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第5回「京大おもろトーク: アートな京大を目指して」〜顔
2016年7月25日(月)

パネリスト:金剛 永謹氏(能楽 金剛流二十六世宗家)(以降敬称略、金剛)
牧野 圭一氏(漫画家・公益社団法人日本漫画家協会理事)(以降敬称略、牧野)
山極 壽一氏(京都大学総長)(以降敬称略、山極)
川嶋 宏彰氏(京都大学情報学研究科准教授)(以降敬称略、川嶋)
司会:土佐 尚子氏(高等教育研究開発推進センター教授)(以降敬称略、土佐)
土佐
はいそれでは、パネルディスカッション始めさせていただきたいと思います。顔というものを様々な分野の方に語っていただきまして、先程回収しました質問票よりこの質問がちょっと面白いので、ここから入ってみたいと思います。牧野先生への質問です。「ピカソは子どもですか」という質問がきているのですけれど、いかがでしょうか牧野先生。
牧野
ピカソ自身が子ども的な感性なのかということでしょうかね。
土佐
だと思いますね。
牧野
文字通り受け止めていいのかどうかわかりませんが、どなたかちょっと質問なさった方…。
(質問された方が挙手)
牧野
そうですか。子どもでもあり、とてつもない大人でもあると思うのですね。つまり、ごく平凡な答えではつまらない、自分の考えていることが平面的になっているのか、こう1に対して1に返したのでは、とても収まらないっていう方たちは、もっと一つ質問いただいたらぺぺぺぺっと花火のようにいろんなイメージが湧いてしまう。表現についてもAという答えに対してBを書くのではなくて、おそらく万華鏡のようにイメージが湧いてしまうのだろうというふうに私はいま思っています。
つまり天才というのか、その方たちの表現というのはまさにそうなってしまう。多角的になってしまうのだろうと考えています。どうぞおっしゃってください。
質問者
それはピカソが長い間、意図的に作り上げたものなのか、元々持っている感性なのでしょうか
牧野
これはおそらくピカソの専門の方から見れば私の言葉などは取るに足らないものになってしまうかもしれませんが、少なくとも私たちが幼少期から象徴的に「ピカソ」というものがあり、漫画家はピカソのことを茶化して書いたりしますけれども、後からいろいろなもの、彼の評価とか、この年になってから感じるものを鑑みると、あれを発表して対社会に表現するということは大変な勇気がいるだろうと思うのですね。それでなくても、彼の若い時の表現というのは非常にリアルな、写実的な絵を描いておられるのですね。それが突然、いわゆるピカソ流の絵となってしまうのはもうそこから突き抜けてしまっている姿なのだろうと思いますね。
つまり当時の絵描きの水準からいったら、もう極めてしまった。行きつくしてしまったところまで行ってしまって、あとはこれ以上やることはないよといったときに、じゃあこういう見方はどうだろうか、ご自分の中で考えてああいう表現をされたのだろうというふうに私は想像しております。それでよろしいかどうか。
パネルディスカッション
土佐
会場を交えて話をしたいのでもう一つ。これは金剛さんと、山極先生に関係することなのですが、
「白目があるのはヒトだけで、サルにはないという話を山極総長が紹介されていましたが、先ほど見せていただいた2つの面も、般若は白目を剥いていて、無表情の能面には白目が目立たないという対照的な目の表情の違いを感じました。それぞれの面で舞う時に、目の使い方には違いがあるのでしょうか。」
という宗家へのご質問があります。
金剛
そうですね。小面、女面なんかは白目を作ってはいますよね。ただ、それは線で作っています。だから白い部分が出ますけど、黒い線を横にひくような形で作っておりますね。能面で一番大事なのは、やはり目線が効くか効かないか、ということです。よくできている小面は非常に明らかに、目線が通るのです。ただそれが不思議なのは、私の家の面で今日は雪の小面を持ってきて、それを見ていただいたのですけど、もう一面別の面がありまして、それはこうして手に持ってみるとやぶ睨みなのです。雪の小面は結構普通の目線だと思うのですけど、そのやぶ睨みの面も効くのです。目線が効くのですね。
なにが原因か僕にはわからないですけど、全然目線の効かない面もあるのです。要するに遠くを見ない面もあります。と思うと、名作といわれるものは必ず見ていますね。遠くをちゃんと目線がすーっと通っていく。そういう面でないと、舞台上での演能の時の効果も出ないです。
案外狂乱の能もありまして、ちょっとうつつない人が出てくるお能もあるのですよ。子供を盗人にとられちゃって、ちょっと精神状態があっちへ行っちゃって、子どもを求めてふらふらと彷徨うような役柄のお能もあるのだけど、そういう役柄だったら目線がなくてもいいようにも思うのだけども、そういう種類の面でも目線が通ってないと、やっぱりお能にならないですね。
だから目線っていうのは本当に、お客さんに対する訴えかけのものすごく大事な部分を面は担っていると思います。ただ、白目黒目の話とちょっと違うかもしれないですが。すいません。
山極
確かに白目の動きというのは、方向性を示すのですね。だから、目線とはちょっと違う。多少重なるところはあるのですけど。実はさっき私も同じ質問をしようと思っていたのです。般若と比べて小面は、目がスッとあって、要するに目玉が出てない。あれによって非常に隠されている内面があるわけですよね。だからいうなれば、般若ほど激烈な感情を面に出していないからこそ、そこにいろんな表現が可能性なのだと思うのですね。
皆さんに思い出していただきたいのですが、能舞台というのは観客と役者の間に距離があるわけですね。今はテレビ映画になっちゃうと顔のアップなんかが出てきて、その目の動きというのが微細にわかるような近距離で見られることが多いわけです。当時も今も、アップというのがない時代はああいう距離で見ていた。そこで起こっているドラマというのが我々にとっての真実だったわけですね。そのときにやはり、おっしゃるようにこの目が向いている方、それがスッと向かっている方を端的に表現するために、いかに精巧に作れるかというところが面を作る上での一つの勝負だった気がします。そこに目玉があると、あまりにも直接的になりすぎてしまって表現力が劣ってしまう。だから般若の面はせいぜい10分だっておっしゃっていましたよね。あれはあまりにも直接的すぎるので、感情を露わにしすぎるので、舞台で表現の持続性は保てないのではないかなと思った次第でございます。
金剛
今先生がおっしゃったことだと思いますね。要するに般若の面のようなのは、あまりにも一元的すぎるのですよね。だから、いろんな動きはないのです。だから結局、時間的に短いのだと思いますね。
それと今ひとつ思い出したのですけど、確かに目線が、中央が埋まっている面が一つあるのですね、私の家にも。それは増髪という面でして、上村松園さんが「花がたみ」という絵だったと思うのですけど。恋人を求めて彷徨う女性を描いているときに目が描けなかったというのがあって。その時に、こういう面がありますよってうちの爺さんが松園先生にその増髪を見せたのですね。それを写生されて、「花がたみ」はできています。確かに目が少し飛んでいるのですね。そういうのもありますね。
土佐
能は非常にミニマリズムの芸術だと思うのですけど、先ほど楽屋で宗家が、見せるのは、能の世界とか精神性というお話をされていて、そこに面がどういう役割を果たすのかという、表情がないと言われていましたよね。だから表情がない中に、私たち見ていて表情を感じるわけですよね。その受け取り方とそのストーリーのなかで、その時はその感情しているのだなということを考えつつあるのですけれども。
その中で非常にああいう般若の面はすごく直接的で、しかも女性の場合は角まで生えていて。角が何で生えているかというのも知りたいところですけれども。動物の場合もちょっと違いますよね。その辺の表現の極みというか、その表現の中での面の役割というか、そういうところをちょっとお聞きしたいなと思うのですが。
金剛
要するに、例えば「泣く」ということは能の中でこれくらいのことなのですよ。(うつむいて片手で顔を隠すしぐさをする。)面の角度を少し陰にして、目を隠すのですね。それで確かに泣いているように見える、ように能面はできていますよね。目を見せているとなんぼ下向いてもそうはならないですけど、目を隠すという工夫だと思うのですね。それを単に傘としてやっているのでは伝わらないですよね。ある程度中に入って、役者も結構その気持ちになって演じて、それがお客さんの方にいくという世界であると思いますね。
それと同時に、それぐらいの表現しかしないといえばそうなのです。歌舞伎だったらもっとほんとに、大声で泣いて、ほんとに泣いて泣いて、涙を流してでも泣かれるのでしょうけど、能の世界っていうのは、我々能楽師がよく言うのですよ。能の世界っていうのは万華鏡の世界だなと。覗き込んでもらわないと、見えない。こっちからこんなふうにして(椅子にふんぞり返って)見ていて、こうバーンって持ってくるのではなくて、覗き込んでもらったら、そこに見えるような世界がお能の舞台の世界だなと我々よく話し合っています。
だから、見る方が見ないと何にもない世界です。向こうからそんなに持ってこない。とにかく、何かその舞台にはあるのだけれども、そこを覗き込んでもらわないと、お能は何にもないと思いますね。
山極
「顔で笑って心で泣いて」という言葉がありますけど、川嶋さんのコンピューターの話とも通じると思うのだけど、感情表現というのは人間の場合、顔がほとんど全てだと思うのです。能の場合では目を隠すだけで泣いている表現になるという、むしろ想像力をかきたてているわけで。顔というところが表す部分をむしろ否定しているからこそ、そこに表現が生まれるわけでね。
そういう意味で喜怒哀楽ということを顔に、我々の能力は顔の表現に集中させてしまったという感じがしないでもないのですが、どう思いますか。
パネルディスカッション
川嶋
そうですね。電話越しで感情がどのくらい伝わるのかと考えると、声のトーンというものとかも実は感情を伝えているところはあるかなと思いますし、表情だけではないのかなとは思うのですが。ただ確かに目がついている回りですから、どうしても互いに意識しやすいところなので、そこに感情表現が集中してきたっていうのはおそらくその通りなのかなとは思います。
ただ、能の少し頭を、目を隠して涙を表現するという話になったときに、機械の学習という観点から行くと、もともとこういう(俯いて目を隠す)ことをしているときにはそれとともに伴っている表情があって、もうこういう傾き方を見ただけで、もしかしたらこういう表情なのではないかなとふわっと想起するというのがコンピューターでもやっぱりそういう処理があるのですが、人間もやっぱりそういった想起が常に働いていて、それで埋めていっているのかなと感じます。
土佐
あともう一つ、川嶋先生への質問で、皆さんからの質問も多いのですけれども、コンピューターで今回のチラシの画像の中から顔の認識をされていましたが牧野先生の似顔絵が認識されませんでしたよね。決してコンピューターの限界というわけではないと思うのですけど、顔の特徴抽出が狭かったのではないでしょうか。
川嶋
そのとおりです。よくわかりましたね。実は顔の最大のサイズをあの時は限定していたので、大きい顔には反応しなかったというのが真相かとは思うのですが、ちょっと試してみないことにはわからないですね。
ただ機械の学習はデータが命なので、見たことのないデータには対応できないというところもやっぱりあって、要は漫画的な顔とかそういったものに慣れているような学習をさせると反応はできるのですが、そもそも陰影を使っているので陰影の付き方が人間の普通の写真と、線画との違いがあるのでどこまで出るか、ですね。ただ実際に出ているところは出ていたので、やっぱり今回の原因は大きさなのではないかなと思います。
山極
聞いてみたかったのですけど、室町時代の能面を持ってこられていましたよね。あれを未だに使っておられるということは、要するに600何年も日本人の顔の表情、つまり感情の表現は変わっていないということなのですかね。
我々は例えば源氏物語だとか、いろんな古代の日本文学を読んで文字からくる人々の感情のふれあいの表現というものを想像することはできるわけですが、能はまさに表現として残されてきた芸術であって、それは要するに平安朝や室町時代の日本人の持っている、今度は表情という、あるいは心の持ち方みたいなものを伝えていると思うのですけど。それは変わらないという風に考えてよろしいですかね。
金剛
難しいですね。例えば、室町時代にできた能が現在あるというのはある特殊な事情も考えた方がいいと思いますね。江戸幕府が自分のところの芸能として保護したわけですね。300年近くずっと。その間に江戸幕府が能の世界に「変化させるな」と言ったのです。新作を作るなと。だから新作を作る必要がなくなったので、面も室町時代にできた面の種類から増えてないんですよ。
江戸時代に作ってもらった面は何かというと、室町時代にできた面の模作なのです。室町時代の面を本面と我々は呼んでいます。これ原本なんですよね。江戸時代につくられたものは写しているんです。だから能の家でも、すごく価値観を違えて持っているのですね。室町時代のものは原本・本面。これはもう本当に大事に、そう使わないぐらい大事にしていこう。江戸時代で作られたのは、あくまでも全部模作だから、普段使いにしようという。
そういう特殊なもの、特殊な社会、特殊な事情で500年~600年きていますので、もし江戸幕府がなかったら能も滅んでいたかもしれませんし、もっと能が変化していたかもしれません。その時代に合わせるためにね。江戸時代には歌舞伎が出てきて、ああいうものを江戸の方は好まれたわけですから、室町時代の方が好まれた能のような文化的意識とか美的意識では300年もたなかった可能性の方が強いですよね。
だから能が歌舞伎化するとか、していても普通、そのほうが普通なのです。それをさせなかった江戸幕府が鎖国に入って、固定したものを残そうという意識も強かったこともあり、あまり変化もせずに600何十年ある可能性が高いと思いますね。
山極
横に広げてみるとね、漫画の世界で顔の表情っていうのはすごく重要だと思うのですけど、それはまず日本で広がった。でもそれが世界中に今人気になった。風刺絵などで顔はすごく表情豊かに描かれる。それは共通しているからなのだろうか。
それか、コンピューターの世界でもあの認識っていうものはコンピューターに日本人の顔を認識させるのと、例えばアフリカ人の顔を認識させるのと違うのだろうか、同じだろうかというのを聞きたいんですが。
牧野
漫画の表現っていうのは要するにタブーを一つも作らない。束縛が全くないのですね。無残なまでにと言うのか、とんでもない表現だと自分がその仕事をしていながら思うんですが。
今、漫画家協会の会員が倍増したのですね。ちばてつや理事長の力かもしれないのですが、その増えた分というのはいわゆる「エロ漫画」という世界ですね。性表現の世界で、皆さんご覧になったらびっくりすると思います。どうしてそんなものを、公益社団法人が許すのかといってお怒りになるに違いないほど自由奔放なんですね。要するに、歯止めが効かないという風に思ってしまいそうなのですが、それに対して私のような年になってくると言い訳をしなきゃいけない。公益社団法人がどうしてこんなものを会員にするのだ。それは読者である皆さんの咀嚼する能力というのが飛躍的に伸びたのであるという風に私は説明しています。苦しい表現かもしれないのですが。
つまりそれは漫画家だけがそういう性表現に特にだらしがないとか歯止めが効かないっていうのではなくて、実写であれ、お芝居であれ、何であれですね、要するに観客とともに伸びていって、漫画というのはその状態を映しこむ鏡であるという風に、私は言い訳しているのですね。そうしないととても収集がきかないくらい、とんでもない表現まであります。浮世絵の春画どころではないという話もあります。そういったものができて、時々それが社会的な糾弾を受けて非難されるのですが、実際に今漫画家協会は1000人の会員がいまして、前は500人だったのが倍増したのです。
じゃあどうしてそうなったのかというと、今巷の女性ファッションを見てもそうですけど、いい言葉でいえば非常に開放的ですが、ほとんど寝巻のままで歩いていると思われる人たちもいっぱいいて、電車の中でもそういう人がいる。それを彼女らが良いか悪いかというのではなくて、そういうものを容認するというか、理解する空気が日本には生まれている。宗教的な縛りもないし、いわゆる道徳的にあれはけしからんという声もだんだん消えて行ってしまうのですね。
ですから今お話しいただいたように、ずっと評価基準というものが変わらないでずっと来た世界と、一方で全く歯止めがない世界というのが隣り合わせに座っているわけですが、全く歯止めがきかない世界がありながら、それが容認されているということで、まあフランスをはじめ…
土佐
でもフランスで見られるように、風刺画ひとつで、テロのような惨事が起きたりする世界が地球上にはあるわけですよね。だから漫画って全く歯止めが効かないと私たちはとても思えないのですけれども。
牧野
私は新聞社を長く勤めて、風刺漫画を描いていたわけですが、今はおそらく管理している人たちの方が大変だと思いますね。これは掲載してよろしい、これは掲載してよいという基準をどこで切るのかと言ったら、もう切れないのです。切れないですけれど、毎日新聞は出ていくわけです。
ですから今、印刷媒体の表現力が軒並み低下しているというのは突きつけられている課題があまりにもしんどすぎる。
土佐
多様化しているということですか。
牧野
深く入りすぎて、露骨という線を越えてしまっているわけですね。ありとあらゆる表現が可能になった、もうされてしまっているのですね。これから取り締まるとかそういうのではなくて、あらゆるものがもう表に出されてしまっていて、まだご覧になってない方はたまたま見ていらっしゃらないだけで、そのうちに「えっ?どうしてこんなもの許すのだ?牧野もこんなものを見て許しているのか」ですね。私のところに石つぶてが飛んでくるような、こういうことが同時進行型であるのですが、情報量があまりにも多すぎるものですから目につかないだけなのですね。目につかないけれども、実際にはそういうものが表現されているということなのです。
土佐
川嶋さんも山極総長の質問に対してお願いします。
川嶋
日本人とかアフリカ系の方の共通性ということですか。
山極
つまり同じように認識できるのかっていうことですね。日本人の表情はアフリカ人に対しても同じなのかということにもつながると思うんですよね。
パネルディスカッション
川嶋
なるほど。そういう意味でいうと表情はかなり近いように思います。実際に調べてみたことはないですけど、表情のカテゴリーという意味で言えば、感情につながるようなカテゴリーはかなり近いかなあという印象があります。
ただ、これはさっきのポール・エクマンも書いているのですが、出す場面が全く違うと。だから例えばアメリカだと人前で笑顔をあえて作るところがあって、そういう文化ですよね。それが正しいっていうことになっているのですが、日本だと人前でどんどん笑顔を作る人もいれば、作らない人もいて結構バラエティがありますよね。だから文化的背景が大きくて、いつその表情を使うのかというところがかなり違っているのかなと。ただ感情に結びつくようなところはかなり近いかなという印象はあります。
山極
喜怒哀楽が四象限になっていたでしょ。さっきの般若の面の解説の時にちょっとびっくりしたんだけど、この眉から上は悲しみといいますか、苦痛といいますか。で、下は怒りなんですよね。あれがパッと入れ替わるのが人間の面白いところで、こんなことができるのは人間しかいないんですよね。動物はやっぱり怒っているときずっと怒っていますからね。初めから怒りを表現しますので、しかも嘆きというのはあまり顔には表れないですからわかりません。そういう極端な変貌の仕方っていうのは、何か頭に入れておられますか。
川嶋
そこまではちょっとあれなんですが、急に表情が変わったときに本当に内部の感情が変わったのかというのと、作り出している側が変わっているのかということはまた違うと思うのです。本当の表情で悲しんでいたのが急に怒りに変わるのか、両方とも、もしくはどちらかを意図的につくっているのか、でも恐らくヒトの場合は本当に切り替わるわけですよね。そうすると感情のシーケンス、系列があって、そういう文脈を含めてその人の状況を理解するというのは考えてみたいと思います。面白い話かなと。
山極
般若がなんでああいう非常に奇妙な顔の表情を作ったのかっていうその意図も知りたいんですけど、いかがですか。
パネルディスカッション
金剛
般若の面には小作の面というのがあって、小作の面はあんなに苦しんでないんですよ。そのもとには蛇の面というものがあって、大蛇といったらおかしいですかね。道成寺の清姫が蛇に変身しているところから来ている蛇の面というものなのですが、これも怒っているばっかり。
ですから般若というのは室町時代のかなり遅れて出てくると思うのですけどね。室町後期頃にああいう造形が出てきて、その頃には今やっているような、こうしてこうして(前かがみになり、手を振り回すようにして)襲いかかる演技形態が先にできていて、それから般若の造形が出てきているように思いますね。
それとちょっと話が違うのですけど、さっきおっしゃっていた話で、僕去年ロシアへ2回行ったのですけど、ロシアの方は作り笑いされませんね。
山極
おお、そうですか。
金剛
本当にまじめな顔をして。だんだん私も、向こうでしゃべっているうちに真面目な顔になって、笑わなくなりました。だからロシアは笑われないですね。
女性の方でも愛想笑いなんて全然なかったと思います。だから、ロシアでコンピューターの機械に愛想笑いは必要ないのではないですか。
土佐
プーチン大統領は愛想笑いしているように見えますけどね。あれは見えるだけかもしれませんね。
金剛
いろんな国の方と交わって、そういうのが必要だと思っているのではでしょうかね。基本的にはしないと思いましたね。
山極
実は、逆さになった顔っていうのを人間は認識できないんですよ。逆さになった顔を見せられると誰だかわからない。表情も全く認識できません。怒っているのか、笑っているのかもわからないんですよ。
漫画家ではそういうことを意識したことありますか。表情をつくるときには大体顔というのは、さっきもそうでしたけど横になってもいないんですよね。縦になっているんですよね。そうしないと人間の感情表現というか、個性というのは表現できないのでしょうか。
牧野
ですからね、リアルに描いてその感情を表現する、能面で表現するというののはいかに難しいか。感情をいかに観客に伝えるか。漫画、特にストーリー漫画の場合は、あらゆる手段を使って声にならない心の中の声まで「ドーッ」と描いたりですね、「ガクッ」というような文字を入れたりして表現します。そこまで描かなくてもいいだろうというところまで描いてしまって、わからせようとするわけですね。ところがそれを繰り返している間に読者の方がどんどん進んで「これは作者は描きすぎだよね。」「オーバーな表現だよね。」というふうに、つまり総評論家をつくっている。
日本の漫画やアニメがなぜクールか、外国人から見てなぜクールかというと、描き手の技量が高いからというよりも、読者のレベルが高いからですね。読者のレベルが均一で、非常に長い間学習していて、自由なもの、あらゆるものを見てきてしまったので、性、暴力、差別表現、あらゆる表現を全部自由に見てしまった。つまり、表現者の方の抑制がない状態で全部表出したので、読者の方がきちっとそれを整理してパニックにならないような状態を作ってきた。
それを私が感じているのは、毎年、もう25回目になります漫画甲子園って企画を高知県がやっているのですが、ここに参加する学生たちの読み取り能力は非常に高くなっているということを感じています。
土佐
最後にお一方ずつ山極先生から「顔の未来」というか「未来の顔」というか、そういう顔に関する未来のご意見を聞いて終わりたいと思います。
パネルディスカッション
山極
「変わらない顔の表情と変わりゆく顔の表情」という今日の話だったように思います。未来の顔は漫画によって作られる。だから、我々はこういう顔になるのだなと漫画家の先生はすでに準備されているという気がしました。コンピューターで言えば、先ほどちらっと言った、逆さの顔でも横の顔でも喜怒哀楽を読み取れるという時代が来るかもしれない。我々は後ろを向いてしまうと、あるいは顔をちょっと横にずらしてしまうと表情を読み取ることができない。そんなふうにして人としてきたわけですが、それがすべて見抜かれてしまうという時代が来るかもしれない。そうすると、コミュニケーション自体を変えなくちゃいけなくなる。
実際我々は顔を認識する能力をだんだん失い始めているかもしれないんですよね。これは学ぶ必要がないことなのかもしれないんですね。ちょっと前まではよかった。生まれつき、まず子どもは牧野先生がお描きになったように顔で相手と対面するわけですよね。顔が全てだ。そこから何もかも始まるんですよね。それが顔から始まらなくなるかもしれない。というちょっと恐怖を抱きました。それだけでございます。
金剛
今ちょっとロシアの話をさせていただいたのですけれども、ロシアの女性の方になぜ笑わないのかと聞いたんですよ。「笑うことは失礼なのです。」と。我々はこうコミュニケーションをするのに柔らかく付き合わないと失礼だと思って笑いますよね。逆なんですね。人と会って、何でおかしいっちゅう話なんですよ。ちゃんと親からも教えられるそうです。会ったときには笑うなと。ちゃんと真面目なものなのです。だから表情というのは難しいとその時思いましたね。
それぞれの国の文化に依りますが、特に「笑い」が難しいような感じがします。その「笑い」を柔らかいコミュニケーションと感じる文化を持っている人と、笑われたら失礼だと思われる文化をもっていらっしゃる方もいるわけだから、やっぱりその人たちに対するときに自分の顔のもっていき方というのは本当に気を付けないといけないなと去年ロシアで思いました。私もアメリカとヨーロッパで何度も公演していて、ロシアで初めてそういうことを言われたんですね。大抵、にこやかに人は交流する、顔を柔らかくして交流するのが普通だと思っていたら、それはいけないといった文化を持つ地域もあるというのを知って、人は人種によって色々な思いが、中にあるものが顔の表情になるのだなと思いました。
牧野
今、私「漫画家」というタイトルをつけておりまして、社団法人日本漫画家協会には1000人の会員がいますが、漫画という分野がどこからどこま でなのか、もうわからなくなっているんですね。漫画って定義できない状態になっていて、それでも漫画家協会っていうのが作られているわけですが、一人一人に突っ込んで聞いても、もう答えられないぐらい広がってしまった。そういう世界が今の日本の漫画でありまして、一応旧来の形で漫画という括りをつけていますが、一人ひとりの漫画家に聞くとわからない。
繰り返して申していますけど、本音の世界が日本では通用するんですね。神様、仏様のことをどのように表現しても、後ろから刺されたりはしないわけです。すばらしいなと思っているのは、八百万の神々がいらっしゃる形でですね、そこにいつも話がいってしまうんですけれども、漫画がやってきたことは一つの漫画っていう面白おかしい絵、楽しい絵という世界から、それは確かに表現としてはそうですけれども、まさにタブーのない自由な表現を重ねているうちに読者の方が進歩して、一般の方々の方が進歩して、受け入れる心の非常に広い社会を形成しているというようなことが、今の私の受け止め方です。
川嶋
「将来・未来の」という話でいくと、一つは自分の顔を見てくれるようなコンピューターみたいなものがこれから多分できてくると思うのですが、当然それはデータとしても自分だけが持つような仕組みになっていて、こっちの状況を見てくれて、うまくサポートしてくれるとか、そういったものがあるといいなと、要するにそういう認識システムがあるといいなというのが一つあります。
それとやっぱり今度は生成側ですね。認識じゃなくて感情表現していくときに、例えばLINEのスタンプとか、これはSNSと比べると格段に感情表現をしやすくなっています。色々な表情のスタンプもありますし、身体動作で表現するような話もあって、ある種漫画的な要素もあると思います。実は日本人は感情表現をあまりしないというふうによく言われるのですが、実はそうではなくて感情表現をする手法が違うのかなというふうに思ったりしています。そうするとコンピューターを使って感情表現の仕方、新しい感情表現の仕方みたいなものもこれから色々と出てくるのかなと思っております。以上です。
土佐
四者それぞれご意見をいただきました。
ポケモンGOとかが今流行ってきて、あれも漫画だと思いますし、あれもシンボルで、あれも顔かなとちょっと思いを巡らせていたのですけれども、それぞれ顔の思いというのが皆さん感じられたと思います。
それではですね、お時間ももうずいぶんまわりましたので、今日のおもろトークはこれで終わりたいと思います。みなさんどうもありがとうございました。