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第1回第2回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『京大解体』 第2回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『京大解体』
2015年7月30日(金)

司会:NTアソシエイツ取締役 中津良平先生(以降敬称略、司会)
パネリスト:美術家 森村泰昌氏(以降敬称略、森村)
京都大学人間・環境学研究科教授 酒井敏氏(以降敬称略、酒井)
京都大学農学部資源生物学科4回生 大塚亮真氏(以降敬称略、大塚)
司会
それでは次に酒井先生の方から10分ほどよろしくお願いします。
酒井
京都大学の人間・環境学研究科の酒井です。
タイトルが京大解体ということなんですが、このテーマをいただいたとき思ったことは『京大はすでに解体されている』ということです。正直言って、昔の京大とは違うものになっちゃったなという感じがしています。
その解体の始まりはいつかというと、20年以上前ですが、私がいました教養部が廃止されました。1993年です。教養部は昔の京大らしさを象徴するような部局でして、これを解体すると京大っぽくなくなるなと感じていました。やはりそうのように京大っぽくなくなってきました。元々の教養部がどういったところかというと、私たちが大学に入って教養部に行くわけですけども、実は教養部で真面目に勉強せいと言われた記憶がないんですね。何言われたかというと『あほなことせぇ』と。真面目に受験勉強して大学に入ってあほなことせいと言われても、何言ってるのかさっぱりわからなかった。後でだいぶ経ってからわかったんですが、これはどういったことかというと、人間の浅はかな知識で何かやったってろくなことはできやしない。そんな知恵はあえて無視してあほなことをする。つまりそれは人間の知恵の外側に出てしまうということですが、その中から偶然何かを見つけ出す方が新しいものを見つけるのは早いということを言っているんだなぁと思っております。
人間が思ってるよりも世界や自然は大きなもので知っているところなんてほんのわずかなことですよ。人間の知恵でものを考えるよりも人間がアホだと思うことをやってみると案外、外の方が賢かったりする。そういうことじゃないのかな。
教養部が廃止されてやはりだんだんと京大らしさを失っていきました。これ本当にトドメを刺されたかと思ったのは、2011年に全学教育シンポジウムというのが桂でありました。この中で当時の総長が基調講演をしまして、世界の国で、日本の研究者と日本の研究費の額も世界トップクラスなのにGDPは落ちている。これは人間の問題だ。教育をしっかり考えよ。そう言われればそうかと思いながら聞いてたのですが、この後じゃあどういう教育をしますかと。ちゃんと15回授業をやって、ちゃんと15回学生を出席させて、そうして単位の評価をしっかりしなさいと、これ、昔の京大だったら瞬間的に『ナンセンス!』という声が上がっちゃうわけですが、それが出てこない。むしろ左様でございますという雰囲気が漂っている。これは完全に京大の文化が壊れちゃったなと。
なぜナンセンスなのかはうまく説明できないですが、そんなもの説明しなくても、ナンセンスはナンセンスで通用するのが文化というものなわけです。ですから、その文化がもうすでに、完全に崩壊しちゃったと、で、崩壊しちゃったので、文化としてもう伝えられていないだけどこれそのまま、消え去るわけにもいかないねというわけで。
なぜナンセンスなのかちゃんと説明しなければいかん。何か説明しなきゃいかんので、理論を作りました。なまこ理論って言います。例えば、10人でお米を作っていたとしましょう。これを一生懸命効率化して5人で作れるようになった。5人で作れるようになったこと自体は素晴らしいことですが、問題は余った5人も一生懸命米を作ると、20人分できちゃう。余ってしまうから売れない。もっと安くしないと売れないので、どんどん値下げをしていきます。そうするとまた売れなくなってくるので、もっと効率化して3人で作るようになると。これはもう悪循環です。
そもそも余った5人が米を作るからいけないので、余った5人は米なんて作らず、海にでも遊びに行って、なまこでも取ってこい。あれが食えることを発見した人は偉いんでしょ。それでなまこを取ってきてですね、真面目に米を作っている人に、お米だけだと寂しいですよねと、これうまいんですよと言って高い金で、高い金でっていうのがポイントなんだけども、売りつけて、そのお金でお米を買って、初めて経済が回るわけなんですよ。だから米を作ってはいけない。しかも大学で、米の作り方、効率化の仕方を教えることはできると思いますが、新種のなまこみたいなものがどこにあるかと。なんていうことはわからないんですよね。大学では教えられないわけなんですよ。そんなもの教えられないので、若い連中に勝手なことをやってもらうしかないわけなんですよ。だから15回講義室に閉じ込めておくのはナンセンスで、簡単に言うと海に遊びに行けと言わなきゃいかん。それでこういうなまこ理論を作ったんですが、実は、まだこれ不完全で、他に解はないのかというと、あるんですね。
要するに、計画的に生産調整すればいいんですよ。だけどそういう計画経済って言うのは歴史的にはうまくいっていない。ですが、なぜうまくいかないのかをちゃんと説明しておかなくてはいけない。そこで重要なのがカオス理論というわけなんですが、カオスというのは混沌という意味です。元々は天気予報がなかなか当たらないという話から出ているんですけども、予測不可能、カオスになると将来、予測不可能で、計算不可能、ちょっと困ったことになります。非常に難しいと思われている方もおられるかもしれませんが、実は非常に簡単にカオスが起こります。簡単に起こるというところを今からちょっと見ていただきたいのですが…。
6つの電卓で簡単な計算をする「電卓カオス」というものを作りました。
「x~2-2」というものを繰り返すんです。最初の値を「1.33」とすると、その後、次はこれを自乗して2を引く。で、またその値を2乗して2を引く。ということをずっと繰り返していくと、すべての値が未来永劫決まる。こういうのを決定論方程式と呼ばれています。
で、これを計算します。6つあるんですがそれぞれメーカーと型番が違います。大事なのは四則演算機の電卓には二乗のキーがないんですけれども、簡単な電卓でも「×→=」といきなりやると二乗になるので「×→—→2→=」とやると、今の計算ができます。押すキーは結局、5つなので5拍子。5拍子と言ったらこの曲しかないのでそれに合わせます。

(ポール・デスモンド作曲、デイヴ・ブルーベック・カルテットの「TakeFive」が流れました。)

左下のグラフを見てください。値がグラフ乗を動きます。はい、そろそろBの電卓がやばいです。

(各電卓の値に合わせて移動していた点の内、Bにあたるものが少しずつずれ始める。)

Bの電卓が脱落しました。Aも脱落しました。そろそろC,Dあたりがちょっとずれてきます。(Dが脱落)(Cが脱落)(Fが脱落)(Eが脱落)

はい、そして全部バラバラになっちゃいました。
要するに全部、正解を出せるものはないです。たかがワンコーラスですよ。30何回。30何回でですね、全部アウトです。こういうのをカオスっていうんですが、実は世の中カオスに満ち溢れてて世の中、カオスだらけ。なので基本的に予測できません。予測できないとはどういうことかと、先ほども計画経済という言葉が出ましたが、計画したって崩れる。だから真面目に計画したってダメですよと。結局計画はダメなので、その場その場で考えていかなきゃいけない。そうやって維持できるかを考えなきゃいけないから計画経済っていうのはダメなんだ。
第2回「京大おもろトーク:アートな京大を目指して」 『京大解体』
実はこのカオスの話は、私は授業でやるんですが、昔は1年通じて30回ぐらい講義をしまして、最後にこの話をして、世の中カオスだから予測できませんという話をする。そうしたらある学生が、講義が終わった後きまして、私はビッグバンの話から始めて最後天気予報の話で終わるんですけど、散々これだけ色々な話をしておいて、最後にわからないとはどういうことだと、そう言われて僕もちょっと困ったんですが、わかんないからわかんないんだよねと。
彼の気持ちを察すると、自分はちゃんと勉強して予測して賢く生きていこうと思っているのに、そんなこと無理だよと言われた。ではどうすればいいのと、気持ちはわからんでもない。でもしょうがないねと言っていたのですが、その時僕もちょっと引っかかるものがあって、何が引っかかっていたかというと、世の中カオス、自然界カオス、地球上のいろんなものはカオスなんですが、地球生物は35億年間ずっと生き続けてるやないのと。カオスの世界で予測ができないのに、しぶとく生きている。どうやったらそんなにしぶとく生きていけるんだろうねと思ってたわけです。
何か秘訣があるのかなと思っていたんですが、それに対する回答はおそらく、これだろうというのが、それからしばらくして見つかりました。スケールフリーネットワークと言います。スケールフリーネットワークっていうのが何かって言うと、どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、6人の友達を介すと世界中の人と友達になれるっていう話があります。そのネットワークのことを言います。例えばですね、これ、ウェブのリンク構造のようですが、こういう風にぐちゃぐちゃしている。こういうリンクのつながりをスケールフリーネットワークというのですが、これは勝手にやるとできちゃうんです。勝手にやるとできちゃって、しかも結構いい性質がある。それは何かというと、なかなかバラバラにならない。どこかが切れてもバラバラにならない。こういうのをロバスト、強靭性といいます。誰も計画がない。計画性を持っていないので、ある意味柔軟に変化ができる。柔軟に変化できて、なおかつ強固であるといういい性質を持っている。ただ別の言い方をすると節操がないとか無責任とかいろんな見方もあるんですが、まったく計画性がない。
多分スケールフリーの意味なんですが、僕の想像も入ってるんですが、ランダムなネットワークとは違うよと。この図の点を人線を友達関係そうすると、任意の人2人を取り出してランダムに友達になりなさいという命令をするとこういうネットワークができて、横軸が友達の数、縦軸がそれだけ友達を持つ人の人数とすると、平均的な友達の数というのが決まります。それを中心にしていわゆる正規分布な形になりまして、極端に多い人も少ない人もあまりいないというのが平均的に決まってくるというのがランダムネットワーク。
ところがスケールフリーネットワークというのはそうはなりません。
グラフは横軸も縦軸も対数で書いてあって、直線になっちゃう。これべき則といいますが、対数なのでここ、グラフ右下の点が0じゃないんですよね。友達たくさん持ってる奴がなかなか0にならない。一方でむちゃくちゃ寂しいのがむちゃくちゃたくさんいるわけです。非常に不平等。不平等なんだけど何が幸せかっていうと、例えばですね、僕がここで10人友達を持ってたとします。だけど10人だろうが100人だろうが、常に僕より寂しい奴の方が多いんですよね。なので僕は幸せだと思える。何人の友達がいても僕は幸せだと思える。こういう平和な世界と。こういうのに対して正反対な構造の奴がこういう奴ですね。社長さんがいて部長さんがいてみたいな。または、総長がいてみたいなのでもいいんですが、だいたい人間社会っていうのはこんな形を持っています。
だいたいの数学とか物理とかもこういう構造をしています公理があって、定理があって。これは人間の知恵としては非常にスマートなんですが、さっきのスケールフリーネットワークとは逆で1本どっか切れるとそこから先が全部、ばらっと落ちます。つまり、1箇所どこか壊れただけで分解してしまう。そういう脆弱性を持っている。それに対してこのスケールフリーネットワークという奴は、強靭でなおかつ柔軟。これをつなぎかえようと思って端の青い奴を真ん中に持ってこようとすると、ほとんど全部繋ぎ変えなきゃいけなくて、革命を起こさなきゃいけないんです。
これ(スケールフリーネットワーク)はたくさんリンクを持っているのが、2番手というのがあってそれが徐々にリンクを増やしていくと、徐々に連続的に代替えができると。ある意味柔軟に変化ができるという特徴があるとおもいます。しかもこれ、計画性がないということから、柔軟なんですが、カオスの状態、予測不可能な状態の時には、柔軟に対応できるのでこういう方が強い。
何も計画せずにやると自然とこうなるわけで、カオスの中で自然にやっていくと実は自然にできていくというわけなんですね。これウェブのリンク構造と言いましたが神経細胞とこかですね、実はいろんなところにこういった構造が見つかっています。なので自然界というのはカオスの中でこういう構造を持って、成り立っているんだろうなということがだんだんわかってきた。
ということは、綿密に計画を立てて真面目にやっていけばいいっていうわけではなくて、ある意味適当さが必要だということになります。これは多くの人が感性として持っているとは思うんですが、最近これ(スケールフリーネットワーク)が非常に失われつつある。先ほどのきっちりやらなきゃならないとかですね、厳密に何か守らなきゃいけないというような、これが、今の京大2限らず、社会の息苦しさなんだろうと思います。一方でこの構造、スケールフリーネットワークみたいな、いい加減なんだけども、全体として秩序を保つというこういう構造はおそらく、生物の本能的なところに、我々が持ってるんじゃないかな。おそらくこれは、我々がいくらいろいろ効率化しようとしてもうしなってはいけない、生物としての本能なんじゃないかと思います。
なので先ほど、京大らしさっていうのがだんだん失われてきたと言いましたが、そんなもん適当でええやん、といってそれは困りますと言われた時に、なかなかちゃんと答える答え方がなかったんですが、こういう理屈をいろいろつけていくと、昔の京大らしさというのを、理屈をつけて、こういうのを失ってはいけないんだということをつけてあげて、昔の京大を復活させることができないかなというようなことを考えています。以上です。
司会
お分りいただけましたでしょうか。
森村
はいよくわかりました。たいへんよくわかりました。
もうひとつ良くわかっていないところは、授業ではないので後で教えて頂いたらいいんですけど、ランダムなものと、スケールフリーネットワークの違いがちょっとよくわからないんですけど、カオス理論ていうのは、僕にはピタッとくるものがあります。というのは、僕は芸術をやっていますので、その分野でちょっと近いなと思うことがありまして、それは、例えばレオナルドダビンチが絵を描きますが、レオナルドダビンチも同時代の他の画家たちも、みんなやろうとしていたことは、世界をどうとらえるかということなんですけど、普通当時やっているこというのは、世界をなぞることなんですよ。
これはどういうことかというと、実は簡単で、世界に輪郭線を入れるということです。例えば、顔がある、花がある、風景がある。風景ってどういうものがあるのかという時に、山の形をこうやって輪郭線を取っていくという風にすれば世界がわかる。理解できる遠いうように、当時のラファエロであれ、ミケランジェロでさえ、それからボッチチェリであれ、みんな輪郭線の画家たちなんですよね。世界をなぞっている。これが、レオナルドダビンチの場合、輪郭線は世の中にないと。彼は空気遠近法、スフマートっていうやり方をするんですけど、世界を把握するんだけどなぞらない。
それも当然そうで、僕の顔のここと、このあたりと、別に輪郭線で区切られてるわけじゃないんですね。ここがあり、そしてここがあり、その間は非常にぼやけたものであるというものですね。これは物理学の言い方とちょっと近いけれど、不確定性の絵画だと思うんですよ。確定させない。確定させられないものなんですね。それがずっと歴史として続きてきて、例えば、セザンヌなんていう有名な画家がいますが、セザンヌなんかは、僕なんかやってた時は一番高校時代に難しかったのは、筆の置き時、いつ終わるのか。それを失敗するのでいやぁな気分になって終わることが多いんですが、セザンヌの絵なんかを見ていると奇妙なんですよね。
何が奇妙なのかというと、え、これで完成?という。まだ全然できてへんやんっていう状態で絵が一杯ある。これは完成していない絵だと僕たちは見るけども、そうじゃなく、絵画というものは、完成させえないものなんだと、いうのが、おそらくセザンヌの絵のありがたなんだと思うんですよね。別の言い方をするなら僕らの人生と同じだと思うんですけど、生きてるっていう状態っていうのは、これは未完成なんですね。僕たちが死んでしまったらやっとそれは人生が完結する。だから生きている間は全然完成できないんだけど、完成できない状態が非常に我々が生き生きしている状態なんですね。
それを絵画に当てはめてみるとよくわかるわけですね。完成されてしまった絵画は生き生きしていない。完成途上あるいは、絵画というのは人間が生きているのと同様に、完成させえないんだというちょっとした意識の革命だと思うんですけど、そういうものとして絵を捉える。僕たちは大体輪郭線をなぞって、きっちり輪郭線が全部描ければ、完成するっていうんだけど、セザンヌとかレオナルドダビンチとかはそうしていないという。これは不確定性の絵画だと思うのね。
酒井先生の言葉をつなげると、結構適当なわけ。適当なところで終わってしまってるわけなんですよね。まさに、カオス感覚の絵だなと思いましたけど。一つ問題なのは、酒井先生のおっしゃることはすごくよくわかるし、大賛成だし、正論、ある意味正論なんですよ。酒井先生自身は異端の考え方だと思ってらっしゃるかどうかわからないですが、僕は完璧な正論だと思うんですけど、問題は、その正論に人間が、耐えることができるかということなんですよね。未完成の絵画って非常に不安になるかけなんですよ。苛ついたりする。これで完成ですよと言われるとみんな安心するでしょ。これはどうしても人間は、秩序を求めるんですかね。カオスとコスモスの問題なんですけど、どうしても秩序を求めてしまうんですね。
そうすると先ほどもう一つあった、ヒエラルキーの図があったと思うんですけど、あれって完璧なある意味、別の意味で美しい秩序の世界。ああいう秩序があればあの秩序の中の、自分はどこにいるか、トップにいるか、相当下の方にいるかわからないが、あの秩序のしっかりした図があれば、自分はどこにいるんだということで輪郭線が描ける。人間は輪郭線が描けるとちょっと安心するんですね。ところが、不確定性でようわからんという正論だし、自然はそうなっているんだが、ところが、人間はそうなっていないという奇妙な生き物なんですね。
だから京都大学の話もされましたけど、僕は1951年生まれなので僕の大学は、京都市立芸術大学なので、通ってた時が一度浪人したので1971年からなんですね。酒井先生がいう意味とは違った意味で大学というのが、相当解体されていた。解体された状態で、ともかく京都大学というところは僕の印象としては汚いところ。京都市立芸術大学も相当汚かった。汚いけど小さい学校だったので、うちの小さい学校のスケールアップしたような汚さで、京大というのがあったので、ある意味、それまでの秩序のあった大学が解体されて、ある種カオスになってたんですね。
カオスは当時の私たちにとっては結構居心地は悪くなかった。僕なんかは非常にそれで美しくなっていくとある種の秩序ができてくるわけですよ。そうするとどうも居心地が悪い。僕は今教えたりしてないんですけど、これまでいろいろ教えていくような仕事も幾つかさせていただきましたけど、すぐ登校拒否になっちゃうんですよ。特にそういうところから来られてる方いらっしゃれば悪口ではないと但し書きはしておきますけども、美しい学校のキャンパスライフって、一番苦手で、そこのところを通過するのがもう嫌なんですよね。なんで嫌かっていうと、多分そういう美しい大学の美しいキャンパスライフは建前だと思うんですよ。みんな楽しい風しているけど、いっぱいいろいろと暗いことを抱えてるに違いないけど一見明るく感じるという歪なように感じてしまうんですよね。かなり辛くなるんで、大学に教えにくるの嫌とずずずっとやめてしまいましたけど。
どうしてもね、秩序を求めてしまうんですね。その秩序を求めてくる時に先程出たカオスであるとか、そういったもう一つのネットワークのあり方というものに、それって自分を非常に位置付けにくい世界なんじゃないかなと。だって混沌としているわけだから、秩序のある世界と全く違う。
そこのところで、最初に申しましたけど、酒井先生はこれがおもろいと言っている、っていうそういう感覚ですよね。その感覚を掴むと結構いいんだけど、このカオスという状態は反面、人の不安を煽ると。不安を煽るので、これはいかんということで、何かを本当に予測したがったり、予測しないと、いつ地震が起こるかわかりませんよなんか言われたらパニックになりますよ、みんな。だけどここでは何十パーセント起こりますよ。ここの地域は、っていわれると、自分のところが確率が高くても低くてもなんでか、安心しちゃうわけなんですよね。秩序を求める気持ちが自分の中にあるから。だけど、そこのとこかな、非常に難しい人間というものの難しさを感じました。
司会
ありがとうございます。これ以上喋るともうディスカッションになっちゃうので。僕もよくわからなかったところを森村さんに説明していただいてすごいなぁと僕も思っております。
時間も少し迫っておりますので、大塚さんの話にいってあとで議論することにしましょう。
ではよろしくおねがします。