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第5回「京大おもろトーク: アートな京大を目指して」〜顔
2016年7月25日(月)

パネリスト:金剛 永謹氏(能楽 金剛流二十六世宗家)(以降敬称略、金剛)
牧野 圭一氏(漫画家・公益社団法人日本漫画家協会理事)(以降敬称略、牧野)
山極 壽一氏(京都大学総長)(以降敬称略、山極)
川嶋 宏彰氏(京都大学情報学研究科准教授)(以降敬称略、川嶋)
司会:土佐 尚子氏(高等教育研究開発推進センター教授)(以降敬称略、土佐)
金剛

皆さんこんばんは。金剛でございます。どうぞ、ちょっとしばらくの時間、お話させていただきますので、お付き合いよろしくお願い致します。
今日は京大のおもろトークということですが、私どもの方のお能はあんまり面白いものじゃないので私がお話するのはどうかなとも思うんですが、今先生から猿学というお言葉がきてドキっといたしました。実はですね能楽というのは、今使われている能楽は、ものすごく近い時代の言葉なんですね。明治以降、我々のやっているものを能楽と呼びます。それ以前はですね、単に能と呼ぶか猿楽と呼ぶんですよね。猿楽の能とかね。それが我々の芸でございます。今日はその話をする予定はなかったのですが、まず猿学という話が、お言葉が出たので、少しそのお話させていただきます。
なぜ我々の芸能が猿楽と呼ばれていたのか、ということなんですけれども。実は650年ぐらい前に世阿弥が能を大成します。それ以前はもう猿楽なんですが、日本に入ってきた時の芸名はですね散楽(さんがく)というんです。散る楽。これは中国から日本に渡ってきた芸、曲芸みたいなものですね。中国の雑技のようなものなんですよね。その散楽がいつの間にか猿楽と呼ばれるに変わっております。これは幾つか説があって、「さん」の「ん」が「る」に訛ったのだという簡単な説明をされる方もございますけども、この散楽の曲芸のなかに猿の曲芸があって、どうもこれに人気があったから、全体を猿楽と呼んだらしいんです。そういう曲芸がなぜ我々がやっているようなお芝居に変わったかと言いますと、この雅楽と散楽が同時に日本に入ってくるんですけど雅楽は舞、音楽の芸能ですのでお寺、宮中といったところに残るんですが、散楽は曲芸だから一般庶民の人のところにどっと広がるんですよね。お祭りの余興にそういうものをやっているんですが、曲芸がだんだん、曲芸だけじゃ飽きられるなというので、お芝居をやりだしたようでございます。それでお芝居をやりだした段階から能と呼ばれるんですね。散楽の、猿楽の能。ですから猿楽と呼んでた段階は曲芸です。それで、猿楽の能と呼ばれるような段階でお芝居に変わってきています。それが650年ぐらい前に世阿弥が今あるようなものに、高度なところに変化させて、今呼ぶところの能楽というのが出来上がってきております。
今日のテーマが顔というテーマでございます。能の方で顔と言いますとすぐ皆さん、能面を思い浮かべられると思います。「おもて」と我々の方は呼んでいますけれども、これはある年齢にならないとかけないんです。昔ですと元服という時がありまして、十五歳とか十六歳。その辺からおもてをかけます。それまで子どもの間は自分の顔を出して舞っております。ただ、この自分の顔を出していることを能の方では、「しためん」と呼びます。字は「直面」と書きます。直角の直と面、直面。ですから、仮面だという感覚で表情を作らないんですね。能の方では。歌舞伎とか見ていただくと、すごい顔で表情を作られます。お能の方では大人になっても面をかけない曲目もありますけれども、そういった能でも、明らかな表情はつくりません。演じている最中に力が入って「んー」と力がこもっているような表情は出ることがあっても、怒った顔だとか泣く顔、笑う顔、そういったものは絶対能の方では作らないんです。それはだから、動かない仮面の一つだという感覚でございます。
今日は少し仮面を、仮面といいますか能の面を二つほど持ってきて見ていただきながらお話をさせていただこうと思っております。一つはよくご存知のこういう般若という面を持ってきております。もう一つはこういう小面という面を持ってきてます。

金剛 永謹氏
(面を箱から取り出して説明される金剛氏)
金剛
この二つで能面のタイプはお話できるんですね。一つは瞬間表情をしておりますね。ガッとした。こちらは、そういう瞬間的な表情じゃない曖昧な表情をしておりますね。能の面にはこの二つのタイプがあるんです。この曖昧な顔をしているタイプと、こういう瞬間的な表情をしているタイプ。そして、この瞬間的な表情をしているタイプの面は能舞台に長く居ません。長くて10分でしょうね。5、6分というのが多いんでしょうが。10分程度しか舞台上にこれは居ません。こちら(曖昧な表情をしている面)は長いんですよね。長いのになると一時間を超えて舞台上に存在しています。瞬間表情がなぜ短くて、この中間表情がなぜ長いのかというのは、私も上手く説明はよういたしませんのですけれども、この表情について皆さん昔からすごく不思議なイメージを持たれた方が多いようですね。皆さんこちらの方を一生懸命研究されます。これに色んな名前を皆さんつけられたんですね。古い研究者の方が。ある方は、これを中間表情と呼ばれました。中間表情。ある人はなんと言われましたかね。要するに、全ての表情だというような意味の言葉を使われている方もありまして。だんだん色々研究が進んできまして今現在ではですね、一応無表情と呼ぶんです。今までの中間表情とか、色んな言葉を使わずに無表情。
この無ということが実は禅の「無」と繋がっていると今考えられております。禅の「無」ってどんなものか、どういうものかご存知でしょうか。禅で「無」。普通「無」っていうと、何にもないものが無ですよね。ところが禅の方では「無」は何にもないものじゃないんです。全てがあるから「無」なんですよね。全てが寄せ集まると無になるという感覚なんです。例えば絵の具のあらゆる色を混ぜ合わせると、無色になるそうでございます。この太陽光線やこの空気中の光線も透明で色が無いように見えていますよね。でもこれはプリズムで割ると色が出てきます。虹もそうですけれども、要するに色んなものが合体すると「無」になるということが禅の考えなんですね。あらゆるものを寄せ集まったところが「無」。それが能の方には入っていて、無表情というのはですね、決して何にも無い表情ではないでないと考えられております。あらゆる表情を集約したものがこの「無」の表情と考えられているんですね。
これ実は能面というのは左右対象じゃないんですね。陰陽といいまして、陰と陽をつくりましてですね、左右ちがいます。そういう特徴を持っていますので少しね、確かに表情が少し動く部分もございます。でもこれは実は目の錯覚なんです。やっぱり「無」なんですよね、基本的には。その全てが統一されている全ての喜怒哀楽、全ての表情から「無」までいくところの全てを、ここにもってきているのが能面の無表情という、と我々は考えております。
そしてですね、これ実はどんな役に使うかというと、むちゃくちゃたくさんの役に使います。人称がないんですよ、実は。それは「井筒」の女であったり、あるいは、式子内親王であったり、葵の宮であったりもうそのあらゆるある程度の若い女性なら全てこの面を使います。小野小町であったりなんでも使うんですね。だから能面っていうのは実は人称が、一人称でも二人称でもない。だから無人称という言葉を使う方もありますし、原人称という言葉を使われる方もあります。原点の人称だという。そういうまた変わった性格を持ったものでもございます。結局これは何なのかというと、能の役者は面をつけることによってすごい縛りを受けていますよね。表現の縛りも受けますし、発声するのも難しい、ものも見えない。要するに、これはそういったものを呼び寄せてくるための道具のようでございます。その霊をね。無人称のこういうものに演者がつけて舞台上で演じることによって、ある人物を呼び寄せてきて、そこでその人間の役、人生なんかを演じるという、そういう性格を持っているものがお能でございまして。面自体には、小野小町とか、そういうある一人の人間を表すものは持たないんですね。結局舞台上で使っている時に役者の演じる、唄いが文句をうたわれる、そういったもののなかで、ある人間に変身していく。そういう性格を持っているのが、能のこういった無表情の面の特徴でございます。
もうちょっとこの面について説明させていただいます。これは実は名物の一つで豊臣秀吉が愛蔵していた面でございまして、雪の小面というものでございます。ですから室町時代からあるものを我々は今も使っております。今作られた面で演じてもいいんですけども、どうもやっぱり能の役者は能ができた時代のものを使って、それもたくさんの役者の人がここに込めてきた想いをもらいながら、演じることを非常に大事にしております。私もこの面は何度使いましたかね、十回ぐらいしか使っていないですけど。やはりかける時に何十代、何十人という人が使って舞われたときの、その想いというようなものが、ふっと面をつけて舞うときに、こういう面からは感じるものでございます。
もう一つの面、こちらもすこしご説明させていただいます。これは、般若という面で女性の鬼でございます。能では男の鬼も出るんですけども、これはものすごく簡単に見分けがつきまして、角が生えていたら女性の鬼でございまして、男の鬼は角生やさないです。能面では。すぐ思い起こされると思うんですが、結婚式で綿帽子をおかぶりになりますが、あるいは角かくしと、ああいうのは能面が女性の鬼が角を出すから角かくしというんでしょうね。この角が生えている場合、女性の鬼でございます。この般若というのはですね、鬼女と呼んでもいいんですけども、能の方では般若と呼んでおります。これは二つほど説があって、般若坊という人が最初にこの面を作ったから、般若だという説もあるんですけども、もう一つの説はやっぱり、この面自体の性格が般若だから般若と呼ぶんだという説ですね。こちらの方が正しいでしょうね。般若というのは菩提心なんですよ。この人は今迷っているけども、この中には菩提心があって、最終的には浮かんでいく、成仏していく、そういう女性だということを名前で表していると思われます。この般若という面は、ちょっと変わった面で普通の鬼の面じゃないんですね。これ、上と下で顔が違うんですね。上はですね、決して怒っている女性じゃないんですよ。嘆き悲しんで、苦しんでいる、苦しみの表現を上につくっております。こうしてみると、怒っているんじゃないですよね。もっと怒っているなら皺がキュッと寄って、怒るんだけど、「嘆き」をものすごく持っている女性なんですね。下はしかし、怒っているんです。この造形はですね、お能の演技からできてきたと考えられます。この女性は鬼と、恨みを持って鬼として舞台に出てきます。そしてそれを祈りで鎮めようとするお坊さんとか、山伏と、法力と争うんですね。祈られて苦しいと、人間は苦しいときは、あぁ苦しいとこうなりますよね。
(前かがみになりながら)
そうなった時に苦しむんです。苦しい、とね。
金剛 永謹氏
(般若の面も前に傾ける。苦しみの表情に見える。)
金剛
しかしこのままでは祈り伏せられるから、今度はやっぱり戦わねばいかんですね。襲いかかる瞬間に角を振り立てて、バッと
金剛 永謹氏
(前に傾けていた般若の面を立てて正面に向ける。)
金剛
その時に怒っている表情が現れるんですね。祈られて苦しい(面を前に傾けて)、襲いかかる(面を立てて)と、その演技からこの面は造形されています。ですから悲しみ、苦しみ、怒りというのが合体しているんですね。般若という面はたくさんあるので見慣れておられるから、ちっとも不思議に思われないんですけど、すごく不思議な顔をしている面でございます。そして、こういう、人間でないものは能面では決まりがありまして、目とか歯とかに金具を入れてね、目を光らせるんです。目が舞台上でキラッと光っていたら、これはもう生身の人間でないと思っていただいたらいいんですね。このお話を外人の方にしたことがあるんです。外国でもやっぱり、霊は目が光るんですか。と聞いたら、光るんですよと言われてね、外国の方も。ただ、金色じゃないと。青く光るそうです。目が光るということ自体、もう生きている人間じゃないという。日本・東洋に限らず西洋においてもあらゆる人間は、目が光るっていうことを、なんというか、恐ろしいものとか、陰なものという具合に感じるものを持っているようでございます。
お時間がきましたので、今日のお話はこれぐらいにさせていただきます。