジュリエットにしてもシェイクスピアのオリジナルってだいぶエロ話ばっかりな話ですけどそれをもっとピュアなものとして描いたりとか、もっと雑多なものとして描いたりだとか。っていうのは時々のお客さんに対するボールの投げ方というかいろいろ工夫があると思います。なかなか一つ一つの中でどう工夫があったかっていうのはちょっといいがたいんですけど。でも歌舞伎なんかは本来は忠臣蔵でもだいたい室町時代の設定ですよね。あれもだいぶ時代を拝借したっていう作り方ですよね。そういった形でフォーマットを借りて、舞台を借りてそこに人間をおいてみてドラマを作っていくところになにかフィクションを語る上でのミソはありそうな気がしますね。
土佐
歌舞伎はね、12月に顔見世っていうものがあって翌年の世界はこれでいこうって決めるじゃないですか。あれが世界だと思うんですよ。そういうのに近いような、時代劇をつくるときにすべてを監督さんにお任せになってるのか、それとも歌舞伎の顔見世みたいな今年はこの流行だよこれでいこうというものがあるんですか?
高橋
なかなかそう簡単に入ってないと思いますが企画をね、選ぶときにさっきも言いましたけどほんと今年の歴史映画って内向きの作品が多くて。やっぱりグローバル化の是非というのは置いておいて、フィクションっていうのは内向きになればなるほどつまらないんですよ、これは。やっぱり外にお客さんがいるっていう目で見ないとフィクションって全然面白くなくて。今年でいえば国の民族的な詩人がどうだっていうそういう生涯を描いた作品なんていっぱい出たんですけど、もうことごとくつまらない。そういった企画のあるカラーというか今年の流行みたいなものは感じはしますね。だから歴史劇自体が大変現代に反映するメタファーになってる。
土佐
富田先生に今のお話をコトとモノの関係というか、ちょっと接点があったかなって思うんですけど、どうでしょう。
富田
今のお話を聞いてて思ったのは、ちょっとメガネ替えたのはまた失礼なことを言うかもしれないので、今たとえば内向きになるとつまらないってありましたよね。もっと内向きになればおもしろいうんちゃうかって気がするんですよね。私が先ほどピュアとか純化とかいわれてるところで感じたのは詩的なものなんですね。なんか中途半端に物語なんじゃなくて、それをほんとに自分だけのじぶんしかわからないような詩ができたらそれはまたおもしろいんじゃないですかね。どうですかね。
ディスカッション・富田氏
高橋
それは確かにその通りで、それもまた正解だと思うんですね。
山極
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」っていうねそれもまた矛盾した話なんだけども、よく言われる話でいうと、富田さんさっきね、究極の治療法は腕を握る、究極かどうか知らないけどね。でもあれをマニュアル化しちゃったらあかんわけでしょ。で、そのへんの機微っていうのは実は科学的には証明できないじゃないですか。しかも関係性なんですよね。個人と個人との。個人と個人との関係性には状況性ってのも入ってくるんだよね。そこがまさにね、科学の立場がなくなることであって最初に定義された宗教・科学・芸術っていうところで、宗教と芸術の間に科学があったんだけど、それは逆じゃないのって思って。宗教と科学が対極にあってね、中に芸術があるんじゃないかな。たとえば安心感ってのは科学では得られないものなのかもしれないですよね。でも安心感っていうのは宗教では得られるわけですよ。それは何かっていうことをいくら科学で考えてもわからない。それが関係性だからだと思うんですね。関係性のことを表現できるのは、科学も表現できるんだけどおおらかに、要するにいろんな形で表現できるのは芸術だと思うんですよ。だから理学に芸術をどんどん入れてく方法ってあるのってことを富田先生に聞きたい。
富田
実は今日は科研費の最終の締め切りの日でして、出しそこなったんですけど、安心プロジェクトってのを今やろうとしてるんですけど。さきほどのような地図でいろんな、医学とか芸術の人とか集まって去年から安心プロジェクトやってるんですけど、昨日ぐらい崩壊しましたね。やっぱり具体的にやってくとなるとモノ的なものまたは形式を、じゃあ具体的にどうしていくんだどう仕上げていくとなると崩壊していく。
土佐
医学と芸術だと芸術療法ってあるじゃないですか。音楽療法とか。あれはダメなんですか。
富田
いや実際上は医学の世界でももう動いてますし、我々話すのは医学でもサービスの分野なんですが、いろいろな分野で実際には動いてるんだけどそれを記述するときにはどうしても矛盾が生じてしまう。モノがわかるという方向では記述ができない。哲学の方もいらっしゃるかと思いますが、弁証法の話になってくるんですが。さっき先生がすき間といわれたのは非常にうまい表現をされたんですね。結局対立するものの中からなんかすき間を見つけるというものは、論理学、集合論的には表現は似ているんですね。
土佐
はい、もうすこししゃべりたいところなんですけど、もう時間が迫ってきてまして20時12分なので。ここで3つですね質問票から選んでですねゲストの皆様にお答え願いたいんですけども。まず北野くんの方なんですが、京都大学の学生さんから。現在私は学部1回生なのですが、北野さん大学四年間は映画と研究室で過ごしたとおっしゃっていましたが、私はいろんなものに取り組んでみるものの一貫したなにかを見つけられずにいます。どのように一貫した取り組みが見つかるものなんでしょうか。いつごろ?とか。そういう感じですかね。
北野
いつごろ?
土佐
だからどのように一貫した取り組みは見つかるもんなんでしょうか。
北野
個別に話聞いた方がいいですね、それは。これ書いた人聞いていいですか。一貫した何かを見つけられずにいるってことはなにか見つけたいってことなんですか?
質問者
いろいろ取り組んではみるんですが、自分が一番何にに向いてるかとか、何をずっとやっていこうってのが見つからなくて。いろいろやってるだけでいいのかなって思いがあります。一方で北野さんが映画っていうのに一貫して取り組んでいるっていうことをお聞きしたときになんかそういうのって魅力的だなって思うんです。
北野
僕はそんなにまじめに考えてないです、全然。普通に映画が見てて好きで。昔からずっと見てて好きで。で、一回自分で撮ってみたいなって思って、撮ってみたら面白かったから映像にかかわる仕事をやっていきたいなというのが自然の流れというか。まじめにどういう風にいろんなことに取り組んで、これは自分に向いてるとか、これは向いてないとかあんまり考えてきてないので。そこは普通に自分の好きなものをやるのが一番いいと思いますけど。その、好きなのがないってことですか?
質問者
そうですね、まだはっきりとは見つかってないですね。
北野
映画は昔から好きで、高校くらいの時になんか映画作りたいなって思ったんですけど、作れなくって高校じゃ。どこでもいいから大学は言ったら映画作ろうと思って、で京大。自由なんで4年間で好きなことできるなと思ってずっと。好きなことをやる期間にして、やってきた感じです。だから映画って言っても初めに作ったのは「トイレまで4メートル」っていうホラーコメディの映画をメディア論の授業で流してもらったんですけど、ほんとホラーコメディのくだらない内容で。2作目が、海外の映画がすごい好きなんであんまり日本映画見てこなかったからあえてそれ作ってみようとかしたのが2作目で。3作目実験映画みたいなの撮って、最後撮ったのがシンガポールにロケ行って、お金は土佐先生に出してもらったんですけどシンガポールの苦しんでいるメイドさんに結構不法入国とかでひそかにかくまってもらってるような社会関係論、ちょっとほんとにまじめな2時間くらいのドキュメンタリー映画を最後に撮ったのが4本目かな。好きなことやってください。
土佐
次ですね。富田先生なんですけどもアート視点っていうのがどういうものなのか一言で定義すれば。一言で言えないと思いますけどまとめてください。
富田
まず先ほどの議論なんですけど、今言った方の個人の問題ではなくて今の社会の問題であると思うんですよ。昔は欲望があってそれに対して生産があったんですけども今は生産して欲望を掻き立てますよね。だから彼女だけじゃなくて多くの人が自分が何望んでいるかわからない時代になってるんちゃうかと思いますよね。そういう中でアートというのは僕はわかってないんです。今、芸大とか芸術家の人たちの教育現場に行くと、とにかく何をやりたいのかってことを徹底的に聞くんですよ。それはものすごく厳しい。我々は自分のやりたいことやるのが自由な気がしてるんだけども、何が自分のやりたいことかって見つけるのはものすごい苦しくて七転八倒しながらやっているんだと。だからアート視点はいろんな言い方できますけど、今の話の流れからいうと、自分が何やりたいの、から始めるというところだという気がします。
伊勢
それではどうもありがとうございました。本当にずっと聞き続けたい有意義なディスカッションだったと思うんですけど残念ながら時間が来てしまいました。それではみなさん本日の講演者の方々に大きな拍手をお願いいたします。