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現在位置: ホーム ja 全学共通科目 (〜2010年) 生命とは何か? シラバス

シラバス

[配当学年]


全学向1回生前期

[担当者]


村瀬

[授業のテーマと目的]


生命とは何か?これが本講義のテーマである。この永遠のテーマに対して、どのようにアプローチすることができるだろうか。従来までの自然科学では、対象論理の無矛盾性を前提とした上で、生命の物質基盤を探ることばかりに重点が置かれていた。本講義では、こうした従来までの方法論−あるいは「ものの見方」とその成果を正当に評価した上で、その方法論とは相補的な「ものの見方」を提示する。それが、矛盾を前提とした自己・非自己循環過程としての生命という視点である。また、そのようなあらたな「ものの見方」を提示する必要性を、様々な具体例を挙げて明示したい。それによって、生命とは何か?というテーマに対する解決の糸口を探りたい。2007年10月15日〜20日に、同一テーマの国際シンポジウムを京都大学において村瀬雅俊が主催する。本講義は、こうした国際的・学際的研究活動への序論である。

[授業計画と内容]


皆さんは、「認識」には2つの次元があることを、ご存知だろうか。第一の認識とは、対象を認識するという「対象認識」である。そして第二の認識とは、対象をいかに認識しているかを認識する、いわゆる「メタ認識」である。対象認識は、基本的には生まれながらに備わった認識機能である。そのために、私たちは機械的に対象を認識することができるようになる。ところが、「メタ認識」は必ずしも生得的な機能ではない。そのために、学習によってその機能を獲得する必要がある。最高学府での教育とは、こうした問題の存在を指摘するとともに、その問題解決に向けた具体的な方法論や「ものの見方」を提示することである。具体的な授業計画では、村瀬雅俊著『歴史としての生命−自己・非自己循環理論の構築』(京都大学学術出版会、2000年)を底本に、特定の方法論に一面化することによっていかに問題が見過ごされてしまうかを、さまざまな具体例とともに提示したい。生命とは何か?に対する私の考えは、「歴史的過程」として生命を捉えることである。もちろん物質的基盤を探ることは必要であるが、それだけでは生命原理を探究するには十分とは言えない。「過程」に着目することによって、進化・認識・老化といった、まったく異なる生命現象に1つの全体としての生命像を提示することが可能となるのである。その際に重要となってくるのが、矛盾の取り扱いである。矛盾を排除して、生命を一面的に捉えるのではなく、矛盾を利用して広範な生命現象に対する包括的なヴィジョンを構築してみたい。

生命という対象の認識、そしてその対象認識を認識するというメタ認識も生命現象である。したがって、生命とは何か?というテーマに対する明確な表現を探究することは、従来までのように観測者と観測対象を明確に区別する表現形態をとることはできない。従来までの方法論に拘束されない、新しい「ものの見方」をいかに自得することができるか、これがこの講義の課題である。

斬新な意見交換に向けて、みなさんとの議論の時間も十分に持ちたい。

以下に、2006年4月15日に京都大学において行った特別講演の概要を掲示する。参考にしていただければ、幸いである。

「私たちは、環境を認識しているつもりでいながら、実は環境の一部しか認識できないという事実を‘認識’できないでいる。学問が発展しても、このジレンマが解消するわけではなく、ますます私たち 自身の不完全な認識が精密化・細分化していくに過ぎない。こうした現実を無視して、既成の学問を受動的に受け入れるだけでは、 最高学府で学ぶ意義は見いだせない。新しい学問の創出につながるような展開とは、どのようなものなのだろうか。本講義では、私自身が体験したシックハウス症候群のなまなましい実態、その体験を契機として、基礎物理学研究所で環境物理学の研究会を立ち上げ、 さらに2007年10月にWhat is Life ?と題して国際シンポジウムを開催するはこびとなった学問的背景を、具体例を豊富にあげながら展開したい。多くの方々のご来聴をこころより歓迎する。」

[授業計画]


第1回 はじめに
第2回 なぜ、いま「生命とは何か?」と問うのか
第3回 がんとは何か
第4回 生成文法の意義
第5回 認識の環境依存性
第6回 進化とは何か
第7回 構成的認識の理論と実践
第8回 科学の方法
第9回 わかるとはどういうことか?
第10回 曼荼羅の思想
第11回 老化とは何か?
第12回 こころの老化
第13回 環境因子の生体への影響
第14回 非線形生命物理学(1-3)
第15回 創発現象としての生命とその病気
第16回 生命の起源(Origin of Life, in English)

[コメント]


生命とは何か?というテーマに対する解決の糸口を見出すには、様々な分野から、多様な意見交換を積極的にする必要がある。そのためにも、文系・理系からの学生諸氏の参加を希望する。講義の背景として、基礎物理学、生物学、心理学、哲学など多彩な学問領域がある。

参考までに、『歴史としての生命』の「はじめに」の一部を掲載する。

はじめに

少年の頃、私は生物学や歴史学に全く興味を覚えなかった。なぜだろう。その理由を考えてみる時、生物学の教科書は、生物を構成している物質、すなわち、死物に関する無味乾燥な知識を提供するばかりで、いっこうに、「生命とは何か」という誰もが抱く素朴な疑問に答えてはくれなかったことを思い出す。また、歴史学の授業では、年代や王朝名の暗記に終始するばかりで、「歴史とは何か」という疑問が置き去りにされたまま、歴史そのものに何の意味も見い出せなかったという苦い思い出がある。このような状況に陥ってしまった原因は、一体どこにあったのだろうか。考えをめぐらしていくと、生物学であろうと、歴史学であろうと、知識はあたかも‘すでにできあがってしまった関係の体系’として、一方的に与えられていたことに思い至る。結果としての知識が提示されても、内容を理解するどころか、かえって教科そのものに対する興味すら失せてしまう。こうした状況に陥らないためにも、結果のみならず、結果を生み出す構成過程にも目を向けるべきではなかっただろうか。‘生きた’知識とは‘どこまでも構成し続けていく関係の体系’であり、知識の源泉ともいえる「なぜ」という理由の探索が必要だったのではないかと私は思う。 このような理由の探索は、少年期に限らず、幼年期から老年期に至るあらゆる年代において、私達の知的好奇心を満足させてくれる。その起源にあたる幼年期の体験は、特に顕著である。私達には、誰しも幼年期に「なぜ」という言葉を頻繁に発して、周囲の大人達を困らせた記憶がある。それは、大人達にとっては、当たり前に思われた既成の関係体系が、いかなる前提にも縛られることのない幼児にとっては不可解なことの連続に映るからであろう。おそらく、「なぜ」という疑問を発して理由を探索しながら、自らの関係体系を構成しようと試みているに違いない。だからこそ、大人になっても子供の心を持ち続け、‘自然’や‘社会’を相手に理由の探索を行う人は、自然科学や社会科学の発展に寄与することになるのである。一人の人間では手に負えない難問に対しては、歴史上に現れた先人達の成果を結集し、人類の頭脳を通して理由の探索を行うこともできる。こうして、科学史や社会史が創られていくのである。